喫茶「ベール」
海沿いのガードレールは半壊しており廃退した町がそこにはあった。
旅を初めて幾ばくかの月日が流れていたころ、私は名前も知らない町にいつのまにか入り込んでいたようだ。
海風がひんやりと吹いてきて気持ちがいい。夏特有のしっとりとした暖かい風が私は好きだ。心の寂しさを埋めるのはいつだって暖かい事物だと思う。
私は腕時計を確認しようとするが辺りは月明かりだけで視界が悪い。腕時計に搭載されているバックライトのボタンを押すと、ぼんやりとブルーの発光がデジタル時計の表示を覆う。21時ジャスト。
大通りの方へと足を進めた。大通りのはずが退廃的な雰囲気が漂っていた。なぜか全く人の気配がしない。人影は見当たらず、店のシャッターはすべて閉まっている。しばらく我慢して歩いて行くと一つ暖かい明りが見えてきた。私はその方向へ歩みを進める。
喫茶「ベール」
私は喫茶店のドアをくぐる。若い女の店員がすぐに出迎えてくれた。
「お1人様でございますか?」
「そうだね連れはちょっと前までいたんだが捨ててきたんだ。はは」
「はあ、でしたらおすすめはカウンター席ですね。空いてますんでどうぞ」
私は店内に何人かいたテーブル席の親父連中の方にはなるべく見ないようにした。店員に連れられて進んでいくがどういうわけかカウンター席にたどり着けない。女を追いかけるように進んでいくと奥のドアに通された。
ドアに入ると座敷があるだけでカウンターなど見当たらない。
「あの・・・」
私はもの言いたげに店員に声をかけた。
「っふふふふ」
店員はゆったりとした動作で振り返り私と目があった。
「私ね実はここの店員じゃないの」
「だってその服」
エプロンをしているから店員だと思ったのだが、違うのか。
「これはねコスプレ」
どういうことだろう、コスプレってどういうことだ。私は暖かいコーヒーが飲みたくて喫茶店に入っただけなのに妙なことになった。
「ここはねコスプレ喫茶なの、さっきいた客たちはみんなサクラなのよごめんなさい」
女は悪びれる風でもなく告げた。
「冗談じゃない。私はコーヒーを飲みに来たんだ。帰らせてもらう。」
「待って、コーヒーは飲めるのよ。私を鑑賞しながら飲めるのいいでしょ。」
女を見ると確かに艶めかしい魅力があった。
「この町にはコーヒーはここでしか飲めないわよ、割高だけれどその代金は私とのトークも入っているからちゃんと喋った方がいいわよ」
なんなんだいったい。と思ったがコーヒーが飲めるならもうなんでもよかった。旅で疲れているし、女の声を聴きながら飲むブレイクスルーも悪くないと思った。
私はメニュー表を見ながらブレンドを頼む。
「この町に来てどう思った?」
「ずいぶん廃れていると思ったが」
「そうね町と言っても住人はほとんどいないわ、この喫茶店はあなたのような旅人を出迎えるためにあるの。町に喫茶店があるのではなくて、喫茶店に町がついているといえるほど何もないところね」
「ふーん。悪くない雰囲気だと思ったがな」
社交辞令として言った。
女はそれには答えず静かな時間がしばらく流れた。
「あなたはどうして旅をしているの?」
「特に理由はないな」
「あなた、ここで働かない?気に入ったわ」
「私が?」
「ええ、エプロン着ても似合いそうよ」
「しかし」
「あなた女の子だもんね」
そうして私はこの喫茶「ベール」で働くことになった。




