ケック貝の黒イェーラ煮込み 天竜暦597年グリシア
グリシアの冬は長い。氷の国と呼ばれ、一年中とは言わないが、ほとんどの季節、実際に氷に包まれている島国である。
後年にはレングテックと名を変え、多くの芸術家を生み出し、長きに渡って芸術の国とも言われることになるのだが、天竜暦五百九十七年は大陸中、いや世界中を焼き尽くした百年戦争の終結から、まだ約二百年。
あらゆる文化、知識が失われ、まだまだ貧しく、原始的な生活を強いられていた。
ただし、人々の探究心と研究心が失われていたわけではない。苦しい生活の中でも、少しずつ、人々は前へ進んでいる。
この頃のグリシアは北の大陸にあるアイザ王国からの人や文化と、南の大陸にあるドラクレア帝国からの人や文化が入り混じり、さらに原住民は独自の文化を形成している、混沌とした島国だった。
こんな貧しい時代でも、旅人というのはどこにでもいる。商人や巡礼者など、何らかの目的をもって過酷な旅を続ける者たちにとって、ここグリシアは天国のようなところであった。
アイザとドラクレアを繋ぐ交易地でもある為、宿が充実しており、食事の美味しさが有名なのである。
周囲の海のお陰で食べるものに困ることもなく、水や塩にも困らない。交易品のお陰で、庶民はともかく貴族階級であれば香辛料も、高価とはいえ多種多様に手に入る。
そんなグリシアの港町で、エラは夫と宿を切り盛りしていた。
港町といっても、海の上を船が走るのは、春から夏にかけての期間だけである。秋になれば周囲の海は氷に囲まれ、船の運航はできない。ガレッド車や徒歩にて、氷の上を通るのだ。冬は吹雪の日が多く、行き来することは非常に困難になる。
そして今は冬である。旅人が来ることもなく、エラと夫のグンズは内職をして、静かに過ごしていた。
しかし、冬の間グンズが取り組んでいることがあった。
ケック貝の調理方法の研究である。
ケック貝というのは、二枚貝の貝なのだが、毒がある。食べると確実に下痢と吐き気に襲われるのである。
グリシアを囲う海では様々な魚や貝などが獲れるので、見向きもされない貝である。しかし、グンズはエラと結婚するよりも前から、ケック貝をどうにか食べられないかと、試行錯誤を続けてきた。
仕事の忙しい春や夏に体調を崩すわけにはいかないから、冬になると毎日のようにあれこれ試しては、吐いて寝込む。エラからすると非常に迷惑な趣味なのだが、止めても聞く耳を持たないのである。
結婚してもうすぐ二年。子供が生まれたら、いくらなんでも辞めると約束させてはいるのだが。
「帰ったぞ」
音を軋ませて玄関の扉を開き、グンズが帰ってきた。手には麻袋も持っている。中にはたっぷりとケック貝が入っているのだろう。
冬の間、海上は吹雪に包まれる。風の関係らしいが、島の上は比較的穏やかになる、なので家から全く出られないわけではないのだが、調達可能な食料は非常に限られる。浅瀬の氷の下を泳ぐいくつかの魚などだ。しかし、浅瀬とはいえ海の上に出れば強い吹雪に見舞われるし、氷は歩くのに問題のない厚さではあるが、体重や衝撃に関係なく、海の流れの影響で割れてしまうことがあり、それは予測できない。危険であるため、基本的には保存食を主に食べ、男衆が時折みんなで漁に出る程度だ。
ケック貝は冬の間は冬眠する。それも海の中ではなく、地上に出て雪の中で冬眠する習性がある。そこらの雪を少し掘れば、いくらでも出てくるのだ。確かに、食べられれば冬の間の貴重な食料になるのだけれど…。
エラはしかし、今日もグンズが厠でうなる声を聞くはめになるのだった。
「まったく、いいかげんに諦めればいいのにさ」
「そうはいかねぇ。あいつを食えるようになれば、冬の間もまずい保存食ばっかり食う必要もなくなるんだ」
そう言って、この冬もグンズは毎日あれやこれやと試行錯誤を繰り返した。
理由は知っている。
豊かな食材と水が評判のグリシアだが、それは暖かい時期の話である。
冬の長いこの国では、春や夏にどれだけ頑張っても、保存食や暖房の燃料となる薪などを十分に確保できないような、貧しい者も出る。
グンズの母はある冬、夫に捨てられ、それからというもの、ギリギリの薪と保存食しか手に入れられず、それもグンズに優先して与えた。そして、風邪を拗らせて早くに亡くなった。
だから、厳しい冬に対抗したいのだ。
ある年、その冬はあるときから、グンズが妙な態度になった。にやにやしながら過ごすようになったのだ。機嫌がよいのを隠しているようだが、まったく隠せていない。そういえば、ここしばらく、厠に駆け込む姿を見ていない。
まさか、遂に見つけたのだろうか?
いやでも、もしケック貝を食べられるようにしたのなら、グンズのことだ、狂喜乱舞して見せつけてくるに違いない。
それがないということは、ちがう。
グンズの上機嫌の原因が分からず、エラは毎日やきもきするはめになった。
そして冬の終わり頃、グンズはケック貝を調理してエラに食べさせた。
どうやら、やはり成功させたらしい。しかし、一度の偶然ではないか。また、何かしらの手順を間違えた場合のことなどを確認する前に広めるわけにはいかず、隠していたという。
ここしばらくは、成功が間違いないことを確認する為の期間だったらしい。
冬が明けて、二人の宿は瞬く間に有名になった。ケック貝の珍しい料理が食べられる店として。
グンズは毒の処理方法を躊躇なく公開したため、港町全体が活気づいている。宿や食堂はもちろんのこと、一般家庭でもケック貝をいかに美味しく調理するか、こぞって挑戦している。
しかし、やはり長年ケック貝を研究し続けたグンズの料理が一番だと、誰もが認めた。認めざるをえなかった。
その日も宿は盛況だった。部屋は連日満室だし、昼も夜も、食事の時間は食事のみの客でいっぱいになる。
昼を大きく回った頃のことである。からんからんと、入り口の扉が空いた。
入ってきたのは、美しい女だ。長い黒髪に紅い瞳の、この世のものとは思えないような美女であった。
着ている服の品質が良さそうなので、やんごとない身分のお嬢様のご旅行だろうか。しかし、連れはいないし、この宿は有名になったとはいえ庶民の宿であり、お貴族さまが泊まるような宿ではない。
たぶん金持ちの商会の娘かなにかだろうと、エラは思った。
「まだお部屋、空いているかしら」
「最後の一部屋だよ。運がいいね、あんた」
最近は夕方前にはだいたい部屋が埋まる。早い時は昼過ぎに埋まるようなこともあるので、ギリギリだった。
この時代、予約という概念はあれど、あまり採用している宿はない。船旅で来る旅人にしろ、国内からの旅人にしろ、事前に連絡する手段などないからだ。
連泊の人間が次の日の部屋を取ることはあるが、それとて前金でもらう。そうしなければ、予約だけして来ない人間など珍しくもなく、その場合、金を徴収する手段などはない。予約の為に他の客を断っていたら、損しかしないのである。
「食事はいるかい?」
「いただくわ」
女は、流暢なヴィト語で言った。この辺りはヴィト語とアイザ語が入り乱れている。エラ自身はヴィト語の方が得意といえるが、そんなエラが聞いたこともないくらい、美しい発音であり、美しい声だった。
「嫌いなものはあるかい?」
「特にないわ。噂のケック貝は、食べられるのかしら」
「もちろんさ。あれを出さなきゃ、客が暴れちまうんだ」
「あら」
女は上品に笑った。
「それだけ、素晴らしい発明ということよ」
夜になり、宿泊客と食事客で、宿の食堂が埋まってくると、あの上品な女も席に座り、イェルトを頼んだ。
芋から作る蒸留酒であるイェルトは、ケック貝の毒抜きにも使うイェーラから造られる。なので、ケック貝のどの料理にもばっちりと合う。
この町ではイェルトはかなり贅沢な酒で、宿では滅多に頼まれない。普段飲まれるのは、同じユグルから作られる醸造酒である、イェーラである。もちろんイェーラもケック貝との相性は非常にいいのだが。
その日、イェルトを頼んだのは上品な女だけだった。これまで見たことのない女であるから、ケック貝の毒抜きのやり方を知っているとは思えない。けれど、その輝くような紅の瞳は、イェルトやイェーラとケック貝が素晴らしい組み合わせであることを、見抜いているかのようだった。
ケック貝の毒を抜くには、複雑な手順がある。
まずはぬるめの水の中に三日間入れておく。グンズ曰く、冷たくても熱くてもいけないが、ぬるめの水に三日入れておいたケック貝は味が少し違ったらしい。それから、イェーラに今度は一週間入れておく。そして今度は冷たい水に二日間、最後に、その冷水に塩を入れる。ある濃度の塩水の中に四日間入れておくと、ケック貝の毒はなくなるというのだ。
こんな手順を確立させるなんて、本当にグンズの執念といったら…。エラは初めてやり方を聞いた時、呆れ返った。町の連中のなかには、気味の悪い目でグンズを見るようなやつさえいた。
晩餐なんて偉そうなものではないが、ケック貝を出すようになってから、料理の前にまず、生のケック貝を殻に乗せたまま、出すようになった。
何の処置もしないケック貝は、生で食べても苦みが強いものらしいのだが、毒抜きを終えたケック貝を生で食べれば、濃厚なガレッド乳のようなこくと旨みがあり、ほんの少しの塩だけで、とんでもない味わいの料理になる。
客たちが一口でぱくりと貝を食べ、うまいうまいと騒いでいる中、女は上品に、ナイフで身を二つに割った。
エラはなんとなく、女を視界の端に捉えていた。彼女には目を惹きつける何かがあるのだ。周りの客たちも、男女問わず、ちらちらと気にしている。
まずは半身を、そのまま食べた。塩は提供前に振ってある。女は目を閉じ、じっくりと味わった。ただ貝を食べているだけなのに、言い知らぬ神秘性が、神々しさがそこにはあった。
「…美味しい」
貝を飲み込み、女は一言そう評した。今までのどんな客の褒め言葉より、その言葉には価値があるような気がした。
その後、女は信じられないことをした。次の半身のケック貝にイェルトをほんの少し、垂らしたのだ。
イェルトは度数が高く、芳醇な酒である。貝を漬け込んだあとのイェーラは毒がなかったので、夫婦で美味しくいただいているのだが、最近気付いたことがあった。
貝を漬け込んだ酒は普通にイェーラを飲むよりも、変な苦味が出てしまって多少味が劣る。
しかし、貝をつまみにしていると、貝の味が更に深まる。
女がやったことは、つまりそれと同じことだ。いや、高価なイェルトなら、漬け込んだ後のイェーラよりも美味しいのかもしれない。後で試してみなければ。それにしても、何故あの女は初めて食べるケック貝に、酒をたらそうなどと思ったのだろう。
不思議に思ってついついまじまじと女を見ると、向こうもエラを見た。目が合うと、にっこりと微笑んだ。
次に、焼いたケック貝を出した。火を通すと身は少し小ぶりになるが、さらに旨みが凝縮され、香ばしさが加わる。これは柑橘の果汁を少しかけるのが良い。
最後に、その日によって内容が変わるが、食べ応えのある一品料理とパンを出す。いわば、最初の二品はケック貝という素材の素晴らしさを知ってもらうための試供品であり、この一品料理が本来の食事である。
この日は、黒イェーラ煮込みである。いくつかの野菜を鍋で炙り、軽く火を通す。次に、一度野菜を取り出し、同じ鍋でケック貝も殻ごと炙る。
グンズ曰く、野菜も貝も、火を通しすぎてはいけないらしい。野菜の種類によっても火の通し加減が違い、ケック貝は貝ごとに全て、通すべき火の加減が変わる。その見極めはエラにはさっぱり分からない。真似をしている周りの店や友人も、同じ味にはならないという。それだけ繊細であり、ケック貝を知り尽くしたグンズの、最も得意で最も自信のある、最高の一品なのだ。
絶妙な火加減で食材に火を通したあと、黒イェーラで煮込む。黒イェーラは酒を作るさい、原材料の芋を一度焼き、軽く焦がしてから仕込むイェーラだ。香ばしさと苦みとコクが複雑に調和した、特別な酒である。さらに香草など、いくつかの調味料を使い、塩で味を整える。
完成した料理を深皿に盛る。この煮込みの香りに釣られて、この宿のことを何も知らない通りすがりが扉を叩くくらいだ。客たちは興味津々、まだかまだかと配膳を待つ。
黒イェーラで煮込まれ、見た目は真っ黒だ。野菜も、貝も、黒に染まっている。熱々なので、木匙を用意している。
また、気になって女を見てしまった。
女は、まずイェルトを煽った。それから、貝をすくって食べる。しばらく目を閉じて味わったかと思うと、満面の笑みになり、また酒を飲む。食べて飲み、食べて飲み、何回か繰り返すと、女は言った。
「黒イェーラは、頼めるのかしら」
黒イェーラで煮込んだ料理なのだ。合わないはずがない。
そして、黒イェーラは、普通のイェーラよりは値が張るが、イェルトほどではない。
女の言葉で、客たちもその組み合わせの絶妙さを想像してしまったようだ。その日、黒イェーラが飛ぶように売れた。
女はさらにもう一杯、黒イェーラを飲み、あくまで上品に食事を終えた。
エラとグンズの宿はケック貝料理発祥の店として、二人の死後も、数百年愛されることになる。建物が建て替えられ、宿ではなく食堂になったり、様々なことがあるが、代々の店主たちは、ケック貝料理を出し続けた。
また、グンズがケック貝の毒抜き方法を公開したお陰で、その年からは港町に限らず、グリシアじゅうの町で、冬も保存食だけでなく、新鮮な貝料理を食べられるようになった。
その結果、冬を越えられなかったような庶民が減り、冬の死者が激減したと言われている。