魔法のセーター
怖い?授業の続き。今度は千咲の視点です。
それは高校に入って、半年ちょっと経ったある日のこと。喘息は中学の最初の頃にはもう治ったと思っていたけど、3年ぶりに発作を起こしてしまった。
その日の学校帰り、中学の同級生である北山さんとばったり会った。高校に入ってからは初めて会う。濃いグレーのセーラー服で、上にクリーム色のジャケットを羽織り胸元には金色の大きなリボン。通学途中に見て可愛いなと思っていたあの制服を着ている。確か、この制服、私が滑り止めに受けたところだ。
「久しぶり〜!目腫れてんじゃん、どうかしたの?」
相変わらずだった。
「授業中怖いことがあって、泣いちゃった」
とだけ答えた。
「えーっ、授業中に泣くって何があったの?」
びっくりして聞いてきた。小さい声で
「生物で、解剖やった」
とだけ答えた。さらに目を丸くして
「へえぇー!高校で解剖なんかやるんだ。うちね、仏教の学校だからそんなのできない、すごいね」
へぇ、仏教の学校ってそんな制限があるんだ。学校で宗教があるって、一体どんな感じなんだろう。もし宗教の授業があるとしたら、一体何をするんだろう。そんなことをぼんやりと考えていた。家に帰って、お母さんにも目が腫れたことを心配されて喘息の発作を起こしたことを言った。そしたらもう学校を休みなさい、と言われた。明日は高校に入ってから初めて、学校を休む。平日のなんでもない日に家にいるって、世の中や社会から断絶されたようななんとも言えない虚しさがある。夕方に瑠美からきた
「体調は大丈夫?今日、寺尾先生がホームルームで解剖は怖がって当たり前だって話してたよ。実は怖かったって言ってる人、多いよ」
という内容のメールが救いだった。
結局発作も起こることはなく学校を休んだのは1日で済んだ。休んだ次の日はいつも通り学校に行った。つい最近まで散々暑い暑いと言っていたのに、もうひんやりと肌寒い。10月も、後半だもんなあ。久しぶりにブレザーを着ていった。いつも通りの日常だ。
「ねえ、小出さん、ちょっといい?」
苫田さんが私の席にきて、そう言って手招きしてきた。正直身震いした。だって、堀川さんと苫田さんは私に対してやたら当たりがキツいから怖い。無視するわけにもいかず、とりあえずついていった。廊下に出て、音楽室の前に着いた。苫田さんはしばらくキョロキョロしては
「あの、言いたいことがあるんだけどさ」
と下を向いて小声で申し訳なさそうな口ぶりで話す。私だけに言いたいこと…?
「一昨日は、あんな、キツイこと言ってごめんなさい。秋穂が怖くて、逆らえなくて、つい同調しちゃって。あたしだって、豚の心臓の解剖、怖かったんよ」
と小声で言ってきた。普段の明るくてハキハキとした苫田さんとは違いすぎてポカーンとした。許すとか許さないの前に、いきなり謝ってくるなんてどうしたとしか思えない。私はとりあえず頷いて教室に戻ろうとした。
「あと、お願いがあるんだけど」
お願いって、なんだ。一体。
「今のこと…あたしが謝ったこと、誰にも言わないでほしい」
と念を押すように言った。わかったと返事をした。話はここで終わった。苫田さんは、当たりがきついと思っていたけど思い返せば堀川さんがいないところでは普通に優しい。仲がいいというか、ただ逆らえなくて一緒にいるだけなんだろうなあ、あの2人。そう思うと瑠美はよく、堀川さんに逆らう勇気があったなあ。あの時のことは未だに忘れられない。いつも明るくてハキハキした苫田さんのあんな表情、初めて見た。教室に戻ると、いつもよりみんなが落ち着いて見えた。堀川さんは、小学校でも2回同じクラスになったことがある。けれどもその時は特に嫌なことをされたこともなくて、性格がきつかった覚えもない。一体いつからああなってしまったんだろう。
瑠美に関しても、ちょっと様子がおかしいと思うことがある。
みんなセーターを着てきているのに、瑠美だけは着ていなかった。瑠美は寒がりだから、余計にセーターを着ていないのが不思議だった。瑠美はいつも、クリーム色のセーターを着ている。確か昨日までは着ていたのに。
「ねえ、瑠美、なんでセーター着てないの?寒くない?」
私は何気なく訊いた。瑠美は一瞬顔をしかめたあとに
「うーん、セーター汚れちゃってね。今クリーニングに出してるの」
と言った。そうなのか、とその時は受け流した。
体育の授業の後、瑠美と一緒に廊下を歩いていると瑠美と同じ新体操部の高瀬さんとすれ違う。高瀬さんはクラスも離れているし話したことはないけど、美人で有名だから顔と名前は知っている。文化祭のミスコンにも出ていた。すれ違うだけで、その美貌に吸い込まれそうになった。高瀬さんは瑠美を見るなり、思い切り睨みつけて何か言っている。その表情すら美しくてゾクゾクする。瑠美も高瀬さんに睨み返していた。2人の間に、バチバチッと火花が飛びそうだ。
私はその日の部活が終わった後に、いつも通り帰ろうとしていた。職員室の前を通ると、瑠美とすれ違った。
あれ?おかしいな。最終下校の時間までは、まだ1時間半ほどある。瑠美がいる新体操部は、まだこの時間は練習しているはずだ。
「瑠美、今日は部活出ないの?」
と聞くと
「うん、色々あって休んだ」
という答えが返ってきた。
「一緒に帰ろうよ」
瑠美の方から誘ってきた。私はとりあえず一緒に帰ることにした。
「あのね、私、部活辞めようと思うんだ」
瑠美はそう話した。私はびっくりした。あんなに部活を頑張っていたのに、何で辞めちゃうの?
「体調悪くて、ちょっと体持たなそうだから。腰も痛い」
瑠美は続けて言う。体調が悪いといっても、クラスでは元気そうだし体育も普通に出ている。だから全くそんなふうには見えない。風邪をひきやすい時期だけれど、風邪でもなさそうだ。
体調とは別の、何か言いたくない理由があるんだな。これ以上踏み込んではいけない気がして、それ以上のことは聞けなかった。
瑠美は次の日もその次の日もセーターを着なかった。代わりにトレーナーを着ていた。部活も休んだ。新体操部の先輩が瑠美を心配して、うちのクラスに来る。その度に、瑠美は体調不良で休みますと先輩に伝える。
「瑠美はまた休みなの!?もういい加減にしてよ、大会出れないよ!」
先輩の怒った声が休み時間の教室に響く。瑠美は申し訳なさそうな顔をしている。
家に帰ると、瑠美からメールがきた。
「今度の土曜日の放課後空いてる?書道部は土曜は休み?だよね。私はその日病院に行くから部活を休むんだ。病院は4時半からだから、学校終わってから病院までの間遊びたいんだけどいいかな?」
と書かれていた。私は土曜日の午後は部活もないし、特に予定もない。
「いいよ、一緒に帰ろう」
と返信した。
土曜日の放課後、約束通り瑠美と遊びに行く。一緒にファミレスでご飯を食べた。瑠美はハンバーグを頼んでいた。私はピザを頼んだ。
ご飯を食べた後、瑠美はセーターを見たいと言っていたから服屋に行く。着いた服屋は結構いかつい、男物のようなブランドの店だ。セーターやシャツやコートが置いてある。
瑠美はセーターを何着か試着して、キャメル色の襟ぐりと左腕に黒い線が2本入ったセーターを選んだ。瑠美がセーターを選ぶのを見ているのは楽しかった。
服屋を出ると、瑠美は嬉しそうに買い物袋の中身を眺めている。
「じゃ、病院行ってくるね!今日は付き合ってくれてありがとう」
瑠美は明るくそう言って去っていった。
その翌週から、瑠美は学校にこの前の土曜日に買ったキャメル色のセーターを着てきた。いつもの元気な瑠美に戻っていた。部活もいつも通り出ていた。
あのセーターは、ひょっとしたら魔法のセーターだったのかもしれない。そんなことを考えるとわくわくした。
そして私がいつもブレザーの下に着ているセーターが、母のお下がりで中学から着ているものなのもあってかだいぶくたびれて穴まで空いていることに気づいた。
それからしばらくして、私は大事にとっておいた高校の入学祝いでもらったお金を使って新しいセーターを買った。
瑠美があのセーターを買う前に着ていたセーターをまた着たのはそれから2年後、高3の秋のことである。
瑠美がセーターを着なかった理由は謎です…なぜでしょう?