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二人の約束


 そうしてしばらくの間、卓子に向かって写本に勤しむ大王の世話をして過ごした。するとそう時を置かずして、先ほど朔弥たちが入ってきたのとは反対側の、帷の張られた方角から、なにやらバタバタと足音が聞こえてきた。手縞がすかさず帷の外へと出ていく。

「君はしばらく棚の影にでも隠れていなさい」

 大王に促され、部屋の角にある書棚の脇に身を寄せて顔を覗かせると、覚えのある声が剣呑な調子で言葉を吐いているのが聞こえてきた。

「……けよっ。用事があるんだ」

 手縞の声が受け答える。

「そのように乱れたお姿では承知いたしかねます。出直されませい」

「それどころじゃない!」

「あっ、これ!」

 鋭い声が飛んだのと同時に帷がザッと跳ね上げられ、手縞を押し込むような形で葛城皇子が入ってきた。

 ……っ!

 久しぶりに目にした皇子はしかし、隠れた身の朔弥が思わず呻くような有り様だった。

 顔色が悪く、少し痩せて肌艶がない。後ろに束ねただけの髪はざんばらに乱れ、臙脂(えんじ)色の麻織りの上衣は皺が寄ってヨレている。

 慕わしさも心配も飛び越え、朔弥の心を占めたのはこの思いだった。

 いやーっ。今すぐ取っ捕まえて身なりを正したい!

「何事だね、葛城」

 わざとだろう。大王がのんびりとした口調で目の前の写本を繰りながら訊ねる。皇子は横手に控えた手縞を見、鋭く部屋の中を見回したあと、大王に向かって言った。

「大麻呂から聞いた! 朔弥を采女にするって本気ですか!」

 えええ――っっ!

 朔弥は心の中で絶叫した。

 どっ、どういうこと⁉

「耳が早いな。まだ田辺に打診したばかりだったのに」

 大王がそ知らぬ顔で返す。ここから見える横顔は僅かに笑いを含んでいて、朔弥はこれが大王の演技なのだと理解した。

 お仕置きってこれ? 伯父上まで巻き込んだのかしら。心臓に悪いわ。

「打診て……意味わかって言ってるんですか?」

 さしもの皇子でもわきまえるのか、喘いで掠れた声ながらもまともな言葉遣いでの問いかけに、大王は淀みなく答えた。

「もちろん。田辺史継麻呂が娘、朔弥は当主の姪。采女に召すのに不足はない。いずれは側室にもなれる氏族の出だ」

 そ、側室?

 演技とはいえ、エラいことを言う。

 真に受けた様子の皇子は声を荒らげた。

「ふざけないでください! あいつは今でも俺の舎人だ。勝手なこと言わないでもらいたい!」

「ふざけてるのはおまえのほうだろう」

 大王は、椅子の手前で仁王立ちしている皇子を見上げた。

「おまえは重傷を負った朔弥のもとに椰束を届けたあと、海石榴市に逃げたのだそうだな」

 その声音には、演技とは思えない冷気が漂っていた。

「しかもその後、朔弥が迎えに行ったにもかかわらず『消えろ』などど暴言を吐いて追い返したというではないか」

 皇子の顔に衝撃が走った。

「だ、誰からそれを……」

 大王はゆっくりと椅子を後ろに引いて立ち上がった。そうして向かい合うと、大王のほうがまだ幾らか背が高かった。

「離れ屋形の日向と伊鹿の兄弟は、元々は橘に仕えた賀茂氏の優秀な影の者だ。おまえのしたことは彼らの手で弟の椰束に筒抜けだぞ。大事な姉の献身を蔑ろにされて彼は非常に怒っている」

 あ、と朔弥は声を上げそうになった。

 椰束が日向を遣わしたのは文のためだけではなかったのだ。

(近いうちに必ず、あのヒネくれ皇子の真意を暴いてみせますとも)

 し、調べさせたのね……!

 動揺する朔弥をよそに、大王は大仰にため息をついた。

「おまえのことを心底大切だと思ったから海石榴市くんだりまで行ってくれたのだろうに。よりによって娼妓の手を取りながら追い返したとは」

「く、呉羽は娼妓じゃない。薬師だ!」

「知らない朔弥には同じことだろう!」

 鋭い叱責が飛ぶ。大きな声ではないにもかかわらず皇子は一瞬で青ざめた。

「おまえの女性関係が早くから乱れたのは私や宝のせいだ。だからこれまでのことをとやかく言うつもりはない。しかし自分から取りにいったはずの朔弥をわざと傷つける真似をしたのは許しがたい」

 これは演技ではない言葉だと朔弥は直感した。

「離れ屋形に戻った朔弥は泣き暮らしてるそうだ。馬鹿な子だね。おまえは一番ほしかったものを手に入れる機会を自分で潰したのだ」

「嘘だ!」

 皇子は俯きかけていた顔を上げた。

「あいつは泣き暮らしてなんかいない。前と同じに弓の稽古だってしてる。俺から離れたって、普通に暮らしてるんだ……」

 言いながら、徐々に肩が落ちていく。大王が今度は小さなため息をついた。

「だから迎えにまで行っておいて、いつも引き返してきただと? 呆れてものも言えないね。『的に当たらない矢を見てはため息をつく姿が悲しい』と椰束からの文には書いてあったぞ」

 唇を噛んで俯く姿が見え、図らずも朔弥は大鹿の謎を知った。

 あれは迎えに来ようとして、様子を窺っていたんだ……。

 元気じゃねーかとふて腐れて帰り、けれどもまた足を運ぶ。その様子がすぐに想像できて泣き笑いしそうになった。

 もう、どこまでも素直じゃない。

「おまえは一体、朔弥の何を見ていたのだ。恩返しの約束に、窮地に立たされるのを助けようとしただけならもうよい」

 大事な人の忘れ形見だというのに、と続けた大王は体を返して椅子の背もたれに手をかけた。

「田辺の方針に口を挟みたくはないが、いくら霊力で技量を補えるからといって女人が舎人などもともと無理がある。朔弥は私の采女に、椰束は別の土地に匿う。山背皇子にも古人皇子にも手は出させない。大麻呂も私が強い覚悟を示せば反対はしないだろう」

 話は終わりだとばかりに背もたれを引かれ、皇子は大王の腕を片手でつかんだ。

「だ、だめです。これ以上、父上が采女増やしたらあの女の目を引く。絶対何か仕掛けられる……!」

「宝のことなら心配ない。引っ越しで浮き足立っている今なら私の采女が一人増えたところでわからないだろうよ」

「そっ、いやそもそも朔弥は遠慮がないし乱暴だから采女になんて向いてませんっ」

 それはあんたが素行不良だからよ、とごちると大王が呆れた顔を皇子に向けた。

「おまえが相手では遠慮してなどいられなかったからだろう? この前のおまえの美々しい姿を実現したのが『皇子様の新しい舎人』だったことは采女たちの間でも噂になっている。適性は十分だ。むしろ優秀だろう」

 皇子は青い顔で食い下がった。

「でも、あいつは馬で野っ原を駆け回るのが好きだし、弓は一流だし、負けん気が強くて引かないし」

 た、確かにそうなんだけど。

 皇子の目に映る自分が想像できてなんだか複雑な気分だ。

「綺麗な衣装も好きなのだそうだよ。書物も好きで細かい気配りもできるという。書斎を任せる采女にうってつけだ」

 何かを夢想するように目を閉じた大王は顎に手をやって頷いた。

「馬は散策くらいしかさせてあげられないが、これからは女性としての楽しみを味わわせてやればよい。あの橘の娘だ。さぞかし美しくなるだろう」

「父上は、橘媛が好きだったんだろ!」

 ふいに皇子が爆発した。

「朔弥は橘媛じゃない! 混同しないでください!」

「大きな声を出すんじゃない。外の者たちが驚くだろう」

 迷惑そうに大王は心臓を押さえた。

「私のひ弱な臓物はおまえのものとは作りが違うのだよ。どうせ私は長くない。せいぜいあと二年くらいだ。老い先短いのだからそのくらいは朔弥を手にしてもいいではないか」

 えっ、と耳を疑った瞬間、皇子が大王の襟をつかんだ。

「だったら、俺から朔弥を取り上げようなんて考えてないで椰束に頼んでくれよ!」

 幾分押さえ気味に、しかし絞るように皇子は声を出した。

「そばに置くなら椰束を……っ」

 それは聞いているこちらが泣きたくなるような、心の底から吐き出された声だった。

 大王は襟をつかむ皇子の手を自分の手で覆った。

「それはできない」

「なんでですか! この前、あいつは朔弥の大怪我をあっという間に治してくれた。父上は橘媛に霊気をもらってたんだからきっと」

「葛城。それ以上言ったら私は日向に知らせる」

 大王は静かに、しかし断固とした口調で言った。

「彼は必ずおまえの命を取りに来るだろう。そうしたらすぐに私も旅立つ」

「なんで……っ」

 緊迫した空気が生まれ、二人はしばらく睨み合った。目の端に手縞が何かをこらえるように口を塞いだのが見え、朔弥は悟らざるを得なかった。

 大王さまは、もう長くはないんだ……。

 何か、それとわかる病がゆっくりと大王を冒しているのだ。身近な者には知られてしまうくらいに。

「骨が砕けた程度の怪我を治すのと、死病を治すのとでは負担の次元が違うのだ。橘がなぜ若くして死んだのかおまえには教えただろう。私がおまえに橘の子どもたちの事情を明かしたのは、おまえが純粋に彼らを慕って探していたからであって己のためではない。むろん今後も椰束を消耗させるつもりもない。二度と言ってはならない」

 ピシリと戒められ、皇子は襟から手を外してうなだれた。朔弥は奇しくもなぜ彼が椰束の力を頼まなかったかを理解した。

 ご本人が、戒めていたんだもの……。

 大王はふっと気配を優しげなものに変えた。

「そんなことより、意地を張ってないで正直になりなさい。怖じ気づいてる場合ではないだろう。先のことなど誰にもわからない。相手がいつまでも元気でいる保証はどこにもないのだぞ」

 そして皇子の顎に手を添えて持ち上げた。

「一度だけ聞こう。おまえが直ちに迎えに行く気がないのなら、朔弥は私の采女に迎える。どうなのだ?」

 皇子はキッとまなじりを上げて答えた。

「あいつは俺の舎人だ。父上にはやりません」

 大王は口の端で笑った。

「ほう。『舎人の椰束』としてだけか。ならばたまに『采女の朔弥』を召し出してもよいな?」

 えっ、それってありなの?

 目を丸くしていると、大王が手縞のほうを向いた。

「どうだ手縞。この三日間、書記官たちの間でも評判の働き者だが」

 手縞は畏まって重々しく頷いた。

「数奇な運命の娘でございますれば、我が大王様のお慰めになるでしょう。歓迎でございます」

「だ、だめだっ!」

 手縞の真面目な返答に焦ったか、皇子は血相を変えた。

「朔弥は俺の相手で忙しいから父上のところに行く暇はありません。すぐに迎えに行くので采女の話はなしですっ!」

 顎の手を外し、じりじりと後退し始めた皇子の腕を、大王の手がつかんで止めた。

「せっかちな子だ。朔弥が今どこにいるのか知っているのか?」

「書庫です。継麻呂に言っても無理だろうから、大麻呂に頭を下げて話を通します。それでいいでしょう?」

「そうだな。継麻呂は橘を手に入れただけでなく、私の息子まで言葉で叩きのめしたようだから無視してもよいか」

 椰束……あんた『皇子様の海石榴市逃避の原因は父、継麻呂からの非難によるものでした』とか文に書いたんじゃないだろね……?

 朔弥が疑っていると、大王は皇子を引っ張るようにして部屋の中央に下がった。

「まあ、合格としよう」

 そして途中で皇子の手を離すとこちらに向かってきた。

(え、えっ?)

 隠れて話を聞かせておいてまさか。これで顔なんか見せたらやばいよ?

 歩み寄られて身を縮めていると、彼はにゅっと手を伸ばして朔弥の腕をつかんだ。

「じゃあ、返すよ」

 そしてひょいと手前に引っ張られた。

 ひえぇっ!

 つんのめりそうなところを抱き込まれ、くるりと振り向かれる。

「朔弥の献身に免じて大麻呂には私が取りなしておいてあげよう。その代わり、今後は何かあったらすぐに『采女の朔弥』が召し出されることを肝に命じるように」

 そうしてまっすぐに立たせられたその先には、ポカッと口を開けたままこちらを見る皇子がいた。

 やっ、今、出されても――っ!

 立ち聞きしていた身を晒され、決まり悪く顔を伏せながら怒声を覚悟する。

 このやろう! 盗み聞きしてんじゃねぇよっ! 

 絶対言う。幻聴まで聞こえるわ。

 ところが聞こえてきたのは意味不明な呪文だった。

「おまっ……な、こっ……どっ」

 あれ?

 上目使いで首を傾げると、皇子は目元をうっすら赤くした。

「なっ、なんだよ……そのカッコ……」

 言いながら、脇にあった椅子の背もたれに手をつく。

 ちょっと。不摂生すぎて腹でも減ってんのかしら。

 にわかに心配を募らせると後ろの大王がこう言った。

「その言いぐさは聞き逃せない。やはり返すのはやめよう」

 皇子は弾かれたように顔を上げ、バッと距離を詰めると朔弥の腕をつかんで引っ張った。

「わっ」

 裳を踏みそうになり、今度は皇子の腕に抱え込まれる。

「い、いつもの姿と違うからびっくりしただけです。別に、変だとか思ったわけじゃない」

「素直でないね。朔弥の美しさに驚いたのだろう? たまにはこういう機会も作ってやりなさい」

 皇子はカッとして何か言いかけたが、結局ふいっと視線を逸らした。それを見て笑った大王の姿に朔弥は確信した。

 最初からこうするつもりだったんだ。

 立場上、見守るしかない皇子への、大王の深い情愛に触れた気がして、朔弥は皇子の腕の中で体を返し、深々と頭を下げた。



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