朔弥の仕事
おひさーしぶりの投稿です。別作品と並行して書いていたらこちらが先に仕上がりました。新ジャンルの作品なので、今まで読んでくださった方にも、はじめましての人にも楽しんでいただけたら幸いです(^_^)ゞ。5~7日間隔で更新予定です。どうぞ最後までお付き合いください<(_ _)>。
ターンッ
早春の梅の香が漂う中庭に小気味良い音が響く。
よし。今日もいい調子。
遥か奥の壁に立てかけた的には、正確に中心を貫いた矢が刺さっている。これで三本目だ。
朔弥は満足して息を吐き出すと、背筋を伸ばして横の台に置かれた次の矢を手に取った。
もういっちょ。
弓に矢をつがえ、ゆっくりと息を吸いながらきりきりと弦を引き絞って狙いを定める。
息を止めた一瞬の、頭が空っぽになるような感覚が好きだ。
そのあとで、狙い違わず矢が的に吸い込まれるのがまたいい。
パシッと矢を放ったとき、横手の母屋のほうから声がかかった。
「お見事!」
家僕の日向を伴って縁側に姿を現したのは朔弥の父、王宮書記官の継麻呂だった。
「父上」
「今日も百発百中かい? 相変わらず凄腕だね。でもあまり集中して力を使いすぎないようにね?」
すらりとした体に王宮の官服である袍に身を包んだ彼は、髻を結い、稽古着姿で汗を流す娘を見下ろすと、甘い面立ちに愛嬌ある笑みを浮かべた。
「急な依頼があるんだけれど、今いいかい?」
彼は日向が脇に控えるのを待ってから、縁側のギリギリに胡座を組んで座った。
「明日の午後、本家で宴が開かれる」
「宴ですか?」
この時期に珍しいな、と首を傾げながら弓を持ち直すと継麻呂が続けた。
「都に来ている百済の客人のために開くことが決まったんだ。それで兄上が『椰束』も手伝いに呼ぶようにと」
「ああ……、なるほど」
朔弥は息を吐いて弓を降ろし、父親のほうに向き直った。
朔弥の属する氏族、田辺氏は、飛鳥の地に花開く大和国の中流貴族、いわゆる渡来系新興氏族だ。父の継麻呂は齢三十六、王宮の役所で公文書に携る仕事をしている。もともと韓の三国のひとつ、百済から渡来した家系なので、主に翻訳、たまに通詞(通訳)もこなす。
弟の椰束は朔弥より二つ下の十四歳。父には他にも足を運ぶ女性たちがいるのだが、子どもは亡き母との間にできた朔弥と椰束だけなので、長男である彼が手伝いに呼ばれてもなんの不思議もない。が、ここではそれは朔弥の出番――身代わりを意味している。
あまり使いたくない手段であるはずなのだが、本家当主からの依頼なので断れなかったのだろう。
朔弥は淡々と答えた。
「わかりました。明日の昼過ぎですね?」
「そう。面倒事でごめんよ」
「構いません。作法や縫い物ばかりの暮らしより、父上の手伝いのほうが性に合ってますから」
実際、昔から朔弥は親戚の集まりがあると、女の子たちと花摘みなどをするよりも、男の子たちと弓矢に興じるほうが好きだった。
今年十七を迎える娘としては実に不穏当な発言なのだが、継麻呂は頼もしそうに微笑んだ。
「それで、ものは相談なんだけどね」
期待のこもった上目使いにちょっとだけ警戒心が刺激される。
「なんでしょう」
「『椰束』に舎人の話がちらほら来ていることは前に伝えてあったね」
「ああ、はい」
舎人とは、皇族の男子に仕える侍従官を指す。昔は武官のことを言ったらしいが、今では内々の世話から護衛、秘書など側近の意味合いが強い。
中流貴族にとって、息子、或いは娘を有力な皇子の舎人や王宮の采女(大王の侍女)として出仕させるのは出世への大事な足がかりである。本来なら先方から声がかかるなどありがたい話だ。しかし肝心の息子に難を抱え、あまつさえ姉が身代わりを勤める我が家の状況ではいささか事情が異なる。
「なんとか断れるだろうとのお話でしたが」
「うーん、実はその、……朔弥に舎人は勤められないかな?」
少し俯いて胸元の青い房飾りをいじる姿に困惑が窺える。隣に目を向けると、日向の思慮深い眼差しがこちらを目配せするように見ていた。
これは、伯父上から何か打診されたな。
とりあえず弓を縁側の隅に置き、朔弥は父親の前に立った。
「舎人の仕事自体は問題なくこなせると思います」
「そうだね。学問は修めてるし馬にも乗れるし、剣も使えて弓なんて神の領域だし! 稽古着姿だってこんなにりりしくて。朔弥ほど優れた子は本家にだっていないよ!」
ぱっと顔を上げて勢い込む継麻呂に、その感覚は娘の父親としてどうよと内心で突っ込みながらも、一応「ありがとうございます」と頭を下げ、話を元に戻す。
「一時しのぎなら大丈夫でしょうが、舎人は主人や仲間と寝食をともにするわけですから長期間は厳しいかと。宴や行事をお手伝いするのとはわけが違います」
「それはそうなんだけど……」
継麻呂は形のよい眉を下げ、残念そうに肩を落とした。朔弥はなんとも素直な父親の姿に苦笑した。
どう見ても実年齢より十は若く見える継麻呂は、中身もちっとも年を取らないせいか、二人の子を持つ父親としては少々変わっている。
身分は中流だが財政は豊かな渡来系氏族の次男として気楽に育ったせいか、あまり世の常識などには頓着しない。でなくては、古い神祇の家系の、それも誰もがその不思議な力を畏怖して崇め奉っていたような女性を、
『どうにも好きになっちゃったから』
などという理由で領地からカッ拐うように連れ去り、妻になどできないだろう。
いくら都から離れた山深い當麻の地に住んでいるとはいえ、朔弥が普通の子女の過ごし方でなく、子息のごとく唐渡りの書物を学び、好きな武芸の稽古で汗をかき、馬で野駆けなんぞをして過ごせるのも彼がそれを許しているからだ。乳母の伊菜女に世の氏族女性のしきたりを教えられたときは衝撃を受けたものだ。
邪気も野心もない人柄は家業の史(書記官)に向いているらしい。渡来系ゆえの語学や知識のおかげで宮中でもそこそこ重宝されているようで、だからこそ、その長男に出仕の声がかかったりするのだが、本人はそれを足がかりにしようなどとは微塵も思っていない。
まあそこがよかったから、母上も父上に惹かれたのだろうけど。
母が亡くなって一年半。家長代理としてこの離れ屋形を守ってきた朔弥としては、これでもうちょっと頼りになったらな、などと高望みをしてしまうのだった。
「それで? なぜそんな質問を?」
先を促すと、継麻呂は少し目を逸らし気味に説明した。
「舎人の話、一旦は逃れられたんだけど、新年の宴の折りに椰束……というか椰束に扮した君を見て再燃したらしくて。なんと山背皇子様と古人皇子様から同時に話が来てしまったんだ」
「えっ!」
朔弥は父の困惑を理解した。
なぜといって、今の大王は病がちでありながら未だ世継ぎの御子が定まっておらず、二人はその有力候補同士なのだ。山背皇子は壮年だが椰束と似た年頃の息子がいるので、おそらくその舎人にとの話だろう。
「まずいですね……ただでさえ難問を抱えているのに。次期大王候補の家なんて選んだら田辺一族が勢力争いに巻き込まれてしまう」
「さすがだね。こんな田舎にいても世情をよくつかんでる」
「誉めてる場合じゃないですよ。宴の席には出なかったのになんだってそんなことに」
すると継麻呂はフワッと顔を上げた。なぜだか少し高揚している。
「あのとき、親戚やお客さんの子弟を集めて弓や剣の技くらべがあったでしょう。君、弓で断トツの一位だったから、あとで噂になったらしいんだよ」
「あー……ちゃー……」
不覚の理由につい声が出た。剣も遣えるが、朔弥の弓の精度はわけあって群を抜いているのだ。
田辺本家の宴では、子弟たちを集めて書を嗜んだあと、息抜きの余興代わりに武芸の競い合いをする。朔弥が『椰束』として参加したのは半年前の夏の宴が初めてで、適当に手を抜いて目立つのを避けた。が、新年の宴では、とある出来事のためにうまくいかなかったのだ。
晴天に恵まれた正月のその日、大人たちが奥の広間で酒を振る舞われている最中に、同伴の子息たちは余興の腕試しとなった。
中庭に集った男子はおよそ十五人余り。まずは剣の手合わせとなり、そこそこ手控えて平凡に終えることができた。次は弓の腕を競おうということで中庭に的が用意され、前回、やりにくかったことを思い出してさりげなくその場を離れた。好きだからこそ、手を抜かなければならないような場には立ちたくなかったのだ。
庭の隅の手洗い場まで来たところでホッとして足を止め、ここから抜け出すための道順を頭の中で確認した。そのとき、まるで隙を突くように後ろから呼び止められた。
「おい、おまえっ」
ビクッと緊張して振り返ると、そこには朔弥より拳ひとつ背の高い、青鈍色の長衣に白い下袴を身につけた十六、七歳に見える男が怖い顔でこちらを睨んでいた。
赤い組み紐で一束に縛っただけの、肩下まで届く焦げ茶色の髪。彫り深く切れ長な目元。鳶色の瞳が鋭い光を放つ端整な顔立ちは、つい先ほどの技くらべで剣の手合わせをした相手に違いなかった。朔弥の縹色の長衣と同じ型の、同じような出で立ちなので、親戚の誰かの息子だろう。
まさか、勘づかれた?
朔弥はいやに迫力のある相手を牽制するように見返しながら、心で先ほどの手合わせを素早く反芻した。
大丈夫。おかしな行動はしていない。何合か打ち合ったけどうまく終わらせたし、衣服も乱れなかった。この真っ平らな体つきではまずもって女とは見破れまい。
朔弥は落ち着きを取り戻し、白い息を吐いた。
「私に何か」
すると彼はまなじりをクイッ上げ、偉そうな口調で言った。
「おまえ、さっき手加減しただろう。どういうつもりだよ」
……そこかっ。
ズバリと言い当てられ、言葉に詰まる。彼はさらに詰め寄ってきた。
「誤魔化しはきかないぜ。わざと剣を落としただろ」
「いいえ」
朔弥は背筋を伸ばした。ここで認めるわけにはいかない。
「あれは完全に私の敗けです。あなたの力が強かったから止められませんでした」
嘘である。でも腕力で負けていたのは本当だ。
「それにもしわざとだったとしても、それが何だというんですか? これは宴の余興でしょう」
真剣に身代わりを務めている身としては、お遊び如きで余計な体力を消耗している暇はないのだ。
目を逸らさずに言い切ると、彼は驚いたように切れ長の目を見開き、次いでクッと笑った。
「はっきりものを言うんだな。平和主義の田辺一族にしては珍しい」
しまった、浮いてるのか。
氏族が一堂に会するような場には必要最小限しか顔を出していないので感覚がわからない。
彼は焦る朔弥を横目にし、腰に手をやると尊大な口調でこう言った。
「次は弓だ。これは技を極めてこその余興だよな。手なんか抜いたらかえって興醒めだ」
「………」
言葉を返せないでいると、彼は愉快そうに朔弥の右肩を叩き、軽くつかんだあとで手を止めた。なぜか驚いたように目を見張られる。
「……弓の腕も相当だよな?」
まさか。肩をつかんだだけでそんなことがわかるんだろうか。
「さあ、どうでしょう」
曖昧な笑みで答えると、彼はゆっくりと肩から手を外した。
「いいさ。本気の射的を期待してるぜ」
手洗いが済んだら早く来いよなと言い置くと、彼はサッと踵を返して中庭へと戻っていった。朔弥は大きく息を吐き、渋々戻ったのだった。