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裏山を駆ける大鹿


 カーン。

 初夏の緑の香が漂う中庭にいささか硬い音が響く。

 今日もまた、当たらない。

 遥か奥の壁に立てかけた的には、正確に中心を貫いた矢は一本もない。刺さっているのはみな外縁の固い部分ばかりだ。

 朔弥は首を横に振って息を吐き出すと、背筋を伸ばして横の台に置かれた次の矢を手に取り……そのまま戻した。

 朔弥が當麻(たいま)の離れ屋形に戻ってから半月が経った。

 季節はすでに春を終え、夏に衣替えしようとしている。連日の晴天で稲は順調に背を伸ばし、屋形の奥に見える山は緑でむせ返るほどだ。

 平和ね……。

 當麻の木々に囲まれた屋形は静かで、鳥のさえずりだけがやたら賑やかだ。

「――ね、……いんですよ」

 人の声などヘタしたら数えるほどしか聞かない。目まぐるしくも時の経つのが早かったあの日々が、一炊の夢のようだ。

「……てよっ、姉上ってば!」

「ひゃっ!」

 突然耳元で呼びかけられ、朔弥は弓を取り落とした。横を向くと、数少ない人語使用者である椰束が矢を乗せた台に膝で乗り上がり、目の前で口をへの字に曲げていた。

「もー。いい加減、弓の稽古しながら寝るのははやめてください。端からは起きてるとしか思えないから話しかけちゃうじゃないですか」

「……寝てないわよ。失礼ね」

「そうですか? じゃあ僕、今なにを話してました?」

「………」

 あっさりやり込められ、朔弥は弓を拾って縁側のほうへと歩き出した。

「そんなに未練があるなら押しかけちゃえばいいのに」

 後ろからついてきた椰束が呟き、朔弥は無言で振り向いてぺしっと頭をはたいた。

「てっ! 叩かなくてもいいでしょう」

「おだまり」

 言い捨ててから向きを変え、縁側に座る。

「だって姉上は今でも葛城皇子さまの舎人でしょ? 田辺の伯父上のところには、葛城宮から何度も使いの者が来てるっていうじゃないですか。帰って来てくれとの嘆願だったと聞きましたけど」

「それは仲間内だけのことよ。私は葛城さまからお役御免を言い渡されたの」

「えー、それ、お仲間さん方は誰も本気に取ってませんよ?」

「………」

 田辺史継麻呂の長男、椰束の身柄が葛城皇子の舎人のままなのは本当だった。

 皇子は海石榴市で言った言葉通り、田辺本家に出向いて伯父に正式に話をしたという。いわく、

「怪我の詫びとして、表向きは舎人のまま椰束を返す。離れ屋形のことは誰にも漏らさない」

 というものだ。これでどこに出さなくとも『椰束』の身分は守られ、當麻で過ごすのもよし、父を手伝うもよしの自由が手に入った。三年後に目指していた形を早々に与えられ、父は大喜びだ。伯父も判断を下したようで、

「すべてをつかんだわけではないが、彼の人となりはほぼ掌握できた。あのような災難を日々受ける立場で、こちらに不利益が生じないよう采配するなどなかなかできることではない」

 葛城皇子に信を置き、すべてを明かして正式に後ろ楯に加わるかどうかの検討を始めるという。

 結局、葛城さまが何を知って『椰束』にこだわり、どうやって騙し道を破り、なぜそれを秘めたままでいるのかはわからずじまいだけど。

 伯父から言わせれば、田辺を脅すどころか自分の宮が襲撃されても巻き込もうとしなかった姿勢で十分、評価に値するのだそうだ。

「以前よりもさらに堂々たる話し振りだったぞ。やはり私の目に狂いはなかった」

 とは葛城宮を下がった日の帰りに、挨拶のために立ち寄ったときの伯父の言葉だ。

 隣に座った椰束は首を傾げた。

「部屋もそのままで、荷物だってすべてそのままにしてくれって飛利さまに言われてそうしてきたんでしょう?」

「それは、なるべく早く出るために都合がよかったのと、名ばかりの舎人が周りにバレないようにって配慮からよ」

 飛利には最後まで引き留められた。

「あんなの本心じゃない。一時の感情で動くのはどちらのためにもならないよ」

 彼は憂いを滲ませた表情で何度も朔弥に翻意を促した。

「ありがとうございます。でも私がいたのでは葛城さまが帰ってこられませんから」

 実際、朔弥が発つまでの三日間、葛城宮に皇子の姿はなく、業を煮やした飛利は鎌足に相談し、鎌足が半ば強引に自分の邸宅に連れ帰ったという。

 顔も見たくないほど、嫌われたのかな。

 それは違うと心のどこかが叫ぶのだが、朔弥が出ていくまでの間、田辺本邸に出向きながら宮へはとうとう帰ってこなかった現実が、じわじわと暗い想像へと朔弥を向かわせる。

「―――」

 それを思うと今でも打ちのめされそうだ。

 かくして朔弥は半月もの間、矢の一本も当たらない生活を続けている。

「で? さっきはなんて言ってたの?」

 思いを振り切るように椰束を見ると、彼はハッとしてこちらを仰ぎ見た。

「ですから、裏山にたいそうな大鹿が出るって話なんですよ」

「へっ、大鹿?」

「はい。おもに早朝から辰の刻、見上げるほどの大鹿が一頭、裏山の獣道を疾駆する姿を見たと()の民たちが言うんです」

「……疾駆する大鹿? この時期に一頭で?」

 しかも明るい辰の刻に。ヘンでしょそれ。

「ありえない。今、鹿は群れてるはずよ」

「部の民って普段、人が乗れるような四本足の動物、近くで見られないからよく知らないでしょ。一瞬で通り過ぎる四本足ならみんな鹿か猪に見えると思うんですよね。大きくて背が高ければ鹿、低ければ猪」

「………」

 田を耕す部の民は、貴人に姿を見せてはいけないし、見てもいけない。道で出会えば通り過ぎるまで道端から外れ、蹲らなければならない。つまり人を乗せた四本足の動物をよく見たことがない……。

「早朝に山菜取りに行って、獣道から何かが走り来る。大きいっ、だから鹿だ! と、こう思ったんじゃないかな。まかり間違ってもこんなところに人を乗せた馬なんか来ないと」

「……何が言いたいの?」

「僕ねぇ。疑問があるんです」

 椰束は眉根を寄せて腕を組み、地面から浮く足をぶらぶらさせた。

「葛城皇子さまに姉上のところへ運ばれたとき、僕、夕餉をいただいていたって言いましたよね」

「ああ……そうだったわね」

 皇子が、朔弥のために椰束を連れてきた夜だ。

「正確にはあれ、食べ終わるところだったんです。だから僕が皇子さまの馬に乗ったときは、少なくとも酉の刻(午後六時)は過ぎてました。けれども着いたのが戌の刻(午後八時)より前なんです」

「えっ?」

「つまり、ここから田辺本家まで一刻(二時間)かかってないんですよ。暗いし飛ばすしでよくわからなかったけど、騙し道を通ったんじゃ、横大路でどんなに早駆けしても難しいと思いませんか?」

「…………まさか獣道」

「途中までは山道で、しかも月明かりだけ。なのにまったく危なげがなかった。相当通い慣れてないと無理だと思うんです」

 そのとき、ふいに飛利の言葉が脳裏に閃いた。

 海石榴市に行く道で「内緒だよ」と教えてくれた、里帰りのときに皇子が取ったという行動。

(あの日、あの方は野宿したんだ。多分、當麻近くの山の中でね。私に待ち合わせで指示したのが君と会ったあの場所で、先に着いていた皇子は、必死に葉っぱやら小枝やらを払ってたんだよ)

 なんで野宿、と思ったのがひとつの線でつながる。

 来ていたのだここに。裏山の獣道を使って。

 この屋形に来るには横大路を途中で右横に曲がり、山麓のぎりぎりまで奥深く分け入り、そこに立ちはだかる騙し道を突破しなければならない。しかし皇子は横大路をもっと手前から逸れ、そこからまっすぐ屋形の裏側の山を目指すことで騙し道を避け、近道していたのだ。それも一度や二度でなく前から。

 なんのために? 

 自分で直接調べるためだったのだろう。裏山の獣道なら菜園はすぐ下だ。中庭だって少しは見える。

 でもじゃ、あのときは?

 あれは母君の呼び出しを受けたあとだ。さぞ気が塞いだことだろうと今ならわかる。あのときなぜ、皇子はここに?

 そして今。

 縁を切るようにして追いやった舎人のところに来るのはなぜ?

(椰束には、行動の中に見える本音だけを読み取ってほしい)

 頭で考えるより早く、体が動いた。

「待って!」

 椰束が慌てて上衣の袖を引っ張った。

「放して!」

「もう辰の刻は過ぎてますよっ」

「まだいるかもしれないじゃない!」

 朔弥は振り払おうともがいた。

「ここに来るのなら会ってもいいでしょうっ?」

「姉上、落ち着いて」

「どうせあんたのことはバレてるのよ。ただの『椰束』としてなら会えるでしょうっ? 舎人じゃないならいいでしょう⁉」

 絞り出すような言葉は、もはや弟に言ってるのではなかった。

「会うつもりだったら、とっくに姿を現していると思いませんか⁉」

 腕にしがみついた椰束が叫び、朔弥は動きを止めた。

「うちの菜園は不審者がいたら目立つように山際まで耕してあるでしょう? 裏山の獣道は山際の林の中なんですよ? その気になればすぐにでも下りられたはずです」

 言外に、皇子には会う気がないのだと告げられ、足から力が抜けた。

 膝が地面につき、うなだれて座り込む。熱いものが目頭に溢れ、手で顔を覆った。

「なんでここまで来てるのに、顔も見せてくれないの……っ」

 口から漏れたのは、ずっと閉じ込めていた思い。

 あの日、両手で頬に触れたとき、覗き見た鳶色の瞳には怯えと焦燥があった。

 これ以上、何かあったらどうしよう。

 また傷つけてしまったらどうしよう。

 そんな思いが透けて見え、それ以上、自分の姿をあの瞳に映すことができなかった。だから我慢して身を引いたのだ。それなのに。

 そっちだけ見にくるのはずるい。私だってあなたを見たいのに。

「そんなに悲しいなら、いっそのことすべて打ち明けますか?」

 未だ童姿の乙椰こそが『椰束』であることを。

「………」

「田辺史継麻呂の娘、朔弥としてお側に上がれば、新たな関係が作れるかもしれませんよ」

「……できるわけ、ないじゃない」

「僕のことなら大丈夫。今さら不思議がひとつ増えたって、皇子さまなら驚きゃしませんよ」

「でも無理」

「どうして。葛城宮からはるばる三里。部の民に目撃されてでも、あの方は姉上の姿をひと目見たいんだ。絶対惚れてます。女だと知ったら大喜びしますよ」

「惚れてるとか、ないから」

「だからなぜ確信?」

「だって海石榴市で言われたんだもん。側に置くなら柔らかくて従順な女がいいって」

 自分が失言したせいだったとはいえ、薄っぺらいガキと言われて正直悲しかった。

「ほう。姉上を薄っぺらいガキと……」

 椰束がすっと目を細める。朔弥は慌てて付け足した。

「十四歳の男子(おのこ)だと思ってるんだから当たり前よね。本気で側に置きたいなんて認めたら侍童趣味ってことになっちゃうもの」

 頭ではそうとわかっているのだが、あのときの嫌悪を顕にした表情は、舎人の自分まで否定されたように感じて辛かった。

 なのにどうして今、人目を避け、獣道を使ってまで『舎人の椰束』をこっそり見に来たりするのか。

 そんなことをされたらつい錯覚してしまうではないか。皇子も会いたいと思ってくれているんじゃないか、と。

 思い出したらまた涙が出て、袖口でごしごしこすっていると、椰束の小さな手のひらが朔弥の背中を撫でた。

「そこも、実を言えば僕は別の見方をしてますけど……まあいいや。ひとつ考えがあります。しかし厄介な方ですね、皇子さまって」

 そして懐から手巾を取り出して朔弥の手に握らせた。

「まずは確認しましょう。日向たちに頼んで探らせます。彼らも獣道は盲点だったでしょうし」

 だから姉上は待っててください、と椰束は立ち上がった。

「近いうちに必ず、あの荒くれ皇子の真意を暴いてみせますとも」



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