毒蛇
「……嫌だね。どうして俺が、そんな面倒なこと。王様なんて、ほかになりたいやつがたくさんいるだろ。そいつらにやらせればいいんだよ。──ほら、行くぞ」
俺は、それで話は終わりだという意志を乗せて、路地裏のメイド服の少女に背を向けた。
俺は別に、地位にも名誉にも権力にも、さして興味はない。
そういうのが大好きなやつが世の中にはごまんといるんだから、そいつらに任せるのが世の道理っていうものだ。
でもアルトは、納得してはくれなかった。
頑としてその場から動こうとせず、俺の背中に言葉をぶつけてくる。
「そいつらじゃダメなんだ。カイル、キミじゃなきゃダメだ。分かるだろ」
「分かんねぇよ」
「僕の両親は、僕が幼い頃に、村を襲った盗賊団に殺された。どうにか生き延びた僕が、必死になって街の前までたどり着いても、ポルプト教団の人たちが僕を拾ってくれるまで、誰も幼い僕を助けてはくれなかった。──僕はそれで知ったんだ。弱者には、生きる権利なんてないんだって」
「…………」
「なぁ、カイル。地位を、名誉を、権力を欲するやつに、善政が敷けると思うのか? 違うだろう。キミみたいな力ある善人こそが──」
「──ああもう、何なんだよお前!」
俺はアルトに向かって振り返り、我知らず怒鳴りつけていた。
アルトの言葉を聞いていると、何故だかイライラしてきたのだ。
「アルトお前、でかいことばっか考えすぎだろ! 俺らただの一般人がそんなこと考えてどうすんだよ」
「……ただの一般人? キミが? ──キミはそれを、本気で言っているのか」
「ああ、そうだよ! 現にただの一般人だろ? Sランク冒険者だろうが何だろうが、別に王様でも貴族でもない。俺はただ──ただ、毎日楽しく暮らせればそれでいいんだよ。それの何が悪い」
「……そうか。どうやら僕は、キミのことを買いかぶり過ぎていたみたいだ。……幻滅したよ」
「ああそうかい。勝手に幻滅してろ。……でもお前、俺に負けたんだから、俺の言うことには従えよ」
「──ふん。まるで子どもだな」
「……っ!」
ついに頭に血が上った俺は、アルトを無理やり地面に押し倒した。
人気のない路地裏のつきあたり。
そこで俺は、メイド服姿の少女にのしかかり、地面に押しつけ抑え込んでいた。
でもアルトは、押し倒されても、冷たい目のまままっすぐに俺を見ていた。
つまらないものを見るような、あるいは蔑むような眼差し。
そして少女は、まるで俺の心を食い破るバケモノであるかのように、にぃっと口元をゆがめてきた。
「へぇ、化けの皮が剥がれたな。僕にそうやって、無理やり乱暴をする気かな」
「……弱肉強食がこの世の真理だって言ったのはお前だろ」
「そうさ。──さあ、やるがいい。それはキミの理念の敗北だ。僕が正しかったんだってことを、いまキミは証明してみせようとしているんだ」
「…………」
……さすがに頭が冷えた。
俺はアルトから離れ、彼女を解放する。
俺が距離を離すと、アルトも立ち上がって、服の汚れをパンパンと払う。
「……今のは、俺が悪かった」
「そう。でもこれで分かっただろ。今のが人間の本性さ。キミのような善人でもそうなるんだ。いわんやほかの人をや、だよ」
「その、俺が善人って言い方をやめてくれ。俺はそんなんじゃない」
「いいや、やめない。さっき僕は、キミに幻滅したって言ったね。キミという善良で有能な個人に、僕が勝手に幻想を抱いていたんだ。でも今は違う。しっかりキミを、人間なんだって認識した。その上で──やっぱりキミは、善良だよ」
「……くそっ。勝手にしろ」
俺は路地裏から立ち去るべく、アルトに背を向けて歩き出す。
正直もう、アルトに干渉しようっていう気は、まったくなくなっていた。
このままここで別れてしまってもいい。
ターニャとの約束は破ることになるが、もうそんなのどうだっていい。
冒険者ギルドに行って、アルトのことをどうするかターニャに報告してやりにいこうと思っていたけど、それもどうでもよくなった。
それよりも、この落ち着かない気持ちをどうにかしないと。
家に帰って、ティトやパメラに慰めてもらうか?
いや、何だそりゃ。
言い訳もできないぐらいのクズだろそれじゃ。
俺はどうも、自分のことをダメ人間だとは思っていても、本当のクズとは一線を画しているつもりでいるらしい。
そこまでは堕ちたくないという気持ちがある。
でも、アルトの言葉は。
そんな俺に、突きつけてくるんだ。
実際大差ないぞ、と。
お前もそういうものと同類なんじゃないか、と。
だから苛立つ。
違うと否定したくても、否定できるだけの材料がない。
アルトの言葉は、俺という人間の醜さの、本質を突きすぎた。
責任が嫌いだ。
義務が嫌いだ。
強制が嫌いだ。
俺は、俺の両腕に抱えられるだけの世界を抱えて、心穏やかに暮らしたい。
ティトやパメラやアイヴィぐらいだったら、今の俺の力があれば、抱えておけると思う。
その小さい世界だけで、俺の幸福は完成するんだから、それでいいんだ。
そう信じていたかった。
──でも、もうダメだ。
アルトは俺の心に、猛毒を宿した牙で噛みついてきた。
馬鹿なのは俺だ。
好奇心で藪をつついて、出てきた蛇に噛みつかれて、毒に犯された。
俺の増長が招いた失態だ。
つまり、アルトはこう突き付けてきたのだ。
お前が幸福を享受しているその間に、この世界のいたるところで、不幸な出来事が起こっている。
不幸になっている人がたくさんいる。
お前にはそれを救う力があるのに、見ぬふりをして、自分だけの楽園に浸っているのか、と。
本音では、そんなの知ったことかと言いたい。
世界中のすべての人を救おうと思うなんて、おこがましいにもほどがある。
だいたい、世界中の不幸をなくそうなんて考えたら、RPGのラスボスまっしぐらだ。
どこかで絶対、目的のために手段を拗らせるに決まってる。
──でも。
俺がいま持っている力を使えば、もっと多くの人を不幸から救えるんじゃないかって言われたら、ぐぅのねも出ない。
そのぐらいの異常な能力を、確かにいまの俺は持っている……気がする。
俺に与えられた力は、俺自身の幸福を実現するだけのために使うには、あまりにも過大なんだ。
そして、アルトの言う「この世界の王になれ」というのも、理屈としては、分かってしまう。
草の根的に人を救って回ったって、そんなものには限界がある。
根本から何かを解決するには、世界を統括・統治をしている世界のトップにアクセスするしかない。
それがつまり、王という存在。
そしておそらく、今の俺には、その気になれば、それになるだけの力がある──
「……くそっ」
気が付けば、街の大通りの、人の雑踏の中を歩いていた。
周囲を歩く人たち、露店で客を呼ぶ人たち、色んな人がいる。
俺はその気になれば、この人たちをまとめて、虫けらを潰すように命を奪うことだってできるだろう。
そんなことをしてどうなるって言えば、俺の今のむしゃくしゃが少しは晴れるかもしれない。
そしてそんなことが頭に思い浮かぶ程度には、今の俺はテンパっていた。
「カイル」
後ろから、アルトの声。
俺は立ち止まることなく、振り返ることもなく、通りを歩き続ける。
「……ついてきてたのか」
「ああ。僕はキミを、この世界の王に押し立てることに決めた。キミみたいな逸材を、誰が逃がすものか」
「ざけんな。何で俺が、お前の意のままに動いてやらなきゃいけねぇんだ。犯すぞクソガキ」
「やってみなよ。僕を陵辱すれば、それはキミの烙印になる。もう後戻りはできなくなるよ」
「……舐めやがって。来いよ、お前が浅はかだってこと、思い知らせてやる」
──イライラが、頂点だった。
俺はアルトの手をつかみ、先とは別の路地裏へと連れてゆく。
アルトはただ、俺の為すがままに従った。
理性が働かなかった。
感情と、暴力的な衝動だけが俺を突き動かし──
──俺はそのまま、取り返しのつかないことをしてしまった。




