田村大王
やがて列柱の回廊が終わり、二人は廊下から神殿の中に入った。
室内はすでに大方の御物が運ばれ、下級と見られる役人が数人で後片付けをしていた。引っ越しは書庫以上に進んでいるようで、鎌足の足も止まる気配はなかった。
仕事はここではなさそうだと予測していると、案の定、彼は部屋を通り抜けて狭い廊下に入った。しばらく進むと、やがて開いた扉の前に立つ、白絹の上衣に縦縞の裳をつけた采女の姿が見えてきた。
「お待たせしました」
立ち止まった鎌足が拱手して頭を軽く下げるのに倣い、朔弥も頭を下げる。姿勢を戻して相手の顔を見た途端、あっ、と声を上げそうになった
「ご苦労様でした、鎌足殿」
生真面目な口調で声をかけてきたのは忘れもしない、以前、王宮の奥殿で、宝皇后をも撥ね除けた大王の采女頭、手縞だ。
この方のご用事だったんだ。
意外な展開に驚いていると、鎌足はこちらを振り返り、前を指し示した。
「この先は手縞殿が案内してくださる。ついていきなさい」
「えっ、あの」
鎌足さまは一緒じゃないんだ。
つい半月前のあの出来事が頭をよぎる。
「お早くなさい」
「はいっ」
ピシッとたしなめられ、煩悶が吹き飛ぶ。朔弥が背筋を正すと手縞は体を返し、扉の奥へ入っていった。
ええい、今更だ。皇后さまはいないって鎌足さまは言ったし、伯父上も承知してるのだし。用事が済めば返してくれる……はずっ!
湧き上がる不安を押さえ、朔弥はえいっ、とばかりに中へ足を踏み入れた。
狭い廊下をしばらく進むと、白い絹布の帷に突き当たった。手縞はそれを手で手繰り寄せ、少し腰を屈めてくぐり抜けた。朔弥も頭を下げ、あとに続く。と、そこには廊下よりは広い、しかし物置のような棚の並ぶ小部屋があった。
ああ、ここが仕事場か。
何から運び出せばいいのか、と棚に収まる木箱や折り畳まれた布に目を走らせていると、手縞が部屋の隅に歩み寄り、畳まれた布を手に取ってこちらを振り返った。
「長衣を脱ぎ、これに着替えるのです」
「はっ?」
「時間がない。急ぎなさい」
「は、はい」
作業着とか?
慌てて手縞の前に行くと、彼女は慣れた手つきで朔弥の帯を解き、長衣を剥いでいった。
「裳は下袴の上に巻けばよいな」
「はっ?」
見れば手縞の手が紅、桃、黄の三色で縞をなした美しい裳を広げている。
も、裳っっ?
驚くうちに裳を巻かれ、中着の上に白絹の短衣が着せられていく。さらに耳後ろで結った髻の紐を解かれ、胸の隠しから取り出した櫛を当てていく。抗う隙もないそれは見事な手際で、あっという間に横髪だけを纏めて結った、下ろし髪の采女が出来上がった。
さ、さすが本職。私の技なんか目じゃないわ。
「ふむ。化粧のないのが少々物足りぬが、その顔ならば初々しくてよいか」
これだけはつけよう、とやはり隠しから貝の入れ物を取り出し、中の紅を薬指でちょいちょいと唇に塗られ、そのひやりとした感触で朔弥はようやく我に返った。
感動してる場合じゃないじゃん!
「あ、あのっ、一体、これは……っ」
にわかに心臓がばくばく鳴り始める。しかし手縞は素っ気なく一言告げた。
「案ずるな。余興だ」
「よきょうっ?」
声が裏返る。彼女はにこりともせずに頷いた。
「この先でのことは内々の戯れ言。そう心得よ。なに、これもの勤めと割り切ればよい」
「つ、勤め……?」
なんの勤め? と慄きはあるものの、手縞の表情に悪意は感じられない。
ば、ばれたわけじゃないのね。だったら。
朔弥はハラを決め、「さあ、こちらに」と先を行く彼女に黙ってついていった。
物置の奥にある扉を抜けると、幾分明るい部屋に出た。
ここは……?
見回したそこは、一見、なんの変哲もない簡素な板張りの部屋に見えた。
強いて言えば、床板に何枚か敷かれた、美しい紋様の敷物が贅沢品といえるかどうか。
侍従官専用の控え室……?
部屋の周りには貴族の書斎などに有りがちな書棚と小卓があり、真ん中には黒檀の卓子と四脚の椅子がある。そしてその椅子のひとつに、文官とおぼしき男性の座る姿があった。
こちらに向けた背中を覆う衣は少々地味ではあるが、上品な薄茶色に紺の縁取りの袍で、髪は頭頂部に纏めていて冠り物はない。誰、と考えるより早く、目の前の手縞がその背中に向かって深々と揖礼した。
「お召しの者を連れて参りました」
「手縞か」
少し掠れた、しかし優しさの滲む声が答え、男性がゆったりと立ち上がって振り向いた。
「忙しいところをすまなかったな」
ふわりと笑いかける顔は思慮深く、声と同じに優しげな、けれどもどこか儚げな面立ちだった。
年の頃は四十代半ばほど、背は高いほうだが少し痩せ気味に見える。
そしてなにより気になったのは、朔弥はこの顔に見覚えがあるということだった。
小さい頃だ。いつだろう。田辺の屋敷で見たような……。
眉間に人差し指を当てて記憶を手繰っていると、手縞がくるりとこちらを向き、小声で咎めた。
「これ、頭が高い。田村大王様の御前ですよ。控えなさい」
ええ――っっ!
朔弥は慌てて胸の前で手を組み、頭を下げて畏まった。
大王さま! いかにもコツコツ仕事してそうな、真面目役人に見えるこの地味な方が!
かなり失礼な感想を心中で叫んでいると、「顔を上げなさい」と声がかかった。
「今さらだ。私は今、冠り物を取っている。無冠の一皇族にすぎない」
「お戯れを」
頭を上げた手縞はサッと背筋を伸ばした。
「この大和国に大王様はお一人のみでございます」
彼は自嘲するような笑みを浮かべた。
「蘇我大臣に無理やり祭り上げられた、力なき大王だがね」
「大王様」
手縞が咎めるような声を出す。どうやら手縞は大王に長く仕えているようだった。
こちらに歩み寄ってきた大王のために手縞が横にずれる。朔弥の前が空き、彼は目の前に立った。
「だが、大切な人の忘れ形見の手助けくらいはできる。ただの田村王にも」
言いながら朔弥を見下ろした目元が緩む。瞬間、とある記憶が脳裏を駆け巡った。
あの、夢に見た迷子――母の蜜菓子をもらった可愛らしい男の子。
拾った男の子を連れて母のもとに行くと、母の前には男の人が座っていた。前にも何度か見かけたことのあるその人は、名を呼びかけた母にこう返していた。
やめてくれ橘。お忍びなんだから。おまえの前では今も昔もただの田村王さ。
そしてこちらを振り向いた。
おや、姿が見えないと思ったら迷ったのかい? 迷惑をかけるなんていけない子だ。
朔弥の隣から男の子が言った。
ち、ちがいます父上。おさんぽしていただけです。
朔弥は怒った。
うそおっしゃい、泣いてたくせに。うそつきには、お母さまはお菓子をくださらないわよ。
男の子はまた泣きそうになった。見栄とお菓子への未練と朔弥の剣幕に。そして言うのだ。
ごめんなさい。まよってつれてきてもらいました。だからおこらないで。
朔弥は男の子が正直に言ったので気をよくして言葉を添えた。
小さい子は迷子になるものなの。弟の椰束なんかしょっちゅうよ。だから田村のおじさまも怒っちゃダメ。でないとうそつく子になっちゃうわ。
あまりに生意気な物言いだったのだろう。母が慌てて言った。
まあ。田村の兄様になんて口を。
すると彼は笑った。
そうか、そのとおりだ。私がいけなかった。怒らないよ。
男の子がパッと顔を上げた。
ほんと?
本当だ。その代わり約束しなさい。いつかこのお姉ちゃんに恩返しするんだよ――。
「田村のおじさま……」
朔弥が呆然と呟くと、大王は目を細めた。
「覚えていてくれたか。君と最後に会ったのは十年も前だから、わからないかと思ったよ」
いやわかる。この方はあまり変わらない。問題はもう一人のほうだ。
まさか。まさかあの、小さくて色白で、素直だった男の子が……!
追い討ちをかけるように大王が続けた。
「葛城なんか『一緒に暮らしてるのにこれっぽっちも思い出さねぇ!』って怒ってたし」
―――うそっ!
「あの可愛らしい男の子が……っ」
大王はこめかみを掻いた。
「ははは、葛城は育っちゃったからねぇ」
いや、アレは「育つ」って次元じゃないよ。もっとこう、激変とか爆変とか……。
朔弥が絶句していると、大王は朔弥の頬に手を添えた。
「君も成長したね、朔弥。橘を思い出すよ。その装束もよく似合っている。舎人の姿よりずっと」
頼んだ甲斐があったと嬉しそうに微笑まれ、朔弥はつい手縞をチラ見してしまった。すると大王が言った。
「心配は無用だ。手縞は信頼のおける側近だから」
朔弥は恐縮した。
「はい。あの、おじ……大王さまは、その、いつから私のことを」
「もちろん最初からすべて知ってる。ああ、でもすまない。説明しなくてはわからないか」
大王は頬から手を滑らせて左肩をそっと撫でた。
「すまなかった。さぞ痛かっただろう。おまけに葛城の態度ときたらまたひどいものだ。椰束からの文を読んだときはたまげたよ」
まったくあの子は素直じゃないと続けられ、こっちがたまげてしまった。
「お、弟が大王さまに文を!」
「あ、違う、乙椰か。ここでは君が椰束だった。そんな格好をさせてしまったからつい」
気をつけないと、と言いながら彼は肩から手を滑らせると、朔弥を黒檀の椅子へと導き、そのひとつに座らせた。自らも隣の椅子を引き寄せ、並んで腰かける。
「私と橘は幼馴染でね。といっても年が十も離れていたから、橘本人というよりは兄の小角となんだが。彼女は小角によくついてきたから、私も可愛がったのだよ」
彼は懐かしむように語り出した。
「賀茂氏は賀茂の神……つまり大物主の流れを汲む三輪神人族の家系で、いまだ大王家とは一線を画している。だから私のような日陰の者が出入りすることも許してくれていた」
「日陰の者? 大王さまが?」
「あの頃の私は、逆賊物部氏に荷担した皇子の息子として、明日をも知れぬ身だったのだよ」
「あ……!」
その話は今なお語り継がれている。
今から数十年前、今の蘇我毛人大臣の父、馬子大臣と、国一番の軍事家系貴族、物部守屋将軍が、それぞれに皇子を奉じて天下を賭けた戦をした。
そのとき、蘇我氏は若かりし厩戸皇子をはじめ蘇我の血を引く大勢の皇子たちを奉じたのに対し、物部氏が奉じたのは前大王と皇后の間に生まれた嫡子、押坂皇子ひとりだけ。そして戦いの最中に皇子は戦死してしまうのだ。病がちで母方の縁者に預けられていたという、息子を一人残して。
それが、大王さまだったんだ。
大王は押坂皇子の子、即ち宝皇后と同じく王(大王の孫)だったのだ。
「預け先の祖母の実家は危険を感じ、縁者に当たる賀茂氏の分家筋に私を預けた。静かな山里はのんびりとしていて、私は二十五を数えるまで、時々賀茂本宗家に出入りしながら慎ましやかに暮らしていたんだ。体の調子が悪くなると、小角と橘が本家からやってきてよく霊気を分けてくれたよ」
「霊気を……!」
つまり大王は幼馴染みとして秘密に関わり、すでにその恩恵を受けていたのだ。
「あのまま暮らしていたら、私は間違いなく橘を妻にした。けれど徐々に年を取らなくなった小角は本家から姿を消し、賀茂一族は橘を巫女として社に奉じてしまった。私は時々彼女に会わせてもらえたが、それも蘇我毛人大臣が次期大王に私を立てようとしたことで終わった。賀茂氏は蘇我氏には宗教のことで恨みがあるからね」
かつて大王家から渡来の仏典を託された蘇我氏は仏教に熱心で、寺院や仏塔を建てるため、古い神々の山から資材を伐採しているのは有名な話である。
「大臣は、亡き上宮皇太子様があまりに人望厚く、しかも息子の山背皇子ともども斑鳩に籠って蘇我と袂を分かつ真似をしたことが許せなかった。だからあえて蘇我の血を引かず、後ろ楯もない私を捕まえた。私は蘇我に囚われ、大臣の妹とめあわせられた。そうして額田部大王がお亡くなりのあと、大臣は山背皇子を退けて私を大王位に即けたのだよ」
殺伐とした気配が背後から漂い、朔弥は胸が詰まった。
自由を失い、それまで付き合ってきた人たちからも交流を閉ざされ、どんなに辛かっただろうか。
でも、と大王は続けた。
「宝媛が来たとき、少しだけ愉快だったんだ。なにしろ皇后位に就けるのは皇族の女人だけなのに、蘇我の血を持つ妙齢の皇女たちはみんな斑鳩にいる。他の皇女たちは蘇我氏がとっくに排除してしまった。だから蘇我の血を持たない宝女王しかいなかったんだ、ざまあみろとの気分で彼女を迎えたよ」
大王は板張りの天井に目をやった。
「彼女の悲しい心中を察しもせずにね。宝媛にも葛城にも申し訳なく思っている」
その言葉には、深い後悔とともにある種の諦観が滲んでいて、もはや取り戻せない時間の長さを朔弥に知らしめた。
「だからせめて、自分が可能な範囲のことは手を尽くそうと考えた。橘が田辺家の次男と駆け落ちしたと聞いたときは驚いたが、すぐに連絡を取って賀茂氏の手から匿えるように手を回したよ。もっとも継麻呂には内緒だけど」
「父は知らないのですか?」
「知らないだろうね、きっと。橘の存在が私を通じて蘇我氏の目に留まらないよう、極力身元は伏せたし。すべて知ってるのは橘の従者で顔見知りだった乙虫夫婦と日向兄弟だけだね。もっとも、私がこんな立場になってしまってからは、お互いに無用な連絡は取らないようにしてきたが」
そうか。母上と幼馴染みなら彼らも知っていて当然だ。
「大麻呂は多分、ある程度は察してるだろうな。そうそう、あとは椰束だ」
「椰束はどうして……」
「そら恐ろしい子だよ。私が橘を尋ねたのはあの時が最後で、彼女のそばにいたあの子はまだ三つか四つだったというのに覚えていたらしいんだ。葛城の行動を調べるうちに拾い物をして、あの部屋での出来事を思い出したのだそうだよ」
「あ……っ」
あの手巾だ。あれが母上の手による物だと椰束も気づいたのだ。
「そこから私の身元に気づいて、日向に聞き出したようでね。文の最後にこう書いてきたんだよ。『あなたのご子息が約束を守らない。姉を泣かせているので今度は厳しく叱ってほしい』とね」
え――っっ!
そんな細かいやり取りまで覚えていたのか。
こ、これだから頭のいいやつは……!
バツ悪く顔を伏せると、そっと顎を持ち上げられた。
「本当はこんな風に手を出すつもりではなかった。しかし山背皇子や古人皇子が舎人の打診をしたと聞いたとき、君たちを守ると言って動き出した葛城を止めなかった責が私にはある」
「………」
「葛城は覚悟して行動したはずだろうに。宝媛のことは申し訳ないが、だからといって自ら手を伸ばしたはずの君を、怖じ気けづいて手放している場合ではないことを教えてやらないと」
「大王さま?」
「もうすぐ嵐がやってくる。まあ見てなさい。要望通りお仕置きして、ついでに葛城の本音を引き出してあげよう」




