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まあまあ朱里ちゃん、とりあえずこっちに来なよ、ドア閉めてもらわないと冷房の空気が逃げちゃう。などと義母が言うのでおそるおそる義母のいるテーブルまで行った。どうしようこの幻覚、見えるだけじゃなくて私に対してしっかりコミュニケーション取ってきやがる、と思いつつ、アイスペールと角瓶を置いて義母のそばに寄った。
「お義母さん」
「なあに?」
「ちょっと腕さわってみていい?」
「え? いいよ」
私は義母の白い二の腕をつんつんつついてみた。
「冷たっ!」
義母の二の腕はちゃんと感触はあったがよく冷やしたパンナコッタのようにひんやりしていた。義母はにこにこ笑みをたたえたままだ。
私はもうぞぞぞぞとなって、これはあかん、これはあかんと呟きながら早足でキッチンへ向かい、とにかく酔いを醒まそうと水道水をコップに注いで続けざまに二杯飲んだ。キッチンカウンターの向こうに見えるリビングのテーブルでは、義母が変わらず笑顔でこちらを向いて、
「びっくりしてる。ふふ。ほら、とにかく座りなよ」
と言った。
私は観念してテーブルに戻り、四脚ある椅子のうち義母と斜め向かいの、自分がいつも座っている椅子に座った。義母を見ると、彼女は両肘をテーブルについて両手の指を胸の前で組み、組んだ手指の上に顎を置いて目を合わせてきた。
「変わらないね朱里ちゃん。どんなおばさんになってるかと思ってたけど。かわいいまま」
そういえば義母はもう私より年下になるんだな、と思った。
「……どうして出て来たの、お義母さん?」
私はようやく少し落ち着いて、やっとの思いでそう質問した。
「それは」
義母は両頬にえくぼを浮かべて、
「……それはね、朱里ちゃんと一回でいいからお酒を飲みたいなと思って」
と言った。
「お酒?」
「好きなんでしょう?」
そりゃもう毎晩浴びるほど飲んでます、とはさすがに言えずに、
「うん、まあ、けっこうね」
しらーっと答えた。
「お義母さんお酒なんて飲んだっけ?」
「あんまり家じゃ飲まなかったけど、嫌いじゃないよ。友達と遊んだ時なんか、付き合って飲んでた。今から飲もうよ。お酒ある?」
「あー……ウイスキーなら」
「ウイスキー? 朱里ちゃん、ウイスキーなんて飲むの? 私飲んだことないや」
「いやいや、ウイスキーなのは度が強くて割安だからで、別に好きってわけじゃ……それに飲む時は炭酸水で薄めに割って弱くしてるし」
言い訳しながら私はキッチンの収納棚に入っている4ℓのペットボトル入りウイスキーを思った。あんなのを常備していることを知ったら、義母はますます引いてしまうだろう。ペットボトルから角瓶に中身を移すところは、義母に見られないようにしないと。
「そっかあ、ウイスキーかあ。私飲めるかなあ」
義母はひとりごちる。
「セブンで何か買ってきてあげようか? 何がいいの?」
コンビ二へ買い物に行って帰ってくると義母が消えていた、なんて怪談にありがちなパターンになってくれないかな、と思いながらそう提案してみる。
「あ、じゃあ私も一緒に行く。好きなお酒選びたいし。それでね朱里ちゃん」
「なに?」
義母と離れる口実が無くなって若干がっかりしながら私は答えた。
「私お金持ってないの」
いかにも心苦しそうに言うのである。その表情がいじらしかった。
「ああ、だいじょうぶだから! そんなに高いものでもないし、気にしないで」
「ごめんね」
「いいよいいよ。私とお義母さんの仲じゃん」
「ふふ、ありがとう。――それから、気になってたんだけど」
「うん?」
「朱里ちゃん、ずいぶん痩せてるけどごはんちゃんと食べてる?」
安っぽいドラマの主人公の母親のようなことを言い出した。
「食べてるよ」
「そう? 今日は何食べたの」
「えー? 昼は納豆ごはんと漬物と干物とワカメのお味噌汁と……、あ、今日は夕飯食べてないな」
「ほら!」
「いや、今日は昼に食べすぎちゃったからで、たまたまだよ」
「ちゃんと食べないとだめでしょう? 何か作ってあげる」
「今から? いやいいって。セブン行くんじゃなかったの」
「すきっ腹にお酒はよくないでしょ? いいから少し待ってて。ちょっと冷蔵庫見るね」
相変わらずだな、と思いながら言うことを聞き、義母がキッチンに行くのを黙って見送った。
うーん、大したもの入ってないねえ、ちゃんと一人で使いきれる分だけ買ってきてるみたいだね、えらいじゃない。義母がそんなことを言っているのがキッチンから聞こえてくる。
結局義母は、私がもう本当に料理が面倒な時にだけ食べることにしている明星チャルメラ(バリカタ麺豚骨)を戸棚から見つけ出し、じゃあラーメン作ってあげる、と言い出した。夜更けにインスタントラーメンかよ、かえって不健康じゃん、と思いながら、私は仕方なく任せることにした。
へええ、今こんなのあるんだねえ、昔はしょうゆか味噌か塩味くらいしか無かったのに、と義母はしきりに感心し、冷蔵庫からなにやら野菜を取り出してまな板にのせて、タンタン、包丁の音を立てて切りはじめた。続けてフライパンで野菜を炒める音、鍋で麺を茹でる音が聞こえてきた。
「できたよ! サッポロ一番風に作ったんだけど」
と、ラーメンの入ったどんぶりをテーブルに持ってきた。
豚骨ラーメンに刻んだ炒めキャベツ、にんじん、玉ねぎがたっぷりのって、その上に生卵が落としてある。
このインスタント麺には卵は合わないんだけどなあ、サッポロ一番じゃないんだから……と内心文句を言いつつ、箸先で卵をときほぐして、野菜と極細麺に絡めてすすった。めったに食べない、ジャンクなインスタント麺。そこに卵黄の絡んだまろやかな風味が口の中に広がった。
「どう?」
二、三口食べたところで義母が聞いてきた。
「……うん、なんていうか懐かしい味」
私は正直に答えた。