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王宮の内側で


 それから三日後の午後、期日のギリギリに皇子は王宮へ向かった。

「おお、皇子様。凛凛(りり)しゅうございますぞ」

 見送りに立った伊那(いな)(もち)が皺深い目元を綻ばせるのも道理で、今日の皇子は用意された装束をすべて身につけていた。今まで使われずにいた高価な衣装が改良を経て陽の目を浴び、千瀬(ちせ)も涙ぐむほど喜んでいた。

 髪は皇族を表す大きめの(みずら)、中央を留める組み紐はもちろん飾り玉つきのやや太い絹紐だ。

 公式の祭事ではないし馬を使うので正装とまではいかないが、それに準じる礼服である。

 深く鮮やかな藍色の長衣は複雑な地紋の浮き出た綾織りで、縁かがりの黒絹は手の込んだ金銀の刺繍入り、太めの黒帯にも金糸が織り込まれている。

 襟元や胸元は、銀と紺と朱を織り込んだ太い組み紐で結ばれ、紐の先には瑠璃の飾り玉が輝いている(もちろん糸で固定してある)。仏頂面でいてもなお端正な面立ちと、普段、偉そうに見える胸を張った姿勢が功を奏し、この上もなく高貴で堂々とした皇族の若君が出現した。

 とうとうこの領域まできたわ。

 王宮の門に馬を進めながら、今や身なり責任者と化した朔弥は、すぐ前を行く馬上の姿を眺めながら満足の吐息を漏らした。

 當間(たいま)からの帰り道で皇子と遭遇したあと、馬を走らせて宮に辿り着くと案の定、彼は一足早く戻っていた。朔弥は急いで居間に駆け込み、千瀬に昼餉を命じている後ろ姿に待ったをかけて先に身仕度を済ませるよう訴えた。

「皇子たるもの、前日のままのなりで食事なさってはいけません」

 険しい表情を崩さない様子にさぞ抵抗してくるだろうと踏んでいたのだが、なぜか黙って立っているだけなので、この隙と段取りを決め、昼餉の用意がされているうちにささっと着替えと整髪を済ませていった。

 あまりにおとなしいのがかえって不気味で、さては腹が空きすぎたかと察し、整髪の前に伊菜女(いなめ)が持たせてくれた米粉の蜜菓子を巾着袋ごと渡した。すると彼は無言ながらもガシッと受け取り、もぐもぐとやりながら櫛を受けていた。

 次々と頬張る姿に図星だったと確信し、あとで飛利に手際を誉められたときに、

「あれはお菓子の効果ですよ。甘いものに弱いんでしょう?」

 と伝えると、いきなり吹き出された上に「うん、そうだね。甘いものにも弱いのかもね……」と涙目で呟かれ、意味がわからなかった。

 モヤモヤしていたらさすがは荒くれ皇子、その後の二日間「狩りに行く」と、まるで報復のようにあちこちの山に連れていかれた。けれどもひたすら獲物を追って過ごしているうちに、少しは気が晴れたのか、昨日はいつも通りの皇子に戻っていた。今朝も行くのを渋ったり仕度を拒んだりすることはなかった。

 これなら、どなたに出会っても文句のつけようはないはずよ。

 先日の学塾で嫌みを連ねていた子息たちは、高位貴族のお坊っちゃまなだけに王宮で鉢合わせする可能性がある。あの煌びやかな装束よりは少し地味だけど格式では負けてないはず、と拳を握りしめていると、横から手綱をつかまれた。

「椰束、下りるよ」

「あ、すみません」

 どうやら正門の前に到着していたらしい。

 慌てて馬を下りると、自分と朔弥の馬の手綱を器用につかんでいたのは人麿(ひとまろ)だった。朔弥は手綱を受け取りながら、隣に馬首を並べた飛利と何事かを打ち合わせる人麿の姿を見上げた。

 この二日間、何に驚いたかってこの人よ。

 祝いの餅を思わせるポヨンとした体は、今日は立派な胴鎧や分厚い革の籠手(こて)当てなど、王宮の警護兵に負けない武人装束に包まれている。しかも持ち物が朔弥も目を剥くような太竹の強弓(ごうきゅう)と、一流の鑪場(たたらば)職人の手によると思われる刃金(はがね)の長剣、そして唐渡りの品だという、先が三ツ又に分かれた大型の槍だ。三叉戟(さんさげき)と言うらしい。飾り物でない証拠にすべてしっかりと使い込まれている。

 慣れた手つきで馬から降り、手綱を引く分厚い手を眺めながら、つい朔弥は呟いてしまった。

「この手から、あの強靭な凄技が繰り出されるのか……」

「正面専門だけどね」

 人麿はにこにこ笑って馬を引いていく。

 一昨日、猪を一発で仕留めた人とはとても思えない……。

 そう、彼の技は防御。向かい合っての戦いはほぼ無敵だという。

 一昨日の狩の最中、矢を射られた猪が暴れ、皇子に向かって突進する場面があった。その時、そばにいた人麿がすーっと馬を移動させて正面に陣取り、おもむろに三叉戟を構えて真っ向から「えいやぁ!」と激突、結果、猪は見事三叉戟の獲物と化した。

 向かってくる相手なら猪だろうが熊だろうが大角鹿だろうが三叉戟で一発。そして動かないものなら、四十間(約七十メートル)先のものでも強弓で破壊するという。

 普段の生活でも、修練を怠らない飛利とは異なり、彼は積極的に手合わせなどはしていなかった。狩のお供も多くは飛利と朔弥に任せ、自分はのんびりと馬上から眺めていた。皇子も飛利も特に咎めないので、不得手なものは無理強いしないのかなどと勝手に想像していたのだが、それは大きな間違いだった。彼は動かないことを許される武の達人だったのだ。人は見かけで判断しちゃいけないと反省したものだ。

 正門を抜け内門(うちつもん)のすぐ手前まで歩を進めたところで、皇子の手から黒駒の手綱を預かった飛利が頭を下げた。

「お気をつけて」

「ああ、おまえらもな」

 顔を上げた飛利の肩を皇子が軽く叩く。

「じゃあここからは椰束、頑張るんだよ」

 人麿に再び手綱を持たれ、朔弥は面食らった。

「えっ? 飛利どのは?」

 武装した人麿は内門の中には入れないだろうが、飛利は朔弥と同じ舎人姿だ。当然一緒に来るとばかり思っていたのだが。

「あ、飛利さんは前にちょっと」

「人麿」

 皇子が声を発し、人麿はすぐに黙った。

「時間をかけたくない。椰束、行くぞ」

 皇子がぐいっと腕をつかんできた。

「いいか。今日は絶対目立つなよ。ここはろくでもないところだからな。用がすんだらすぐに帰るぞ」

「は、はい」

 朔弥が頷くと、皇子は先に立って歩き出した。その後ろに従いながら、朔弥は悟らざるを得なかった。

 飛利どのは、祗候(しこう)を控えるような何かがあったんだ。

 確かに、大勢の役人が出仕する正殿と違い、今日訪う内殿は限られた者しか入れない大王(おおきみ)の生活の場、ほんの些細な粗相でも運悪く咎められることはあるだろう。しかし飛利は朔弥の目から見ても優秀な舎人である。

 内殿どころか正殿も初めての私だけで大丈夫なのかな。

 にわかに緊張する朔弥の心を知ってか知らずか、皇子は物慣れた様子で警護の兵士が囲む内門を抜けていった。



 白い玉砂利(たまじゃり)が敷き詰められた庭の先、太柱と白壁からなる王宮はさすがに大きかった。

 この王宮は、前の王宮が火事で焼失したために急遽建てられた仮宮で、本格的な大宮がまもなく別の地に完成するというのだが、朔弥の目には十分立派に映った。

 真ん中に正殿、右に書庫や神殿が、左に兵舎と武器庫が、奥に大王の暮らす内殿がある。今日は大王に会うだけなので正殿には寄らず、直接内殿を訪うのだという。

 正殿の横から(きざはし)を上がり、回廊をぐるりと裏に回り込むと、幾人もの采女や舎人、そして役職に就く貴族たちとすれ違った。

 みな、皇子をちらりと見やったあとで一様に驚き、男はそそくさと、そして采女は顔などを赤らめながらぎこちなく脇によけ、次々と拱手し膝を折っていく。どちらの態度にしても感嘆している様がありありと窺える。中には先日のお坊っちゃま集団に見た顔も何人かいて、「えぇっ!?」と驚愕して脇によけたあとで頭を下げていた。

(見たか。これが本来あるべき姿よ!)

 それらを無視して進む皇子に従いながら、朔弥は密かに溜飲を下げた。

 正殿と内殿を繋ぐ渡り廊下が見えてきたとき、手前の柱の影で言葉を交わし合う見知った姿を見つけた。

「鎌足」

 歩み寄る皇子の姿を見つけて拱手したのは鎌足ともう一人、いつのまに懇意になったのか父の継麻呂だった。

「皇子様。今日のおいででしたか」

「ああ」

 姿勢を戻した鎌足の前に皇子が立ち、朔弥が後ろに従う。同じく顔を上げた継麻呂はこちらに笑顔を向けたが、真面目な顔に戻してから皇子に挨拶を述べた。

「これは葛城皇子様。息子がお世話になっております。まるで別人のような若君ぶり、さぞかし海石榴市(つばいち)での名が高まりましょう」

 とても好意的には聞こえない口上に朔弥は頬を引きつらせた。継麻呂は朔弥が皇子の舎人を勤めることに、未だに煮え切らないでいるのだ。

 しかし皇子は構う素振りもなく切り返した。

「そりゃ光栄だ。息子の腕前を誉めてやれよ」

 継麻呂が鼻白んで押し黙る。鎌足が苦笑して声をかけた。

「ただいま山背皇子(やましろのみこ)様が斑鳩(いかるが)よりご到着になり、皇后様が正殿にてお出迎えなさっておられます」

 皇子はパッと表情を明るくした。

「よしっ。じゃ、この隙に父上と話せるな。そのあとで顔だけ見せてさっさとずらかろう」

 よほど母君とは話したくないらしい。

「かしこまりました。先導いたします」

 それわかっているのか、鎌足がすぐに身を(ひるがえ)した。すると継麻呂がスイと横に並んだ。

「私もご一緒してよろしいでしょうか?」

「それは……」

 一瞬、躊躇したように鎌足が足を止め、皇子を見る。

 ちょっとなに企んでんの! 書記官は内殿には入れないでしょ!

 不穏な気配を感じて止めようとすると皇子が先に口を開いた。

「いいだろう。来てもらおうか。椰束も安心だろう」

「ありがとうございます」

 朔弥が口を挟む隙もなく継麻呂が頭を下げ、結局四人で渡り廊下を進むことになった。



 内殿の手前まで来ると、槍を手にした厳つい警護兵たちが扉を守っていた。

葛城皇子(かつらぎのみこ)様が大王(おおきみ)様にお目通りを願っておられます」

 鎌足が来訪を告げると、兵たちはすぐ皇子に頭を下げ、左右に分かれて扉を開いた。そこは腐っても中大兄(第二皇子)、楽々通過だ。

 一行は扉を抜け、列柱と警護兵が並ぶ板間を先へと進んだ。すると、突き当たりの壁に垂れ下がる白い(とばり)の前に、白絹の短衣と七色の縦縞の裳を着けた、四十歳前後に見える女性が若い采女を左右に従えて立っていた。

「父上に目通りを」

 皇子が前に進み出ると、彼女は鋭い目線を頭から足の先へと走らせ、スッと両手を胸元で組み、痩身を折り曲げて揖礼(ゆうれい)した。

「ようこそおいでになりました。大王様もお喜びでございましょう」

 皇子が口の端で笑った。

「珍しいな手縞(てしま)。今日は追い返さないのか」

 手縞と呼ばれた采女はゆっくりと姿勢を戻した。

「今日の皇子様は礼儀に叶うお姿でございますれば」

「どんな格好でも俺は俺だ。父上に対するなんの企みもない。それを知っているから父上もおまえが俺を阻むたびに人をよこすんだぞ」

「なんと言われましょうとも。人は外に表れたもので心の内を測ろうとするもの。皇子様のお心を読み取るに、私どもはお姿をもってするしかございません」

 おそらくは奥殿を取り仕切る采女頭(うぬめがしら)であろう。彼女は皇子の反論をものともしなかった。

 凄い。ぜひもっと言ってやってください。

 朔弥が感動していると、皇子はまあいいと苦笑しながら振り返った。どうやらこのはっきりとものを言う女性を皇子も一目置いているらしい。

「椰束。父上の様子を窺ってくる。調子が良さそうだったらおまえを目通りさせるから、そこの控え場で少し待ってろ」

 横手を示されて目を向けると、少し離れた壁際に床几(しょうぎ)(椅子)が幾つか置かれている。

 随身(ずいじん)や舎人はここで待機するのか。

 朔弥が「はい」と頭を下げると皇子は体を戻し、手縞とともに帷の向こうへと消えた。

「じゃ、こちらへ」

 鎌足に促され、朔弥が椅子のそばに移動すると、後ろからついてきた継麻呂が小声で話しかけてきた。

「元気そうでよかった。評判は聞いてるよ。どうやって皇子様をあそこまで化けさせたんだい?」

 どうやら噂を聞いて詳しい生活実態を知るためについてきたらしい。どまでも普段調子な父親に、咎めようとした朔弥は苦笑してやめた。

 まあ、お陰でへんな緊張は解けたし。

「そんなんじゃないです。私は何も」

 すると隣の鎌足が笑った。

「それは謙遜だ。君の尽力だと葛城宮の者たちから聞いている。私も感謝しているよ」

 そこまで言われるとさすがに嬉しい。

 ちょっと赤面していると継麻呂が面白くなさそうに言った。

「以前なんてどこの山賊かと思う格好でやってきて、そのまま中庭から直接内殿に踏み込んだあげく獲物の兎だか鳥だかを放り投げていったらしいからね」

「放り投げ……」

 さすがに顔が強張る。すると鎌足がすぐに補足した。

炊屋(かしきや)(厨房)に、が抜けてますよ、継麻呂殿。彼が誤解します」

「同じようなものでしょう。あの方が乱暴なことには変わりませんね」

「いいえ、それは以前の話です。ここ一年はちゃんと葛城宮の者が届けています。一昨日の猪も人麿殿が直接炊屋に届けてまいりました」

 あ、それってあの猪か。

 そういえばいつのまにかなくなってたっけと思い出していると、鎌足がこちらに真剣な顔を向けてきた。

「皇子は確かに直情で傍若無人なところがある。でも愚かな方ではない。どの行動にも常に理由があるんだ。だから大王様も容認されていらっしゃる」

「ほう。内殿に土足で踏み込むような振る舞いにどんな理由があるんだか」

 継麻呂の揶揄に構わず鎌足は続けた。

「狩の獲物をここに持ってくるのは、あまり食の進まない大王様が、皇子が捕ったと聞くと頑張って食べるからなんだ」

 え、と朔弥は目を見張った。

「だからなるべく滋養の高いものを捕って、少しでも体調をよくしてもらおうとして届けてるんだよ」

「……まさか、葛城さまが学問をほっぽって狩によく行くのは」

 朔弥の脳裏に、肥えた鴨を喜ぶ皇子の様子が浮かんだ。鴨は滋養の高さで知られる獲物だ。

「そんな綺麗事だけでしょうかね」

 継麻呂がふん、と鼻を鳴らした。

「それならきちんと(むしろ)で巻くか何かして形を整えればいい。なにも血だらけのまま放っていく必要はないでしょう」

 やたらと『放る』にこだわるのは本人が血生臭いことを嫌ってるからだろう。とはいえ父の言うことはもっともだ。わざわざ王宮に来てまで粗暴な振る舞いを披露しなくてもよいではないか。

 すると鎌足は継麻呂を横目で見て嘆息した。

「あなたは今まで大王家と関わりなく過ごしておられたからご存知ないでしょう。これには別の経緯があるのです」

「今度はなんです」

 継麻呂が追求すると、彼はそこで押し黙った。

「言えないんですか。ろくな理由じゃなさそうですね」

「継麻呂殿」

 鎌足が僅かに苛立ちを滲ませたとき、先ほど朔弥たちが来た方向から、ざわざわとした衣擦れの音と複数の足音、男性の話し声、そして女性の高い笑い声が聞こえてきた。

「……しまった。もうおいでか」

 扉を向いた鎌足は直立し、胸元で手を組み合わせて深く揖礼した。扉を向いた継麻呂もさっと朔弥を背後に押し、同じ姿勢を取る。朔弥がそれに倣ったとき、衣擦れと足音が止まり、扉が開かれた。

「皇后様、山背皇子(やましろのみこ)様、蘇我入鹿(そがのいるか)様がおいでになりました」

 先導の舎人が声をかける。と、それを押しやるようにひとりの女性が入ってきた。

「待たせるでない。(わたくし)に取り次ぎなど無用」

 高飛車な物言いで姿を現したのは、これでもかと煌びやかに着飾った中年の女性だった。

 あれが、宝皇后さま……!

 それは、実に迫力のある美貌の女性だった。

 大きく結い上げた黒髪には幾つもの玉がついた金の歩揺(ほよう)が煌めき、今を盛りの牡丹がその横を飾っている。切れ長の目元には薄紅の化粧が施され、紅をつけた唇と相まって肌の白さを際立たせていた。

 うっわぁ……似てる。葛城さまと。

 年齢は隠せないものの、それを補って余りある妖艶な美貌は、確実に皇子へと受け継がれているものだ。茜色のぼかし染めの上衣も、それを締める緋色の帯も、七色の縦縞の裳もすべて金糸銀糸の刺繍で縁かがりされた豪華な作りだが、彼女にはそれら目も眩むような装束に負けないだけの美しさがあった。

 揖礼したまま上目使いで窺っていると、被巾(ひれ)をなびかせた皇后は脇目も振らずに白絹の(とばり)へと向かっていった。そこに、先ほどと同じく采女を従えた手縞が現れた。

「どうぞお静かに願います。ここは奥殿でございますれば」

「あら手縞。いたのね」

 彼女は少し鼻白んだ。どうやら皇后も手縞には一目置いているらしい。

「山背皇子殿が到着したのよ。通しなさい」

「ただいま葛城皇子様とご歓談の由、大王様より今しばらく待てとの仰せにございます」

「葛城が来ているですって?」

 皇后の表情が変わった。

「あの子が来たならすぐに知らせるよう言い渡しておいたはずよ。なぜ誰も知らせに来ない」

 誰も、と言いながら辺りを窺う様子が感じ取れ、朔弥の鼓動が速度を上げた。

 なんか、こっち見てる?

「そこな随身! 顔を上げよ」

 鋭い声がかかり、朔弥は反射的に顔を上げてしまった。しかし目の前の二人も上げたため、視界は二人の背中に隠された。

「なぜ(わたくし)に知らせなんだか正直に述べよ。返答によっては厳しく罰するぞ」

「お許しください、皇后様」

 拱手(きょうしゅ)をして答えたのは鎌足だった。

「我らはその意を知らされておりませんでした」

「嘘をつくでない!」

 皇后はこちらに一歩踏み出した。

「どうせ妾と葛城を会わせまいと企んだのであろう」

「けしてそんなことは」

 その時、鎌足の声に聞き覚えのある声が被った。

「その者の言うことは、嘘ではなかろうと存じます」

 後ろから皇后に一歩近づいたのは、浅葱の長衣に紫と金を合わせた、今日も端正な出で立ちの蘇我大郎(そがのたいろう)だった。

「彼は神祇官です。政務官や舎人ではありませんから知らなくても不思議はありません」

 鎌足と大郎では身分がだいぶ違う。とはいえ学塾での知り合いだからだろう、持ち前の機転でこの場を収めてくれるようだった。

 本当に、なんて徳の高い方なんだろう。

 密かに心打たれつつ鎌足の後ろから様子を窺っていると、皇后が黒々と光る瞳を大郎に向けた。

「それはおかしい。妾は前々から命じていたのだから。神祇官なら時々正殿にも顔を出すであろう。知らぬとは思えぬ」

 言いながら皇后が大郎をじっと見つめると、彼の整った顔にスッと赤みが指した。

 ん……っ?

 目を凝らしていると、皇后が大郎の斜め後ろに顔を向けた。

「そう思われませぬか? 山背皇子殿」

 そこには大郎にも劣らず立派な出で立ちをした、涼やかな顔立ちの男性が立っていた。

 あ、この方が。

 かの聖人、上宮厩戸(かみつみやうまやど)皇太子の嫡男にして次の大王候補、田辺家に舎人の話を打診してきた人物だ。

 重厚な礼装を纏った山背皇子は、壮年の渋みを漂わせた口元に笑みを浮かべ、皇后に答えた。

「確かに。しかしその者がそれを知っていたかまでは存じません。神殿に詰めていたのならわかりますまいし」

 口調にどこか甘やかすような響きが感じられるのは気のせいか。

「まあ。あなたまでそんなことをおっしゃるとは」

 皇后は明らかに楽しむ様子になった。

「みんなして妾を説き伏せようとの魂胆か」

「それはそうです」

 山背皇子は大郎とは逆側から回り込み、皇后に寄り添った。

「あなたは葛城皇子のことになると、すぐに私ども周りに侍る者のことをお忘れになる。正直、気に入りませんね」

 そしてそっと手を取って軽く引いた。それは、帷へと誘うようでもあり、また、自分の方へ向かせるようでもあった。

 な、なんか……。

 息を飲んで成り行きを窺っていると、大郎が皇后との距離を詰めた。

「お戯れを。私どもは宝媛(たからひめ)様に侍る立場ですが、山背皇子様は斑鳩上宮家のご当主であられましょう」

 山背皇子はスッと目を細めた。

「皇族の頂点におられる女性に従うのも侍ることであろう。まあそれを抜きにしても、宝媛はもとから男を従える力をお持ちでいらっしゃったが」

 そうして皇后に語りかける皇子の顔には、これぞ年長者の余裕といわんばかりの艶のある笑みが浮かんでいた。その様子に、今度は大郎が顔を強張らせた。

 穿った見方をすれば、これは次期大王の座を狙う山背皇子が、発言力を持つ皇后の意を得んと図っているのを、対立候補の後ろ楯である蘇我大臣家嫡男が阻止すべく知恵を絞る姿、という図式のはずだ。しかし朔弥にはどう見ても、妖艶な美貌の皇后を巡って恋の火花を散らす男たちの熱き戦いにしか見えなかった。

 これって、……。

 目の前の現実に唖然としていると、皇后が華やかな笑い声をたてた。

「ほほほ。たとえ世辞だとしても、当代に名の知れた貴公子方に(かしづ)かれるのはよい気分だこと。でもそれとこれとは話が違うのでね」

 わざと無視して気を引くように皇后は山背皇子の手を外し、こちらに数歩近づいた。

 えっ! ちょ、こっちに振るなっ!

 朔弥の願いも虚しく皇后は妖しい眼差しを継麻呂に向けた。

「そのほうはどうなのじゃ。その冠り物の色は小信(しょうしん)(中級役人)であろう。正殿にいたはず」

 そのほう、と言われた継麻呂は身を縮めて頭を下げた。

「私は久しく書庫に詰めておりましたゆえ、存じあげませんでした」

 むろん本当は耳にしていたのだろうが、この展開は想像していなかったに違いない。

「ふふん、書庫ね。史部(ふひとべ)か。……そなたが妾の知らぬうちに葛城をここまで案内したのは事実。妾の命に気づかなんだ罰は重い。どうしてくれようか」

 皇后の目が光り、継麻呂は肩を震わせた。どこか小動物をいたぶるような眼差しに朔弥の背筋が怖気だつ。すると彼女はおもむろに扉のほうを向き、よく通る声を発した。

「警護兵。この者を刑場に引っ立て、仗刑に処せ。数は五十じゃ。」

 ──五十っ!?  そんなっ!



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