宴の片隅で
翌日の昼下がり、朔弥は父と連れだって馬を駆り、都の西にある田辺本家の屋敷に赴いた。
列柱に囲まれた回廊を抜け、従僕が行き交う廊下を進むと、宴の盛り上がる板張りの大広間が柱の奥に見えてきた。
豪勢な料理の乗った長卓が並ぶ大広間では、親戚や親しい氏族だけの新年の宴と違い、談笑する人だかりのあちこちで百済の言葉が飛び交っている。梅の花が見頃を迎えた中庭の四阿にも宴席が設けられているようで、楽人や踊り女が華やかな芸を披露しているのが露台の先に見えた。
「君は目立たないように縁側から回って露台の隅に控えておいで。無理に通詞を買って出ることはないからね。頃合いを見て兄上から呼び出しがあると思うから、その時は私がいなくても指示に従って」
「わかりました」
継麻呂は朔弥の頬に手を伸ばし、髻を留める絹の飾り紐を直すと、「じゃ、またあとで」と大広間の中へと踏み込んでいった。
廊下を横に逸れて縁側を目指す途中、給仕の侍女や家僕に頭を下げられた。いずれも見知らぬ顔だったが、少年に扮した朔弥に不審の目を向けるものはいなかった。
中庭を一望できる大広間の縁側に辿り着き、露台脇に控えて中庭の楽人たちを眺めていると、比較的近い場所から百済の言葉が聞こえた。
『そのほう。こちらの方に酒肴をお持ちせよ』
声のした右側に顔を向けると、露台から続く階段の下にも長椅子を置いた一角があり、百済の客人らしき男が三人ほど、料理の並ぶ小卓を囲んでいた。どうやら前を通りかかった家僕に追加を申しつけたようだ。手前の男が須恵器の徳利を掲げ、真ん中の上位者と見える男を示しながら左右に振って見せている。立ち止まった家僕は意味を飲み込めてない様子だ。
朔弥は縁側の端に寄って片膝をつき、彼に向かって声をかけた。
「そちらの高位の方に新しく酒肴をお持ちせよと仰せです」
家僕は驚いた顔でこちらを振り返り、次いでわかった、というように頭を下げた。そしてうやうやしい仕草で客人の手から徳利を受け取り、頭を下げたまま厨房のある後ろの通路へと去っていった。
ホッとして背中から力を抜くと、奥の男に何事かを喋った真ん中の高官がこちらを向いた。
『そなた、我が国の言葉が使えるのか』
朔弥は慌てて背筋を伸ばした。
『田辺に連なる者でございますれば』
すると彼は朔弥に向かって手招きした。何かまだ用事があるらしい。
縁側から庭へと続く小さな階段を降り、そばに駆け寄って畏まると、こちらを見上げた男は自分と隣の男の間を指し示した。
『宴に華を添える美しき男子よの。ここに侍り、酌をせよ』
酌っ? まさか女ってばれた!
心臓がドクリと跳ね、しかしすぐ思い直す。
いやいやいや。今、男子って言ったじゃん。
つまりこのお偉いさんは、もてなされた異国の屋敷で、その一族に連なる子弟と承知で声をかけたということだ。見れば立派な髭に囲まれた口元はだらしなく緩み、こちらを見る目つきもじっとりとしていやらしい。
ああ、偉い人にお流行りの侍童趣味ってやつか……。
常識が通じるなら、貴族の端くれである自分は断っていいはずだ。しかし一目で錦織りとわかる立派な絹服姿はいかにも身分が高そうで、もしここで揉めたりしたら厄介事になりそうな気がする。
ええい、一応、断ってみるか。
『恐れ入ります。わたくしはただいま持ち場に控えるお役目にて、場を離れることはご容赦くださいませ』
すると手前の男があからさまに不機嫌な顔をした。
『我らをもてなすことこそ最大の役目であろう。仰せに従うがいい』
尊大な物言いに怒りが滲んでいる。
そ、それはそうなんだけど。
高貴で重要な客人からの要望であれば、当主が自分の妻を侍らせる場合もある。この人物の情報を知らない以上、分家の息子如きが拒むのは困難だ。
ここは、腹をくくるしかないか。
冷や汗を浮かべながら答えようとしたそのとき、背後から涼やかな男性の声がかった。
『その者は当主の命により急ぎ奥へ戻らねばなりません。酌には相応しい花たちをお呼びしますのでご容赦を』
露台の階を降りてきたのは、二十代半ばほどに見える青年だった。身につけた衣服は官服の袍で、頭も継麻呂のように頭頂部で髪をまとめ冠り物を乗せている。
彼はすっきりと整った面に不敵な笑みを浮かべ、軽く手を叩くと中庭に向かって呼びかけた。
「お客人が退屈しておられる。こちらにも酌女を寄こすように」
すると中庭の中央に集っていた人だかりがざわざわ動きだした。百済の高官たちは呆気にとられた顔をしている。すっかり主導権を握った様子の青年が高官たちに顔を戻したとき、ふいに後ろから腕を引っ張られた。
「こっちだ」
「えっ?」
「早く!」
切羽詰まった声にこちらを案じる気配がある。
な、なんか知らないけど助かった。
朔弥は体から力を抜き、引っ張られるままにその場をあとにした。
縁側に戻ってあちこちの廊下を曲がり、前を行く人物が足を止めた場所は、大広間からは離れた裏庭の一角にある部屋で、奥に文机と厚織りの敷物が敷かれた書斎だった。
「ここは……」
後ろ手に戸を閉めながら、確か西の棟にある伯父の私室ではなかったか、と考えたとき。
「バカかおまえはっ!」
振り返り様に怒鳴られ、朔弥は反射的に目をつむった。
「なにあの助平じじいに捕まってんだよ!」
この声……!
覚えのある声に目を開けると、案の定、新年の宴の折りに絡んできた、あの束ね髪の男の顔があった。
「あんたはあの時の……っ」
今日も簡素な藍色の長衣姿だが、さすがに客を迎える宴とあってか、焦げ茶色の髪は簡単な下げ髻に結われている。
「あの侍童趣味で有名なじじいは今日一番の警戒物件だろっ? 油断にも程がある!」
その剣幕に気圧されながらも、高飛車な態度にムッとして朔弥は言い返した。
「高位の客人に呼ばれたら普通は行くしかないでしょう」
「誰かに呼ばれたふりでもして場を離れりゃよかったんだよ」
「そんな失礼な」
「相手を見て判断しろっ! あの変態爺はな、百済との交易を牛耳る重要人物で、百済王室の親戚でもあるんだ。下手に気に入られたら間違いなく夜に呼び出し食らうんだぞ!」
内心で(そ、そうだったんだ)と焦りながらも朔弥は強気で言い返した。
「そんなの断るに決まってる!」
すると端整な面立ちに呆れた表情が浮かんだ。
「阿呆か。俺ならまだしもおまえごときに断れる相手かよ。よく考えてからものを言え」
どうやらかなり世情に詳しいらしい。自分にそのあたりの知識が不足しているのは明らかなので、朔弥はグッとこらえながら内心でグチった。
なにその上から目線。自分なら切り抜ける自信があるってか? おまえだって所詮は田辺の一族だろうが。本来なら私たちの立場に差はないんだぞ!
年下を装わねばならない悔しさを込めて睨みつけると、髻に結ばれている真紅の組み紐が目に映った。細いながらも金糸と銀糸を織り込み、先端の縛り目に真珠や紅珊瑚の粒をあしらった、手の込んだ一品だ。
(あっ。あれは唐渡りの超高級品!)
貴族の奥方でも羨むほどの品で、子どもの、ましてや男の髪になど普通は使わせたりしない。余程財力に恵まれた渡来系の貴族や都の大貴族、例えば斑鳩の山背皇子を支える秦氏や大王の後ろ楯として権勢を奮う蘇我氏くらいでなければ……!
まさに跡継ぎ候補の二人に連なる氏族を連想し、朔弥はジリッと後退した。
「……おまえは、誰だ」
彼はこちらを見、口の端を吊り上げた。
「誰って。おまえを助けた恩人だろ。感謝しろよ」
「茶化しても無駄だ。田辺の縁者じゃないな?」
「……なんだよ突然」
「悪いけど、中流でもうちは百済商人とのやり取りが盛んだから唐渡りの品物を見る目は備わってるんだ」
組み紐のことを指摘すると、彼は一瞬、目を見開き、次いで感心したように腰に手を当てた。
「なるほど紐かぁ。そこまで気が回らなかったぜ」
「やっぱり……!」
どっち側だ。何を探りに来たのか。
それ以上、動けないでいると、彼はずいと顔を寄せた。
「おまえは田辺史継麻呂の息子の椰束だろ?」
「……そうだと言ったら?」
「俺は葛城と呼ばれている。継麻呂の母親の里で育てられた者だ」
亡き祖母の一族、と聞いて気が削がれた。
「お祖母さまの里? じゃ、葛城氏の縁者なんだ……えっ?」
葛城と呼ばれている?
葛城氏は今でこそ中流だが、古くから王族とも血縁を結ぶ由緒ある家系だ。実子にしろ養子にしろ呼び名に氏族名などつけない。それを名乗れるのは氏族が養育を引き受けた皇族の子女のみ。そして今現在、その名を冠する者といえば、昨日、弟の口からも出てきた、悪名高き不良皇子……!
「まさか、葛城皇子……っ!」
「あたりだ」
彼はニヤッと笑いながら軽い口調で答えた。
こ、この男が都きっての悪童!
交通の要衝である海石榴市の繁華街において、齢十三の頃から飲む(酒)打つ(賭事)買う(娼妓)の三拍子を繰り広げてきたという、札付きの悪。『椰束』として父と連れ立つこと約一年。数少ない外出機会にもかかわらず何度か耳にした情報だ。確か今年十五かそこらの、大王の中大兄(第二皇子)のはずである。
朔弥は思わず右の板壁に飛び退った。
「な、なんだって葛城皇子がこんなところに。っていうか、なんで中大兄皇子様が、中流氏族の宴で縁者のふりして腕くらべなんかやってんの……っ」
なによりもまずそこに意識を取られ、口調を改める余裕がない。が、彼は気にする風でもなく答えた。
「別に? 俺はいつもどおりにしてただけだぜ?」
ぬけぬけと返され、おそれ畏まるといった礼儀が頭から飛んだ。
「嘘つけ! 皇族方が宴に顔を出したら普通は上座で接待されるだろうがっ。だいたいこの前といい、今日といい、わざとらしく私たちと同じ平織りの長衣を着ている時点で怪しいわっ!」
普段使いの麻織物とは違う行事用の絹服とはいえ、中流氏族の子どもが身につけられるのは所詮、一色染めの平織りで、襟ぐりに別の布をあしらい、帯に刺繍が入れば上等な程度だ。
しかし皇子ともなれば、海の向こうの大唐国や韓の三国に倣い、長衣は様々な地紋の浮き出た丈長の綾織り、染めもぼかしや多色染めなどの技が使われ、襟ぐりや裾にまで刺繍が施された礼服をまとう。まして帯など、三寸(約十センチ)も幅がある立派な錦織りが主流で、目の前の男がつけているような平打ちの二寸幅なんてあり得ない。
絶対わざとだ! 何を企んでいるっ?
葛城皇子はこめかみをポリポリと掻きながら言った。
「俺はいつもこんなんだがなー。礼服は飾り紐が引っかかって面倒だし、裾長のぎらぎらした格好は苦手なんだよ」
まさしく気品もへったくれもない。
「ばかな。それでまかり通る話か?」
「通してるぜ? 王宮でだって、式典の時でもなけりゃ誰も俺の服装に文句なんてつけられないからな」
横に逸らされた顔に苦いものが混じる。それに少しだけ気を取られ、畳みかけようとした言葉を飲み込むと、皇子はすぐに顔を戻した。
「っていうかおまえ、やたら服装に詳しいな。観察眼が采女並みだぜ」
采女並み、と言われてつい頬がひきつる。朔弥は綺麗な衣装や装飾品の類いが、実はかなり好きだった。
(べ、別に女っぽくないもん。男だって綺麗な物が好きな人はいるもん。父上だってお洒落だし、剣や馬具だって金造りの飾りは素敵だし)
別に恥じる必要はないのだが『椰束』を演じる身としては少々後ろめたい。朔弥は下手な疑いを持たれぬよう、強気の言葉を使った。
「ふ、ふん。服装の知識は身分を知る手がかりだからな。王宮に出入りする家系の者なら観察眼があってあたりまえだ」
「ほー。それは殊勝な心がけだな」
「そんなことより、自分の胡散臭さを誤魔化せると思うなよ。わざわざ氏族の子弟に紛れて偵察するなんて、何を企んでいる」
中大兄といっても葛城皇子は素行を問われる不良皇子。蘇我氏の血も引いておらず、皇位継承からは外れている。大兄(第一皇子)である古人皇子の異母弟だから、兄のために田辺一族の取り込み工作をしている可能性もなくはないが、誰かに命じられて働くタマにはとても見えない。
何か悪巧みのための下調べでもしてたのか。
強気の姿勢を崩さずにいると、葛城皇子はおもしろそうに片方の眉を吊り上げた。
「おまえこそ、たかだか書記官の子どものくせに仮にも皇族を捕まえて言いたい放題だな。継麻呂のためには気をつけたほうがいいんじゃねえ?」
「……っ」
そ、それはそうかも。
噂違わぬ放埒ぶりに、つい渡り合ってしまったが、彼は現大王の皇子なのだ。
自分の態度の危険性を自覚して口をつぐむと、彼は「ま、俺はそういうの嫌いじゃないけどな」と言って少し胸を逸らした。
「別に潜り込んだわけじゃない。俺の家庭教師がここの当主と懇意なんで、前から顔を出してたんだ。で、仰々しい出迎えは好きじゃないから普段着で混ざって楽しんでただけだ」
だからそれが皇族としてあるまじきだっちゅーの……。
やはり誤魔化しているとしか思えずにじろりと見上げると、彼は腕を組んでこう言った。
「俺に後ろ暗いところはないぜ。それはむしろおまえん家だろ?」
「は?」
「おまえのことはちょっと調べさせてもらった」
「調べた?」
ギクリと体が強張る。彼は少し前屈みになった。
「そうさ。だって俺より一回りも細いくせに、剣では勝ちを譲られるわ、弓では叶わないわ。そんな相手がいたら気になるだろ?」
「………」
あれが原因なら、これも私のせいだ。
朔弥が唇を引き結ぶと彼は得意げに続けた。
「色々な噂を拾ったぜ。『齢十二にして四書五経を修めた神童、剣の腕に優れ、弓は南国の強兵、隼人をも凌ぐ』ってな」
思いがけず端からどう見られているのかを教えられ、朔弥は面食らった。
椰束と朔弥がごっちゃだ……。
四書五経とは、政治や道徳の教えを記した大唐国の書物で、貴族なら一度は学ぶ教典だ。攻略には根気を要し、貴族の子息たちを嘆かせている。頭脳派の椰束は十二でこれを修めた。が、朔弥はそこまで飛び抜けてはいない。
反対に朔弥は霊力による作用で武術一般、特に弓が得意である。もともと体を動かすことが好きで鍛練を繰り返した結果、同世代の男子は軽く圧倒する。
二人分が『椰束』ひとりに融合しちゃったんだな。
父の継麻呂が仲間や親戚に様子を聞かれ、あちこちぼかしながら喋ってきたせいもあるだろう。それが大袈裟に伝わったに違いない。
朔弥は興味を追い払いにかかった。
「それは美化されすぎ。そこまで天才でも無敵戦士でもない。頭は普通だし、弓がちょっと得意なだけだ」
「そんなことはないだろう。四書五経は知らんが、あとの二つは当たってる。まあでも俺が気になったのはそこじゃない」
ち、違うんかい。
「じゃあ、なに」
「おまえの住んでる家のことだ。父親はこの敷地内に住んでるのに、おまえの家は随分辺鄙なところにあるよな。まるで人目を避けるように」
嫌なところを突かれ、背筋に動揺が走る。
いや、大丈夫。あの家は普通にはたどり着けない。詳しい様子はわからなかったはずだ。
朔弥は父がよく使う口実を必死に思い浮かべた。
「それは病を患った母の療養のためだ。静かに暮らす必要があったから」
「母親は、一年以上前に死んじまっただろ?」
間髪を入れずに返され、言葉に詰まる。
「なのに今もまだ住んでるのはおかしい。父親のところに戻るのが普通だ」
皇子は畳みかけてきた。
「理由があるんだろ? 俺の調べたところじゃ、住んでる顔ぶれがこっちで聞いた話と違うぜ」
──うそっ!
今度こそ心臓が跳ねた。
「継麻呂の子どもは今のところ二人。あそこに住んでるおまえと姉だけのはずだ。なのに実際はもう一人、ちっこい子がいるだろう」
見られた。日向の騙し道が破られた? まさか!