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星の泉  作者: 詩穂
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31話 胡蝶の夢②

サフィ・ヤナ(17) 王国軍長官ペチュウ・ヤナの長男 正義感が強く、温和な少年 見た目だけは男装の麗人のようだが、ちゃんと男である。


ルートヴィヒ・ラドカーン(33)王国魔術師の若き天才と言われている存在


アンジュ・クラント(16) エルの人格に、スイの身体からフィードバックを受けた結果生まれた存在。入れ替わりが解消された時点で消滅。

ウィル・ザ・スミス(20) アンジュ(エル・ウォッカ)の同室 面倒見がいいお兄さん 善人

ルサリィ・ウェンディ(24)神獣ウェンティの力を持つ風使い すべてを受け止める優しい女性

ンヴェネ・ルーイ(26)様々なことに理解を深めようとしてくれるリーダー

ルジェロ・ビトレーイ(19)アンジュの言葉によってより目的を冷静に見極めるようになった青年


※オルガンの話から年明けしているので、皆の年齢を一つずつ上げました。


「アンジュ、1か月ぶりですね。」


 つややかな黒髪を揺らして、王国軍長官の息子であるサフィ・ヤナが駆けてきた。彼は、北の砦で国境警備隊の隊長補佐として現在仕事をしていたはずで、3月の建国記念祭に合わせて王都に戻ってくるような話をしていたが、かなりの前倒しで戻ってきたらしい。


「サフィも元気そうでよかった。」

「ええ、勿論。アンジュが竜を出したでしょう。あれ以降モンターニュ側が大人しいんです。」


 国境警備隊で、身を預かってもらっていた時、何か役に立とうとして脅しとして竜を魔術で作成し、隣国側を撤退させた。その時に、何か怪我をさせたり、壊したりはしていないが、そんなものは大した問題ではなかった。


「ん……、あ、あの時何も考えてなかったけど。」


 国境警備隊も、いつもうろちょろとするモンターニュ側に、毎回警告を出して追い返しているのだから、当時の「結果」は同じではあったが。


「俺、もしかしてやっちゃいけないことをしたってこと、か。」

「お気になさらず、国境警備隊に属する我々としては、よかったんですけどね。王都で足を引っ張る連中には……まあ、効いたようですね。」


 あれは、いつものモンスター討伐ではなく、国境争い。いわゆる国同士の争いだが、ただのモンターニュの関係だけではない。国内の様々な政治が絡み合っている。


「王都の魔術式防御システムだけでも、なんか色々起きてるけど、それだけじゃないんだな。」

「本当に気になさらない方がいいですよ。次期ヤナ伯爵のわたくしがいっても説得力がないと思いますがね。」


 サフィもまた、ヤナ伯爵家の人間で、中央の政治側だ。サフィが北の砦で、アンジュの性格や能力から好意を抱いて仲良くしても、はたから見れば、アンジュに取り入ろうとしている貴族でしかない。その説明の上で、サフィは気をつけるようにとアンジュに伝えた。


「アンジュ、私を初めとする政治を動かす側の貴族には気をつけてください。彼らは今簡単に3つの派閥に分かれているのです。①貴方を取り入れて管理したい、②管理できないので貴方を処分したい、③管理もできないが、処分もできない。現状維持。」

「……へえ、……なんか、ごめんなさい。」


 500年前の時は、エルの影響があまり出なかったのは、エルが子供すぎて完全にある男の支配下にあったのだが今はそうではない。


「ヤナ家は実は③です。正直、アンジュを管理しようも処分しようもしてはいけないでしょう。烏滸がましい。そもそも、できませんが。」

「それは……。」

「ただの政治家目線の話をさせていただくとですね。アンジュは民草として、静かに生きて欲しいです。政治の要とするには劇薬すぎますから。」

「……それは、俺も同じだ。人を殺してなきゃそんな変わらないと思ったけど。」


 兄が、災害現場で悪戯に命を救うなと言ったが、その意味を現場に行ってから理解した。あれは、急に個の救出から公の救出になってしまうのだ。


「……なるようにしかなりません。春祭りは色々とこちらの状況が整わないので、通常通りとなりますが、建国記念祭はどうなるかわかりません。」

「どういうこと?」

「いいえ……、私から申し上げることはございませんでした。お忘れを。」


 サフィの折り目正しい礼に何も言えなくなってしまう。


ーーー


 王都の魔術式防御システムが、稼働停止する当日。王国軍は、民には分からないように私服の騎士団を配置して、異変にはすぐ対処できるように準備をしていた。

 五星士のメンバーは、いつでも出撃できるようにいつもより軽い鍛錬を続けていた。

 クルルはスイの頭に乗っかり、魔力でできた蝶を周囲に飛ばしながら、新しい学術書を開いているアンジュを見ていた。


『何か面白いことが書かれてるか?』

「力学の話だよ。便利だなぁと思ってさ。熱伝導が今の魔導技術の根幹を担ってて。」

『ひ、人の学問は奥深いな。』

「エル、それを語るのはやめてやれ。ユピテルは、人の文字を追うので精一杯だから。」

『スイ、余だって一時は、神獣の中で頂点に立った存在だ。い、いつかは分かる。』

「声震えてんじゃん。」

「仮にも神獣なのに、スイはクルルにも辛辣だな。」


 クルルを弄るスイに、ウィルは呆れる。スイの中では、クルルは揶揄っていい存在として認識されているようだ。


「ウィルも結構クルルを揶揄っているよな。」

『余の味方は、エルだけだ。』

「……それは、そうかも。クルルがあまりにも…俗っぽくって。アンの方がよほど人外感あるよ。」


 今も幻想的な蝶に囲まれているしとウィルが言うと、クルルはなんとも言えないような表情をする。

 そこへサフィがやってきて、その少女めいた面差しを微笑ませていた。


「皆様、お揃いですね。」

「誰、この美少女。」

「ウィリー、ヤナ長官のご子息だよ。」

「失礼しました!」


 土下座する勢いで、ウィルは頭を下げるが、サフィは慌てて顔を上げさせる。


「気にしないでくださいね。今の私は伯爵ではなく、ノスランド領、国境警備隊隊長補佐ですから。改めまして、サフィ・ヤナです。ルーイ大尉もお久しぶりです。」

「北の砦ならまだしも、王都では流石に厳しいですよ、ヤナ隊長補佐。」


 北の砦であれば、サフィの意向通りに気安い態度を取れたが、この中央では目が多い。しかし、サフィはニコニコとしたままアンジュに目をやる。


「大丈夫ですよ。ね、アンジュ。」

「今ンヴェネに言われたからちょっと不安だよ。」

「あらあら、昨日申したでしょう。」

「そう言う意味だったか?」


 貴族には気をつけろとしか言われた記憶しかなく首を傾げると、サフィは冗談らしく口を尖らせた。


「貴族は貴方を処分することはできないと。それは、何があってもですよ。」

「……つまり?」

「貴方が私に何を言おうと、関係ないのです。」

 

 サフィ・ヤナが伝えたそれは、アンジュ本人よりも周囲にいた他の人間の方が言葉を失った。

 ここで明確にサフィは、「貴族はアンジュが頭を下げる存在ではない」という事実を与えた。

 それは、つまり———。


「なんか、騒がしくない?」

 

 サフィの言葉で静まり返った鍛錬室で、遠くから騒々しい足音が響いている。ルジェロは眉を顰める。


「おかしい。」

「だね、ルジェ。僕らはモンスターの襲来や竜の一族と会敵した場合はシミュレーション済みだ。」

「エル。」


 想定ではないことがおきているのを察したスイとクルルがアンジュを見やると、その目は冷たく赤く光っていた。


「……ごめん、忘れていたよ。」

「エル!」


 謝罪を口にする唇は、不自然に笑っていた。


—————


「何をしている!」


 その騒ぎが起きていたのは、王国魔術部隊、魔術塔の「結晶の部屋」と称される王都全体を守る魔術式を運用している部屋だ。世界でも類を見ない1ヤードほどの巨大な魔力結晶が置かれており、赤く光り輝いている。


「停止が、停止ができないのです!」

「そんな馬鹿な。」


 慌てふためいている魔術師たちを、ルートヴィヒは冷めた目で見ていた。彼らは必死に文献を漁り、その魔術式の解明に努めてきた。しかし、再現性がなく他の重要な都市拠点、それこそ北の砦などに用意することができなかった。

 それでも動いている魔術式の稼働停止位、できるはずだった。


「残念でしたね、それは人の手には余るものです。」

「だ、誰だ。」

「初めまして、では、ないと思いますが。」


 それは、音もなく現れた。当然だ。

 彼に身体がないからだ。


「その魔術式防御システムの『サブシステム』であり『削除システム』のエリヤです。」


 ルートヴィヒは、その感情を持たないエリヤが、ニヤリと笑ったのが見え、心が冷えた。


「貴方たちがこの魔術システムを停止するためにいれた”コード”ですが」


 エリヤは、アンジュと同じ白いマントを翻して、”ほほ笑んだ”。


「残念なことに、僕への命令をもう一つ起動する、”コード”ですよ。」

「命令……。」


 もともと、エリヤに与えられた命令は、二つ。それは、アンジュ自身が語ってくれていた。一つは、会話を学習すること。二つ目は、非常時この魔術式を永続的に利用できなくさせるということだが、今彼はもう一つ与えられた。

 あの”非日常”の部屋を持つ主が作った隠した命令、ルートヴィヒには信じることができなかった。ルートヴィヒは、雷を起こす魔術式を手に隠して訊ねる。


「なにをいいたいのだ。」

「ルートヴィヒ・ラドカーン、貴方は何度か僕に尋ねましたね。」

「……どれのことかな。」

「天才のエル・ウォッカが何を作りたかったのかって。」


 エリヤは、手を掲げた。


「”人間”ですよ。」


 大きな爆発が起きた。ルートヴィヒが結界魔術を使わなければ、目の前の魔術師は死んでいただろう。


「……なにがしたい。」

「なにって、それを壊そうとする人間は敵です。敵は排除いたします。」

「もともとこの廃棄を訴えたのはエル・ウォッカだが?」

「エル・ウォッカはエル・ウォッカです。しかし、僕はエリヤです。」

「無意識領域を間借りしているくせに、一丁前に独立性を語るとはね。」

「そして、エル・ウォッカに助けを求めます?無駄だと思いますけれどね。」


 1人の魔術師の炎の攻撃魔術が発動したが、彼は身じろぎもしなかった。しかし、そのただの情報体でしかない彼にはなんの意味もなく通り抜ける。


「そうでしたね、僕には体がない。これでは人間足り得ない。」


 ルートヴィヒの魔術も通常の人間なら頭が飛ぶ状況だったが、通り抜けていった。


「僕を完全に動かすのを止めたいのであれば、そこの魔術結晶を粉々に砕きなさい。それしか道はありませんよ。」


 それを壊すことは、何を意味するのか。 

 魔術師たちは、息を呑むことしかできなかった。


ーーーー


「新入りくん、何が起きているのか分かる?」


 クルルとスイによってがっちり捕まえられているアンジュは、冷たい目で笑う。


「しばらくこちら側は何も起きないし、魔術式も無事だよ。稼働停止すること“すら”できなかったから、魔術部隊が騒いでいるんだ。」

「アンジュ……、何故笑っているの。」


 ルサリィの不安そうな顔を見て、アンジュは悲しそうに眉を下げた。


「ずっと、忘れてたんだ。」

「まだ忘れてるものがあったのかい?」

『やめなよ。』

「この際はっきりさせようよ。僕らは背中を向け合う存在なんだから。」


 ンヴェネは、アンジュの言う通りならば、何も動くことはないのだからと言って、アンジュに真相を語るように促すと、とくに拒むようなそぶりはしなかった。彼の言う精神を落ち着かせる魔術が強く蝕んでいる証拠だろう。


「忘れていたのは、何故、人を殺したのかと言う話だ。」

「今まで虐げられたことによって、溜まりに溜まった鬱憤からきた衝動で殺したんでしょ。」

「それも勿論正解。」


 でも、と続ける。


「僕は人間が作りたかったんだ。」


 スイの頭に、あの時の光景がよぎった。老若男女問わず、バラバラになった死体。切り開かれているものもたくさん存在していた。そして狂った先に、その目的は消え失せてただの大虐殺になった。


「エル、魔術を消させるぞ。今のお前は、感情を消しすぎて人間への慈悲もない。」

「……そういえば、あの男も言ってた。その魔術は使いすぎると、逆に精神を壊すって。」

「それが、お前があの時言った『最初に殺した人間』か。」

「そうだよ。」

「ユピテル、エルの精神にかかってる魔術を消す。手を貸してくれ。」

『……とても、恐ろしい。今はかなり深く魔術がかかっている。』


 サフィに謝っていた頃は、それほどまでには強くなかったはずだ。スイはエルの頬を鷲掴みにして顔を向けさせる。


「エル、俺は、お前の感情があることを愛しているぞ。例え、それで何人の人間が死んでも構わない。」

「兄さん、人間を作りたかった。大好きな人が、あの男によって蚕にされた。信じて。信じて。だって、あの子が、僕に外の世界を教えてくれた。だから、僕は。」

「かいこ……絹。」

『そして、死んだ蚕を、魔術で動かしていたな。スイ、きっとそれは慈悲だったのだろう。羽ばたけない蚕を、他の蝶や蛾のように動かしてたんだ。』

「兄さん。」

「エル、お前はミルフィーと生きていたいんだろ。ミルフィーは弱くても優しいお前が好きなんだ。未来を生きろ、エル。過去なんて忘れてもいい。」


 スイの願いは、エルにかかっている魔術を優しく溶かす。しかし、それは幾重にも重なった防御の盾を消すことでもある。


「あ、ああああああああああ」

「す、スイ、大丈夫なの。」

「何が起きてるんだ。」


 スイがエルにこびりついた精神を落ち着かせる魔術を剥がしているにすぎないが、喉が擦り切れそうな叫び声を上げるアンジュに、ルサリィとウィルは心配そうに声をかける。


『スイ……。』


 クルルですら、不安そうだった。


「エルが苦しむのは当然だ。本来のエルは虫を殺すのですら泣いていたんだ。それなのに、ここまで歪んだ。そして、どんどん強い魔術で暴れ出す感情を抑え付けたら、何が起こるのか分からない。」


 スイの必死さにも、ンヴェネは苦言を呈した。


「護衛くん、キミもまた矛盾している。『もう殺したくないから』、新入りくんはその魔術を使っていたんだよ。」

「分かってるよ!でも、今度は感情を消しすぎて、人をなんとも思ってないんだ!」

「それは、キミが正しいんだろうね。いつも合理的だ。」


 けれども、ンヴェネだってずっとアンジュのそばで話していた。スイは聞かない魔術の話をンヴェネは聞いていたこともある。


「けど、今スイは、アンジュの感情に影響を受けてるんじゃないの?」


 ンヴェネが、それぞれの名前を呼んで、尋ねると、スイはエルの頬を掴んでいた手の力を緩めた。


「エル、俺はエルがもう人に振り回されているところを見たくないんだ。」


 アンジュのつんざくような悲鳴は、徐々に弱まった。その赤い弱々しい瞳は溶けそうなほど涙を溢していた。そして、悲鳴ではなく、静かにそれは言葉となっていった。


「僕は何度も壊れた。最初は父さんの首が落ちた時。2回目は、使役術をかけられた時。魔術の実験台にはされたし、病気にはさせられたし、寄生虫も身体に入れられた。目は抉られるし、手足は持ってかれる。森の世界のことは忘れた。幸福な時間があったことを思い出すと縋って死にかけてしまうから、今の理不尽な世界が当然だと思わないといけなかったから。3回目は、外の世界に逃げることができると教えてくれた子が、あの男によって蚕にされた時、4回目はあの子が僕を恨み、絶望しながらその魔術にかかったことを知った時、5回目は、鳥の神獣によって蚕が死んでいると伝えられた時、6回目は、魔術塔の奥で父親の首の無い死体を見つけた時。」


 ぽつりぽつりと語られるもの、その時を救いたかった。

 エルの語り口は静かなのに、彼の鼓動は異常に速い。


「エル。」

「7回目は、人間を作れないことを悟った時だった。」


 スイはエルの体をかき抱いて、強く抱きしめる。その告白に五星士たちも耳を塞ぎたくなるが、必死に塞がない。クルルは自分のしでかしたことの大きさを感じ、口を開けなかった。


「今、あの子にならなかったエリヤが、王国魔術部隊で暴れてる。ルイスの抵抗で死人は出てないけど、時間の問題だ。」


 スイの顔を手で確かめるようになぞりながら、アンジュは訴える。


「エリヤは、あの子と違ってすぐに治癒魔術を覚えたし、祭祀言語も得意だ。全然似てない。全然あの子にはならなかった。」

「ああ。」

「エリヤは肉体を持たないし、魔術部隊が貴重な魔力結晶を粉砕するはずもない。エリヤを止められるのは僕だけなんだ。けど、けど。」

「うん。」

「あの子にはならなかったのに、俺はエリヤを消せない。」


 そう訴えるエルに、スイは自分の髪をかき乱した。


「王国魔術師たちは自業自得だろ。死んだって構わない。」

「けど、彼らの全滅は……。」


 悲痛な声を交わす双子の脇で「うっし」と明るく軽い口調でウィルは声を上げて、軽く柔軟をしてから自分の斧を担いだ。


「アンって実はエリヤとそんな喋ってねえだろ。実は多分俺が一番仲良いと思うんだよな、今度酒飲もうって約束したしさ。」


 あの話を聞いてもなお、普段通りの笑顔で任せろと胸を叩く。


「ウィル。」

「俺も王国魔術師はどうでもいいけど、エリヤは止めたい。約束したからな。」

「ウィル、私も行くわ。」


 努めて明るい声でそう言ったルサリィが立ち上がり、ウィルの後に続こうとするとサフィが手を上げる。


「お二人は全然貴族の世界が分からないでしょう。魔術塔に入るのであれば私が案内します。」


 そうして、3人がバタバタとその場所から去っていった。エルはスイの顔をなぞりながら、涙を流し続ける。


「エル。」

「エリヤに、頭の占有率を取られている。兄さんの顔も、よく見えない、分からない。」


 そこにいるはずなのに、抱きしめている者が存在しているはずなのに、それが兄だと知覚できない。手触りで確かめているはずなのに、それが感じられない。


「……おい。ウィルに消す方向で頼むべきだったんじゃねえのか。」

 

 スイが不安そうにアンジュの頬を撫でる。茫洋とした瞳にはスイが映っていないから、そばから離れていないことを示す様に。ルジェロが、剣を一度鞘へしまい、鍛錬室から出て行こうとするのを、ンヴェネは引き留めた。


「ルジェ。」

「知らん。俺は竜の一族を殺せるのならそれでいい。」

「じゃあ、君はどこに向かうというんだ。」


 この王都の魔術式防御システムは、竜の一族ですら侵入を防ぐものだ。スイ・ウォッカが、王都に入り込めたのは、エル・ウォッカと双子だったからに他ならない。それは、製作者のエル・ウォッカからンヴェネは確かめている。

 だから、システムがまだ稼働しているというのなら、竜の一族が襲来することはあり得ない。


「その双子は、竜の一族を引き寄せる。」

「……そうだね。この数か月で、この5年よりも竜の一族と会敵している。」

「ならば、俺も利用させてもらうために、まだこの国にいさせる。」


 今はもういない消滅した人格のアンジュ・クラントが言ったことだ。利用できるものは利用しろと、それをしないのは死に場所を探しているだけだと。ンヴェネは、ルジェロの真意は言葉のみには現れないことを知っている。


「……僕より上の立場の人間の指示には従いなよ。勿論、王国軍側の、だけど。」

「当たり前だ。」


 ンヴェネは、部屋から去るルジェロの背を見守りつつ、兄弟たちのそばによる。アンジュの身体はどう見ても限界であり、可笑しい。


「唾が飲み込めてないし、おそらく耳も聞こえてはいるけど、言葉として捉えてなさそう。」


 動かないようにしているスイやクルルの制止が聞こえていないし、反応が返ってきていない。


「俺が、エルの魔術を壊したせい。」

「けど、護衛くんがその魔術を壊さなければ、きっと僕らは魔術塔で何が起きていたかを知る由もなかった。話す価値もないと判断されて。」


 ンヴェネはそれを口にしてようやくそういうことだったのかと気づいた。


「魔術塔で、エリヤが暴れ始めて、そうして漸く新入り君は『人間が作れない』という当たり前のことを理解したんだ。そして、自分の崩壊を理解して今まで以上に強い魔術をかけた。」


 突きつけられたスイは、ンヴェネを睨んだ。

 

「つまり、俺に対する罵倒か。エルを守ると言いながら、俺がしたのはエルを崩壊させて人間を守ったという。」

「結果論だよ。」


 返された言葉に口を結んでスイは、見開いているのに、何も映していない瞳を閉じさせて気絶させる。ミルフィーがいてくれれば、きっと取り戻せるはずだが、自分の中にいる”アンジュのかけら”が、ミルフィーを巻き込むことを許さない。


「今の現状はエルの望みである『エリヤを存続させたい』というものがそうさせた。護衛くんのせいではない。」

「そもそも、あの時俺がエルの手を離したから。」


 500年前、エルと離れ離れになった時から、エルは何度も壊され続けている。そして、最後は自分自身の魔術と限界によって。

 何かを言いたかったが、しかし、ンヴェネも痛いほどスイのことが分かる。あの時、弟から目を離さずがっちりとつかむことがあったら、ルーグ王国の砲撃によって弟が死ぬこともなかった。


 今、目の前で弟の身体を抱き寄せて泣いている金髪の青い目の少年は、スイなのか、それとも自分なのか。ンヴェネには分からなかった。


――――


「なぜここにきた、ヤナ殿。」

「王都の魔術式に異変があるのはご存知でいらっしゃいます?」


 魔術塔の入り口にいる衛兵に、サフィは憐れみつつ和かに微笑む。


「しかし、王国軍が介入するべきではない。」

「そちらが魔術式を上手く管理できていないおかげで、こちらに酷い影響が出ているのです。わたくしたちは強行突破もいといませんが?」

「なんだと。」


 衛兵が手に持つ槍を向けると、サフィはあらまあとふざけた声色で続ける。


「それに、頭が高いですよ。ただの衛兵風情が、ヤナ子爵に対して。」


 腰に差していたレイピアを鞘ごと抜くと、槍を地面に叩き落とし、そのまま衛兵の頭を殴り気絶させた。


「すみません、緊急事態でしたので。」


 気絶させた衛兵を、壁にもたれかけさせ、サフィは背後にいたルサリィとウィルに視線を送った。


「物理で中に入るなら、俺らと変わんなくありません?」

「私であればクビは飛びませんが、あなた方の場合最悪処刑されますよ。」

「……お気遣いありがとうございます。」


 ウィルは、常に穏やかな微笑みを湛えるサフィの裏が見えず恐怖を抱きながら、魔術塔の中へと進む。不自然に人がいないが、それでも上の方で騒いでいるのがわかる。そこに人が集まっているのだろう。


 一つ一つ階段を登るたびに、空気が重くなるのを感じた。先陣を切るサフィが、腰に差さるレイピアをずっと握っている。初めてカレを見た時、ウィルは美少女だと誤解したし、その後は綺麗な貴族の御坊ちゃまだと思っていた。が、たかだか数刻でその印象はガラリと変化した。


 そのようなサフィに対する感情を塗り替える匂いと音がする。


「ったく、こうすると普段戦いに参加していないことを後悔するな。」


 知ったルートヴィヒの声が、いつもの余裕たっぷりの声ではなく、非常に強い焦りを抱いていた。


「何故守るのです、ルートヴィヒ・ラドカーン。」

「流石に人を殺すのは、罪だよ。」

「王国魔術師にそのような論理はありません。今、あなた方が使っている魔術にどれほどの屍が積み重なっていると思っているんですか。」


 声変わり前の少年の淡々とした声、ウィルやルサリィもよく知る魔術式防御システムのサブシステムであるエリヤが、王国魔術師たちに向けて炎や水の攻撃魔術を展開しているのだ。


「エリヤ!」

「ウィル・ザ・スミス少尉に、ルサリィ・ウェンディ少尉、それから、サフィ・ヤナですね。」


 一度攻撃魔法の展開を止めた。好機とみた魔術師の魔術は彼の体をすり抜ける。


「全く。早く学習してほしいですね。あなた方の攻撃では通らないと。」

「エリヤ、やめてくれないか。」

「何がどうしてです?」


 話すエリヤに苛立ちが見える。それを一度もウィルは今まで見たことがない。何故なら彼が否定していた。497年間集めた人間の記録から最も近しい感情を出力することは可能だが、それは彼自身の感情ではない。だから、無意味であると。

 


「アンが、お前を止めてほしいと。」


 ウィルが告げると、その苛立ちを抱えたままエリヤは首を傾げる。


「本体が、僕に人間であることを望んだんだ。」

「アンは言っていた、人間は作れなかったと。」

「身体はまだ手に入れてませんが、手に入れたらもう人間になれますよ。そしたら、ウィル・ザ・スミス少尉と約束したように、お酒も飲めます。態々本体に頼まなくても。」


 ルートヴィヒは、嬉々として話すエリヤに告げる。


「君は言った。“稼働停止”コードを入れた時に、『人間になれ』という命令が起動されたと。それを用意した500年前きっと、エル・ウォッカは自分の手から離れた後にこの魔術を奪われることを恐れた。だから、自律する君に判断をさせるために、その命令が動くようにした。」

「なぜそんなことを。」

「あの狂った部屋には、彼の手記があった。」


 ルートヴィヒは古ぼけた草子を手にしていた。狂った部屋の中にある、彼の感情を見つけた。


「エル・ウォッカは、この魔術式を作成する間に、とある男に幸福虫と呼ばれる寄生虫を身体に入れられて自分の判断を奪われたことがあったらしい。」


 アンジュが漏らした告白の中にも寄生虫の話があったと、ウィルは耳を傾ける。その虫の効果は、不安感と危機感を消し、一種の催眠状態に陥らせることができるらしかった。


「だから、自分の判断能力が消えてしまった時の保険としてそのコードが用意されたと思われる。しかし、それは緊急時の保険でしかない。その証拠に、500年経過した後、それを使わなかった。彼が与えたのは『自由に魔術式内を動き、人々と自由に話すこと』のみだろう。」

「ルートヴィヒ・ラドカーン、だから、なんだと言うのです。」


 光る魔術式、その展開スピードに勝てないとルートヴィヒは悟った。


「天才魔術師も形無しですね。」


 鋭い光の矢はサフィの魔導武器による水の結界によって阻まれた。五星士の魔導武器は国からの支給品だが、サフィのそれは幼いころに買い与えられ誰よりも馴染む武器だ。


「……魔導技術。」

「思えば、王国の魔術式防御システムも、魔力を魔力結晶から補うという点では魔導技術でしたね。あの頃から、魔術師は、エル・ウォッカには勝てていない。」

「いやあねえ、痛いこというなぁ。ヤナ卿は。」


 水のように透き通るサフィのレイピアは、彼の心根を象徴しているかのようだった。


「ウィルさん、好きに炎を使って構いませんよ。ルサリィさんも、扇いであげてください。」

「へ、は、はあい。」


 やる気のないような声のわりに、ウィルの炎が轟轟と燃え上がる。ルサリィの風でさらに炎は大きく舞う。


「ウィル・ザ・スミス少尉、それで僕を消すつもりです?」

「俺は、止まってほしいと思っているだけだよ。エリヤ、お前が俺に言っていただろう。『本体は寂しかったから、自分を作ったのだろう』って。お前を奪わせないでくれよ。」


 炎の中で、王国魔術師の攻撃魔法が彼の影にあたるものの、肉体を持たない彼は微動だにしない。炎の中で彼の虚像がぶれる。


「そうですよ。だから、停止など許されない。僕が、あの人を置いていくなど許されない。例え、本体が王国魔術師たちの命を優先したとしても、僕は本体の意思を反故にしても生きる。」

「停止などさせない、落ち着いてくれ。」


 ルートヴィヒが訴えても、エリヤは冷たい。ウィルは、魔導武器の炎の火力を上げる。エリヤへ情を訴えながらも、この状況を酷く冷静に見ている自分がいた。彼が利用しているのは、エル・ウォッカの無意識領域だ。スイ・ウォッカもまた今は冷静で、普通に会話を行えるが、ンヴェネの話では、入れ替わりが解消される前、エル・ウォッカの身体だったときは、エル・ウォッカの感情にひどく影響を受け、会話など成立しなかった。

 エリヤもその可能性が高い。


「炎とは、空気がないと消えるのです。」


 温度を異常に変えることによって、魔術式が狂うことにかけたが、対策をされたようだ。周囲を覆っていた炎は弱まり、魔導武器の中に押し込まれていくように消えていった。


「エリヤ。」


 ウィルは、炎が消えた斧を向ける。


「まさか、貴方が最も僕に対して1番抵抗するとは。」


 エリヤの背後に複数の魔術式が展開される。おそらくその全てがウィルに向かっている。炎も出ないただの斧では防ぎようがない。

 サフィが再び水の結界を張ろうとした時だ。横から何かが通り抜け、彼らの前に巨大な氷塊が出現し、エリヤの光の矢たちを全て防いだ。


「ルジェロ、こっちに来たのね。」


 肩口までの赤い髪のハーフアップが、ルサリィの前で揺れた。


「お前たちは、消せないだろ。」

「待って、ルジェロ。彼は話が通じるのよ。」

「それで、あの魔術師が死んでもか。」

「どういうことっ?」


 その言葉に、エリヤの魔術式も止まった。


「独立しているように動いてはいるが、同じ頭を使っている。それが少しずつ、あの魔術式によって奪われた。起きてはいるが、目の前で強い力で抱きしめている兄を“見失った”。」

「なっ。」


 ウィルやルサリィは言葉を失った。ルートヴィヒは、魔術式が描かれている紙をくしゃりと握りしめた。


「なるほど、確かに少しずつより人間らしく、より高度な魔術を使い始めている。そんないきなり進化するものかと思ったが、アンジュくんの頭を徐々に乗っ取ったと言うわけだ。先ほど言ったようにその命令は“緊急用”、誤作動を起こした魔術として君は消さないといけないね。」

「……僕は、本体の。」


 だらんと落ちた腕に、ルートヴィヒは食いしばるように告げる。


「キミもまた、“失敗作”だった。それだけだ。」


 エルと同じ赤い瞳が揺れたあと、唇を噛むしぐさをする。脱力した様子に、ウィルは斧をおろしかけた。


「僕は、失敗作なんかじゃないっ!」

 

 ウィルの炎によって上がった空気と、ルジェロの氷の力で急激に冷やされている状況だった。いつこの周囲が崩壊してもおかしくない。そこへ、彼の激情が溢れ出し床にヒビが入る。


「…僕は、僕は!」

「何をやってるんですか。」

「……すまない、賭けだったんだが。」


 ルサリィは、風を纏い、いつ崩落してもおかしくない状況に備える。ルジェロの氷の力でひび割れた床や壁をくっつける。


「おい。」

「あの魔術式を書き換えることはできないのか。」

「私は魔術の解除は得意だが、半分魔法でできているそれの解除は分かりかねる。君たちの温度を上げ下げによる狂わせの方が現実的だ。」

「……これ以上この魔術塔が耐えられねえぞ。」

「……この王宮、800年の歴史があるからな。」


 王都は災害や戦争の現場になったことが、かなり少ない。王都などと言われているが、ここは星願教の本拠地であり、魔術師によって永く管理されてきた場所だ。古い建物も多く、特に王宮は改築はあれど基盤がかなり古い。王宮に併設されている魔術塔も例外ではない。


 エリヤの衝撃波は、かなり致命的だ。サフィが、水の膜で最低限人の身を守っているが、建物の方は後どれほど持ち堪えるだろう。


 過冷却による魔術式の凍結を狙ったルジェロだったが、目算は崩れた。ルートヴィヒは他の王国魔術師たちに、ルジェロの援護をするように吠えるが、現状を打破するものではない。


 慌てふためく声と足音の中に、コツ、コツ、とゆっくりとこちらに向かってくる音がする。冷静なルジェロだけがその音によって振り返った。


「ありがとう、ルジェロ。それから、ウィル、ルサリィ、ルイスさん。」


 その声の主は、金色の長い髪を靡かせて、剣を携えた青い目をした少年。王国軍の制服は着ていない。


「スイ?」


 振り返ったウィルが、彼を見て目を丸くする。彼が魔法を使って、怪我した王国魔術師たちの怪我を治すと、泣き叫ぶエリヤの前に立つ。


「長く、長く待たせてしまった。ごめんな。ずっと君は、エルとの約束を守っていてくれたのに、俺はずっと逃げていた。」


 エリヤは目の前にいる人間をスイともエルとも定義できなかった。代わりに出たのは、


「アンジュ・クラント准尉。」

「ありがとう。エルの希望を、エルですら諦めた希望を持ち続けてくれて。」


 アンジュと呼ばれた少年は、エルのような咲くような笑顔でも、スイのようなからりとした笑顔でもない。少し人間を遠くから見た小さな微笑みを湛えていた。


「もう、寂しくないのですか。」

「うん。」


 アンジュの手が、エリヤの体に触れる。情報でしかない彼にふれても、そこは空気しか感じられない。それでも、温もりがある気がした。


「……なら、よかった」


 そう呟くと、彼は輝く光と共に薄くなっていく。彼の全てが消えてなくなるまで、全員が黙り込んでその光景を見た。その静寂しじまを破ったのは、ウィルだった。


「……スイ、いや、アン?」


 振り返り、ウィルを見る彼の目は青いし、腰の剣もスイが使っているものだが、彼の顔見た時に非常に懐かしく思ったのだ。


「ウィル、皆。……久しぶり、と言うのが正しいかな。」

「どう言うことだ。」


 スイとエルの双子が、人格が入れ替わり、それぞれの身体と混ざったことで新しい人格が生まれていた。それが、元のアンジュ・クラントだった。入れ替わりが解消した後、消えてしまったはずだ。



「エリヤのお陰で、エルの身体は使えなかった。そして、スイは、エルの感情を強く受け取りやすい性質を持っていた上に、エルが死にかけてたせいで、スイの心が耐えきれなかった。結果、スイの身体にエルの精神が乗っかり、前のアンジュ・クラントが出来てるって感じかな。」

「……もう会えないと思ってたし、お前はエルとスイにそれぞれ引き継がれたのかと。」

「俺もね。ただエリヤを消したことによってエルの身体は復活するし、エルが元に戻ればスイの心も復活する。」

「全く、あの双子は。」


 ウィルは、おちょくるように言ったが、心配は隠せていなかった。


「本当ならエル自身に彼を消してやるのが良かったんだろうけどな。代わりで申し訳ない。」

「それは……、けど、アンはエルでもあるだろう。」

「……さあ、どうだろうな。ウィルと話せて嬉しいけど、さっさと避難しよう。いつ崩れてもおかしくない。」


 話を濁して、彼はウィルの向きを変えさせて、背を押す。


「しかし、魔術式が。」

「先に命を優先しよう。」


 魔術式防御システムの要である魔力結晶や魔術式をおいていくことに、王国魔術師たちは抵抗しようとしたが、アンジュに諭すように言われて黙り込んでしまった。


「埋もれてしまうだろうが、壊れるような代物ではないだろう。ただでさえ少ない魔術師を減らす道理はない。」


 ルートヴィヒからも諭され、王国魔術師たちは渋々と言った様子で外へと向かう。


「ビトレーイ少尉。」

「俺の方はまだ持つ。先に行け。」

「すみません、私に力はなく。」

「ルジェロは私が責任持って外に出すわ。私とルジェロだけなら、窓からで問題ないもの。」


 サフィは魔術師たちに続いて外へと避難する。アンジュとウィルもそれに続いた。道すがら、ウィルは尋ねる。


「アン、スイとエルは2人とも王国魔術師を助ける気はなかった。何故、助けた?」


 アンジュは、立ち止まって答える。


「ミルフィーがそばにいたなら、悲しんでただろう。」


 ウィルが振り向く前に、アンジュは歩き出してしまって、その顔を窺い知ることはできなかった。けれども、アンジュはそう言う人間だったと思い出した。


 全員の避難を終えてから、ルサリィはルジェロと共に窓からふわりと降りてきた。その後、少しずつルジェロの氷の力が消えてきき、パキパキと崩落の音が内部から響いてくる。


 ウィルの隣でそれを静かに見ていたアンジュだったが、突然意識を失った。ウィルが受け止めたお陰で、頭を打つこともなかった。


「ウィル。」


 次に目を覚ました時、その青い瞳に大海のような茫洋さは消え、はっきりとした光が灯る。


「……スイだな。」

「ああ。アンジュの記憶が無くなったわけではないけど、変な感じだ。」

「どんな風に?」


 スイは、ウィルの顔をしっかり見て答える。

「ウィルも言っただろ。俺だったら王国魔術師の怪我を治す選択は取らない。でも、アンジュはそうした。夢でも見ていた気分だ。」


 さてと言って切り替えたスイは、崩落していく魔術塔よりも、エルのことが心配だと背を向けたが、そこにンヴェネの声が響く。


「ちょっと新入りくん!」


 目の前にはエルの方のアンジュがいた。

心配そうに声をかけるスイやウィルの声など届かず、横を通り過ぎる。

 その赤い目の先には内部から崩れた影響で真っ直ぐに崩落していく魔術塔があった。エルの記憶を取り戻してから、一度も近寄ろうともしなかったそれが崩れていくのを、声もなく涙を流していた。

 スイの頭の上に追いかけてきたクルルが留まる。


「ユピテル。」

『余は、守るどころか。』

「それ以上はやめてくれ。」


 クルルの後悔がそのままスイにも突き刺さる。


 アンジュの背に手を伸ばして、ンヴェネは尋ねた。


「疲れたんじゃない?」


 すると、恐る恐ると言った具合にアンジュはンヴェネを見る。


「分からない。」


 それは、ここに来たばかりのアンジュがよく答えた言葉だったが、全く違う響きがあった。


「清々する気も、悲しい気も、悔しい気も、苦しい気もする。色んな感情が混ざって分からない。」

「それはきっと君が、必死であの場所で戦いながら生きていたからだよ。」


 そう言われてアンジュは、ンヴェネの顔を静かに見るのみだった。

 離れた場所にいたルサリィが、泣いているアンジュに気がついて、抱きしめた。本当は何か声をかけたかったが、彼女はどれも言葉にならず、唇を噛み締めた。



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