ああ、王子様はおろかにも!
「居るだけで国を富ませる」聖女を、愚かにも追い出してしまった王子のはなし。
────だって、全員がそう言ったんだ。
側に居た誰に聞いても、同じことを言った。確かにかつてこの国は聖女を必要としたけれど、もう聖女なんて不要で、それどころかアレは大袈裟に騒いでいるだけで、大した力もない女なんだと。
この国では作物が育ちにくい。川は頻繁に枯れるし、そもそも土が悪い。
王都のまわりは比較的に豊かだけれど、端に行けば行くほど実りは悪くなり、家畜と同じ穀物で痩せた身体を動かす人々が多く居る。
そんな中で現れた聖女は、確かにこの国を豊かにした。伝承の通り、国は緑を増し、水は澄んだ。
けれど、全員が言ったのだ。老いも若きも、紫煙をくゆらせながら。
この国はまこと貧しい土地だけれど、森は神の奇跡によって産まれたけれど、聖女なんていない。居たとして、少なくともあんなみすぼらしい女じゃなくて、もっと華やかで神々しい本当の聖女が存在する。
どこの誰かも知らないポッと出の田舎娘なんて居なくたって構わない、偶然を手柄にした図々しい女。
そう、全員が言ったんだ。
なのに。
「あらあら、愚かな王子様」
女がおれを嘲った。
皆の言う通りに、聖女を追い出した。
国は緑に満ちて、皆が富めるものとして生きられる国になっていた。豊かな森には鮮やかな花が咲き、川がせせらぎ、うさぎが駆ける。
けれど、それを保つための聖女はもういない。
皆の言う通り、聖女を追い出したのだ。おれが。
正面に立つ女の、苦労を知らない白魚のような手は、畑を耕す緑の聖女とは似ても似つかない。
こんな女が居たところでどうなる。自然を富ませる緑の聖女を手放すなんて、あのときのおれは正気じゃなかった。森を富ませ、畑を富ませ、それは何にも替え難かったというのに。
「でも、貴方が追い出したのよ。代わりのいる、とるに足らない能力だって。この国に聖女なんていらない、そう言ったわ。だからわたしがここに来た。」
すべてを覆い隠すような漆黒の髪が、さらりと溢れる。
麦の穂のような聖女の髪はたしかに澄んでいなかったけれど、豊かな太陽の色だった。爪の丸い手はいつも暖かくて、困ったように笑う頬に添えられていた。
この女は、何もかもが正反対だ。
闇夜の髪、白い肌、冷たい手。生まれついての高貴な身分に、聖女不要の論を唱える改革派。
聖女がこの国に恵みをもたらすものだというならば、この正反対の女はまさに正反対のものをもたらすのではないか。
それを先導したおれは、歴史に名を残す愚者というのか? そんなはずがない! だっておれは、おれは。──おれは。
続きの言葉がなにもなくて、痛いほど耳を押さえる。頭蓋の奥から血流が谺して、掻き消す音もなく大きく響いてくるばかり。冷たい手が、人差し指だけ握って手を引き剥がす。
「愚かな王子様。あなたはもっと考えるべきだわ。この国に聖女はもう居ない、あなたはこの国を考えなくてはいけない」
穏やかな声は冷たくて、そこに聖女を追い出した喜びも欲望も存在しなかった。
価値あるものしか並ばないこの謁見室で、いま最も価値があるような顔をして、なんてことない目でおれを見ていた。そこには期待も失望もない。ふたつのサファイヤが、光に揺らいでいる。
「聖女だって死ぬわ。それはもともとわかっていたこと。あなたが聖女を追い出さなくても、五十年後か一年後か、明日に死んでいたかもしれない。そうしたらどうするの? 聖女が未来までずっといたとして、それでもあなたの息子か、孫か、その頃には結局喪うしかない。」
腕の力が抜けた。冷たい手が離れる。
女は背を向け、数歩歩いてやわらかなソファに腰掛けた。低い座面にわずか眉を寄せるのみ、何事も不自由ない顔で。聖女は最後まで布の靴を履いていて、この女のように硬い靴音は立てなかった。
「聖女に頼った国造りなんて間違いだわ。たったひとりに頼って、たったひとりに背負われて、そんな国はいずれ崩壊するし崩壊すべきよ。確かに聖女の奇跡は何物にも替え難く、わたしたちは彼女に明日を救われた。救世主なのは間違いないし、真実得難いお方だわ。──けれど、この国のほとんどはもう、自分の脚で立てるはず。この国にはもう森があるわ。森を産んでいただいたわ。これからは森を守り、育んでいきましょう」
うんと整って、優しく見える微笑み。
弧を描く薄紅は瑞々しく潤って、ためらいも淀みも見られない。
いきがくるしい。空気が濁っている、城は聖女が浄化したはずなのに! ああでも、聖女はおれが追い出したのだ。空気に泥が混じって、全身にべたべた張りついている、これじゃあ身動きもとれない!
張りつく泥に許されたのは、項垂れて、ただ首を振ることだけ。
「無理だそんなの、地方の土地は枯れたまま!まだ力が行き届いてなかったんだ、中央の貴族に騙されたんだ……!」
「それでも砂漠じゃあないわ」
「砂漠みたいなものだ!」
王都に滞在する聖女の力は中央から広がって、荒れの酷い地方まで届くには時間がかかった。けれど中央の貴族は自分の土地さえよければと、それで役目を果たしたと進言したのだ。
ああ、愚か! この女のいうとおり、おれは何ておろかな王子だ!
この国を考える? そんなの、考えなくてもわかる。聖女の加護を失い、神の手を離れ、この国はおしまいだ。
顔を覆って俯くと、ぐいと前髪を掴まれた。白魚の手に似合わない、乱暴な仕草だった。
「砂漠じゃあないわ。だってイモが育つもの、蕎麦が、カボチャが、落花生が、大豆が。普及させられる品質になるまで少なくともあと二代はかかるところ、聖女さまのおかげで品種改良の目処も立った。」
闇夜の髪、月の肌。聖女とは正反対の女、だけれど。
サファイヤの瞳の奥には、太陽のような炎が揺らめいていた。
「わたしたち矮小な只人に、世界を変える力はない。一晩で砂漠を森に変えることはできない。でも、荒れ地で育つ作物を見つけることはできる。ひとりで豊かな森は作れなくても、皆で耕すことはできるわ」
同じように高貴な生まれだというのに、おれの中では燃えなかった炎が悔しくて、眩しくて、憎らしくって目を逸らす。視線が熱い。
「畑を耕したことなんてないくせに」
「ま、そうね。畑は他人に任せて、わたしは交配と新しい品種の輸入を担当していたから。」
「それなのに、よくそんな知ったような口を」
「そうね。でも残念ながら、畑を耕し慣れた者がいつでも作物に詳しいわけではないわ。畑を富ませるのに、耕すだけではいけないのよ。だからわたしたちは考えるの、考えなくてはいけないの。なにを、いつ、どうやって? 誰に任せて、何を与えて、どこから始めるのか? 今までがおかしかったの。全てを聖女さまに丸投げして、華奢な背中に全員でのし掛かっていたのよ」
悔し紛れの言葉にも、女は微笑んだ。聖女の控えめなそれとは違う、傲慢な微笑みだった。
そう、そうだ。聖女不要の論を唱えるこの家は、ずっとそう言っていた。聖女が無能だからでも、役に立たない迷信だからでもなく、奇跡を除いたそのほかの国造りはおおよそ我々の為すべきことなのだと。
ひとりにしかできないことを、国の根幹に置いてはいけないと。
奇跡で成り立つ国は脆く、替えの利かない歯車で時計台を動かすなと、そう言っていた。
聖女がいなくなって、滅ぶのが王侯貴族だけならば良い。
国が荒れれば民が死ぬ。赤子が母の顔も知らずに飢え、己が子を助けるために男は他の村を襲い、そして全ては国から去った神と聖女を恨むのだろうと。──本来最期に恨まれるべきは、聖女ではなく、なにもしなかった国であるべきだと。
恨まれたくなかった。考えたくもなかった。間違えたくなくて、けれど褒めそやされたかった。
乾きが満たされたらそれで良いと思っていた。次に乾いても、いつでも与えられると甘やかに信じ切っていた。
「考えなさい、愚かな王子様。奇跡は神と聖女の御業だわ、でも、わたしたち只人にだって、大地を富ませることはできる!」
麦の穂はもう王都に実らない。おろかなおれは、それを認めなくてはいけない。
認めたくなくて、受け入れたくなくて、考えたくなくて。
けれど、彼女はがしり頬を掴んで、しっかと瞳を合わせてくる。サファイヤが輝いている。炎が燃えている。
暗闇の底から見上げる天のように、目を逸らすことは許されない。
考えなくてはいけない。
考えなくてはいけないのだ。
崖の上に立つような息苦しさで、泥に塗れた重たさで、炎に焼かれた痛みの中で。
けれど飲み込んだ唾液は、初めて喉を潤すような気さえした。
あなたのお嬢様の一人称は「わたし」です。
髪の色は綺麗な漆黒。
それから、白魚のような指先で、ずいぶんなお節介だとか。
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「そうだ、聖女さまはあなたが放った森からすぐ保護して、隣国の大使館でのんびり過ごしていただいているわ。奇跡は神頼みでしかないもの! 聖女さまは最後の手段にとっときましょ。十年後、百年後、続けていくためには誰にでも再現できる技術を確立しなくっちゃあ!」