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手巾の謎


 その後、椰束は日向と伊鹿に事の顛末を伝え、獣道を調べるよう託した。彼らはすぐに馬の蹄跡を見つけ、翌日から早朝、張り込みに立った。

 二日目に伊鹿がそれらしき黒駒の影を見つけた。しかし向こうも気づいたようでこちらに来ることなく去ってしまい、以来、姿を捉えることはできなかった。

「これを落としていきました」

 渡されたのは以前、伊菜女の蜜菓子につけてあった手縫いの手巾で、それだけが、間違いなく皇子がそこにいたとの痕跡だった。

 椰束はそれを小さな手に取ってしげしげと調べると、ハッと目を見開いたあとで妙に冷めた顔になった。

「あー……、そーゆーことですか」

 そして大きくため息をついたあと、ボソッと不機嫌にこぼした。

「……ったく。名前呼びさせて、こんなものまで後生大事に持ち歩くぐらいなら姿を見せろってんですよ」

 その後、彼は日向と部屋に籠り、何やら話し込んだあと、倉から紙を出させて文を書きだした。

 いくら田辺が百済系の史部で、自前の紙()き職人を抱えているとはいえ、紙はまだまだ貴重品である。勝手に在庫を減らすのはまずいんじゃないかとハラハラしたが、椰束はお構いなしで分厚い文を何通か書き上げ、日向と伊鹿を方々に遣わしたようだった。

 そうして人の口からも大鹿の噂が途絶えた頃。

「王宮の引っ越しの手伝い?」

「そうなんだ」

 父の継麻呂が仕事の依頼を持ってきた。

 居間に入るなり手荷物を脇に放った継麻呂は、そそくさと朔弥の向かいの席に着いて説明した。

「王宮が、葛城郡に新しくできた百済大宮(くだらのおおみや)へ移っている最中なのは知ってるね? 大宮は今までの倍以上広いからみんなてんてこまいで。『椰束』にも手伝わせるようにと兄上が」

 恐縮した素振りがなんとも父親らしからぬ低姿勢だが、これが手伝いを頼むためでないことを朔弥は知っている。

 ──舎人を辞した日、田辺本家へ挨拶に立ち寄った朔弥は、大麻呂の隣で満足顔の継麻呂にさりげなく質問した。

「落馬事故のとき、皇子さまの部屋から私をここへ移動させるのって大変だったそうですね。どうやってあの皇子さまを説き伏せたんです?」

 しおらしく小首を傾げた仕草にまんまと油断したか、彼はぺらりと答えた。

「そりゃあ私も父親だからね。お手打ち覚悟できっぱりと言ってやったよ。『皇后様のなさりように反発していながら、ご自分は舎人に八つ当たりですか。さすが血は争えませんね』ってさ!」

 瞬間、朔弥の背後から怒気が噴き上がったのは言うまでもない。

「なるほどそうでしたか。そんなことを言われたら、そりゃー私などお払い箱にしたくもなりますよね。よーくわかりました」

「なに言ってるんだい。君はちゃんと舎人としての働きを認められた上で退所するんだよ? お払い箱だなんてあちら様が言える立場じゃ……な、なんで怒ってるんだ?」

「別に? 怒ってなどいませんよ? よく知りもしないくせによけーなことしてくれたよな。せっかく仕事が楽しくなってきて宮の皆さんにも評価してもらえて、これからも頑張るぞ、って張り切ってたのに全部パァだぜちくしょう! なんてこれーっぽっちも思っていませんて!」

 哀れな継麻呂は一瞬にして固まった。

「だ、だってあんな痛そうな大怪我、二度とあっちゃ困ると思ったから」

「痛かったですよ。そりゃぁもう。父さまが言った言葉のせいで厄介払いされた私の自尊心がね!」

 よかれと思ってのことだとはわかっているが、最悪のタイミングで最も言ってはならないことを言ったという事実が、朔弥の態度を真冬の金剛山の如く冷たいものにさせるのだ。

 しかしつまるところ、それは朔弥の心が皇子に傾いたがゆえの怒りなので、そのことを知らない継麻呂には推し測りようもない。かくして今日も機嫌の悪い娘に対し、彼は勘違いな方向への気遣いをこぼした。

「ほ、本当は、あんな恐ろしい女性のいるところに君を連れていきたくはないんだけど、いずれは書記官の仕事に慣れていかないと困るから、その……」

 本物の『椰束』のために書記官の席を確保したいとの思惑があることはわかっている。もちろんそれに否やはない。継麻呂の顔を見るのは未だにムカムカするが、珍しくまともに慰めてくれた弟のために朔弥は切り替えた。

「わかりました。さっそく仕度します」

「頼むよ。そうそう、今回はみんなで移動するから」

「みんな?」

「ここは葛城皇子にばれてるからね。兄上からも新しい住まいの目処が立ちそうだと言われたから、まずは田辺の屋敷に移動しておく。それから住まいを変えることになると思うからそのつもりでね」

「あ、はい。承知しました」

 目まぐるしい展開に飲まれて返事をすると、継麻呂はホッとしたように笑いかけ、「そうだ」と脇に放り出してあった手荷物の布包みに手を伸ばした。

「これ、この前、楽楼館に立ち寄ったときに渡されたんだよ」

「ほう。楽楼館に」

 朔弥が目を眇めると継麻呂は慌てて弁解した。

「お、お客さんを旅籠に案内したんだ。私は食堂でお相伴しただけだからっ」

 なおもジト目で見ていると、彼はそそくさと布の包みを開け、中身を出して卓子の上に置いた。

「これ、君の持ち物でしょ? 呉羽の部屋に残ってたんだって」

 それは皇子を迎えに行ったあの日、手に持っていた着替え一式を包んだ布と一枚の手巾だった。

「ああ、これは私のではなくて、葛城宮の千瀬さんから渡されたものです」

 こっちに来ちゃったのか、と自分のほうへと引き寄せると、継麻呂が訝しげな顔をした。

「えっ? でも手巾は我が家のでしょ? 縫い目の模様を見たことがあるし」

 伊菜女に作ってもらったんじゃないのかい? と言われ、折り畳まれた青い麻布の上に乗る桜色の手巾を手に取った。

「あ、確かに」

 伊菜女の縫い取りは独特で、縁かがりに必ず色糸でバツ印を縫っていく。昔、母も習ったそうで、朔弥の手元には今も母の縫った手巾が三枚ほど残っている。これはまだ比較的新しく、しかも使った形跡がない。つまりあの日の一式の中に入っていたのだ。

 あれ? でもなんで……?

 考えていると継麻呂がよかったと笑った。

「呉羽が感心してたよ。皇子様は身仕度の世話をされるのが大嫌いなのに凄いって。なんでも皇后様が昔、皇子を着せ替え人形みたいにして装わせた反動らしいね」

「ああ……」

 やはりそうだったのか、とまた切なくなっていると、継麻呂がちょっと考え深げな顔になった。

「しかし葛城皇子ってよくわからんな。楽楼館では呉羽しか呼ばなかったんだって?」

「……別に、お一人と決めていてもおかしくないのでは?」

 胸の痛みを隠しつつ答えると、継麻呂が首を傾げた。

「だって呉羽は薬師だよ?」

「はっ?」

「娼妓のいる旅籠に泊まって、呼ぶのは朝に薬師しだけ。どっか悪いのかと思って主人に聞いたけどいつものことなんだそうで」

「薬師……?」

 若いのに変な御仁だね、と継麻呂は卓子に肘をついた。

「呉羽はご主人が親戚から引き取った人でね。高い身分の方の落とし種って噂があるんだ。皇子はよく二日酔いの薬湯を出してもらうらしいよ」

「……そうなんですか」

 朔弥はホッとすると同時に納得した。どおりで娼妓というにはどこか清楚な雰囲気だったはずだ。飛利の態度が丁重だったのも頷ける。

「じゃ、私は伊菜女たちに引っ越しの準備を頼んでくるね」

 朔弥と普通に会話ができたのが嬉しかったか、継麻呂は機嫌よく立ち上がった。それを見送った朔弥は手の中の手巾に目線を戻し――。

「あっ……!」

 先ほど引っかかった原因に思い至った。

 なんで二枚あるの?

 慌てて自分の部屋に駆け込み、この前見つかった手巾を手に取る。

「色が薄い……」

 伊鹿が拾ったものは、こうして比べると布が古い。しかも縫い目が若干違う。どちらかというとこの縫い目は。

「―――」

 朔弥の脳裏に様々な推測が浮かんでは消えていった。



 そして今、朔弥は再び『椰束』となり、継麻呂を手伝って王宮の書庫で汗を流している。

 作業は順調に進み、書物の半分は運び出された。しかし奥にはまだまだ棚があり、数人の書記官たちが、巻物の埃や汚れを丁寧に払いながら中央の卓子に並べていた。

「その棚が終わったら、こちらの経典を下ろして」

 継麻呂に指示された棚にもまだたくさんの木簡や巻物、写本などが納められている。噂によれば、ここより蘇我大臣の住む豊浦(とゆら)の館の書庫のほうがさらに貴重な書籍で埋もれているというのだが、朔弥の目には十分、立派な蔵書で満ちているように見えた。

 この作業が一段落したら、皇子に会いに行く。

 そんな決意を胸に抱いて王宮に通い出してから、すでに三日が経っている。

 書庫整理を甘く見たわけではないのだが、書物の扱いは慎重で細かく、作業は遅々としてはかどらない。しかし仕事そのものは充実していて楽しく、自分にはこういった仕事が向いていると改めて思った。

 もし会って確かめて、話をしても何も変わらなかったら。

 そのときは父上に八つ当たりするのはやめにして、書記官の仕事を手伝おう。

 そう心に決めて次の書物に手を伸ばしたとき、自分を呼ぶ声がした。

「椰束。ああ、そこか」

 振り向くと、書庫の入り口に大麻呂が立っていた。

「継麻呂。しばらく椰束を預かるがよいか?」

 手前の卓子の写本を纏めていた継麻呂はすぐに手を止めた。

「何か別のご用命ですか?」

「ああ。椰束にしか頼めない」

 その言葉を聞いた朔弥は作業を中断した。おそらく他の人々は熟練者なので、自分に雑用が回ってきたのだろう。

「わかりました。椰束、粗相のないよう気をつけて」

 わざわざ一言添えたのは、先月の内殿での事件の影響だろう。それに「はい」と返事を返し、朔弥は入り口から廊下に出た大麻呂の後を追った。

「伯父上、どちらへ……あっ」

 大麻呂が立ち止まった廊下の柱の影には、見知った顔が佇んでいた。

「鎌足さま……」

 彼は朔弥を見て目を細めると、大麻呂に頭を下げた。

「では、お預かりします」

「どうぞよしなに」

 大麻呂がそれに頷き、朔弥を向いた。

「おまえを待っていらっしゃる方がおられる。鎌足殿についていきなさい」

「あ、はい」

 雑用って神殿のことだったのか。

 伯父に頭を下げ、鎌足に向き直ると、彼は少し頬笑んでから踵を返した。

 しばらく廊下を進み、神殿に向かう右側の回廊に入ったところで、鎌足が幾分砕けた口調で言った。

「驚いた?」

「まあ、はい」

 朔弥は正直に答えた。鎌足は少し歩みを緩め、朔弥と並んだ。

「昨日、皇后様が無事、新しい大宮へお移りになった。蘇我大臣様や大郎君からの贈り物に囲まれて満足のご様子だ。しばらく他のことには目が向かないと思うから安心しなさい」

 見上げた横顔が、皇子の身辺もしばらく平穏だろうと伝えている。飛利からの相談を受けた彼は、当然今回の経緯を聞いているわけで、朔弥は気遣いに感謝して頭を下げた。

「あれから皇子様とお会いした?」

「……いえ」

 首を横に振ると鎌足はこう続けた。

「あの険しい山林に踏み込みながら屋形を訪ねなかったのか。案外あの方も往生際が悪い」

 思わず足が止まりそうになる。

「……鎌足さまは」

 皇子が當麻に来ていたことをご存じだったんですか?

 質問を辛うじて呑み込むと、それが聞こえたように答えが返ってきた。

「裏山の獣道を使うよう皇子様に提案したのは私だよ」

「えっっ!」

「二年前、田辺本家で君の母君のご葬儀があったでしょう。皇子様は伊那持様と弔問に訪れ、その後、君たちの住む屋形のたどり着くために私に協力を求めた」

 葛城さまが母上の弔問に?

 あまりに意外な事実に絶句する。しかし鎌足はいつもと変わらぬ様子で淡々と続けた。

「あの方の乳母だった伊那持様の奥方と私の母、そして大麻呂殿や継麻呂殿の母君、つまり君の祖母君は異母姉妹なんだよ」

「姉妹!」

「だから信用できると踏んだのかな。絶対内緒にしてくれと念押ししたあとで『どうしてもたどり着けない。山道を抜けるために知恵を貸してほしい』と當麻の屋形までの略図を渡された」

「略図?」

 では、皇子は最初からあの場所を知っていたというのか。

「問題は正面に立ちはだかる騙し道で、これは私にも難しかった。それで裏山のほうを調べてね」

 茫然とする朔弥をよそに鎌足は続けた。

「もう君も知っているように、あの方は皇后様との確執で荒れていた。だから最初は少しでも励みになればと思って引き受けたんだ。とはいえ、聞けば一家は病の母君のために都から離れて静かに暮らしていたという。残された家族をみだりに騒がせたくはなかったから、皇子様には協力するにあたって、なぜそこに行きたいのか理由を聞いた」

「な、何だったんですか?」

 勢い込んで聞いてしまい、朔弥は赤面した。鎌足はからかう様子もなく続けた。

「確かめたい、と言った」

「確かめる?」

「約束したから確かめるだけだと。そこで押しかけたりしないことを条件に、裏山を通る獣道のことを教えた。私が知る限りでは、彼は条件を守り、馬で裏山に分け入って庭にいる君たちを見ていただけだと思う」

「………」

 誰と、どんな約束をしたのだろう。何を確かめたかったんだろうか。

「それで、葛城さまはなんと」

「当たっていた、と」

「当たって」

「それが君を半ば強引に舎人にしたことに繋がっているのだと思う」

「それは……」

 どういう意味ですかと聞こうとすると、鎌足は立ち止まってこちらを向いた。

「約束というからには、もっと前にしたんだろうね」

 涼やかな漆黒の目がこちらをじっと見る。それを見返した途端、朔弥の脳裏にあの古い手巾となつかしい顔が閃いた。

 母上だ。

 あの手巾はやはり母上の縫った物で、葛城さまは母上との繋がりがあったんだ。そこで何らかの約束をして、當麻の屋形の位置も知った。だから彼は『椰束』を舎人にしようとしたのではないだろうか。

 一体、いつ? 

 朔弥が立ち尽くしていると、鎌足はフッと目元を緩めた。

「私はね。中臣家を追い出されそうになって路頭に迷うところだったのを、皇子様に拾ってもらったんだよ」

「えっ?」

「若気の至りでね。本業の神祇官になるのが嫌で渡来の書物を読んでばかりいたら、一族の長老の怒りを買ってしまって」

 微笑みの中に苦いものが混じる。

「あの方に拾われて、伊那持様の取りなしで辛うじて家に認めてもらえた。だから皇子様には感謝している。彼のためになることは手を尽くすし、守りたいものも守るつもりだよ」

「………」

 鎌足さまはどこまで知っているのだろう。

 探るように横顔を見つめたが、彼はそれ以上、言葉を重ねることなく再び視線を戻し、回廊の先へと歩を進めていった。




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