身代わりの椰束
「すみません……」
結局、あの束ね髪の男にじっと見張られて迂闊に手を抜くことができず、また、彼もなかなかの腕だったのでつい本気で挑んでしまい、結果、他を大きく引き離してしまった。それが原因で今回の話が来たならば、それは朔弥の失態だ。
落ち込んで頭を下げると、継麻呂はいやいやと手を振った。
「いいんだよ。あのときは周りの人に誉められて私もちょっと嬉しかった。君の腕前を誰よりも知っていたし、披露できないのがもどかしくていたから」
おそらく本心からの言葉だろう。彼の頭の中には朔弥の力を惜しむ気持ちがある。実力を発揮できるところがあったらいいななどと本気で考えているのだ。その心を嬉しく思いながらも、朔弥は状況に相応しく父親の言動をたしなめた。
「そこは厳重に注意するところでしょう。とにかく、早いところ断る方策を考えないと」
「でも我が家は史部(書記の家系)だから、いつかは役人として公の場所に出なきゃならないんだ。朔弥ならきっと」
「お断りする口実なら幾らでも作れるでしょう? 少し変わり者だとか、弓ばっかりで馬のほうはからきしダメだとか、実は怖がりで話にならないとか」
「そっ、そこまで『椰束』の評判を下げるのかい?」
「あの子のことがばれるのを防げるなら、私には安い汚名です」
胸を張って言い切ったとき、後ろからかん高い少年の声が響いた。
「ひどいなぁ。人の体面だと思って」
目線を向けると、いつの間に来たのか、本人が裏庭のほうからこちらに駆けてくるところだった。
「本気で言ってるわけないでしょ」
答えながら朔弥は後ろに視線を走らせ、目の前に来た弟を問いただした。
「椰束一人で裏庭にいたの? 伊鹿は?」
日向の弟で、もう一人の家僕兼守役の名を出すと、小作りな顔の中で愛らしい桜色の唇が尖った。
「伊鹿は狩に行きました。僕は裏の菜園で薬草の世話をしていただけです。ちゃんと伊菜女と乙虫に断ったし、裏山まで踏み込んだりしてませんよ?」
言いながら小柄な体を精一杯伸ばし、腰に両手を当ててこちらを見上げる。常日頃から頭の回転と口では叶わないと自覚している朔弥は、誤魔化されてはならじと身なりに観察の目を光らせた。
下げ髻に結った黒髪に乱れはなく、くっきりとした眉も黒目勝ちの瞳も普段と違うところはない。若草色の短衣は帯から外れてはおらず下袴も汚れていないので、菜園に行っただけというのは本当だろう。
皇子や皇女ではあるまいし、本来なら十四にもなる少年が一人で裏山に行ったところで咎められる謂われはない。しかし残念ながらはそうはいかない事情が彼にはあった。
「たとえここが普通にはたどり着けない里山の奥地でも、万が一ってこともあるでしょ? 不用意に一人でいちゃだめよ」
「あんな迷路みたいな騙し道、突破できる人なんていませんってば。作った日向たちに失礼ですよ」
「そうだね。私も毎回迎えにきてもらわないと見つけられないし。ほんとに安心だよ」
継麻呂が嬉しそうに付け足すと、寡黙な日向が控え目にはにかんだ。毎回引っかかる父のため、彼は飼い慣らした鳩を父に預けている。ここに来る道中で父が鳩を飛ばし、それを受け取って迎えに行くのだ。
「人だけじゃないわ。裏山には大鹿や猪だっているのよ。万が一体当たりされたらどうするの。その体じゃ軽くて吹き飛ばされちゃう」
「失礼な。僕にだって逃げ足と知恵はあります」
「まあまあ。椰束、父に挨拶はないのかい?」
とりなすように継麻呂が立ち上がって両手を開く。椰束はパッと顔を上げると、履き物を脱ぎ捨ててタタッと階段を上がり、広げられた腕の中に飛び込んだ。
「いらっしゃいませ、父上! 今日もいい男ですね」
帯のあたりに額を擦りつける姿があどけなくも可愛らしい。中身とのギャップの激しさに朔弥が引く瞬間だ。
「君は悲しいほどに変わりないね。元気だったかい?」
「はい。父上は? 十日ぶりですけど、海石榴市で新しい娼妓にでも引っかかってましたか?」
「はっはっは。可愛い顔して突っ込みどころはさすが十四歳の男だね。鋭い」
「あ、やっぱり? 前に来たときより肌艶が増してます。僕も早く大人の世界を覗いてみたいなぁ」
「私もその日を心待ちにしてるんだけど、それがいつなのか見当もつかないのが我が家の悩みの種なんだよねぇ……」
すっぽりと腰のあたりに納まった息子を抱きしめる継麻呂の顔にほろ苦い笑みが浮かぶ。朔弥も会話の内容には呆れつつも「まったくだ」と頷いた。
特殊な力と体──それこそが、朔弥たち親子が今の暮らしをしている最大の理由だ。
亡き母、賀茂神の巫女だった橘媛の血が色濃く現れたのか。
或いはその昔、三輪神を奉じていたという、葛城氏出身の母を持つ継麻呂の血がそこに重なったせいなのか。
朔弥と椰束は気脈を操る不思議な霊力を具え、しかも成長速度が遅かった。
継麻呂自身に特別な力はない。年の取り方は遅かったようだが人目を引くほどではなく、今も「いつまでもお若いですね~」程度で済んでいる。
朔弥は幸いにも骨格が継麻呂に似たのかすらりと細身であり、小柄な男性に引けをとらない上背があった。顔立ちは母に似て目元が涼やかに整っているので、少年の姿をするとまったく違和感がない。しかしこれが十六歳を過ぎた娘と考えるといささかおかしくなる。
未だ女らしい胸の膨らみはなく、十三、四の頃には訪れるはずの血の印もいっこうに兆しがない。少年より少女のほうが早く大人になることを考えれば、明らかに朔弥の成長は人より遅い。が、上背のお陰で衣服さえ身につけていれば見破られることはない。
そして朔弥の霊力は自分の気脈に作用する。即ち、軽く集中するだけで身体能力が跳ね上がるのだ。筋力や五感が倍増しして、弓など簡単にど真ん中を射抜くことができてしまう。けれども自分にしか作用しないので、ぶっちゃけおとなしくしていればわからない。
しかしこれが椰束となるとお手上げ状態だ。
母、橘媛に生き写しの華奢な姿は、幾つに見えるかと人に問えば、十人中九人は八歳前後だと答えるだろう。
背丈は朔弥の肘を越えるくらい。朔弥と共通する涼やかな面立ちは、成長すれば端正な美男子になることは疑いの余地がない。が、今のところはふっくらとした桃色の頬と、小さく可愛らしげな桜色の唇に飾られ、二重切れ長の双眸は大きな黒目勝ちの瞳が際立ち、どう見ても生気に満ちた女童にしか見えない。朔弥の少女時代によく似ているが、上背があった分、朔弥はここまで愛らしい印象ではなかった。おまけに彼の霊力は他人の気脈に影響を及ぼすのだ。
これを公の場に出して「今年十五歳になる長男です」とやったらどうなるか。
賀茂神の巫を返せと母方の一族に連れ去られるか。
珍重なる童として国一番の権力者、蘇我大臣の手に囚われの身となるか。
或いは人ならざる妖として成敗されてしまうのか?
――いずれにしても、ろくなことにはならなさそうだ。
さしもの楽天的な継麻呂を持ってしても、この椰束を前にしてさすがに危機感を募らせた。
賀茂一族を出し抜く形で橘媛を妻にし、都の田辺本家の敷地内に別邸を構え、親子四人で仲良く暮らしてきた彼は、かの一族に嗅ぎ付けられたら一大事と兄の大麻呂に相談し、六年前、妻の病をきっかけに所領のある當麻の山麓に屋形を建てて妻子を移した。
自分は別邸に残って周囲の追究をのらりくらりとかわし、離れ屋形に通いながら椰束の成長を心待ちにしたものの、当時三、四歳に見えた椰束は年々成長速度を下げ、今や、『椰束』としてはどこにも出せない領域だ。
母が亡くなった一年半前、朔弥が椰束に成りすまし、田辺本家での葬儀をこなしたのが大変うまくいったため、その後息子の出席が必要な場には朔弥が出向くのが定着してきた。継麻呂としては、このまま朔弥が過不足なく勤めを果たし、いつの日か椰束と入れ替わってくれれば問題は解決、と考えたいところだろう。
そりゃ一体いつなの? という問題が朔弥には残るのだが。
椰束を抱えた継麻呂は縁側に座り直した。
「ここに来てから六年か。いい機会だから、外に息子が生まれていたのを引き取りましたって宣言して、君を『乙椰 (おとや)』として正式に披露しちゃおうかな」
『乙椰』とは、朔弥が椰束に成りすましたときの、弟に対する便宜上の呼び名だ。
「いいですね。父上なら協力してくれる女性に事欠かなさそうだし。石川の緋砂なんかどうです?」
「ああ、遠乗りで寄った村長の娘の? うーん気立てはよかったけど、今は全然会ってないし」
「じゃあ、海石榴市の茅乃は?」
「うん、ちょっと情が強いから、そんな話持っていけないなぁ」
「なに真剣に検討してんですかっ。椰束は母上にそっくりなんだから無理があるでしょっ!」
「そこは母親同士が似てるってことにしとけばなんとか」
継麻呂がまとめ髪の上に乗せた布製の冠り物の後ろを掻く。
「秘密を守ってくださっている伯父上をこれ以上、悩ませるようなこと考えないでください。だいたい、そんなことしたら私はいつ『朔弥』に戻れるんですか」
椰束が継麻呂の腕の中から不思議そうに見上げてきた。
「姉上は婿を通わせて家を切り盛りするような暮らしは嫌なんでしょ? 『椰束』をやってればそれは解消されますよ? 朔弥になりたいときはお化粧して裳(巻きスカート)に着替えればいいんだし。前にそう言ってたじゃないですか」
初めて身代わりを引き受けたときの言動を持ち出され、朔弥は言葉に詰まった。
まあ、確かにそうなんだけど。
だからといって四六時中、周囲を欺く緊張の日々を送りたいわけではない。
「それはここに住んでいればこその話。舎人は生活の場が密着するんだから続けるのは厳しいわ。バレたらただじゃ済まないのよ?」
「でも舎人って、確か三年くらい勤めを果たせば住まいは独立できるんですよね?」
椰束が継麻呂に尋ねると、彼は感心したように笑った。
「よく調べているね、君は。体は小さくても耳と頭脳はとびきりだ」
確かに。性格はともかく弟の頭脳が切れることは朔弥も認めるところだ。なにしろこんな山深い土地に住みながら、学問はもとより、日向たち兄弟がもたらす都の話を聞いてかなりの情報を読み取るのだ。
「姉上なら三年くらいこなせるんじゃありませんか? 大貴族からの打診じゃ伯父上も断るのは大変でしょう」
「……うーん」
朔弥は一家の守り神のような田辺一族当主の姿を思い浮かべた。
父の継麻呂より七歳年上の、穏やかで落ち着いた物腰の伯父は、朔弥が唯一頼れる人物だ。むろん困らせたくはない。
「さっきの話だけど、兄上もさすがにただ断れるような相手じゃないと言っておられて。そこで提案されたのがね」
継麻呂が椰束ごと少し身を乗り出した。
「すでに別の皇子のところに決まったことにすればいいと。舎人を断ることはできなくても、勢力争いに無縁で条件のよさそうな相手を選ぶことはできると言うんだよ」
「あ、それで明日の宴に」
早く選んで決めてしまえということだ。
「そう。どさくさに紛れて話をしようって。心当たりを色々探ったようだよ」
「軽皇子や葛城皇子や蚊屋皇子じゃ危ないですもんね」
茶化すような椰束の声に朔弥は鼻白んだ。どれも女癖や行状の悪さで噂の絶えない人物だ。
「椰束の言ったように、そば近く仕えるのは三年間で、あとは本家の離れに住むもよし、別に家を構えるもよし。そこは兄上がうまくやってくれる。どうだろう。話を聞いてみてくれないかな?」
懇願口調の継麻呂が上目使いでこちらを覗いてくる。あいにくと、それを撥ねつけられるほどの非情さを朔弥は持ち合わせてはいなかった。