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階段を降りて一階に行くと、リビングのドアの磨りガラスから廊下に明かりが漏れていた。あれ、消し忘れたかなと思いながら素通りし、洗面所に向かう。口の中がナッツのカスと匂いであんまり気持ち悪いので、いったん口をゆすぎたい。
ガム・デンタルリンスを口に含んでぐちゅぐちゅしながら、洗面台の鏡に映った自分のすっぴんの顔を見る。だいじょうぶ、まだまだいける、と思う。
毎晩酒ばっかり飲んでいても、三十五になっても、なんだかんだ私は美人だ。漱石の好きだったという瓜実顔に切れ長の目、高い鼻、細く引き締まった顎。整った顔で生まれさせてくれたことだけは両親に感謝しなければならない。唇が厚ぼったいことだけが難点といえば難点だけど、これは男とキスする時には強力な武器になる。前髪を頭の上でちょんまげにした黒髪は、カラーもパーマもしないから齢のわりにツヤツヤだ。
デンタルリンスをぺっと吐き出して、再び鏡を眺める。サイドラインの入ったゆるいズボンに渦巻き柄のTシャツをパンツインさせた腰には、細い、贅肉のまるで無いウエストラインが浮き出ている。酒は飲むけど太るのだけは絶対嫌なので、食事には人一倍気を使い、ストレッチと自重負荷トレーニングを毎日欠かさない成果が出ている。今夜はTシャツの上に薄いベージュのガウンコートを羽織り、こうして部屋着にだってちょっとしたおしゃれを忘れない。
ひと通り自分の姿を眺めてうっとりすると、なんだかばかばかしくなって左手にアイスペールの取っ手を持ち、脇に角瓶を挟んで、さっさと洗面所を出た。先ほどと変わらず光が漏れてきているリビングのドアを開けた。
義母がいた。
彼女はリビングの中央に位置するテーブルの右奥の椅子に腰掛けて、私がドアを開くと同時にこちらを振り見た。昔と変わらない、ハムスターを想起させる愛くるしい小ぶりな顔。黒髪を頭のてっぺんでお団子にまとめている。耳の脇の後れ毛が、娘の私から見ても艶かしい。
「朱里ちゃーん」
義母はドアのそばで立ちつくした私にはつらつとした声でそう言い、いかにもうれしそうに小さく手を振ってきた。口元から白い歯がこぼれた。小柄な体を真白な半袖のシャツワンピースに包み、その下から青色のひだひだのスカートの裾が見えていた。
「朱里ちゃー……、あれ? どうしたの、ふふ」
義母はもう一度ふるふる手を振ってきた。
「え? え? お義母さん?」
「うん」
「……はははっ」
私はドアの取っ手にかけていた右手を額に当てて、もはや笑うしかなかった。
「あははは、何これ? 私、とうとう、とうとう見えるようになっちゃった? どうしようこれ幻覚だよね、嘘でしょやばい、あっそうか」
私は一気にそこまで言うと、額に当てていた右手で両目を覆った。いったん目をつむれば義母の姿が消えるのではないかと思ったのである。目をつむって二、三秒してからさっと手をはなして再びリビングの中を見た。
義母は相変わらずの笑顔でふるふる手を振っていた。