侯爵家の令息アイン・ヴュルテンベルク
侯爵にさよならを告げ、庭を去ろうとした。
「待ちなさい、ミレヴァさん」
「侯爵様……わたしに何か?」
「改めて礼を言いたいのだ。あの男のウソを見破ってくれて助かった」
ゆっくりと丁寧な言葉。
心からの感謝を感じた。
それだけで十分だ。
もうここに用はない。
わたしはコルネリウスのことを忘れ、新しい人生を送る。これでようやく記憶から抹消できる。家族のもとへ戻り、のんびり過ごしたい。
「いえ、わたしはただ……あの卑劣な男が許せなかっただけです」
「そうか、君はコルネリウスの婚約者だったのだな」
「はい。でも、もう関係のないことです」
踵を返し、わたしは庭を後にする。
その時、後ろから侯爵が声を掛けてきた。
「ミレヴァさん、近い内に貴女の家に伺う」
あまり気に留めなかった。
そのまま庭を出て散歩を続けた。
*
三日後。
事件のことは街中の噂になった。
誰が解決したのか、その人物の名こそ広まらなかったものの凄腕の探偵が現れたと、噂がひとり歩きしていた。
それならそれでいい。
ただ平穏に過ごせるのなら。
わたしにとってはもうでもいいこと。
過去のことは忘れ、お気に入りの広間で紅茶を楽しむ。……うん、今日もいい香り。上出来ね。
目が見えなくとも、味覚、聴覚、皮膚感覚、嗅覚……そして、反響による物体の把握。エコーロケーションとも呼ばれる反響定位。鳥類のように超音波を発するわけではないけれど、熱や音で形状を知覚できる。だから、ひとりでも散歩ができるし、こうして紅茶を飲むこともできた。
そんな穏やかな空気の中、聞きなれない足音がした。来客のようね。
少しすると扉がゆっくりと開いた。
「失礼するよ、ミレヴァさん」
若い男性の声がした。
少しだけ驚く。わたしはてっきり侯爵様が来られたのかと思ったのに。
「あなたは?」
「驚かせて申し訳ない。一応、貴女の父上には許可をもらっている。おっと、その前に……僕はアイン。アイン・ヴュルテンベルク」
「もしや、侯爵様の……」
「父の代わりに僕が挨拶をしに来た。妹を無念を晴らしてくれてありがとう」
家に伺うって息子を寄越すって意味だったんだ。
それにしても、この人はお花のような優しい匂いがする。でも、心臓の音……ちょっと激しいみたい。緊張しているのかな。
「お役に立てたのならいいんです」
「ところで……ミレヴァさんは目が?」
「ええ、生まれつきです」
「それはご無礼を」
「構いません。目が見えなくとも、あなたを肌で感じます」
「や、やっぱり、ミレヴァさんは何かの能力で事件を解決されたんだ。凄い人だ」
わたしは少し動揺した。
凄いと言われるのは、これが初めてだったから。
それから打ち解けるようにアインは、妹のエルザのこと、家のことを話してくれた。こんなにも話していて楽しいと思えるのは久しぶりだった。
でも、彼の心音は相変わらず早かった。
「アインさん、ひとつ訊ねてもいいですか」
「な、なんだい?」
「どうして、そんなに緊張しているんです?」
そう聞くと、彼は言葉を詰まらせていた。動揺しているようだった。……変なこと聞いたかな。
「そ、それは……ミレヴァさん、貴女が女神のように美しいから」
ハッキリと言われ、わたしは嬉しいと同時に変な笑いが込み上げてきた。
「あはは……。目の見えない、このわたしが? 一度は無価値と捨てられた女ですよ。御存知でしょう?」
「そんなことはない。貴女は事件を解決してくれた。あの堅物の父上も認めてくれている。だからこそ、僕はミレヴァさんに魅力を感じている」
わたしの手を取り、微笑みかけてくるアイン。見えなくとも分かる。優しい顔。素敵な笑顔が向けられている。
なんてあたたかい手。
まるで太陽のよう。
そこに嘘偽りはない。
彼は純粋な眼差しでわたしを見てくれている。それがとても嬉しかった。