30話 再び奏でよ、オルガン
アンジュ・クラント 中身は500年前の天才、エル・ウォッカ
スイ・ウォッカ(公式にはクラント姓) エルの双子の兄弟 執着はすべてエル
ルサリィ・ウェンディ(23) 風使い 五星士の中でも最強。優しく寄り添ってくれる。
ルートヴィヒ・ラドカーン(32)王国魔術師の良心 現在の天才魔術師
魔術部隊はいまだ混乱の渦中にあるというが、その中で現在、王国随一と目される魔術師――ルートヴィヒだけは、いつも通りの笑顔を崩していなかった。
「こないだ話してた、アンジュくんのオルガン行き。正式に決まったよ」
五星士たちが鍛錬している場に、サンバのような陽気な足取りで現れた彼を見て、アンジュは思わず一歩引いた。その小さな動きを逃さず、スイはさりげなく二人の間に立つ。
「流石はルイス、話が早いな。」
「知っているか、この国は魔術師至上主義が横行しているんだ。」
「ああ、エルじゃない俺でさえウンザリするくらい知っている。」
嘲るような調子に、スイも軽く乗る。スイの肩越しに顔を出して、アンジュが尋ねた。
「その欣喜雀躍とした様子を見るに、ルイスも来るのか。」
「もちろんだよ。」
「なら、同行者は。」
「護衛のスイくんと当事者だったルサリィ、他は第三師団の人を借りる予定だ。」
「それはルサリィの負担が重い。」
アンジュの言葉に、ンヴェネも頷いた。アンジュが同行者の中で心を許しているのは、スイとルサリィだけだ。王国魔術師であるルートヴィヒ、そして事情を知らない第三師団の同行は、不安材料でしかない。
「国内調査任務の護衛で動かせるのは、基本的に第三師団以下だ。五星士全員借りることだって大変なんだよ、こっちも。」
「……分かってはいるんだけどね。そこの双子、ルサリィの指示から外れるようなことはしないように。」
ンヴェネは双子に強く言いすくめた。
ルートヴィヒはふざけた様相から、真剣な大人の顔になるとスイとアンジュに歩み寄った。
「文献のような資料が一切ないのは、6年前念入りに調査をしたから知っている。あとは、キミの力次第だよ。」
王国もルサリィの力の発現に非常に強い関心を持って、人と金を惜しまず調査したのだ。あの我儘な魔術部隊だってこぞって押しかけ、調べ尽くした。しかし、ルサリィが初めてスイに言われた時以上のことは、現在まで出てこなかった。
「分かった。」
ルートヴィヒがオルガンの町へ行くと伝えてから、ルサリィは何も言葉を発せなかった。震える手を皆にばれないように隠しながら包み込んだ。
ーーーーー
ルサリィの故郷、オルガンの町は、山と山に挟まれた宿場町だ。王太子直轄領モルガンと、ヤナ長官の家が治めるコルトフィールドの中間に位置し、六年前までは人の往来が絶えなかった。
だが、あの事件以降、町は滅びた。恐れから誰も近づかなくなり、今では遠回りを強いられる道となっている。現状を改善するため、トンネルの建設が進められているという。
「誰も、あの廃村には近寄らない。山賊すら寄りつかないそうだ」
オルガンへ向かう馬車の中で、ルートヴィヒが淡々と語る。
「王都に現存する情報と一致する。」
「おっと流石エル・ウォッカ。全て探し尽くしたと言うのか。」
「ラドカーン様、馬車の中で暴れないでください。」
「アンジュくん、そんなに距離を置かなくても。」
狭い車内で、スイは無言のままルートヴィヒを睨みつける。第三師団は別の馬車だ。この距離感を見ているのは、この三人だけだった。
「オニイサマ、怖いぞ。」
「これだから(魔術)オタクはキモいんだよ。」
「すまなかった。城ではおいそれとエル・ウォッカの名前を口にできないからね。ついつい。私もずっと憧れていたんだ、たくさんの魔術を編み出した天才にね。それでいて歴史の表舞台には出てこず、暗号を解読した先に見つけられる名前だ。自分自身の手で見つけた恍惚心もあってこれほどにも執着するものはない。年老いた仙人のような人物を想像していたから、まさかこんな可愛らしい姿だとは思わないだろう。」
「オタクキモい。」
「その一言で片付けられるのは、この情熱を無視されるようで悲しい。」
「キモい。」
ルートヴィヒは普段大人の男の余裕がある印象を受けるが、こうして魔術に関することだけは少年のように語る。それはきっと彼の魅力の一つなのだろうけれども、スイは何一つとして態度を崩さなかった。
アンジュは彼を無視して、ルサリィのほうへ顔を向ける。
「ルサリィ、付き合わせてごめん。」
「え、あ、ああ、そうね。あれ以来私も帰れてないし、一人では帰れなかったから、アンジュたちがいて心強いわ。」
ルサリィはきっとアンジュやスイには強がってしまうだろうとアンジュは思っていた。だから、本当はルサリィが弱さを曝け出せる人が来てくれればと思ってしまう。
「ルサリィ、難しいことだと思うけど、無理はしないで。」
「ええ、アンジュもね。」
「俺は人里離れている方が楽だから。」
ーーー
王太子直轄領のモルガンは王都に比較的近く、また王都ほど魔法や魔術の現実を知らないということもあり、魔術師に対する畏敬が他の地域よりも強い。王国魔術師の筆頭であるルートヴィヒと若くして才が溢れる五星士のアンジュが到着すると町ぐるみで歓待を受けた。
「特に星願教の力が強い地域でもあるから、魔術師は崇められやすい。」
星願教は歴史の深い宗教で、教典の種類も多い。
それでも、民衆の多くが諳んじることのできる一節がある。
「星願教の教えーーー汝、清く正しく生きよ。さすれば、星が願いを叶えん。願いは悪しきものには与えられぬ。悪しきものにならぬためには、ひたすらに勤めよ。」
ルートヴィヒがそれを誦じた後に、アンジュは続けた。
「これは一般人に対するもの。魔術師に与えられているものは別だ。魔術師には『汝、善きものの願いを叶えよ。善きものとは、絶えず清く正しく生きることに勤めているものなり。さすれば栄えん。されど、悪しきものの願いを叶えしとき、汝が滅びん。』」
「おお、よく知ってるな。あまり興味がないと思っていたよ。」
その声音に悪意はない。だからこそ、アンジュは居心地の悪さを覚えた。
「……それを口実にほとんど叶えられた試しがない。」
「だから星願祭は特殊であり、魔術師による担保だ。」
それをここの市民は知っているのだろう。だから、手厚く歓迎をする。ここが若くして魔術師として認められつつある王太子の直轄領なのも納得する。
「自ら星に求めることなかれ、という一文もあったはずなのに。」
「それが人間だ。悪いことをしているわけじゃない。気にしないように努めるしかないさ。」
普段なら宿屋に泊まるのだが、実際にこの地を治めている知事の家が、一行を招いたのもそれが大きな理由だろう。第三師団は別の場所で待機させて、応接間で知事を待つ間、アンジュは辺りに目をやった。
「大きな家。」
「この家も土地家令の家柄だろ。というか名前がモルガンスチュワートなんて、まますぎる。」
「ここも世襲制なんだ。」
そんな話を東の辺境伯に向かう途中でウィルやンヴェネがしていた気がすると何気なく口にすると、ルートヴィヒが大人として返答した。
「モルガンは地方議会から信任を受けて、知事を選任している地域だ。もっとも、実質は世襲だがね」
「わざわざ地方議会を通す必要ある?」
「世襲制と法律で決めてしまうとなかなか覆すのが難しい。いざとなれば法律を以て下ろすことができるのは社会のケアとして必要だ。無駄な暴力を減らすことができる。」
「……魔術が絡まなければ良い人だよね、ルイス。」
アンジュに言われてルートヴィヒは苦笑した。
「お待たせしました。ラドカーン様、クラント様、ウェンディ様。」
応接間に入ってきたモルガン知事は恭しく歓迎の意を表し頭を上げ、応対はルートヴィヒが引き受ける。アンジュは話を半分ほどしか聞いていなかったため、唐突に話を振られて困惑した。
「クラント様は、幼い頃にお父様を亡くされたと聞いております。私も子供の頃に父を亡くしまして、非常に親近感を覚えました。」
「……どうも。」
「そういえば先代様は、革新的なお方だったとか。」
好意的に同情されたのは理解している。けれども、魔術師を疑わず、体制を疑わずに生きてきた人間から向けられる言葉は、アンジュの心を黒く塗りつぶした。アンジュが視線を逸らしたのを見て、スイが何かを言う前にルートヴィヒは先代の話題を拾い、場をつないだ。
旅の疲れもあるでしょうと気を遣われて、すぐにその顔合わせはお開きとなり、あてがわれた部屋に向かう。第三師団はまとめて一室だったが、アンジュたちは個別の部屋を与えられた。
アンジュは、自身の荷物を持つとすぐさま隣にあてがわれた兄の部屋へと向かう。
ノックもせずに入ってきた弟の物々しい雰囲気に内心は驚きながらも、至って平静な態度でスイは迎えた。
「どうした、なんかあったか。」
「部屋が豪華だった。」
「そうか。」
「嫌な記憶がある。ここにいさせて。」
「いくらでも。」
幸いなことにこの豪華な部屋には脚を畳まずに眠れるほどのソファがある。
そのソファに自身の荷物を下ろした。
「早くここからでていきたい。気味が悪い。」
「逃げるか。」
「しないよ。」
「別に逃げたって良いのにな。」
「兄さんは逃げたことがある?」
「いくらでもある。」
「でも、兄さんは俺を見捨てなかった。」
「何度だって言うが、それが俺の芯だからだ。エルを取り戻せなかったら、俺は俺でいる意味がない。」
その言葉を聞くたび、アンジュの胸は痛んだ。エルは2度も家族について忘れてしまったのだ。少なくとも、魔術塔にいた時スイのことを覚えていたら、と自分の醜さや愚かさで自分の肌を掻きむしりたくなる。けれども、それすらもスイを傷つけるだけの自己弁護に過ぎないので、アンジュは笑顔で誤魔化すことしかできない。
スイは、エルが無理をしているのが分かっていた。そして、それが限界に近いことも。
「なあ、悪戯してみないか」
唐突な提案に、アンジュは困惑しながらも、兄の言葉を受け入れた。
ーーー
翌朝も豪華な朝食が用意されていた。
起きるのが遅い貴族の生活に合わせているのだろう、食事の用意もずいぶんと遅い。
「朝の定義を知りたいぞ。」
「まあまあ、私たちが早起きなだけよ。少しだけお話ししてましょ、スイ。」
青い目をした双子の彼は、苦言を呈したが、そばで聞いていたルサリィは苦笑して宥めた。
「いつもなら、もうとっくに食べ終わって鍛錬の時間だもんな。何か食べ物を用意しようか。」
「これくらい、我慢はできるさ。ただ時間の無駄だと思っただけだから。騎士とは生活リズムがまた違うんだよな…、魔術系統の貴族とはさ。」
そう言ったスイに、向かいにいた赤い目の双子の弟が、わずかに目を瞬かせた。
「エル?」
「ああ、いや。魔術師とは全然違うと思った。」
「けど、それは500年前の騎士だろう。今の騎士家系は、魔術家系と変わらん。」
「まあ、そうか。」
この屋敷も、元を辿れば王家に仕えた有能な使用人の家系にすぎない。
アンジュは、会話を切り上げるように窓の外へ視線を向けた。
アンジュはそのまま窓を見て、
「早く行きたいのに。」
と呟いた。
ーーーー
家主であるモルガンスチュワート子爵が起きてきて、漸く朝食となったころには、もはやブランチと呼ぶのが相応しい時間帯だったから、貴族であるとはいえルートヴィヒさえも、うんざりとしていた。出発する頃には午後になってしまっていた。
「今の季節は日が沈むのが早いし、ここからオルガンはそう近くないのに余計な時間を使った。」
「転移魔法は俺と兄さん相手にしか安全には使えない。今の季節だと野営も装備が心許ないし、夏まで待てばよかったか。」
「しかし、今の魔術部隊は不安定だ。夏まで待ったらまた状況が変わっていただろう。」
アンジュが申し訳なさそうに言うと、ルートヴィヒはすぐに首を振った。
「今回の調査は、私が責任者だ。君が背負う必要はない。」
そう言い切ってから、吐き捨てるように続ける。
「……盲信者というのは、扱いにくい」
スイやアンジュ以上に辛辣な言葉を残し、ルートヴィヒはさっさと出立の準備を終えた。
山間の凹んだ盆地にある旧宿場町、オルガンに向けて馬車は進んだ。人通りが絶えた道は荒れ、大きく揺れる。スイはルサリィやルートヴィヒに進んで話を振っていたが、アンジュは会話に加わらず、馬車の小さく開いた窓へと視線を逃がしていた。
全くと言っていいほど会話に参加しないアンジュに違和感を抱き、ルサリィは尋ねた。
「外に何か気になるものがあるのかしら。」
アンジュは少し瞬いた後、少しだけ困った様子で答えた。
「いや、何もないよ。」
ルサリィは少しばかり不思議に思った後、そうと微笑んだ。
スイが何かを言いかけて口を動かし、しかし、アンジュの横顔を見て言葉を飲み込んだ。
廃村になってから6年。
かつて宿場町として豊かだったオルガンの町は、静かに時を刻み、幾多の風雨によって劣化していた。酒飲みたちで溢れて賑やかだった酒場は、錆びつきいつ落下してもおかしくない吊り下げの看板がキィキィと揺れるのみだった。
ルサリィが知る町では、最早ない。知らない町だ。けれども、朽ち果てた建物には面影があるし、建物の隙間から見える山景は変わりない。それが、ルサリィの心に冷たい水を与える。
スイがルサリィに声をかける。
「大丈夫か、ルサリィ?」
「え、ああ、うん。うん、大丈夫。」
ルサリィの様子を見て、スイは即座にアンジュへ視線を送った。
「エル、ルサリィを見てくれ。」
スイに呼ばれてアンジュは、ルサリィの隣に立つ。
「ここは山間だから、寒いね。」
「……ええ、本当に。」
アンジュはルサリィの手を握り、額に頭をつける。手から温かさが伝わって、心の臓までその温もりが伝わった。寂寥感に掴まれていたのが、溶けていくような気がした。
「ありがとう、アンジュ。」
「あ、ああ、いや、とんでもない。」
「エル。」
背後から、スイが小さく手招きした。耳打ちされ、アンジュは一拍置いて頷く。
「……そうだな。俺も少し気になるところがある。」
その様子を見て、ルートヴィヒが眉をひそめる。
「私としては悲しい廃村としか思えんのだが、何を感じたのだ?」
「……エリスの魔力の残滓だ。6年経過した後も残っているのだから、相当強かったんだろうな。」
ルサリィと任務で向かったヴェインの村では、違う魔力を感じることがなかった。(アンジュがエルの身体を取り戻していなかったから鈍かった可能性もあるが)アンジュは、スイに視線を送ると、スイは少しだけ戸惑ったように答える。
「……エリスの魔力は人の心にまとわりつくからな。隣にいる人間にイライラし出したら言ってくれ。」
「スイもそういうのは得意なの?」
「魔力も生命力の一つだから、逆位相で相殺ができなくもない。エルほど魔力操作に慣れてないから、完璧にできるとは言い難いけど。」
「逆位相。全く私には分からんな。魔術式の解除ともまた違うようだ。」
ルートヴィヒもまた魔術の解除は得意な方だったが、逆位相による相殺というのは聞いたことも見たこともない。アンジュもこくりと頷く。
「兄さんは特殊な魔力持ちだ。俺も解除はできるけど、逆位相による打ち消しはできないよ。」
「特殊な魔力……。」
「研究すんなよ。」
「少しぐらい血をもらっても大きな損害は……。」
「俺の得にならない」
想定通りのにべもないやり取りに、ルートヴィヒは肩をすくめた。
誰の足跡もない雪を踏みしめ、探索は始まる。
「……いくら冬とは言え動物の気配も何もない。」
「ああ、かなり異様だ。建物の木は腐っているが、虫がいない。どこにも。」
アンジュとスイが2人で肩を合わせて建物の腐食した柱をギィギィと揺らす。
「冬だから、というのが原因ではなさそうだな。」
「ああ、エリスの力は不和。人間に最も恐ろしく効くけど、きっと動物にも有効なんだろう。」
冬のため雪に埋もれて分かりにくいが、よく見ると草木が死んでいる。一見冬だから葉を落としているように見えたが、木に魔力がない。
「それも、エリスの力?」
アンジュがスイに尋ねると、スイは首を振った。
「いいや、違う。流石に植物に感情はない。神獣も存在しないしな。」
「ルサリィが話していた、人間同士の争いで『毒の兵器』が使われるとかの話があった。多分、植物が枯れる毒薬が散布されてしまってたんだろうな。」
アンジュとスイは、褪せてはいるが特段落書きが酷い廃屋に入る。
「これは岡場所か。」
「賭場かも。」
いくら実年齢が本当はルートヴィヒに近いと言えど、身体的には未成年にしか見えない2人に言われると妙に心配になる。
「薬物の匂いが染み付いてるな。」
「アヘンかな。」
「薬物に詳しいのか?」
「俺はね。兄さんは何故。あの時代、そんなものなかなか流通してなかったでしょ。」
この世界で麻薬というものが、社会問題になるほど流行り始めたのは、実はこの100年から200年程度。王国の魔術塔は、狂った研究者ばかりではあったが、研究施設であるので、様々な効果を持つ薬草というのが集められていた。そして、人間に対して様々な実験が行われていたから、エルはよく知っている。しかし、スイが生きていた所ではそれほど顔は覗かせていないはずだ。
「その植物自体は昔から存在しているし、呪術の一部として使われてたからなぁ。星願教の最大敵宗教の楽浄教とかな。」
「初めて聞いたわ。」
「ああ、そう言えばもうそんな有名じゃないんだっけ、エル。」
「……ああうん。少なくとも俺はこの6年間一度も聞いてない。」
ルサリィは、ほとんど学校に通ったことがない。幸い字と計算は養い親や客たちに教わっていたから、王都でも困ることはなかったが、そう言った深い歴史などは知らないのだ。ルサリィが全く知る由もないくらいの歴史だ。
「星願教は基本己を律して努力せよというのが教えだ。けど、それでは救えない人がいる。星願教は現世の自己に対するものしかないからな。そのアンチテーゼとして、出現した宗教。」
「詳しいのね、アンジュ。」
「……ああ、調べればいくらでも出てくるから。」
「楽浄教の書物は、禁書なんだがな。」
アンジュは、そうだったかと首を傾げながら素知らぬふりをして、スイに視線をやる。
「楽浄教は、信じたものは死後神の元へ行けるから救われると言われていた。それだけなら、どこにでもある宗教なんだけど、楽浄教が星願教の敵となったのは、布教に薬物が使われていたからだ。」
「布教に。」
「集会で香として煙にして吸引させ、多幸感を齎す。当時の庶民の人間たちの生活は、非常に厳しいものだったから、堕落させやすかったんだろう。」
「……そして、常習性があるんだものね。」
「ああ、結局邪教徒、悪魔付きと言われて当時王国によってほとんど処刑されたから、現代にはほとんど残ってない。」
「兄さんが詳しいのは、あの当時邪教徒を捕まえるために傭兵が多く使われたからか。」
「……ああ。」
この町に突如として現れた新興宗教も似たようなものだったのだろうか。ルサリィは震えていたことばかり思い出す。あの時、彼らは何かに突き動かされているように見えた。
白と灰色しかない世界。
冷たい空気が肌を刺す。
エルの赤い瞳は空を眺めて、浸るように目を閉じた。スイは珍しくずんずんと前を歩く。その背中が突然立ち止まった。
「……この木。」
街の中心には樹齢数百年はあるだろう大木があった。スイはそれに触れて確かめると、葉を落としているがその中には脈々と魔力が流れている。スイはエルにちょいちょいと手招きをする。
「魔力が流れてる、生きてる。」
スイが触れるその大木に触れて、エルは感嘆の息を吐いた。
「他にはエリスの力の残滓を感じたけど、この木には一切ない。」
そう眺めるエルを見て、ルサリィは思い出したくないと封をした記憶の中から、思い出したことがあった。
「そうだわ、ここ。スイと出会ったのはここだわ。」
双子の兄弟は同じようにポカンと口を開けて驚く。スイは目を丸くしてからエルを見る。エルは、呟くように答えた。
「そうだ、エリスは不和の風。ペガサスの神獣ウェンティと人間の間に生まれた子どもだ。そしてここは神獣の眷属である風の民が作った町だ。」
「…そして、ルサリィの力でエリスの不和の力は追い払った。」
むむとルートヴィヒはやや大袈裟に首を傾げた。
「エリスは神獣の子の力なのだろう。ウェンディ少尉は、眷属の末裔の先祖返りだったとしても可能なのだろうか。」
スイは束ねた長い髪を風に靡かせながら、星と風の民の末裔に返す。
「血の繋がりの方が上。少なくとも、数世代先の縁ではなく、神獣の子なら確実に。だから、今俺たちは気づいたんだ。」
スイの言葉にエルも続ける。
「ルサリィの力は風の民じゃなく、神獣ウェンティ、そのものの力だ。」
「え、で、でも。とっくに消えたんでしょう?」
「人間に与したから、世界から消されたと、私は以前君たちから聞いた。」
ルサリィとルートヴィヒは、動揺を隠せなかった。
「よく考えれば、とてもおかしいことだ。」
例えば竜の神獣だったウラノスは、世界から矛盾する存在となったため、現世に降り立つと神の力を失ったが、生きている。また、鳥の神獣ユピテルもまた、人に入れ込み力が弱くなったとはいえ、まだ神としてこの世界に生きている。
「ウェンティの処罰だけが厳しい。どこまでウェンティが人に力を分け与えたかは知らないけれど。」
もう少しで神の秘密に近づけそうだったその時、空からそれはやってきた。
猛禽類の狩のスピードよりも早く人間たちの中に突っ込んできた。
アンジュはスイと共に転がりながらそれを避ける。
「よぉやく、見つけたと思ったら、何でここにいるのよ。」
砂塵の中で鈴が鳴るような可愛らしくも、声帯を喉の壁に擦り付けるようにおどろおどろしい声を出したのは、あの少女然とした不和の力を司るエリスだった。亜麻色の髪はふわふわと風に揺れているが、反して彼女の目は研いだ刃物のように鋭い。
「……エリス。」
「裏切り者が。」
彼女は、アンジュを見てそう呟いた。
その彼女を尻目にアンジュは服についた汚れを叩きながら、スイに手を差し出した。立ち上がったスイは、ルサリィたちの前に立ち庇うように剣を抜く。
「エリスに言われると思わなかった。不和の力を持ち、幾人の人を裏切らせたエリスに。」
「……うっさいわね。」
エリスがその蹴りを叩き込もうとすると、エルの魔術によって跳ね返された。
「鬱陶しいわね。」
エルの魔術の裏で、スイは剣を振るい、エリスの首を狙った。しかし、空中でくるりと優位に動く彼女に避けられる。
「ヘッタクソ。」
「そりゃそうだ。」
スイはケロリとして特に悔しがっている様子もなく、愉快そうに左手で剣を弄んでいる。しかし、それが油断から来るものとは思えない。
ルサリィが、大きく風を巻き上げた。スイをエリスから守るために。そのルサリィの後ろでルートヴィヒとアンジュは、隙を伺うように睨みつけていた。
「エリスの不和の力は心を揺るがせる力だ。人を恐れる心、人を妬む心、人を憎む心を増幅させる。元よりそんな心がないのであれば、何も起きはしない。それ以外はちょっとだけ強いモンスター。」
そうアンジュが言った瞬間、ルートヴィヒの背後で何かがぶつかる衝撃音と人の喚き声が聞こえた。
「とはいえ、そんなものがない人間はなかなかいない。」
ルートヴィヒがアンジュの感情がこもっていない声とともに振り返れば、そこには第三師団の人間が、自身に向けて剣を振りかぶっていたのだ。それをアンジュの魔術によって防がれた。
「助かるよ。」
ルートヴィヒが礼を言うと、その冷たげな顔が気まずそうに苦笑した。
「兄さん、もう慣れた?」
「いや、全然。でも、不和の力さえ相殺していれば彼女も所詮は”才能”だけで生きている。一回第三師団を気絶させた方が良さそうだ。」
「できる?」
「流石に“この状況”では厳しい。」
エリスに対峙するスイは、エリスから視線を外すことなく首を振った。アンジュは、着ていた白いマントを脱ぎスイに被せ、飾りとなっていた腰の剣を抜く。
「“アンジュ”は、剣も得意なんだからな。」
「……まあ、分かったよ。」
「第三師団のことは任せてくれ。」
アンジュは、ルートヴィヒに襲いかかる第三師団の人間の剣を受け止めると、そのまま薙ぎ払う。
アンジュから受け取ったマントのボタンを留め、紐を結ぶと、不和の女神と風をぶつけ合って戦うルサリィの横に立つ。
「ルサリィ、俺は飛べないからエリスを地面へ叩き落として欲しい。」
「ええ、頑張るわ。」
エリスは、その聴色の瞳を不快そうに歪めた。
「スイ」は、その瞳を見て思い出すのだ。
「……君はいつもそうだ。何を見ても、何を聞いても、何を愛しても、そうやって不快そうな顔をする。」
強い風を纏い、何も寄せ付けない彼女の力によって、古い家屋が悲鳴を上げる。
スイは、神獣であるクルルによって、数ある記憶から自分自身の記憶を取り戻した際に、それまで持っていたエルの心や記憶を切り離した。そして、一緒に切り離されたのはその時そばにいた「エリス」だった。
「“僕”の魔術を使って、たくさんの人を殺した。……森の神様と崇められていた神獣も巻き込んで。」
「貴方が望んだことでもあるのよ。」
「ああ、その通りだ。今更そんな自分が赦されるなんて思っちゃいない。」
スイは、銀色に光る剣をエリスへと定める。
「だから、これは人類に対する“ケジメ”だ。」
ルサリィの風は、まだエリスを捉え切れない。スイは大木に対して宣言する。
「風を司るウェンティ、汝がしたルサリィ・ウェンディに対する旧き契約の更改を申し立てる。汝が持てる全ての力をルサリィ・ウェンディに与えむ。本契約は汝の判断をもって解除される。証人および調停者は、この“エル・ウォッカ”である。」
高らかに叫ばれたその直後、町の大木は空から舞う光に包まれ、青々とした葉を繁らせた。
そして、ルサリィの髪で覆われていた右目が風で顕になり、大木から来た光がルサリィの周りを回ってから右目へと収束する。
それを見てエリスは言葉を失い、愕然とした。
「ルサリィ!」
ルサリィもまた突然のことに呆けてしまったが、すぐにスイの言葉に我に返った。自分が持つ力がまた何かが変容したことに気づいた。
「もう2度とあんな惨劇は見たくないから、力を貸してください。」
双子の話通りならエリスとウェンティは親子である。申し訳ないと思いながら、ルサリィは力を込める。
「不和の神、エリスよーーー堕ちよ!」
ルサリィの声とともに、激しい轟音を立てながら風は空からエリスを突き刺すように吹く。
エリスは、空から吹く突風に対抗して地面から風を生み出していたが、圧倒的な「風」そのものによって地面へと叩きつけられた。
「な、な、なぜ。」
赦されない裏切りに、エリスが呆然と空を眺めて唇を振るわせる。
「不和の神、エリス。もう2度と生まれてはいけない。」
スイが彼女に近寄り、剣を突き立て地面から逃がさない。そして、呼ぶ。
「スイ、力を貸して!」
ほとんどの第三師団を無力化した“アンジュ”が、スイの声によってそばにやってきた。
「な、なに?」
そして、“アンジュ”はエリスに謝罪する。
「ごめんな、エリス。一人ぼっちの俺に声をかけてくれたのは君だけだったのに。」
スイは、“アンジュ“の手を握ると、祈るように告げ、
「星の叡智よ、願いは決まった。」
2人の声は、一つに重なる。
「不和を風の源へ。」
バラバラになっていた風は一つに収束する。双子の願いの言葉に呼応するように、ぽちゃんと水が落ちる音が耳元で響く。
この音をルサリィは一度聞いたことがある。あの猫と呼ばれたおかしな男が、アンジュの追撃から逃れた時に聞こえた音だ。
気づけば足元に鏡のような水面が広がっていた。叫ぼうにも声は失われていた。足元ばかり見ていたら、いつのまにか星空が広がっている。しかし、おかしなことに全く暗くもない。ルートヴィヒの顔や双子の顔がよく見える。
美しい空間のはずなのに、とても恐ろしい。
エリスが双子に“なにか”を叫びながら、この水の中に呑まれていく。それからルサリィは目を離すことはできなかった。
不和の神は、多くの人の命を奪った要因を作り上げた人物で、これが今までの罪に対する贖いなのだろう。ルサリィは、故郷全て奪われた。
それでも、彼女のことを憐れんだ。
それは、どれくらいの時だったのだろう。
本当は瞬きのことだったに違いない。
けれども、ルサリィには、悠久の時のように感じたのだった。
視界が元の世界に戻る瞬間、確かにあの声を聞いた気がした。
ーーー
「アンジュ、スイ。」
ルサリィは、2人に声をかけた。
「どうした、ルサリィ。」
赤い目をした少年が、のほほんと返した。
「……なんでスイがアンジュのフリして、アンジュがスイのフリしてるの。」
白いマントを着た青い目の少年が、あは、は、と困ったように笑った。
「悪戯だよ。」
「悪戯って、なんでまあこんな時に。」
ルートヴィヒの困惑も最もだった。お互いの目の色を変える魔術を解き、スイの服装にマントを着ているアンジュは、ルサリィとルートヴィヒに謝罪した。
「悪かった。」
「別に問題も特に起きてないし、『エリス』にはぴったりの悪戯だったじゃん。俺たち一度もエリスの不和の力の対象外になり続けてたからな。」
五星士の制服を着たスイは、責められる謂れはないだろうと冗談めかして抗議する。
「……強いていうならば、その制服は五星士しか着られないから、規則破りではあるけど。」
「そうだったっけ?」
惚けたフリをしているスイにアンジュは、はあとため息をつく。
「エルが俺のフリをするの、下手だろうしすぐ見抜かれるだろうと思ったけど、上手かったな。」
「兄さんこそ、僕のフリなんてできないと思ってたから、驚いちゃったよ。」
双子の兄弟の微笑ましい喧嘩に思わずルサリィから笑いが溢れた。
「アンジュくんほどではないと思っていたが、スイくんも魔術があそこまでできるとは思わなかったな。」
「やってないぞ。全部エルが遠隔で魔術を行っていた。」
「それは本当なのか、いやぁ、これぞ本物の天才なのだろうな。」
実際にアンジュが使っていた魔術は、目の色を変える簡単な魔術の他に、スイの動きを再現する魔術に加えて、攻撃を防いだ結界魔術、その時アンジュは背を向けていたから、なんらかの探知魔術もあったはずだ。一つとっても非常に高度な魔術であるのに加えて、同時・多起点だ。それに、一部の魔力は王都の魔術式防御システムに流れているというのだから、天才と言われてきたルートヴィヒですら気が遠くなった。
「だから、ほら。今日全然役に立ってないルイスが、第三師団を叩き起こしてくれよ。」
「ああ、それはもちろんだとも。」
スイの提案に快諾すると、その横でアンジュはオロオロしながら手伝おうかと尋ねてきたが断った。
「信じられないかもしれないが、これでも私も天才と呼ばれた魔術師だ。アンジュくんほどは早くも上手くもないが、これくらいなら任せてくれ。」
「エル、全部自分がやるなんて馬鹿なことはやめようぜ。」
「ええ、それにスイはちゃんと加減をしてるもの。声かけて起こせる子は私が起こしてきちゃうわ。」
3人に説得されて、五星士の制服を着ていないアンジュは、戸惑いながらも頷いた。
そして、人を起こしに行こうと駆け出したルサリィにアンジュは声をかけた。
「ルサリィ、もう辛くないか。」
「ええ、アンジュがかけてくれた魔術のおかげで、ちっとも寒くないわ。」
その日から、ルサリィの紋章が刻まれた右目は、髪で覆われることは無くなった。
廃村であるオルガンの地に、温かい血脈が鼓動のように動き始めていた。
ーーー
不和を司る、ペガサスの神獣の血を引くエリスとの記憶。
アンジュには、この体にいたスイの記憶が僅かながらに存在している。彼女は確かにルサリィの村を徹底的に破壊した恐ろしい存在だ。
しかし、彼女もまた「ただ人」であった。
「アンタさ、1人なの。」
彼女の言葉に、「スイ」はすぐには答えられなかった。赤い瞳で彼女を見つめる。
「……アンタ、言葉は?」
この世界に来たばかりのスイは、正直に言って完全には解していなかったが、全く語彙が異なるわけでもない。
「なんとなく、分かる。」
初めて答えた言葉はそれだけだった。当時のスイは、体に残るエルの記憶の方が優先されており、ぐちゃぐちゃで明瞭じゃなかった。当時大量の記憶が何故かあるのも、王都の魔術式によって吸い上げられたものが影響していた。スイにはそれを御する術がなかった。
「1人。……いや、誰か、いたかも。……誰。」
「……アンタ、私と一緒に来なさいよ。」
差し出された手は、確かに温かかった。
エリスの話は、14話 赤い家 15話 花の神獣で出てきますので
よろしければそちらも再度お願いします。




