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25年ぶりにやってきた妻の憑依

 憑き物、憑依、若年性認知症、言いようはいくらでもあります。25才離れ、25年連れ添った若かった妻が先に変わっていく。それを見て、受け入れていく男の話です。

献身を真ん中にした恋愛小説としてお読みくだされば幸いです。

 

 妻が憑依した。


 いつどこからといった線は見えない、まだまだそうした過程なのかもしれぬ。しかし、明らかに変わった、変わっている。

 ただ、なれそめがどこからやってきたかは、たいがいにわかっている。


 ふた月前の夜。


 先に布団に入って、まだ自分の寝息が聞こえる眠りの間口にいたときのことだ。


 スっ、スっー


 妻が布団を寄せてきた。和室に布団を並べて眠るのは結婚以来25年変わっていない。彼女は若い頃からベッドが嫌いだった。旅行に出かけるのも嫌がったが他人のベッドはもっと嫌がった。自分たちの布団が並んだ部屋で眠るのが最上なのに、お金と手間を使ってまで出かける意義をいまだに一つも納得してはいなかった。 

 

 だから、夜のそうしたことも、どちらかといえばはじめから淡白な方にもっていかれたように思う。

 25も離れたわたしにとっては、ハプニングのように時折渡ってくる逢瀬を受け入れ終わればお互いの布団にもどる習慣が、再び忙しい朝を迎えるための夜の眠りといっしょの相性のいい営みとして馴染んでいった。

 わたしたちの営みに、その後の妊娠、出産、こどもの赤い泣き顔は予定されていない。それは一緒になったときに(くさび)として打たれ、25年間続いている。


 それが、その晩からは違ってきた。少し冷え性な身体は熱く、毛穴の縮んだ肌のきめはたって、別の若い女が潜り込んだような錯覚を覚えた。激しさ、敏捷さ、貪欲さが、金のやりとりがあればこんな老体にも対応してくれるプレイの心地のまま、終わった。

 終われば自分の布団に帰る習慣も変わり、疲れに負けて先に寝入るわたしを見送るまで、彼女はわたしの布団の中に入っている。営みのあと熟成するため、その余韻に寄生する虫のような夢をきっと喰うようになったのだ。



 それが三日ごとにやってくる。


 営みのあった夜が明けた朝にも片鱗の匂いが立ち昇るようになった。付き合いたてや若い新婚なら、どうということはない。夜の余韻をまだ感じる幸福な朝だ。

 妻はどんどん若やいでいく。それを鏡で確認し、20代の顔を綺麗に作って、口紅まで仕上げる1時間半がとても幸福な時間のように過ごしている。

 ひとりで朝の仕込みを終わらせ、朝食も済ませたわたしに向かい、こころを求める。


 昨晩からの、たった今の、味わいを、暖かさを、幸せを、たくさんの飾り言葉を欲しがる。 


 寝顔に朝日を受けることのなかった早起きの妻は、その日、朝食を作ることも食べることも出来ない。

 

 昨夜からの幸せと自分の美しさに浸るのに精一杯で、身体も心もほかの日常に振り向ける手立てを持ち合わせてはいないから。


  昨日と同じ25才のままだ。

  この店をデートに使うどんな女の子よりも綺麗だよ。

  そのリップつかうなら、グロスと重ね塗りの方が合うかもしれないね。


 どんどん若やいでいく妻が覗き込む顔を正面から受け受け答えするのは、すべてに緊張する。綱渡りするような緊張感は、怖さ恐ろしさとは無縁でいられない。


 わたしは、初めて逢ったときから一度も感じることのなかったこのひとの中の女のオーラに噎せ返る。25才の彼女がそれを醸し出していたら、そこからが始まりであったなら、わたしはそのあとの25年をこうした別の人生に振り替えることはなかっただろう。


 

 そうした憑依は、店を出てからのお客への接し方のなかでも現れるようになった。

 毎日の日常のなかで、本人がそのことを意識するのはないんだろう。三日に一度のどんよりした朝を経てあとでも、ランチの下ごしらえや接客の入り方があまりに滑らかなので、昨晩から今朝までのことが作り物の記憶のように感じられることだってある。

 反対に、むかしどおりの先に布団を抜け出したのを見送り今日はいつもの日常と述懐した朝でも、夜の営業になって孫の誕生会を開いた3世代分の配膳を整えた帰りに大粒の涙を溜めて奥へと引き込むことだってある。


 始まったのはお客に背中を向けてからでなく、談笑の輪の中に入るところから始まった主賓の1歳の女の子の小麦ねんどみたいな掌、人差し指、中指と順々に触ってるときだった。

 わたしがこの店に入る以前から常連だった、わたしよりも妻に近い年齢のホスト夫婦の表情は硬くなり、そのひとたちの嫁さんなのだろう、初めて見るその女の子の母親の顔は一気に青ざめた。 

 この子に何かしらの危害が及ぶのではと、予感できないことへの緊張感がはしり、母親はその心情を隠そうとはしない顔つきになっていった。

 奥に引きこもった妻の代わりに、いくつか用意しているお詫びの言葉の中から、時間のたった粘土のように固くなった大人たちの顔を解きほぐさなければいけない。

「折角の穏やかで美しい夜に水を差すような真似をしてしまって、失礼いたしました。わたしたち夫婦には子供が授からなかったものですから。こんな可愛いお子さんをみると、つい・・・・・齢を取ると、どうしても感情の起伏が大きくなってしまって、お客様の前なのに、こんなはしたない真似を・・・・どうかお許しください」


 得体の知れないおおきな恐れは、その大きさのまま、憐憫の情へと右から左に傾いていく。

 青ざめた母親の頬は徐々に赤みを取り戻し、それを見ていた姑の目は緊張のほぐれと、奥様にそんな哀しい想いを感じさせてしまっての後悔の念が、少しずつ潤ませていく。女性特有の以心伝心は赤みを取り戻した若い母親にも伝播し、先程までの被害者の空気は加害者の心持ちまで上滑りする。

 ここまでくればとスパークリングを一本、「これは、わたしたちからの誕生日プレゼントです。どうか大人の皆さんで楽しんでください」といって差し出せば、また元通りお客さんたちだけの宴席は回ってゆける。


 こうした憐憫を誘う絵を見つけられるときは、まだいい。

 女性客、特に若い初顔の女性客にオーダー、配膳でわたしが近づくと、切り忘れていたスイッチを自分でいれたみたいに猛然とダッシュしてくる。

 初めてその顔を見つけた時は、あまりの別人の顔の掴みかかり取っ組み合いの勢いだったので固まって(ひる)んでしまい、彼女たちのお出かけ用のワンピースはコップ一杯分ではあるが水浸しになった。

 あとは、平身低頭。そのままの恰好では店から出せないのでタクシーを呼んで、タクシー代とクリーニング代といって包み、シャブリと一緒に恐縮している若い二人に恫喝する勢いで受け取ってもらった。 

 そのことがあってから、わたしはできるだけホールには出ないようにした。たとえランチ時の配膳にかかりきりになっている妻の横で長財布を持った主婦たちが行列を作ったとしても。


 そんなこんなでも、日常になれば慣れてくる。かたちは出来上がってくる。言うことすることをしたあとは、妻はさっさと自分だけ布団を敷いて眠ってしまう。10時間でも12時間でも、それが一周廻るまで眠っている。それがわかるから、わたしは後始末に専念できる。

  

 



 妻は閉経を迎えたらしい。

 はっきりと宣言はしてないが、更年期の言い回しで、そうした境遇になっているのを以前からほのめかしていた。この正月から数えて、それが続いているという。

 自分でそうと気づいてから半年近くたった日に彼女は(よわい)五十(いそじ)となる。25才の誕生日にわたしと一緒になって、五十を迎えた夜に憑依する。

 きっと、憑依した相手との結託があってこの日を選んだに違いない。


 わたしと妻は、ちょうど25才違う。誕生日はおなじなので25才の開きが伸びることも縮まることもない。気に入った箱を見つけると、そこにきちんと仕舞い込むことの好きな妻の性格から、この二人の一致はとても好感をもって迎えられた。


 そのころのわたしは輸入ワインを卸す会社に所属していて、この地方都市の小さな営業所に所長の肩書で体良く飛ばされた。

 二代目社長の趣味で一台だけあるルノーの営業車にワイン数本乗せて、ひとり、準備中の札のかかったレストランに飛び込み営業する。それが一日の主な仕事だ。いままでは、ワインとフランスの方ばかり見ていた生活から、この地方都市に住む人の顔だけを見て過ごす日常に馴れていきそうな自分に嫌気がさしてきたころ、彼女と出会った。


 言葉を足すなら、父親の急逝でレストランオーナーになったばかりの彼女の店にワインをもった営業に飛び込んだのだ。

 その日に何を話していたのかは覚えていない。きっと、使い回した営業トークのいくつかを順序をかえて並べていただけだと思う。

 美人ではあったが、父親の急逝と若いレストランオーナーの物語性あるオーラは感じなかった。きっと、厨房に立っているオーナーシェフがランチのホール用に雇った女の子だと思ったはずだ。きっと、わたし以外のあちこちでもそんな勘違いが多いのか、厨房に目を向けと「この店のオーナーはあちらです」と頭を下げ、丁寧に指で指示された。

「あらっ、片桐さんが新しく頼んだ酒屋さんじゅなかったの・・・・わたし、ほんとうに、勘違いしちゃって。どうしよう・・・・すみません」

 そう言いながらもナプキンを畳む手を止めようとはしない。その前はピスタチオの殻剥きをしていたのだろう。テーブルの前には、仕分けた殻と実が一杯入っているバットがふたつ並んでいた。

 浅く椅子に座り姿勢よく手だけ動かしている姿は、几帳面な小学生の女の子のあどけなさが前面に出ていた。  


 ーそのことのせい、なのか

 店を出て路地を拔け車両が行き交う通りの喧騒に戻ると、口元の笑顔がひとつまみ蘇った。そうして、次の営業に繋がるあてなどなくても呼び戻されるように何度も店に足を運ぶようになった。 

 

 「ほんとうに10月16日なの。それって、わたしと同じ誕生日」 

 1時間から2時間、挟むお喋りの(いとぐち)は、営業ではいったワインから。それから下手の横好きのフレンチへと話は続く。ベシャメルソースやコンフィした肉を冷蔵庫に並べてることで笑ってもらい、彼女の小学生のお手伝いみたいな殻剥き、テーブルセットで笑わせてもらう。

 けれども、彼女のこれまでに生活は聞かなかった。わたしが単身赴任の四字熟語を口にしたくなかったから。

 彼女も自分自身の話を緒にして、そこに踏むこむ仕草はみせなかった。亡くなったお父さんの話を前に出して、あからさまに二人の年の差をひけらかす野暮な真似も示さなかった。



 そんなお互いを等しく並べたお客様の関係でいるうち、わたしは彼女の箱に綺麗に納まってしまった。

 わたしは49,彼女は24だった。彼女のお父さんが生きていたら、その齢よりも一つ若かった。

 

 はじめは単身赴任の短いアヴァンチュールだと言い聞かせた。長くてあと3年。東京に戻れば、まだ10年ローンの残ってるマンションと同い年の妻と、彼女と同い年の結婚したばかりの双子の娘。どう転がったって、そこから切り離したわたしを見つけることは出来なかった。


 それでも人生は変る。一日で変わる。ワインの吟味はプロでも、料理は、趣味からお金をいただくまでに3年かかった。

 亡くなった親方へのお礼奉公だと割り切ってくれた片桐さんは、きっちりお義父(とう)さんの味を沁み込ませてから、出ていった。

「お嬢さんの仕出かしたことを親方がどう思うかなんて分かりゃしません。それでも、親方が生きていた証だけはきちんとこのひとにお伝えしましたから」

 片桐さんは最後までわたしを名前で呼ぶことはなかった。


 妻と娘ふたりに、彼女は一度だけ会いに行った。わたしたちの誕生日の前の晩である。

 そうなったと知れてから、向こうとの音信は斬られていた。それでも、わたしを箱に入れるため入っていた箱の始末をしなければならない。彼女は「箱は見えるから」といって、それを中途半端にすることは出来なかった。

 晩に遭うといって出ていったのに、最終便で帰ってきた。

 疲れた顔を想像していたが、出かけるときよりも晴れやかな顔をしてるのは意外であり、ほっとした。

 わたしは、きっと、ほっとした顔を見せたのだと思う。いまもそうだが、あのときも脇の甘い男だった。わたしというおとこは、女を肌の上からしか眺めていない。その下を眺めようとはしない。

 妻は彼女に約束をさせた。子どもは絶対に作らないで、と。娘の産んだ子と同じ齢の子どもがこの世に存在することには耐えられない、と言った。

 ー 二十代半ばの若いあなたに「子どもを産むな」なんて、随分ひどいことを言ってると思う。だから、わたし、これからは大好きだったフレンチ、もう一生食べないことにする。その分、あなたたちは大勢のひとたちに私たち三人の分まで食べさせてあげて。

 

 次の朝、彼女はわたしの妻になり、妻と双子の娘は、かつての妻と二人の娘になった。

 それから25年、わたしたちふたりは一日もこの店から離れることなく生きてきた。そして、店の扉を一日中閉めることはなかった。

 どちらか病気で床に伏せても店を切り回せるよう、下準備から料理、接客の全般を等しく身につけた。それは、身体を縛り付けて向かっていくというより、妻が仕向けていった日常の作法によってしらずしらず培われていった。


 わたしは妻に箱に入れられたまま、妻は自分の箱に自分自身を入れたまま25年が経った。わたしは75才、妻は齢五十(よわいいそじ)になった。





 それでも、かつての妻と娘からの近況は入ってくる。嫁いだ娘は、あのあとどちらも1年後に双子の娘を産んだ。血の繋がりだけをいえば、わたしは一挙に4人の孫娘ができたわけだ。

 「写真だけでも」と、こっそり頼み込んだら写真館で親子三代の6人の写った額入りの写真が小包郵便で送られてきた。

 受け取り時に妻がいなくて本当によかった。一度見た写真は再び梱包して物置の奥に仕舞うより仕方なかった。

 

 そのあとも、唯一の頼み事を忘れていなかったか。毎年の年賀状の中にそれぞれの娘から孫たちの写った写真が届くようになった。束になった賀状から手品師のように2枚だけを抜くわけもいかず、「あらっ、みなさん大きくなったのね」「可愛くなって」と一緒に「おじいちゃん、お孫さんまた増えてよ」と渡される。

 毎年かわりばんこに、片方の娘は新しい赤ん坊を抱いて、もう片方は妊婦でと、1年1年孫娘ばかりが増えていく。十年の間に、わたしは初めの双子4人と合わせて名前の教えてもらっていない孫娘が20人できていた。

 一度も逢わせてもらえない孫娘をみても、情の渇きは沸いてはこなかった。そう感じるだろうと思っていた湿り気もまとわりつかず、むしろ、同じ顔の双子の娘が交互に毎年、増殖し、変わっていく別世界を眺め俯瞰する気持ちの方が大きかった。

 1年1年が過ぎていく。それが孫の数となって目の前に現れてくる。けれど、それは、あちら様、寒くなり再び暑くなる世間様と同じ、向こうのこと。

 わたしと妻とこの店は何も変わらない。毎日の一日一日が繰り返されていくだけ。朝からの仕込みが始まり、昼営業を迎え、夜営業で閉じていく一日。あとは、明日のために夜が眠りが待っている。

 わたしたちが持ち続けているのは1日の日常だけ。それが身についたのは妻の作法で培われたものと思っていたけれど、ほんとうに、妻もそうであったのだろうか。


 あとになって、子供じみたふくしゅうだったと娘二人は悔やんで泣いた。娘が産んだ子は女の子ばかりだったが、知美、優香、小夏、小春の名前の4人だけだった。

 ーー ママが可哀想で、可哀想で。あんな残酷なこと言わされたママが可哀想で。子どもの産めないあの(ひと)に見せつけたかったのよ。パパと血の繫がってるたくさんの可愛い赤ちゃんたちを

 妻には隠していたつもりでも、物置に仕舞った額入りの写真も含めてすべては筒抜けだったようだ。娘たちの復讐の相手は、わたしよりも妻なのだから。もっと手の混んだ方法で、目に触れる方法で仕掛けたのだろう。

 妻は、娘たちと同い年だった。脇の甘いわたしなどとは違って、復讐してる娘たちの肌の下に隠れた寂しさや哀しさを味わいながら、たんたんとやり過ごし、約束は守り通した。

 それが、妻の矜持の持ちようだった。


 そんな娘たちの稚拙な復讐を聞いて、母はぽつねんを漏らした。

「わたし、あのひとが、そんなに長く、ずっと、そのことを守っていてくれるなんて、思ってもみなかった。そんな重みに負けてを渡したつもりなんてなかったのに。あの晩、お(なか)にたまってたモヤモヤを吐き出すのに、捨てぜりふ吐いたつもりなのに。ああたもあのひとも、ずっと昨日のことのように毎日毎日過ごしてきてのね_

 あとは、何も話さずしくしく泣いた。 

 こうして、わたしが此処に帰ってくることも、妻ははじめから見通していたのだろうか。

 あの椅子に浅く座って。





 病院に行く以外に店を閉めたのは今日が初めてだった。

 夜は無理でもランチだけでもと、今はお客さんに変わった片桐さんが中に入ってくれて、一日中灯りを灯さない日がないようにと骨を折ってくれている。

「どちらか床についても一日も休まずに25年間やってきたんでしょう。あたしでやれることがあったら何でもするからさ。せっかく築き上げたもの、途切らせないでよ」

 すっかり朝寝坊になった妻に合わせると仕込みの終わるのが11時になってしまうので、10時にやってくる片桐さんには途中からの交代となる。店に入るなり黒板のメニューを見ればいちいち説明しなくても、厨房周りと冷蔵庫を覗けば引き継ぎは終了だ。

「ほんと、クレジットカードなんかの使える店にしなくて正解だったよ」

 いつも片桐さんのその一言からやりとりは始まる。

「今日は病院じゃないんだ。天ぷら蕎麦が食べたいっていうんで」

「初めてでしょう。・・・・・そんなの」

「うん」

 当たり前だが、昼にせよ夜にせよ、人様に食事を提供する店が休みでも作らないで他店(よそ)に食べに行けるはずはない。それでも創意工夫と称して、わたしは暇な時期には月に二、三度外のものを食べた。息抜きもあったが、妻はそれに対してのやっかみはおくびにも出さなかった。

 ちょっとした後ろめたさも手伝って、「留守番するから」と、たまには外の風にあたるよう誘っても、「だって、食べたいって言ったら作ってくれるから、それでいいじゃない」と、ただただわたしの甘言(かんげん)を風に通すだけだった。

 中華でも懐石でも、一通りの感想を話したあと、それ風のものを作って食べさせた。それが賄いであり、妻にとって外の味になっていた。


「海老(くら)の天ぷら蕎麦が食べたい。ほんものの海老蔵の天ぷら蕎麦が」

 大海老でなく、此方で南蛮海老と呼んでいる甘海老をかき揚げにして熱い汁に落とした天ぷら蕎麦を食べたいと云う。

 フレンチだからクレープ用に蕎麦は使う。さすがに蕎麦きりは内輪でしか作ったことはないが、その店の天ぷら蕎麦を食べたあと、南蛮海老のかき揚げに惹かれて作って食べさせたことはあったが、そのとき妻から何か思い入れのある話しは出なかった。

 培った作法によって昔話は極力排除されている。自分の昔話をほぐすことは、わたしの過去を引き出すことに繋がるからか。脇をしめているあいだ、そんな(いとぐち)が現れることはなかった。

 だから、妻の昔話は、こうなった後に本当に肩の力を抜いて話せるようになった片桐さんの口からだった。


 「海老(くら)ねぇ。覚えていますとも。親方がクリスマスとお正月の仕込みで、小学生だったお嬢さんの手まで借りて家中をバットの山にしたとき、お(ひる)は決まってそこの天ぷら蕎麦でしたよ。そんなてんてこまいの日でもランチはきっちり休まずにやるもんだから、向こうの昼営業が終わるギリギリに持ってきてもらっても客の引いたあとで奥に入って食べる時分には蕎麦も天ぷらもすっかり汁を吸い上げて、なま(ぬる)くなった丼に箸を突っ込むあんばいになってるんだけど・・・・」

 片桐さんは四十年前の奥の間を見るように鏡台に向かって顔を作り始めた妻の横顔を凝視している。本当はここで一本吸いたいところなのだろうが、この店に客として訪れるようになった5年前からぷっつりやめたのを話してくれた。その年、奥さんを肺がんで亡くしたのだ。


 片桐さんの見ている横顔は、四十年前小学生だった妻なのだろうか、それとも同じく五十代で亡くなった奥さんなのだろうか。

「先に食べりゃいいのに、お嬢さん、ピスタチオの殻剥き、ずっと手を休めずにやってて、同んなじように汁を吸い込んだ丼が三つ並んで、親方、そのことには触れずに固めてあった割り箸それぞれに渡すと、小さく「いただきます」って言って、お嬢さんも「いただきます」って言って食べてたな。箸で掴むと千切れるから丼鉢こうやって口のあたりまで持っていって、流し込むようにしてね」

 わたしは気を利かして店の外に出た。しばらくすると口紅の仕上げをした妻もやってきた。いつも見送りに出てくる片桐さんは、今日は店の奥から出ては来なかった。



「アガベの花、咲いたみたい」

「良かったね。百年に一度、一生に一回しか咲かない珍しい花だもの」

「そう、とても珍しい花。いつも咲いてる綺麗な花よりも、わたし、そんな花の方が好き」

 病院へ向かうようになってからだ、妻が外へ出かけるようになったのは。もっとも、わたしの運転する車に乗って、いつもの路を車窓から眺めるだけだが。三っつの病院と、時たまこぼす懐かしい店を巡るだけの小旅行。

 そんなとき、決まって、裏庭の小さな温室に置いた南国の植物を浮かべている。特にアガベ。

 アロエベラに似た大きく育てばテキーラの原料になるリュウゼツランの仲間、百年に一度花が咲くセンチュリーフラワーもある中南米の植物。わたしが知っているのは、妻から聞いたことがらが全てだ。

 妻は、店を、家を離れれば離れるほど裏庭の小さな温室にいる植物が目の前に現れてくるように、その話をする。

 コウモリラン、モンステラ、ガジュマル、タッカシャントリエリ、そしてアガベ。


 海岸部とはいえ大雪になることもあるこの街で、南国植物を安全に育て続けるのは難しい。朝いちばんに外に出たとき氷の割れる音がしたときに全滅だった経験は過去に三回あった。

 そんなとき、へこみそうな気分のこちらをよそに、妻は店のことと家のことの隙間の中でせっせせっせと後片付けをこなし、1週間後には元通りに復元してみせた。

 どこをどう調達するのか、ひっきりなしにやってくる宅配業者に(ねぎら)の言葉をかけつつも、きまった動線を往復するようにそれは行われる。

 こちらは、妻の唯一の労いのことに口をはさむことはないが、あんなに丹精こめていて、一気に全滅したときも、取り換えなければならない種類と数を確認する顔だけだったのは不思議だった。


 あそこで毎日、妻は何を育てていたのだろうか。冬の寒気で一晩で全滅する植物に、気候もヒトも違う植物に、何を見ていたのだろうか。

 

 アガベの花が咲くのを見ていると、わたし大神楽(だいかぐら)を見ている気になるの。

 羽織袴姿の汗っかきの気合十分のおじさんが、脇の下から取り出した大きな唐傘(からかさ)クルクル回して、良寛さんがついてた綺麗な刺繡入りの毬をコロコロ回して、お正月用の真新しい一升升も角を立てずに合いの手加えて。それから、扇子を口に加えて、その上に、から傘、手毬、一升升を順々に乗っけて積んでいく。はらはらドキドキなのに、一直線に舞い上がって伸びていって、けっして落っこちるなんて心配しない。

 「はいっ」「おめでとうございます」

 紅白の羽織袴姿に変わった小さなおじさん、おばさんが、おめでたい熊手の祝儀はずむみたいに満面の笑みを浮かべて花を咲かせている。花になっている。

 そんな感じ。わたしが見ている、百年に一回、一生に一度のアガベの花

 

 

 若い女が降りてくる

 25年前に生まれ、今日が25才の誕生日の女が、今日やっと生まれ出たと

 わたしの身体に降りてくる

 あなたを抱いている身体は、わたしの身体、わたしの本当の魂


  ふたりともあの箱に入れていた自分を取り出して、もうそろそろやせ我慢はやめにして・・・・・

 


 「若年性の認知性ですね」若い医者は、その筋の解説本を読み上げるように平易に告げた。「閉経後の女性は、更年期の様々な症状から一歩進んで、そうなられる方も・・・・・

 椅子から黙って立ち上がり、勝手に診察室から出ていくわたしを医者はおろか看護師のだれも声を掛けようとはしない。それほど常軌を逸した顔でもしていたろうか。病院を出てから、そう思うと可笑しみだけが襲ってきた。笑うしかない。

 あちらこちらの医学書をこねくり回した理屈を並べているのを聞いて、いったいどうなる、なんになる。

 25年間一日も休まずにレストランを開いていた75才と50才の子どものいない夫婦が、夫ではなく25才年下の妻が痴呆になって、どんどん若くなって、離れていく。

 このあと何を話せばいい。いままでの何も話さないままで、これからのことだけを話すなんて出来るはずがない。わたしは何も話さない。語らない。

 いままでも、これからも、わたしたちのことは、わたしたちだけのものだ。


 若い魂を取り戻した妻は、その代償に岸のほとりに立ち尽くす。渡らないでと願っても川のせせらぎを止める手立てはわたしたちに残ってない。


 わたしが捨てた3人の女たちの復讐の果てなどではけっしてない。この結末はわたしと妻だけの持ち物だ。ほかの誰のものでもない。わたしは抱えているものが少しでも失われていくのが悔しくて、涙さえ出ては来なかった。



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