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田辺家の選択


 声の出ない朔弥(さくや)をどう捉えたのか、皇子(みこ)は声を潜めた。

「継麻呂は史部(ふひとべ)なんだから、どこかの女に産ませたのを引き取ったなら、将来のためにも手元で育てるのが普通だろうが。子どもたちだけで離れ屋形に住んでいるってのはおかしな話だ。人目を避けてるとしか思えない」

 朔弥は不利を悟った。

 日向(ひむか)伊鹿(いしか)兄弟の騙し道は、奥山の中腹が本拠地の賀茂一族をも惑わす巧妙な迷路の陣だ。まさか都人の放った手の者に破られるとは思ってもみなかったから、何を把握されてるかわからないうちは迂闊に答えられない。

 黙り込んだ朔弥を追い込めたと感じたか、皇子は端正な面立ちに余裕の笑みを形作った。

「あの小っさい子どもにあるんだろう? 都に出てこられないわけが」

「……それが、なんで後ろ暗いことになるんだ」

「強がっても駄目だぜ。見られたらまずいんだろう」

「……っ」

 動揺するのを止められない。すると彼は顔を寄せ、自信ありげに耳打ちした。

「おまえの父親は、誰か貴人の妻を寝取って孕ませたんだろう? それをこっそり引き取っておまえらに預けたんだ。だが顔を見られたらばれるくらい親に似てきちまった。だからここには連れてこられなくなったってわけだ。田辺本家は高位貴族の関係者もよく出入りするからな!」

 どうだっ、参ったか! と言わんばかりにふんぞり返られ、朔弥は口を開けたまま心で絶叫した。

 おまえの基準で話を作るな──っっ!

 そしてがっくりと床に手をついて脱力した。

 悲しいやら恥ずかしいやらわからない誤解だわ……。

 これも父上があちこちで浮き名を流すからですよ……と嘆かわしく呟き、だがしかしと思い直す。

 幸い、朔弥の一人二役はバレていないのだから、そういうことにしておけば弟はこれ以上、追求されなくて済む。事実を知られるよりましではないだろうか。 

 うなだれたまま考えていると、参ったと勘違いしたのか皇子が朔弥の目の前に片膝をつき、肩に手を置いて慰めるように言った。

「心配すんな。俺の誘いを受けてくれればこのことは黙っててやるし、この先は協力してやる」

「……誘い?」

 顔を上げると、彼は床に胡座を組んで姿勢を直した。

「おまえ、俺の舎人になれ」

「ええっっ?」

 瞬間、嫌そうな表情が顔に出たのか皇子は鼻にシワを寄せた。

「なんだよ。悪い話じゃないと思うぜ」

 どこがっ! と言いたいのをグッとこらえる。

 札付きの悪に仕えるなど御免(ごめん)被りたいが、弟の身が絡んでいるのだ。

 ひとまず話を聞こう、と朔弥は言葉を改めた。

「で、では、お伺いしたい。なぜ悪い話ではないと。弱味を握られていてはこちらに分がありません」

 いかにも『バレて開き直りました』という風を装うと、皇子は意外にも真面目な受け答えをした。

「山背皇子とうちの異母兄から話が来てるだろう。巷で噂されてるぞ。田辺はどっちにつくのかってな」

「えっ! もうそんな風に?」

「田舎に引っ込んでるおまえは知らないだろうが、都はかなり緊迫してるんだ」

 大麻呂も困ってるようだって俺の教師が言ってたぜ、と皇子は続けた。

「その点、俺にその問題はないからどっちも敵に回さずに済む」

「でも、皇子の舎人になってしまったら、兄君様はおもしろくないのでは?」

「それはないな。兄貴には蘇我氏絡みの優秀な舎人がたくさんいる。山背皇子に田辺氏を取られたくない蘇我大臣(そがのおおおみ)に指示されてるだけで、おまえ自身に本気で執着してるわけじゃないさ」

「ああ、なるほど」

 それはいかにもありそうな政治の話だ。

「だが俺は違う。俺はおまえ自身に注目している」

「私自身?」

「皇族の舎人は大抵、氏族との縁故で決まる。けど俺は、俺に忠実で信頼できるやつしかいらない。その点、おまえは優秀な腕を持っていて、しかも弟のために忠実にならざるを得ないだろ?」

 その言い様に朔弥はカッとなった。

「私を脅すつもりですか」

 皇子はシレッと返してきた。

「別に。事実を言ったまでだ」

 どこか楽しげな目線を睨み上げる。すると。

「皇子様。そんな口説き方では椰束殿が引いてしまいますよ」

 後ろからふいに笑いを含んだ男の声が聞こえ、朔弥は慌てて振り向いた。と、そこには先ほど百済の高官と渡り合ってくれた、あの青年が戸を開いて立っていた。

「来たか、鎌足(かまたり)

 皇子が声をかけると、鎌足と呼ばれた青年はゆったりと微笑んだ。

「あなた様には色々な噂が飛び交っているのですから、本気で手に入れたいのならもっと誠意を込めませんと。第一、それでは田辺を捨てろと言っているようなもの。ご当主に承諾していただけません」

 そう言って彼が体を横にずらすと、戸口にもう一人、唐茶色を基調にした袍に身を包んだ、鎌足より幾らか上背のある壮年の男が立っていた。

「伯父上」

 一族の当主、田辺史(たなべのふひと)大麻呂(おおまろ)だ。

 朔弥が慌てて立ち上がろうとすると、大麻呂は手のひらでそれを制し、鎌足を皇子の隣に促して自分は朔弥の隣に胡座(あぐら)を組んだ。

 朔弥が姿勢を正して畏まると、落ち着いた眼差しの大麻呂が口を開いた。

「葛城皇子様。すでに顔合わせのご様子にて、紹介を省かせていただきます。先ほどは甥がお手数をおかけいたしました」

 大麻呂が言葉を切ると、葛城皇子は背筋を伸ばし、朔弥に対していたのとは打って変わった様子で答えた。

「たいしたことはしていない。が、そなたの助けになったのなら喜ばしい」

「ありがたいことでございます。甥も感謝いたすでございましょう」

 大麻呂は両手を目の前で組み合わせ、頭を下げて叩頭(こうとう)した。皇子の化けっぷりに気を取られていた朔弥も、伯父に倣って叩頭する。

 そうだ。まだ助けてもらった礼も言ってなかったんだっけ。

 とはいえ今さら彼に畏まるのも恥ずかしいので、頭を戻した朔弥は体を少し斜めにずらし、鎌足に向けて言った。

「危ういところで助け船を出していただき、ありがとうございました」

「いえいえ、私は皇子様の指示通りに動いたまで。それ以上のことはしておりません。が」

 鎌足はちらりと皇子のほう見やった。

「もし心に叶う行いだったなら、ぜひこの方の意向に沿う返事への一助となりますよう願っております」

 逆に軽く頭を下げられ、返答に詰まる。

「椰束」

 大麻呂がこちらを向いた。

「この鎌足殿は、一昨年から葛城皇子様の家庭教師をなされている方だ」

 ああ、さっき話に出てきた伯父上と懇意の人のことだ。

「彼は神祇を司る中臣(なかとみ)家のご出身ながら、高名な留学僧、(みん)法師の学塾で、蘇我家の若君と並び称される英才でおられる」

蘇我大郎君(そがのたいろうぎみ)と」

 都において、当代一の秀才と噂の高い蘇我大臣(そがのおおおみ)の長子に並ぶと聞いて、朔弥は感嘆の目を向けつつも疑問に思った。

 そんな人が、この荒くれ皇子の教師?

 鎌足はちょっとこそばゆそうに笑った。

「私など比べては大郎君がお気を悪くされてしまいます。椰束殿こそ、あなた様を助け、田辺を支えるに足る才能の持ち主だと期待されていましょう」

 げーっ。またその話か。

 朔弥が隣を窺うと、伯父は「わかってる」とばかりに小さく頷き、鎌足に目を向けた。

「世の噂ほど当てにはならぬもの。どうも弟が掌中で()でているうちに、周囲が勝手に想像を逞しくしたようで。身に過ぎた話をいただいてほとほと困惑しているところなのです」

「ならばご安心ください。私の教え子の君は己の目で見て確かめた上でのお話です」

 にこやかに鎌足が返す。どうやら、すでに二人の間では何かが話し合われているらしい。それらのやり取りを聞きながら、朔弥はなんとなく伯父の意図が読めてきた。

 これはもしかして、仕え先候補に対する面通し、みたいな?

 自分の想像にえーっ、と動揺していると、鎌足が追い討ちをかけてきた。

「すでに当人同士も言葉を交わしたようですし、ぜひご検討のほどを」

 再度、頭を下げられる。朔弥が冷や汗をたらして固まっていると、大麻呂が片手を上げた。

「どうかお直りください。そこまでの熱心なお誘い、身に余ることでございます。こちらとしましても前向きに考えさせていただきます。が、今はまだ宴の時。葛城皇子様にはどうぞお戻りになってお楽しみくださいますよう」

 そうして深々と頭を下げた大麻呂からは、これ以上この場で話を進めるつもりのないことがはっきりと窺えた。

 すぐに決めちゃうわけじゃないんだ。

 ホッとして頭を下げた朔弥の目の端に、顔を見合わせる二人の姿が映る。

「わかった」

 皇子は少し不満げな顔をしたものの、ひとつ頷くと立ち上がった。慌てて朔弥も体を起こし、同じく立ち上がった鎌足に並ぶ。

「では大麻呂。色好い返事を期待している」

 ゆっくりと上体を戻す大麻呂を見下ろした皇子は、次に朔弥に目を向けた。

「要望があるなら遠慮なく言え。大概のことは呑んでやる」

 そしてニヤリと笑ったあと、鎌足を従えて板の間から出ていった。

 それに一応、頭を下げ、足音が遠退いたところで姿勢を戻す。すると背後からカタッと板の動く音が聞こえた。振り向くと、裏庭に面した壁板が外れ、継麻呂が姿を現した。

「……父上」

 どうやら目立たぬよう壁際で聞き耳をたてていたらしい。百済の優れた建築技術を駆使した田辺家の屋敷には、こうしたからくり部屋が幾つかある。彼は大王の警護を請け負う影人よろしくするりと板の間に入ると、手慣れた様子で板を元に戻した。

「どうだ継麻呂。なかなか興味深い皇子だろう」

 言いながら大麻呂は朔弥を手招き、自分のそばに胡座を組んだ継麻呂の隣を指し示した。朔弥が腰を落ち着けると、継麻呂は人好きのする面を珍しく曇らせ、額に手をやった。

「ひどいです兄上。心当たりがあるので安心せよとおっしゃるから気楽に構えていたのに、いきなり葛城皇子だなんて。驚いてつんのめりそうになりました」

 口を尖らせる継麻呂を大麻呂は笑って宥めた。

「拗ねるな。事前に話してしまったら、いくらおまえでも会わせんかもしれぬと思ったのだ」

「当然です! だって葛城皇子ですよ? 都大路を甲斐(かい)黒駒(くろこま)で暴走して、あの年で海石榴市(つばいち)に知らぬ娼妓はいないと豪語する御仁ですよ? そんなケダモノのところに大事なむす……いえ、息子をやりたくありません」

「そういうおまえだって海石榴市の娼妓たちのほぼすべてに名が知れてるではないか」

「それは彼女らが勝手に知ってるだけで、私が皆に手をつけたわけではありません。兄上だって同じではありませんか」

 自慢大会?

 思わず突っ込みたくなっていると、継麻呂はじりっと前に身を乗り出した。

「前から宴に紛れていたですって? 兄上はご承知だったんですね。見て見ぬふりをなさってたんでしょう」

 朔弥がぎょっとして顔を向けると、大麻呂は顎に手を当てて苦笑した。

「まあな。ここによく来だしたのは一年前くらいか。鎌足殿の連れだというにしては少々眼光が鋭すぎたからな。すぐに調べて、判ってからは様子を伺っていた。向こうも気づかれたとは薄々承知していたようだ」

「なのにどうして……」

 継麻呂が眉根を寄せて呟く。大麻呂は少し背筋を緩めた。

「あの皇子は、世間に見せている姿とは別の何かを秘めているように私には思える。先日、椰束に舎人話が浮上した折りには、すぐさま鎌足殿を寄こして舎人の件を申し出てきた。自分なら田辺を中立のままでいさせてやれるとな。なかなかに鋭い目をお持ちだ」

「私にもそのことを言っていました」

「悪童の上に知恵もあるとは厄介な」

 朔弥が受け合い、継麻呂が毒づく。大麻呂は「だからこそ、鎌足殿も家庭教師を受けたのだろう」と続けた。

「私に當麻(たいま)の離れ屋形(やかた)を調べたと告げ、今日、ここで皇子として椰束と顔を合わせたいと言ってきた」

「信じがたいですよね。本当に?」

 継麻呂が忌々しげに呟く。

「相当な手練(てだ)れを使ったのだろうな。にもかかわらずあくまでも個人として椰束を舎人に欲しいだけだと念を押してきた。即ちこの件で田辺氏を脅すつもりはないということだ」

 大麻呂が言葉を切ると、継麻呂が体ごとこちらを向いた。

「そのことだけど、君は葛城皇子とは初対面じゃないね? いつ顔を会わせたんだい」

「あの、それはここで」

 朔弥が新年の宴の出来事を話すと、継麻呂は何とも言えない顔になった。

「ああ、自慢してる場合じゃなかった……」

「すみません」

 朔弥が身を縮めると、大麻呂が手を軽く上げた。

「謝ることはない。皇子を泳がせていたのは私だ。だがなぜ皇子がおまえに執着するのかが少々解せない。弓や剣の腕前に感服したと言っていたがそれだけではないものも感じる。もちろん田辺を後ろ楯に加えたい気持ちはあるのだろうが……おまえは何か皇子の気を引くような話をした覚えはあるか」

 朔弥は皇子とのやり取りを反芻し、首を横に振った。

「いえ、手合わせのこと以外には何も。そんなに言葉も交わしませんでしたし」

「ならばこれは、避け得ぬ自然の流れなのだな」

「自然っ?」

 継麻呂が眉を吊り上げた。

「これ以上、今の暮らしを維持するのは無理だということだ。次の段階に進むべき時期がきたのだ」

 大麻呂は諭すように言った。

「幸い葛城皇子は弟の存在には注意を払っていない。春が終わるまでに當麻の屋形を引き払い、あの子はどこか別の場所に『乙椰(おとや)』として住まわせよう」

 大麻呂の言葉に朔弥は息を飲んだ。

 弟の椰束だから乙椰。仮の呼称のつもりだったのにな……。

 胸の奥に痛みを感じていると、継麻呂が食い下がった。

「それは、でも、短期間でことを運ぶのは心配です。もし賀茂一族の目に触れたら……」

「それでも。他から手が伸びた以上、當麻には置いてはおけないだろう。万が一、あの子のあの力が世間に漏れたらどうなるか」

 継麻呂が言葉に詰まる。朔弥も息をついた。

 人の気脈に作用する椰束の霊力。

 これが万が一にも大貴族や大王家などに知れたらいいように使われる羽目になるだろう。母がそうだったように。

「大丈夫だ。田辺当主の甥に橘媛(たちばなひめ)の二の舞を踏ませはしない。引き払う準備をしながら皇子の動向を探り、人となりを見極める。これが最善の道だ」

「皇子の人となりを」

 朔弥が呟くと、継麻呂に向いていた大麻呂の目線がこちらに来た。

「あの皇子は内殿でもたびたび騒ぎを起こし、何度か警備兵が動く事態にもなっている。が、実際に何が起こったのか探らせても正しい情報が伝わってこないのだ」

「つまり、知られざる何かがあると」

「そうだ。これより先、表向き『朔弥』は田辺本家で預かったことにする。おまえはしばらく『椰束』に専念するのだ。葛城皇子がなぜ椰束を欲しがるのか、真意がどこにあるのかを探れ。それが我が一族に益のある話なら、お互いに良い関係を築けるだろう。が、そうでなければ……」

「なければ?」

 継麻呂と朔弥が注視すると、大麻呂は腕を組み、口の端で笑んだ。

「我らにとっての最善を選択しなければならないだろうな」


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