皇子に物申したいときは
「別に、着替えなくてもよ……」
「ふざけんじゃありません。私がここに戻ったからには容赦しませんから」
目の前には臙脂の上衣を剥ぎ取られ、美しい浅葱色の絽(夏用の薄い絹布)の長衣に着替えさせられた皇子の背中がある。それを椅子に座らせた朔弥は、すかさず緩んだ紐を髪から外し、胸の隠しから貝の入れ物を取り出した。
二人で馬首を並べ、王宮から馬を駆ること僅か数町。瞬く間に葛城宮に帰った朔弥がまずしたことは、皇子の身なりを正すことだった。
「ああ、よかった。やっと帰ってきてくれましたか。これで身仕度地獄から解放されました」
飛利や人麿をはじめ、千瀬、伊那持にまで涙混じりに歓迎され、どんだけ大変だったんだと気の毒に思いながらも、服装くらい正せないでどうするよと歯がゆくもあり、朔弥は笑いをひきつらせながら「またビシビシやりますのでよろしくお願いします」と挨拶したものだ。
「二度と同じ失敗がないよう私たちも気を配るからね」
飛利が嬉しそうに返したのが皇子の海石榴市での態度を指していることはみえみえで、
「おまえら用事がないなら出てけ」
と彼がバツの悪そうな顔でみんなを私室から追い出したのはついさっきのことだ。
「俺のことじゃなくて、おまえのさ……」
皇子がまたぼやいた。それが何を指しているのかに気がつき、朔弥は指で掬った特製椿油を手のひらに広げながら返事を返した。
「無理ですって。『舎人の椰束』がいきなり采女姿で帰ってきたら皆さんビックリしますよ」
「そんなの、なんとでも話作ればさ……王宮抜け出すのに変装したとか、人手の足りない内殿で采女の手伝いしたとか」
言ってることが無茶苦茶だ。朔弥はなんだかおかしくなった。
大王の部屋を出るときも、皇子は采女姿の朔弥をそのまま連れ出そうとしてゴネたのだ。しかし手縞に阻止された。
「この容姿です。万が一、お手の早い蘇我家の方々の目に留まりでもしたら厄介ですよ。よろしいのですか?」
その一言で皇子は引き下がり、やっと着替えることができたのだった。
「采女の姿を気に入ってもらえたのは嬉しいですけど、やはりここでの私は『椰束』ですから」
答えながら皇子の後ろに立ち、ぼさぼさの髪を手で撫でつけていく。肩下でわさわさと絡んでいた髪は、次々に朔弥の指先で解されていった。
しばらくそうして撫でつけていると、肩を落とした皇子がポツリと言った。
「この前は、悪かった」
朔弥は手を止め、斜め下の横顔を見つめたあと、隠しから整髪道具とは別のものを取り出して渡した。
「……これ、葛城さまの落とし物ですよね?」
皇子はつかんだそれ――古い手巾をじっと見つめた。
「ああ」
「最初から、私が朔弥だと知ってたんですね?」
「いや」
皇子は首を横に振った。
「橘媛の葬儀でおまえを見かけたときは、五年ぶりだったから椰束だと思ってた。新年の宴まではわからなかった」
「でも當麻に来て、私たちを見てたんですよね? 私、たまに女の姿でもうろついていたと思うんですけど」
「だからだ。俺は裳をつけて菜園にいる姿を見て朔弥だと思い、袴を穿いて稽古したり馬に乗るのを見て椰束だと思った。小さい頃に会ったとき、二人がものすごく似てるのを見てたから」
ああ、なるほど。
朔弥は納得しながら再び手を動かした。
「どうして新年の宴でわかったんですか?」
「肩が薄すぎて」
「肩?」
「いくら痩せてても男の肩の骨はもっと太い。あれは女の肩の薄さだ」
そういえばあの宴のとき、皇子は朔弥の肩をつかんで少し驚く素振りをした。
あの一瞬で気づいたんだ。
感心しかけ、ふとそれは彼がそれだけ女性との経験が豊富だからだと思い至る。
「……ほう。さすが海石榴市の女たちにその名を知られた方は違いますね」
思わず髪を纏める手に力が込もり、皇子は「痛ててっ」と呻いたあとで弁解した。
「そ、それだけじゃない。おまえの手首に黒子があったからだっ」
「黒子?」
「左手首の内側に黒子が横に二つ並んでいるだろう。昔、手を繋いだときに見つけたんだ」
朔弥は髪をつかむ己の手首に目を走らせた。
ホントだ。小さいのが二個並んでる。
そういえば皇子は時々左手首をつかんではじっと見ていた。自分でもたいして気にも留めなかった黒子で見分けられていたなんて。
「だから混乱して、すぐに當麻に行ったんだ。椰束はどうしたのかと思って。でもいつもいるのは小さい弟だけで。確かに昔見たまんまの顔なんだが、てっきり橘媛の妹とかも妻に迎えてて、その子どもなんだろうと思ってたから」
貴族の男が、妻の異母妹を新たな妻に迎えるのはよくあることだ。
「けど、俺がうろちょろするのを危険に感じたのか、父上から打ち明けられたんだ。それで初めておまえたちの事情を知って」
舎人の話が出たのを聞いてなんとかしないとまずいと思って、と皇子は付け足した。
朔弥は柘植の櫛を隠しから取り出して髪に当てた。
「だったら椰束がどこぞの大貴族の奥方の子だなんて作り話してないで、最初から打ち明けてくださればよかったのに」
「『椰束』が女だって知ってるってか? あの時点で俺がそんなこと言ったら、大麻呂は絶対おまえを俺の舎人になんて出さなかったぞ」
まあ、それはそうかもしれない。なにしろ彼は悪名が高かったのだ。
「それじゃ結局おまえらが困るだけで問題が片付かない。だからなんとかおまえが椰束のフリできるようにしてやろうと思って」
あれでも必死に考えたんだぞ、とぼやく横顔を朔弥は不思議な気持ちで見つめた。
「なぜそこまでして私たちのことを気にかけてくださったんですか?」
大まかなことはすでに色々な人から聞いている。でも、本人の口が語るものを知っておきたかった。
皇子はちょっと躊躇する素振りを見せ、やがてため息を吐き出した。
「最初は橘媛への償いの気持ちだった」
「償い?」
櫛の手を止めると、皇子は頷いた。
「初めておまえと会ったあの日のあと、まもなく父上は大王に即位して俺は葛城氏に出された。俺にとって、家族のいる暮らしはあのときに終わったんだ」
だから引きずったんだろうな、と皇子は言った。
「父上とはあまり会えなくなり、母上は華やかになって、会うたびに母上じゃなくなっていった」
それはきっと息子と引き離された反動だったのだろう。けれども幼い皇子には理解できなかったに違いない。
朔弥は再び櫛を動かし、手の中に丁寧に纏めていった。
「俺の乳母は前の田辺当主夫人の姉だったから、乳母が亡くなるまで俺はよく田辺家に連れていってもらった。けど、おまえたちの住む別館には勝手に行くことは禁じられてた。父上にも、あの日のことは誰にも内緒だと念を押されて、余計おまえたちに会いたくなって」
それは、子ども心には無理もないことだ。
朔弥が絹紐で髪を結わえると、皇子はふっと息をついた。
「よくこっそり別館に行って、おまえたち親子を物影から見てた。それに気づいた橘媛が、部屋に誰もいなくなると呼んでくれたんだ」
「母上が?」
「ああ。手を取ってお菓子をくれて。この手巾もそのときもらった」
当時を思い出したか、皇子は折り畳まれた古い手巾をじっと見つめた。
「機会は多くはなかったけど、行くといつも温かく迎えてくれた。だから知らないうちに引っ越されたときは衝撃だった」
端整な目元が僅かに歪む。
「橘媛は乳母に文を……當麻の屋形への道を書いたものを密かに預けてくれてた。多分、色々なことを内緒にしなければならなかったから、それが精一杯だったんだろう」
ああ、と朔弥は理解した。母上は皇子の環境を知っていたから心配だったのだ。
「けどあの頃の俺は何も知らなかったから、黙っていかれたのが悔しくて。無性に腹が立って、勝手にふて腐れて会いに行こうとしなかった。そのうちに、あの女のやることが段々ひどくなってきて……」
皇子は怖気だったように手巾を握りしめて身を縮めた。
「飛利のことがあったあとなんかもう、自分のことなんてどうでもよくなってきて。海石榴市で女と遊んでた頃は、おまえたち家族のことも半分は忘れてた。そしたらある日伊那持が『田辺でご葬儀があります』って……」
皇子の背中が丸まる。朔弥は手を伸ばし、横からそっと頭を抱き寄せてみた。皇子はされるがまま朔弥の胸に頭を預けた。
「弔問に行って、周りの会話を聞いて。あのとき引っ越したのが、橘媛の余命がなかったからだと知って後悔した。ふて腐れてないで会いに行けばよかった」
朔弥はあやすように肩を抱き、頭を撫でた。
「理由はそれだけじゃないですよ。皇子が気に病むことはないです」
「……あんなに重い秘密がありながら、橘媛は俺に文を残してくれたのに」
「きっと私が皇子でもふて腐れました」
「………」
皇子は朔弥の胴に腕を伸ばし、縋るように抱きついてきた。朔弥はなすがままに頭を撫で続けた。
「父上から明かされたとき、今度は後悔しないようにおまえたちを助けようと思った。昔、媛が黙って俺を迎えてくれたように、おまえたちになんの不思議があってもそのまま受け入れようと。それなのに、逆に俺の災厄に巻き込んだあげく傷まで負わせた……」
声を震わせる皇子からやるせなさが伝わり、朔弥は肩を抱く腕に力を込めた。
「皇子だけのせいじゃありません。あれは私のやり方がまずかったんです」
「違う。あの女のやり口をもっと警戒するべきだった。おまえの舎人の腕を父上に見せつけたくて浮かれてた俺のせいだ」
「見せつける?」
「父上はおまえを舎人にすることには反対だったからつい」
「大王さまはそう言っておられましたね。どうしてでしょうか」
「父上はおまえに橘媛を重ねている。俺はおまえが元気に弓や野駆けしている姿を見てたから、そこに差が出たんだろうな」
朔弥は納得し、同時に嬉しくなった。
美しいと誉めてもらうのは嬉しいことだ。けれど外に出て動くのはもっと好きなのだ。
朔弥は撫でるのをやめ、皇子の頭に両手を添えて持ち上げた。
「私は葛城さまの役に立ちたいです。最初は弟のためでした。でも、今はそれとは関係なくお仕えしたい。葛城さまは私が舎人でいても構わないですか?」
「……怪我されるのは正直怖い」
皇子の手が片方、朔弥の手に重ねられ、そしてぎゅっと握られた。
「けど、父上がおまえを采女にするって聞かされてわかった。おまえを取られるのは絶対いやだ」
「私は言いたいことは言うし、間違ってると思ったら遠慮しません。それでも?」
「おまえはそれでいい。そのままでいてほしい」
朔弥は笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。……体が成長したら、舎人ではいられなくなるかもしれませんけど、それまでは」
そばに置いてくださいと続けようとすると、ぐいと腕を引っ張られ、膝の上に倒れ込んだところを抱きすくめられた。そして。
「……ほんと体、薄っすいな……」
しみじみと呟かれ、楽楼館での言葉を思い出してカッとなった。
「すいませんねっ、薄っぺらいガキで!」
飛び退こうとすると、逃がさないとばかりに頭を胸に押しつけられ、身動きままならなくなった。
「悪かったよ。あんときのは本気じゃないから勘弁な」
さすがに覚えていたらしい。皇子は素直に謝った。
「ただ、頼むから体当たりで突っ込んだりしないでくれ。そしたら俺は大事な舎人を手離さなくて済む。そんで、おまえが女にしか見えなくなったら……別の形でそばにいてくれるだろ?」
耳元で熱っぽく囁かれ、朔弥の体から力が抜けた。
なんだか言いくるめられた気がするけど、皇子の声が久しぶりに明るくて、まあいいやと思えたから。
抵抗をやめたと感じたか、皇子も腕の力を抜いた。朔弥が首を持ち上げると、こちらを覗き込む皇子と目が合った。
「朔弥……」
初めてまともに名を呼ばれ、頬がジワッと熱くなる。すぐそばにある顔が近づき、朔弥が応えようとしたとき――。
「皇子様、失礼しますっ!」
飛利の声が響き、バッと扉が開け放たれた。
「……っ!」
二人はびょん、と立ち上った。
サッと朔弥が襟に手をかけ、皇子が帯に手など這わせて、いかにも着替えが済みましたという風を取り繕う。
「な、なんだ」
いささか高い声で皇子が返事を返すと、こちらにずかずかと歩み寄った飛利は二人の空気に気づくことなく真面目な顔で告げた。
「田辺本家より使いが参りました。至急、庭にお出ましください」
「田辺本家から?」
なんだろうと二人で顔を見合わせる。
「とにかく外へ」
飛利に促され、廊下から回廊を抜けて簀子縁に出ると、伊那持や人麿、千瀬の見守る中、庭に運ばれた輿の中から一人の童が降り立つところだった。
社の巫のような白装束を纏ったその童の顔を見た瞬間、朔弥の顎が落ちた。
「やつっ! えっ、と、お、乙椰!」
危うく「椰束!」と叫びそうなのを必死に言い換える。見れば輿の四隅から突き出た持ち手棒のそばには、それぞれ日向、伊鹿、乙虫、それに侍者の格好をした香耶が膝をつき、脇には伊菜女まで控えている。
な、なんで離れ屋形のみんなが勢揃い?
そのとき、朔弥はふと継麻呂が新しい落ち着き先に言及していたことを思い出した。
ま、まさか、『乙椰の新しい落ち着き先』って……。
あらぬ想像に身震いしていると、朔弥の姿に気づいた椰束はこちらに体を向け、そして朔弥の隣でやはり口を開けて立ち尽くしている皇子に向かって深々と揖礼した。
「お初にお目にかかります。田辺史継麻呂が次男、乙椰と申します。ご父君、田村大王さまの命により、本日より我が兄、椰束とともに葛城皇子さまにお仕えすることになりました。よろしくお導きくださいませ」
なんで大王の命令?
皇子と二人で棒立ちになっていると、椰束はにっこりと微笑みながら、懐から折り畳まれた白絹の手巾を取り出した。
「子細はこれにありますれば、兄上。どうぞ皇子さまに」
兄上と呼ばれて手巾を差し出され、内心ぐらぐらしながら階を駆け降りる。手に取った手巾を開くと、中から書き付けが出てきた。さすが先の額田部大王の時代、百済の隣国、高句麗から最先端の技術者を献上されただけあって、百済系職人で作る田辺の紙より格段に質の高い薄紙だ。
くっ、この手触り。負けた……。
対抗心を刺激されながら目を走らせると、確かに大王の名で文字が書かれている。いわく――。
『これを持参の者、葛城中大兄皇子の舎人とすべし』
「なっ、どういうこと?」
椰束に体を寄せ、声を圧し殺して問いかけると、彼は飄々と答えた。
「あそこのダメ皇子の目付け役を頼まれたので引き受けました。設定はずばり『神憑りの異母弟』です。似合うでしょ?」
椰束は親指を立てて白装束を指し示した。どうやら神秘を演出して、幼い外見と知識豊かな中身との落差を誤魔化す作戦らしい。しかし。
「似合うってあなた、賀茂氏の目は。伯父上はなんて」
「むろん承知の上です。大王さまと伯父上で密かにやり取りした結果です」
二人で申し合わせ⁉
「じゃ、田辺氏は葛城さまの後ろ盾につくことを正式に決めたってこと?」
「大方は、ってとこですかね。最終判断のために僕を寄こした形です」
「父上はっ? 反対してたはず!」
「どうせ三年経ったら独立させるからいいと言ってました。僕が一緒なら安心だし、何かあったらすぐに連れ帰るよう託されてます」
いや、今となっては独立する気なんてないんだけど!
朔弥が絶句すると、宮の面々が階を降りてきた。
「椰束の弟さん? よく似てるねぇ」
のんびりした人麿の言葉に伊那持が続く。
「そなたも橘媛の血筋かの?」
むろん伊那持が疑問に思わないはずはない。
どうすんのよっ、と冷や汗をたらしていると、椰束は動じることなくすらすらと言った。
「母が亡き橘媛の異母妹にございますれば。古き血筋ゆえ不思議に思うこともあろうかと思いますがよしなにお願いします」
「なるほどそうであったか。なに、心配はいらぬ。我ら葛城宮の者は、少々のことでは動じぬからの」
あっさり納得するのね……。
それでいいのかと悩みながら、朔弥はこちらに降りてきていた皇子に駆け寄った。
「よ、よくわからないのですが、書き付けは本物で」
皇子は引ったくるようにして書き付けに目を走らせると、貴重な紙をグシャッと握りしめた。
「……くそっ。父上の嫌がらせか」
すると椰束がくるっとこちらに笑顔を向けた。
「これよりはこの者らも皇子さまのお身の回りに侍ります。ぜひ、ご自分の手足と思ってお使いください」
この者らと言われて目を向ければ、日向と伊鹿がキラリと目を光らせつつ頭を下げる。
脅しだ。絶対。
皇子に目を戻すと、顔を引きつらせて彼らを凝視している。むろん大王が言った日向たちの経歴を思い返しているに違いない。
庭先では、
「賑やかになって嬉しいですねぇ」
「本当にね。人手が増えるのはありがたいです。早速部屋の手配をしましょう」
「あ、お手間ですから私は当面、兄と同じ部屋で」
「謙虚じゃのう。わからないことがあったらなんでも聞きに来なされ」
などと話が進んでいく。
それを見て拳を震わせる皇子に寄り添いながら、朔弥はとあることに思い至って気持ちを切り替えた。
ま、まあちょっと葛城さまには環境的にアレだろうし、椰束のことも気にかかるけど、田辺本家が正式に認めたら父上がなんと言おうと舎人は続けられるってことよ。
それを皇子にも伝えて貴人にあるまじき怒気を収めるよう諭したかったけど、眉間に寄った縱ジワの深さを見て思いとどまった。
だって皇子に言い聞かせるには、さっきみたいに二人きりのほうが素直になってくれるだろうから。
最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。楽しんでいただけたなら幸いです。
歴史の本番はこの先から始まるので、続けて書いていけたらなと思っています(その前に別作品が仕上がるかもしれませぬが…)。なんとも遅筆ですがまた読んでいただけるよう、地道に頑張ります。お目に留まりましたときはまたよろしくお付き合いくださいませm(-∸)m。




