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皇子の慟哭


 横大路と(かみ)つ道が交差する都随一の市場、それが海石榴市(つばいち)だ。

 東西南北から集まる物資は豊富で、近くを流れる大和川(やまとがわ)は遠く難波(なにわ)の海から物資を運んでくる。

 中央の広場を囲むようにたくさんの店が軒を連ね、その周りに小さな物売りの小屋がところ狭しと並び、広場の中央には露店も(ござ)を広げていて、今日も食材を求める人々で賑わっていた。

 その健全な風景を奥に進むと、旅籠や酒楼の集まる一角が現れる。朝日も昇りきった今は、出立の旅人を送り出す姿が目立っていた。その中で、比較的静かな佇まいを見せている一群の右寄りに旅籠(はたご)屋兼娼館、楽楼館(らくろうかん)はあった。

 垣根に囲まれた高床式の建物は回廊つきの立派なもので、暗くいかがわしい雰囲気を想像していた朔弥は拍子抜けした。

「おや、飛利様。お迎えご苦労様です」

 平石(ひらいし)を踏み越えて入り口の暖簾(のれん)をくぐると、板間の右端にある受付台にいた禿頭(とくとう)の大男がこちらを向いた。

「ご主人、お世話になってるね。いますか?」

「ああ、奥の部屋へどうぞ」

 主人と呼ばれた男はいかつい顔をほころばせて飛利に一礼し、次いで布の包みを胸に抱く朔弥に目を向けた。

「おや、これはまた美しい侍童をお連れじゃございませんか。飛利様のご趣味で?」

 高位貴族の間でお流行りの美少年趣味を仄めかされ、二人は赤くなって反論した。

「ち、違います!」

「恐ろしいことを言わないでください、ご主人。彼は私の舎人仲間で田辺家ご当主の甥にあたる人です」

「おお、田辺史大麻呂様の」

「今、うちの主人の一番のお気に入りなんです。そんな噂を立てられたら私はあの方に殺されますよ」

「へえぇっ。あの方のお気に入りですか! 甥ごさんが。ん? もしかして継麻呂様の息子さん?」

「ご存知で、……」

 言いかけてやめた。海石榴市では有名だと聞いた気がする。

「なるほど。お父上も色々な人にもてますしなぁ」

 がっしりした体つきの男は豪快に笑い、先に立って二人を奥の暖簾へと誘った。

 暖簾をくぐると、板張りの渡り廊下に出た。その先の建物が客を泊める部屋らしい。建物の中に入ると廊下がグッと狭くなり、ふわりと甘い匂いがまとわりついてきた。以前、海石榴市帰りの皇子から漂ったものと同じ匂いだ。

 幾つもの部屋の扉が廊下に面していて、戸が開いている部屋は大抵が空っぽだったが、中には女性がしどけなく奥の牀搨に腰かけていたりして、白い腕や足が透けた麻織りの紗を纏っただけの姿に思わず胸の鼓動が早まった。

 わ、私があの性別と同じ部類って、ちょっと無理がある気が……。

 納得してしまうのが悲しいが、お陰で舎人ができるのだから文句は言えない。しかし皇子がああいった女性を求めるのかと思うと、心のどこかがじりじりと疼いた。

 男は廊下をずんずん進み、やがて際奥と思われる突き当たりの部屋の前で止まった。

呉羽(くれは)、呉羽はいるか」

 男が扉を軽く叩くとまもなく足音がし、ガチャリと錠の開く音がして、中から小柄な女性が顔を出した。

「お呼びですか?」

「ああ。お迎えだ。ご指示に従ってくれ」

「かしこまりました」

 鈴の音を転がしたような声の女性は、朔弥が想像していた様子とは少し違った。

 白い肌に赤い唇、すっと描かれた眉などの化粧姿は予想通りだが、大きく凛とした目元、控えめに纏められた艶やかな黒髪、きちんと着込まれた絹の衣服や落ち着いた色の帯などは、先ほどの女性のような色香は窺われず、むしろ王宮の采女のような清楚さを感じた。

 この人が葛城さまと夜を過ごしたんだ。一晩? それとも今日までずっと?

 呉羽なる女性は、「では」と男に挨拶される飛利の姿を見つけると、大きな目を見開き、すぐに頭を下げた。

「これは飛利様。おはようございます。このような場所までお運びいただきまして……」

 恐縮して恥じらう様子がまた可憐で、朔弥はなぜか腕の中の包みが重くなった気がした。

 なんでだろ。こんな上品で優しそうな人が相手なら、舎人としてはホッとしなきゃならない場面なのに。

 その証拠に飛利は呉羽を見るとフッと目元を緩め、口元に笑みを浮かべた。

「あなたでしたか。よかった。皇子もまだそこまで堕ちてはいなかったようですね。そこにいますか?」

「はい。まだ眠っておられます」

 察するに、飛利ですら信頼を置く女性らしい。

 特定の相手はいないと言っていたが、あれは案外方便で、本当は皇后の手から皇子の大切な女性を隠すために、徹底して外では喋らない癖をつけているのかもしれない。

「こちらの方は……?」

 控えめに飛利に尋ねているのが聞こえ、朔弥は俯きかけていた顔を上げた。

 なに引っかかってんの。飛利どのが皇子の想い人を私に隠してたから?

 仕方ない、自分はまだ新人舎人なのだから、とやけに沈む心に言い聞かせ、朔弥は布の包みを持ち直した。

「彼は田辺史大麻呂様の甥で、皇子様の新しい舎人です。とても優秀で一番の働き者です」

「あ、ではもしかして継麻呂様の」

 呉羽が目を見張った。

 どんだけ有名なんだ、父上。

「今やこの子じゃないと仕度が整わないんですよ」

 父親の行状に若干の不安を覚えつつ飛利の紹介を聞いていると、なぜか呉羽はまじまじとこちらに目を向けた。

「お仕度が……? まあ、ではこの方が」

 そして朔弥が胸に抱えている麻布の包みを見た。

「でも、あの、皇子様は昨夜もずいぶん御酒を過ごされまして、お疲れもあるのかご機嫌が……」

 バツの悪そうな表情に、朔弥はカッと胸が熱くなった。

 な、なんか、そこまであからさまに夜何してたか教えてもらわなくてもいいんだけど!

 朔弥からメラッと何かが発したのを感じたか、飛利が早口になった。

「いいんです。もう丸三日待ちました。これ以上のご厄介はかけられません。こうして椰束も連れてきたことですから、そろそろ宮にお戻りいただきます」

 彼は朔弥に目配せすると、まだためらう素振りの呉羽を「失礼」と押し退け、部屋の中へと踏み込んでいった。

 半蔀(はじとみ)を開けた窓からの光がぼんやりと照らす室内の奥、そこそこの広さがある牀搨の上にその寝乱れた姿はあった。

「皇子、起きてください。朝です。今日こそ帰ってもらいますよ」

 おそらくこれまでも何度かやり取りしたのだろう。屈み込んだ飛利の呼びかけに皇子はピクリともしなかった。が、飛利は余裕の顔でちらっとこちらを見ると、横に伏せた皇子の耳に顔を近づけた。

「早く起きないと椰束から紅葉攻撃を食らいますよ。連れて来ましたからね」

 すると皇子はパッと目を見開き、次いでがばっと上掛けを剥いで上体を起こした。飛利が頭突きを食らわないようサッと頭をよける。

 も、紅葉攻撃って……。

 呆気に取られていると、肘をついた皇子がこちらを向いた。

「………っ」

 三日間ぶりに会う皇子は顔色が悪く、(すさ)んだ印象が増していた。朔弥は「体を休めるだけじゃもう限界なんだ」と言った飛利の言葉を目に見える形で理解した。

(ここにいても心は癒されないんだ)

 でも紅葉と聞いただけで起き上がるわけで。

 それは先ほどからちくちく痛んでいた朔弥の心に力を与えた。

 よし。質問とか色々なことは後回しだ。私がいることで少しでも元気になれるのならまずは。

 朔弥はいつもと変わらない口調を心がけた。

「おはようございます、葛城さま。さ、お仕度しましょう。もう日が高いですから手早くやりますよ」

 朔弥が布の包みを掲げると皇子は驚いたように朔弥を見た。

「な……っ」

 そして飛利に向かってこう叫んだ。

「ふざけんなっ! 誰がここに呼べって言ったよ! 俺はもし宮に戻ってきたらすぐに當麻に帰せって言ったはずだぞっ!」

 ―――っ?

 一瞬、何を言われたかわからない。

 固まったまま皇子を凝視していると、飛利がきっぱりと告げた。

「お断りします」

 次いで朔弥に手を差しのべた。

「さあ、馬鹿の戯言(ざれごと)は無視してさっさと仕事しよう。椰束、こっちに来て」

「飛利! どういうつもりだ!」

 皇子は荒々しい仕草で牀搨から下り立った。乱れ髪をまとわりつかせ、薄物の夜着を羽織って紐で留めただけの姿は、こんな場面だというのに朔弥の目を釘付けにした。

 ──まるで手負いの若い狼だ。傷ついてもなお猛々しく美しい。

「皇子。あなたがなぜ椰束を帰そうと考えたかはわかります。でもそれは間違ってます」

「なんだと?」

「一度手に入れてしまったらもう後戻りはできません。飛ぶことを覚えた鳥が羽を失ったら生きていけないように。あなたにとって椰束を失うのはそういうことですよ」

「勝手に作るな。俺は椰束なんかいなくたって別に平気だ!」

 鋭く言い放たれた言葉が朔弥の胸を刺した。

 めちゃくちゃ痛い。肩よりも。

「やせ我慢もいい加減にしないと後悔しますよ」

 飛利は立ち尽くしたままの朔弥の腕をつかんで引き寄せ、皇子の前に立たせた。

「ご心配なさらずとも椰束はぴんぴんしてます。あなたがしなければならないのは傷つけた舎人を災厄から遠ざけることではなく、素直に謝って労うことでしょう? あなたはまだ、体を張ってあなたを止めてくれた椰束に感謝の言葉ひとつかけてないんですよ」

 その厳しい口調に朔弥は焦りを覚えた。

 違う。無事じゃなかった。肩が大怪我だったことを彼は知っている。

「あの、それはいいんです。私が勝手にやったことですから。むしろ心配かけてしまったみたいですみません」

 朔弥は胸に刺さった痛みを無視して布包みを牀搨に置くと、手早く結び目をほどいて海老茶染めの中着を手に取った。

「今後は十分に気をつけますからご安心ください」

 背中に回り、夜着を脱ぐのを手伝おうと手を伸ばす。すると彼はサッと体を捻ってこちらを向いた。

「それを置いて帰れ」

 胸が痛い。でもきっと皇子も痛い。

「葛城さま、お陰さまで私はなんともありません。ゴネてないで着替えてください」

「うるさい! とにかく帰れよ」

 痛い。痛い。でも――。

「一緒でないと帰れません。私はあなたの舎人ですから」

「だからっ、舎人やめて帰れっつってんだよっ!」

 吐き捨てるように言われ、さすがに中着を持つ手が震える。

「皇子! 馬鹿なことを言うんじゃありません!」

 飛利がたしなめる。しかし皇子は顔を背けた。

「なんでだよ。もともと兄貴から横取りしたようなもんなんだ。こいつだって最初は嫌がってただろ」

 確かにそのとおりだった。じゃあ今は?

 ──嫌だ。こんな痛々しい姿のそばを離れるわけにはいかない。

 朔弥は必死に食い下がった。

「そうですよ。葛城さまが言ったんです。俺の舎人になればどっちも敵に回さずに済むって」

「……っ」

 皇子が痛いところを突かれた顔になる。

 そう、これは私だけの問題ではないのよと自らを奮い立たせ、朔弥は夜着を剥ぎにかかった。

「よせっ!」

 皇子が袖をつかんだ朔弥を振り払う。けれども怪我を気遣っているのか強くはなく、剥き出しの腕に触れるとビクッと体を震わせた。

 震えたいのはこっちよ!

「今さらやめろとか言われても困るんです。さっさと着てください」

「じゃあ、俺の舎人ってことにしといてやるから帰れ。それならいいだろ!」

 そんなに私を追い出したいか!

 カッときて力任せに肩から夜着を落とす。上半身が腰紐の位置まで露になったところで、中着を背中に被せながらヤケ気味に叫んだ。

「あなたは私たち兄弟の運命を握ってるでしょうっ!」

 途端、皇子の動きが止まった。

 おっ、これは効果絶大。

 朔弥はすかさず中着の袖を通した。

 ある日突然、干渉してきた素行不良の皇子。

 彼の狙いがなんなのか、それを突き止めない限りこの先の暮らしは成り立たないと思ってた。

 けれども彼は、ただ粗野で乱暴な人ではなかった。

 自分を語らず、辛さを見せず、秘密を握っていることを朔弥の父親にまで隠し通す。

 だからいい。突き止めなくて構わない──今、傷ついた皇子を見てそう思う。それよりもそばにいて、少しでも彼に力を注ぎたいのだ。

 とにかく、まずは意固地に帰そうとしているのを阻止だ!

「それは、私たちの命を握ってるのと同じです。ですから帰ることはできません」

 これなら迂闊に帰れとは言えまい、と口喧嘩に勝ったような気分で襟を整えていると、皇子がスッと体を引いた。

「……だよな。そんなもんだよ」

「はっ?」

 顔を上げると、皇子の青ざめた横顔が目に映った。

「所詮、おまえが俺の舎人でいるのは弟のためなんだ」

 ……しまった!

 調子に乗って言いすぎた。これではまるで脅されてるから舎人をやっているんだと宣言したようなものじゃないか。彼は今、傷ついているのに。

「弟のことがなかったら、俺のところになんてぜったい来なかったはずだよな!」

「それは……っ」

 確かに最初はそうだった。でも今は違う。それを伝えなければ!

「違うんです葛城さま。私は」

「悪かったな。無理やり来させた上に振り回してばっかで」

 皇子は横を向いたままククッと笑った。

 あ、まずい。と思ったときには皇子の顔から表情が消えていた。

「おまけにデカい隼人は襲ってくるわ、主人は暴走するわ、とどめが落馬ときた」

「やめてください」

「あんな頭のイカれた女のせいで、危うく父親まで犠牲にするところだったよな!」

 継麻呂を引き合いに出され、つい、あのときの恐怖を思い出して身震いしてしまった。

 皇子はそんな朔弥を横目で見て目線を反らした。

「ほんとろくでもでもねーところだよな。父親が激怒すんのも当たり前だぜ」

 口調にひと際暗い陰りが滲む。おそらくは朔弥を移動させたときにあの人が余計なことを言ったに違いない。

 だめ、今は怖じ気づいてる場合じゃない!

「いいえ、葛城さまは父を助けてくださいました! 無礼があったなら謝りますから」

「いいさ。おまえは十分真面目に働いた。チャラにしてやるから安心しろ」

「葛城さま!」

「弟のことは言わねーよ。あの女がやらかしたおまえら親子への迷惑の代償だ。だから早く消えろよ」

「―――っ」

 言葉の刃が朔弥の胸を突き破った。

「心配なら証文でも何でも書いてやる。だから、俺の前から消えろ……っ」

 苦しげな顔で絞り出すように言われ、声が出なくなる。熱いものが競り上がり、鼻の奥を通り過ぎて両の目からじわりと溢れた。

「やせ我慢も大概になさい!」

 飛利が必死の形相で割って入った。

「本当は手離したくないくせに。側に置きたいくらい大事なくせに!」

 朔弥は驚いて飛利を見た。側に置く――即ち自分のものにするということだ。

「はっ? ふざけんな」

 皇子はカッと目を見開いて飛利を睨んだ。

「なーんで俺がこんな薄っぺらいガキを側に置きたいんだよ。側にっていうなら」

 そして、それまでじっと静かに牀搨の脇に佇んでいた呉羽に歩み寄り、おもむろに腕をつかんで抱き寄せた。

「やっぱこう、柔らかくて従順な女が一番だよな」

「………っ!」

 その行動が朔弥にもたらした衝撃は、肩を打ったときの比ではなかった。

 体が強張り、目が開いたまま動かない。なのに熱く溢れるものだけは止まらないのだ。

 ああ、私、わかっちゃった。

「み、皇子様」

 呉羽が驚いたように腕の中で身を捩る。

「おやめください皇子様!」

 皇子はちっ、と舌打ちし、抵抗する華奢な手を絡め取った。

「用事がそれだけなら出ていってくれよ。これから取り込み中になるかもしれないぜ」

 さらにこれ見よがしに顎をつかんで仰のかせ、紅い唇に顔を伏せようとした。すると。

「失礼、呉羽。目を瞑って」

 飛利の声と同時にガッ、と濁音がした。

「――っ!」

 拳で頬を殴られた皇子が牀搨にドウッと倒れ込む。

「皇子様!」

 脇によろけた呉羽が悲鳴を上げる。朔弥は涙を吹き飛ばし、なおも皇子の上に乗り上げ、襟をつかんで引きずり上げる飛利の背に縋りついた。

「飛利どの!」

「目を冷ましなさい、皇子。呉羽に対しても失礼だ」

 飛利は、彼から出たとは思えないような冷たい声で言った。

「そんな下手くそな演技で私の目を誤魔化せるとでも?」

 みるみるうちに左の頬を腫らした皇子は、牀搨に肘をつき、中着の襟を引き上げられたまま目を逸らした。

「……ってーな、このやろう。皇族に手を上げたら不敬罪で死刑だぜ……」

「気に入らないならいつでもその手で斬ればいい。私の命などとっくにあなたにあげました」

 皇子の唇が一瞬、震え、飛利の手が襟を握りしめた。

「そうやって、いつまでもうじうじと自分の中に閉じ籠って、せっかく差し出された真心まで足蹴にするのを見せられるくらいなら、いっそ今すぐ殺してください。やってられません」

「……離せよ」

「何のためにあなたはご自分で調べてまで椰束を手に入れたんですか。たった一回、母君の手が及んだだけで怖じ気づくんですか」

「襟、離せよ……」

 どこか泣きそうな声だ。

「だったら最初から手に入れようなんて思うんじゃありません!」

 叩きつけるように言われ、皇子はとうとう叫び返した。

「だってこいつは怯まないんだ!」

「それの何が悪いんですか!」

「あの女がいる限り、俺の怒りはなくならない! 暴れでもしなけりゃ収まらない! 俺自身、とっくに歪んでんだよっ! なのにこいつは怯まない! 恐れないんだ!」

「だからこそ軽々しく手離してはいけません!」

「傷つけてもか? 痛い目に遭わせてもか?」

「ご自分の怒りを克服するんです。必ずできます!」

「何回繰り返せば直るんだ? それまでずっとこんな恐怖を味わえっていうのか!」

 悲鳴のようだと思った。

「それでも! これを逃したらいつまで経ってもあなたは」

 なおも畳みかける飛利の唇を、朔弥は手のひらで塞いだ。

「お願いです。もうやめてください……」

 飛利が動きを止め、こちらを見た。朔弥は飛利の顔を覗き、手のひらを離した。

「それ以上はもう……」

 追い詰めないでやってください。

「椰束……」

 言外の呟きが聞こえたか、飛利の肩から力が抜けた。朔弥は背中から横にずれて手を伸ばし、飛利の手から皇子の襟を外した。

「葛城さま……」

 呼びかけると、皇子はのろのろとこちらを向いた。朔弥は顔に乱れかかる髪を指先で払い、頬を両手で包んだ。

 叩いたり拭ったり、引っ張ったり。

 皇子の顔や体にはしょっちゅう触ってきたけれど、こんな風にそっと触れたことは一度もなかった。

「………」

 あなたの力になりたいんです。

 喜んでくれるなら、いくらでもお世話します。狩も行くし、市場も行くし、里帰りしたら戻るの時間は早くして、一緒にお昼を食べるから。

 だからそばにいさせてください。

 そう言おうとしたけれど――。

 朔弥はゆっくりと頬をなぞり、そして一言だけ伝えた。


 短い間でしたけど、お世話になりました――。




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