大王家の事情
「椰束! よかった、たいしたことなくて」
気持ちのいい早朝、見慣れた葛城宮の入り口で、笑顔の人麿や飛利、伊那持、千瀬などに出迎えられ、朔弥はホッと息をついた。
「人麿どのも怪我は大丈夫そうですね」
「僕は飛利さんほどじゃなかったから」
にっこりと言われて人麿の隣を見やると、未だ足首や腕に布を巻いているのが袖や裾から見え隠れしている飛利が苦笑した。
「私だって掠り傷の部類だよ。椰束こそ、皇子様が部屋に運ばせたときは顔が真っ青で意識もなかったから、凄いことになったんじゃないかと心配したよ」
「ちょっと衝撃で気を失っちゃっただけです。ただ全身を打ったので意識が戻るのが遅くて父が大袈裟にして……お騒がせして申し訳ありませんでした」
……ということにしよう、とは伯父からの助言だ。
するとその隣から伊那持が声を発した。
「いやいや。まだ体の作りがしっかりしておらん年頃なんじゃからの。親御様が心配するのは当然じゃ」
「そうだよ。肩から落ちてたでしょ? 身が軽かったから運よく打ち身で済んだんだろうけど、無理しちゃダメだよ」
人麿も頷く。
いやー、ホントは肩の骨が砕けてて右腕がダメになるところでした、とは心の中に留め、朔弥はあれこれ気を使ってくれる人々に頭を下げた。
ここに戻るのには三日を要した。残った肩の痛みが辛かったわけではなく、継麻呂を説得するのに時間がかかったのだ。
「ぜっったい返しません! もし葛城宮に戻したら兄上とは一生、縁を切ります!」
「困ったな。継麻呂がいないと通詞の仕事が滞るのだが……」
頑迷な父に伯父も手をこまねく始末で、しまいには朔弥が切れた。
「そうですか。父上は、私が落馬ごときで尻尾巻いて逃げるような軟弱舎人だと世間様に言わせたいんですね。よくわかりました」
「べ、別に朔弥を軟弱なんて思ってないよ。悪いのは主人のほうであって」
「世の中には、もっと厳しいご主人にお仕えしている方がたくさんいるのです。たった一度の怪我で職務放棄するような舎人など下の下」
恥ずかしくてもう二度と胸を張っては生きられません、と嘘八百を並べ、食事も「喉を通らない」と拒否。ようやく継麻呂が折れたのが昨日の夜だったのだ。ちなみにその間は椰束からこっそり食べ物を調達していたので体調は万全、肩に僅かな痛みが残るだけだ。
かくして朔弥は今朝、大手を振って帰ってきたのだった。
「それではさっそくお休みした分も取り戻させていただきます。まずは葛城さまにご挨拶してからお仕度の用意を」
そして一段落ついたら『乙椰』についての礼を言い、思い切って尋ねてみよう。
そんな算段を心に秘めて渡り廊下に向かおうとすると、「椰束殿」と千瀬に呼び止められた。
「皇子様はいらっしゃいません」
「へっ?」
足を止めて振り返ると、四人がじっと見ていた。
「一度出ていったきり、戻らなくなっちゃって」
人麿が困り顔で言う。
「今までも、皇后様の兵士に襲撃されたことは何度もあるのじゃが」
しょんぼりと伊那持が言う。
「規模だってもっと大勢さんだったこともあるんだけど、今回は遅れをとったことで荒れてしまってね。まだ帰ってくる気配もないんだ」
飛利にまで嘆息混じりに告げられ、朔弥は声を上げた。
「だって、あれから丸三日経ってますよ。どこにいったんです?」
まさか、責任を感じて行方を眩ましたとか……などと青ざめていると、伊那持がぺらっと言った。
「海石榴市じゃ」
「はっ?」
「楽楼館とかいう行きつけの旅籠兼娼館じゃ」
久しく収まっていたんじゃがなぁと呟かれ、朔弥は頭に血が上った。
自分の舎人が怪我してる間に娼館だとっ?
しかしふと椰束の言葉が脳裏をよぎる。
(案外、皇子さまのご行の原因はそこなんじゃないかな)
もし、いつもそうやって気鬱を乗り越えていたのならむやみに咎めるのも……。
「~~~っ」
ここはひとつ寛大にならねば、と朔弥は深呼吸してから聞いた。
「それで? まさか日がな一日入り浸ってるとか言わないですよね。昼はどちらに出没しておいでですか? 捕まえて身繕いしないとまた人の噂になります」
でもあまり見栄えにこだわるのはもうやめよう、と朔弥は思っている。
宝皇后の皇子を見る目が、お気に入りの玩具が綺麗になって喜ぶ趣味人のようでいたたまれなかったからだ。
「いや、椰束殿。皇子様はあんたを」
「いえ、伊那持様。ここは椰束の出番でしょう」
飛利が伊那持を制し、一歩前に出て朔弥を見下ろした。
「椰束、今から海石榴市にお迎えに行こうと思う。同行を頼めるかい?」
「あ、はい。もちろんです」
「ありがとう。千瀬殿、皇子の衣類を包んで椰束に渡してください」
珍しく有無を言わせぬ飛利に、千瀬も神妙にはい、と答えて踵を返す。少しぎくしゃくした様子が気になりながらも、朔弥は外出の仕度に取りかかった。
馬を並べ、横大路を海石榴市へと向かう道すがら、朔弥は気がかりを尋ねた。
「あの、宝皇后さまは、ずっとあんな風なのですか……?」
飛利は少し目線を下げ、言葉を選ぶようにして答えた。
「どうもね。皇子が五歳を過ぎて、葛城氏のもとへ行ったあたりからおかしくなりだしたらしい」
「でも、他の皇子様方もみんなそうやって」
特に大王と血が近い皇族は、後ろ楯となる傅育役の氏族が必要なのだ。なにも葛城皇子に限ったことではない。
「あの方の場合はちょっと特殊かもしれないな」
「特殊?」
そう、と飛利は顔を上げ、緑豊かな遠くの山並みを眩しげに見やった。
「宝皇后が昔、宝媛とも呼ばれる女王だったことは知ってる?」
「女王? いいえ」
女王とは、大王の娘ではなく孫のことだ。宝媛の名は蘇我大郎が呼びかけていたので記憶にあるが、身分が女王だったことは知らなかった。宝皇后は皇女ではなかったのだ。
「じゃ、その頃に一度、結婚なされていたのは?」
「結婚ですか?」
これも初耳だ。
「そう。お子様は男君が一人おられた。けれども今の大王がまだ田村皇子と称されていた頃、蘇我大臣の思惑で宝女王は離婚させられ、田村皇子の妃としてめあわせられた」
「えっ? わざわざどうして」
「今から十六年前、次期大王の最有力候補だった山背皇子は、斑鳩を拠点にして蘇我大臣の力から抜け出ようとしていた。蘇我の血を引く皇子が他にいなかった大臣は、あえて後ろ楯のいない、けれども血筋では申し分ない田村皇子に目をつけた。彼に欠けていたのは皇后に立てるべき皇族出身の妃だけ。しかし目ぼしい皇女がいない。そこでやはり後ろ楯のない宝女王に狙いを定めた」
「そのために……!」
「蘇我氏の権力の前に母子は引き離され、宝女王は宝皇女になった。ご子息は傅育役の東漢氏の地へやられ、宝皇女は傷心を抱えて嫁いだ。そして授かったのが葛城皇子」
「………っ」
「ご自分によく似た美しい皇子。そして皇后に上がって後の、蘇我氏がもたらす華やかで優雅な暮らし。後ろ楯もない、皇族とは名ばかりの貧しい娘から大和国女性の頂点へ。しかし皇太子候補は蘇我蝦夷大臣の妹媛が産んだ古人皇子。そしてご自分の御子の傅育役に選ばれたのは今や昔日の面影もない葛城氏」
次々に明かされる、宝皇后を取り巻く事情の複雑さに朔弥は目眩がした。
「栄華と不安と屈辱と……。様々な要因が重なり、宝皇后は王宮で傲慢に振る舞うようになった。しかし大臣にはたいした痛手ではないから止めようとはしない」
「でもっ、そのせいで葛城さまはあんな目に遭われて、苦しまれて」
「大臣にとって、蘇我の血を持たない皇子の災難など取るに足らない些末事だろうね」
「そんなっ……」
「そのことを皇子はよくわかっている。同時に父である大王様が、ご自分に力がないせいだと苦しんでおられることもわかってるんだ」
飛利が切なく、そして悲しい目を向けてきた。
「皇子には他に同母のご兄弟がいらっしゃる。自分が母君から逃げ出せば、弟君や妹君に手が及ぶかもしれない。だから呼び出されれば嫌々ながらも応じる。そうして自分に引き付けることで、幼いお二人をも守ろうとなさっておられる」
「………」
「昔はね、皇子も母君の要求にはなるべく応えるよう努力していたんだ。でも結局、それは母君のお心には届かなかった」
飛利がまた遠くを見やった。
「皇子が十二のとき、王宮の中庭で貴族の子弟を集めて剣の御前試合が行われてね。体格に恵まれた皇子は同世代の中では断トツだった。気をよくした皇后は、その場にいた剣の腕が立つ三人の若い舎人と手合わせするよう命じられた。手加減はならぬと告げられた舎人たちは真剣に勝負した。結果、二人の舎人が皇子に勝ち、大王の御前で報奨を受けた。そうしたら」
飛利の横顔に苦痛の色が混じった。
「後日、皇子が外出している隙に皇后から兵が差し向けられ、『尊き皇族に刃を向けた罰』として二人は捕らえられて百打の仗刑に処された」
「……っ!」
それはつまり死刑ということだ。
「察知した皇子が刑場に駆けつけて一人は命を取り止めた。けれどもう一人は間に合わなかった」
ゆっくりとこちらに顔を向けられ、朔弥は閃いた。
剣の得意な若い舎人。正殿に上がらなかった飛利……!
「まさか、助かった一人というのは」
飛利どの、と声に出す前に彼は頷いて前を向いた。
「皇子は激しく抗議した。けれどそれは逆に母君を愉しませただけだった。以来、皇子は素行を乱して人を寄せつけなくなった。葛城氏の所有する別邸を頑丈な宮に作り替えて移り住み、奇行で周囲を遠ざけ、狩で体を鍛える。舎人に選ぶのは腕が立ち、なおかつこの状況を受け入れる度量のある者」
朔弥の脳裏に人麿の顔が浮かぶ。珍しい武具を使いこなす、強くてのほほんとした祝いの餅を思わせる笑顔。
「ここが他より舎人の待遇がいいのは、皇子の心の表れなんだよ」
「あ……」
そういうことだったのだ。
「大臣の意向で、皇后が起こす騒動には箝口令が敷かれているから皇子はどんどん孤立した。好ましい相手を見つけても、噂が出ただけであの方の手が伸びるから迂闊に近寄れない」
その言葉を聞いた途端、胸に何かがズシリとのしかかった。
「……どなたかいらっしゃるんですか?」
なぜだろう。前は通う人がいるかもと思ってもこんな感じはしなかったのに。
飛利は首を横に振った。
「今、噂の立つ人はいないよ。むしろ立たせないために海石榴市へ行ったというか」
その答えは微妙に朔弥の知りたいものとは違ったが、ひとまず胸の重みが減ったので質問を続けた。
「では、前にいらしたとか」
「いたというほどではなかったけど、葛城本宗家当主の孫に当たる媛と幼馴染みだったから、当然仲はよかった。あのままなら妃の一人になったろうね」
「でも、そうはならなかったと」
「ある日突然、媛は皇后の侍女になるよう命じられた」
「えっ!」
まさか、その後お手打ちにされたとか……と絶句すると、飛利は手を横に振った。
「大丈夫。葛城氏は古くは大王家の縁戚、家格は高い。皇子はすぐに大王様に願い出て、媛を采女にしてもらったんだ」
「ああ、では王宮に」
「今の采女頭は皇后にも怯まない強者だから、元気でいるらしいよ」
朔弥は奥殿で見た手縞の姿を思い出した。
だから葛城さまは一目置いていたのね。
「その媛の祖父と母親が伊那持様と千瀬殿だよ」
「ああ……!」
そうだったのかと納得する。
「お二人はそのときの采配に感謝して、葛城宮についてきた。人麿は武具集めが趣味のお祖父さんに育てられた。でも一族の主導権争いに巻き込まれ、荒れた噂の立ち始めた皇子のもとに厄介払いされた。けど、皇子のそばで初めて役に立つ自分を見つけられて毎日が楽しいと言った。私は言うに及ばない。あの日、救われた瞬間から私の命は皇子のもの」
そして、と飛利はこちらを向いた。
「椰束。君はこの状況で皇子が初めて自分から取りに動いた相手だよ」
「……っ!」
何か、とてつもなく重いものがズドッとぶつかった気がした。
「そ、それは……どういう」
意味ですか、と口の中で呟くと、飛利は道端に馬を寄せて止めた。
「私は君が来たときから考えていたんだ」
朔弥が隣に馬を止めるのを確認し、飛利は幾分声を落とした。
「伊那持様や人麿は、守備のために舎人を増やしたかった皇子が、君の技を見かけて惚れ込んだからだと言った。でも私には納得できなかった。それだけで、皇子がわざわざ自分で調べたり、田辺に出向いたりするだろうか」
朔弥はその言葉に食いついた。
「葛城さまはご自分で調べていたのですか?」
飛利は頷いた。
「私たちは、君のことは正式に決まるまで手出し無用と言われたよ。だから何か特別な要因があるんじゃないかと」
「っ、と、特別の要因と言われましても……」
じっと見つめられ、朔弥は冷や汗の吹き出る思いがした。
皇子を探るどころじゃない。こっちが探られてるじゃん!
「あ、私の推察を述べる前にひとつだけ言っておくね。君にどんな事情があっても、私はこの先もずっと君には皇子のそばにいてほしいと思ってるから」
よほど青い顔でもしたのか、柔らかい笑顔で付け加えられ、朔弥の肩から力が抜けた。
「それはあの、ありがとうございます」
「うん。それでね、結論から言うと、君、ただの男の子じゃないでしょう。もしかして女の子?」
―――!
緊張が緩んだところをズバッと来られたため、結果として朔弥はまあまあな反応をした。即ち、衝撃のあまり平坦な声しか出せなかったのだ。
「はっ? なに言ってるんですか?」
「あれ、わりと平静だね……私の勘違いかな。きっと反応で確信できると思ったのに」
その言葉で我に返り、朔弥は密かに心臓をバクバクいわせながら身構えた。
か、カマかけか。よかった、ここは冷静に対処せねば!
「それで? なぜそんなことを」
「君に接するときの皇子の態度や目つきが、どう見ても舎人へのものじゃないから」
「……それは、舎人として役立ててない、ということでしょうか」
「とんでもない。むしろ逆だよ。だから時々甘えてるのを見ると……」
「甘えてる?」
「そう。特に細々と世話を焼かれてるとき。まだ色々な目に遭う前の、千瀬さんや幼馴染みの媛に甘えてたときの態度に似てるんだ」
飛利は片手を手綱から外してこめかみを掻いた。
「私も自分で自分の思いつきが矛盾しているとは思うんだよ。自慢じゃないけど私の剣は同世代では強いほうだ。それなのに君の剣の速さは私を凌ぐし、弓の技量は見たことがないほどの精度だ。この前の、皇子に放ったあの連射も凄かった!」
拳を握って熱く語られ、朔弥はヘンな気分になった。
やむを得なかったとはいえ、命を捧げた主人に十何本もの矢を射かけた後輩の腕を誉めるこの人もどこかぶっ飛んでない?
朔弥の目線に気づいたのか、飛利はコホッと咳払いして続けた。
「と、とにかく、私の記憶の中から皇子の態度を分析すると、君は皇子にとって技量に目をつけて連れてきただけの男児とは思えない。じゃあ君は女子なのかと考えると自信がなくなる。あれは十四、五歳の少女にできることじゃない。けどまあ、正直にいえば君の性別なんてどっちだっていいんだ」
「ええっ?」
舎人の性別って、そんないい加減でよかったっけ?
しかし飛利は真面目な顔で言った。
「大事なのは、今の皇子には心が安らいで寛げる相手が絶対に必要ってことなんだ。体を休めるだけじゃもう限界なんだと思う」
それは、朔弥にもわかる気がした。
宝皇后に強い言葉を投げつけながら皇子は傷ついていた。あんなことを繰り返していたら心がおかしくなる。
「皇子は今までそこは棄てていたと思うんだ。私たちもお勧めできなかった。お相手ができて、それがもし母君に知れて何かあったら痛手が大きすぎるから。でも」
強い眼差しが朔弥に注がれる。
「君がいた。皇子は君を見つけ、危険を承知で手を伸ばした。もしかしたら、最初は心まで委ねるつもりじゃなかったのかもしれない。けど、君は強靭な魂と卓越した技を持っていた。だから安心して甘えられるようになったんだ」
「あの、ひとつ質問がっ」
たまらず、朔弥は遮った。このまま聞いていたら何か勘違いしてしまいそうだったからだ。
これは舎人。舎人としてのことを言ってるのよ!
「なに?」
「飛利どのが確信している『皇子の心』ってやつがいまいち……あの態度のどこに、私とのやり取りで安らいだり満たされたりしてると考えられるんでしょうか」
自慢じゃないが、叩いたり罵ったり捨て台詞吐かれたりの毎日だ。
しかしそれを聞いた飛利はパッと片手で口を塞いだ。
「………っ」
見ると肩が震えている。吹き出しそうなのをこらえているのだ。
「もういいです」
朔弥が馬首を返そうとすると、飛利はすぐに手綱をつかみ、「ごめんごめん」と謝った。そして、そのまま自分の手綱も操って馬を進めた。
「君を笑ったんじゃないよ。この前、君がお里から帰ってくるときのことを思い出してしまって」
「そうですか」
素っ気なく返すと、飛利は手綱を離して困ったなと苦笑した。
「できれば内緒にしておきたかったんだけど」
言いながらこちらを向いた飛利からは、からかうような素振りが消えた。
「あの方は言葉が足らない上にぶっきらぼう、おまけに傷ついてきた分だけ臆病だ。だから今回のこと、特に君を落馬させたことは痛手だったと思う。さぞかし強がると思うけど何を言っても信じちゃいけない。椰束には行動の中に見える本音だけを読み取ってほしい」
そうして飛利は朔弥の耳元に顔を寄せ、「本人には内緒だよ」と念押ししながら皇子の行動なるものを吹き込んだ。
「………」
え――……なにそれ。
数分の沈黙ののち、飛利は朔弥に前方を指し示した。
「さ、だから自信を持ってあそこから引きずり出そう」
海石榴市はもうすぐそこだった。




