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星の泉  作者: 詩穂
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27話 北の砦②

「昨日は助かった、ンヴェネ。なかなかの強行軍で来てくれたようだな。」


 北の国境警備隊隊長ベルンハルト・イェーガーは、ンヴェネの姿を認めると持っていた書類を机の上に置いた。


「昨日の今日でもう仕事してるんですね。」

「ははっ、溜まってしまうからな。とは言っても今はサフィがいるからだいぶ楽になったんだが。」


 話しているところに、お茶を持ってサフィが部屋の中にやってきた。


「ありがとうございます。まさかなんの役に立つんだと思っていた士官学校の知識が今一番役に立っているなんて皮肉ですね。」

 

 カップをテーブルの上に音を立たさずに置くあたり、荒くれ者が多い国境警備隊にはない繊細さだ。


「ここの奴らは腕はたつが、事務作業はからっきしだからな。最初は中央貴族の息子なんてどう扱えばいいのか分からなかったが、今じゃいなくなると困ってしまうよ。」

 見ろ、こんな綺麗にまとまった書類にぽんぽんと手を叩いた。遠目に見るだけでも、確かに綺麗に纏まった表が書かれているようだ。手書きの文字も全て丁寧で見やすい。


「家を継ぐまではおりますから、それまでには他の方もできるようになります。」


 そうは言っても、なかなかサフィのレベルに追いつく人を育成するのは骨が折れるだろう。士官学校を出た人間が王都の王国軍ではなく国境警備隊にはいることすら珍しい。サフィは卒業こそしてないが、噂ではかなりの優秀な成績を収めていたらしいというのは聞き及んでいる。


「そういえば士官学校を辞めてこちらにいらっしゃったんでしたっけ。」

「あはは、ルーイ大尉も私に敬語なんていらないですよ。爵位も継いでないですし、国境警備隊でも、私は下士官ですから。」

「私は五星士じゃなくなったらギリギリ下士官に残れるかどうかですよ。」

「ご謙遜を。歴代五星士の中で最も優秀だと父も褒めていましたよ。他の師団長からも一目を置かれていて、仲間からの信頼が厚いと。」

「そんな褒められることないから泣いちゃう。」

 

 褒められ慣れていないンヴェネは、悪ふざけしてシクシクと泣くふりをする。


「ンヴェネも変わっていないな。褒めれると惚けるのも。」

「バーニー隊長は、大人らしくなりましたね。」

「もう35だ。大人になるだろうよ。サフィのようなモンターニュ戦争なんてほとんど知らないのが、もう16になるんだ。」


 弟が生きていれば、その弟より年下の彼が、軍でここまで立派に働いている。モンターニュ戦争が終わってから10年以上経過しているのが未だに信じられない。それはきっとベルンハルトも同じだ。


「若いとは思っていましたけど、本当に若いですね。」

「恥ずかしいですね。若さゆえに中央に疑問を持って感情のままに家を出て来てしまいましたから。」


 サフィは心の底から恥ずかしそうに頬をかく。


「中央に疑問を持ったからこの国境に?」

「ここを選んだのはベルンハルト隊長に憧れてきたんです。士官学校で講演会をされた時に、モンターニュ戦争や戦後のノスランドの話を聞いて私の目指す正義がそこにあると思ったんです。」

「講演?バーニー隊長が?」

「そういう大層なお勉強会なんてしてねえよ。できるわけないだろう、剣と銃しか握ったことねえんだから。ただただ死ぬか生きるかどっちかしかなかったって言う話をしたら何故かサフィは食いついたんだよ。訳わからんだろ?」

「それだけじゃありません。虐めをしていた学生を叱り、いじめを行っていた学生を庇い虐められた生徒を追い出そうとした教官を殴り飛ばしたんですよ。『てめえのようなやつのせいで戦場で何人が犠牲になったんだ』と。」

「流石バーニー隊長。」


 平民でありながらも、士官学校で講演会に呼ばれるほどの実力者のベルンハルト・イェーガーは、先の戦争で中央の連携不足で援軍が来ず、モンターニュ5000対ルーグ2000の不利な戦いを覆したハルバン平原の英雄の1人だ。それだけでも正義感の強い学生たちには人気が高いのに、そんなことをしたら更に熱に浮かれるだろう。

「まあ、流石に士官学校からはすぐに追い出されたけどな。ゲストスピーカーとして呼ばれたのに、“最高の”オモテナシで帰されたぜ。」

「そしたら、ヤナ隊長補佐がくっついてきたと。」

「事務仕事が苦手な俺からしたら棚から牡丹餅だったな。」

「役立てるのは光栄でしたけど、この仕事に携わるならきちんと士官学校を卒業した方が良かったかもしれないとは思いましたね。でも、そうすると、ここでベルンハルト隊長の直下で働けなかったとも思うので、ないものねだりだと思います。」


 サフィの父である王国軍長官のペチュウ・ヤナは、「家庭環境がよくなかった」のは言っていたが、当のサフィは家というよりは本当にここに来たかったらしい。


「ヤナ長官補佐が現在満足して働いているようで何よりです。ヤナ長官は心配そうでしたので。」

「父と紛らわしいので、是非サフィと。せめて国境警備隊にいる時だけでも、私には気楽にお話ししてください。」


 貴族の中でもヤナ家は上級貴族だから、そう言われてもなかなか崩せずにいたが、どうやら正義感の強いらしい16歳の少年に申し訳ないので、そうさせてもらうと言ってから崩した。


「父は何か勘違いしていると思います。恐らく母や異母弟との関係を気に病んでいると思いますが、母と父が結婚してからはほとんど私は学校の寄宿舎にいるので、関わったことはありません。」

「でも、家を継ぐのとかどうとかあるんじゃない?」

「異母弟は継承権がないので特には。平民の皆さんは何か違うのかもしれませんが、この国の貴族は血統を何より重んじるのです。女性に財産権がないので、夫に先立たれ困窮した親戚の女性と父は結婚しておりまして、彼女の息子は彼の父のバルン子爵を継ぐことはできても我がヤナ伯爵は継げないんです。ヤナ伯爵は私が継げなかった場合、父の姉の息子が継ぐことになると思います。」

「なるほど、貴族の家系は複雑怪奇だね。」

「あの戦も、実際には魔力結晶の鉱山の利権を争ったモンターニュ戦争ですが、一応建前上はノスランド辺境伯の継承権争いでしたからね。」

「ああ、そういえばそうなんだっけ。戦っていた時は知らなかったよ。」

「現場だと多分そんな建前は出てこないですよね。国力の差があるはずですが、なかなか手強い相手です。」

 実はモンターニュは山という意味で、元々山岳地帯に住む人々のルーグ側から呼んだ総称だった。それが隣国全体を指すようになったのは恐らくここ300年程度の話。向こうの国では自分たちの国のことをモンターニュ共和国ではなくルミナ・グロリア共和国というそうだ。小国だったが、魔導技術だけでいうなら世界でトップクラスで、騎士団を元に国を作っただけあって規模は小さくとも、世界から恐れられる力を持っている。モンターニュ戦争が始まった時、北の国境警備隊はそれを知っていてかなり警戒していたが、中央はすぐ終わると思って舐めていた。だから、中央からの援軍派遣に時間を要し泥沼化した。


「サフィはノスランドの辺境伯の座も狙ってくれてるぜ。あの悲劇が起きないように。だから、ンヴェネも絶対上り詰めろよ。」

「血統を重んじるのではなかったのです?」

「ノスランド辺境伯直系の女性のお嬢様がいらっしゃるんですよ。今口説いている最中なので邪魔しないでくださいね。」


 見た目は美女と間違うほどの美貌で物腰柔らかいこの少年が男らしい一面を見せるので面を食らった。近くにウィルやアンジュと言ったロマンチストと愛が重い彼らに毒されていたかもしれないが、こういうのが普通だ。


「ノスランド領がそれで良くなるのなら僕は応援するよ。」

「ありがとうございます。」

「実はこれも建前で、普通に会ったら超タイプだったらしくて、一石二鳥を得ようとしてるんだよコイツ。」

「そんな恥ずかしいこと言わないでくださいよ!」

「どういう人なんですか?」

「性格は穏やかなんですが、力強いところがあってこのノスランド領の行く末をずっと案じている方なんです。年上なので先に嫁がれないように今必死に色んなところに牽制をかけているんです。本当に協力してください!」


 年相応に、後半から早口で捲し立てたのを見てンヴェネは微笑ましくおもった。だが、それだけでもうまくいかないのが貴族らしい。


「北の住人として、ただ尽くしてくれるのはありがたいが、自領が疎かになってる気がするのは気が引ける。」

「……十分気を遣って頂いています。今年の旱魃に関しては何度かこちらからも向かわせていただきました。なんの役にも立てなかったのは私の技量です。」

 

 神が起こした水害の周辺地域では、降水量が減りそちらでも深刻な被害をもたらしていた。王都の近くには大規模な農村が複数あるが、それらが例年の収穫量の最大を見積もっても7割しかないと予想されている。死の権能を持つスイが今年の冬は人がたくさん死ぬと言うくらいには、危機的状況なのは間違いない。ノスランド領は、遠く離れているから物価などにはひどく影響は受けてはいないが、ルーグ王国の中央が不安定になるとモンターニュの国境が不穏になるから、気を引き締める必要がある。向こうの国にも脅威と思われているベルンハルトが昨日死なずに済んだことが、王国にとっては大きな利益だった。


 将来の暗い話になり、3人が顔を見合わせると、戸を叩く音がして若い兵が顔を出した。


「隊長、五星士の魔術師殿が起きられて、私に何をすればいいのかとお尋ねされましたが、いかがいたしますか。」

「おう、もう働く気なのか。こちらに来るように言ってくれ。」

「では、このままお通しします。」


 その兵と変わるようにアンジュとスイが部屋の中に入ってきた。ベルンハルトを救い、間接的にノスランド領、王国を救った少年は、すれ違いざまに案内に礼を言ってンヴェネの隣にやって来た。


「いやぁ、昨日は助かった。疲れていたところだったのに、無理して助けて貰って申し訳なかった。感謝する。」

 ベルンハルトは立ち上がってアンジュとスイに握手し、改めて自己紹介をする。昨日ベルンハルトが見かけた時アンジュは5フィートほどの幼い少年だったが、既にスイと変わらない体にまで戻っていた。


「昨日より背が高く見えるな。」

「ああ、えっと、こっちが嘘の姿です。嘘の姿が公式にアンジュ・クラントを名乗ってます。」

「…君、結構変なやつか?」

「大正解、流石バーニー隊長。」


 嘘の姿だと名乗るなんてなかなか聞いたことがない。なかなか風変わりな自己紹介にベルンハルトも


「昨日のことで話したいことがあるので、サフィとベルンハルトさん以外の人払いをお願いします。」

「分かった。サフィ、頼むぞ。」

「はい。畏まりました。」


 人払いを済ませると、居直ってベルンハルトはアンジュに声をかけた。


「魔術師殿、人払いをかけたのは?」

「俺はあまり気遣いとかが分からないから、許してほしいです。口にした言葉以上の意味を持たないことは保証する。貴方は昨日、本来なら死んでいました。魔術でも魔法でも追いつけなかった。」

 まるで助からなかったという言い方に、後遺症もなく今元気に話しているベルンハルトは実感が伴わない。


「…はあ、でも、今、俺は生きている。」

「そうだね。あの時『貴方の毒によって失われた部分を全て僕の魔力で置き換えた』ので、『死ななかった』。初めてやったことだから、貴方が僕の魔力に耐えられない可能性もあったけど、賭けに勝ち、こうして話す機会を得られてよかった。」

「おう、悪いがサフィやンヴェネと違って俺の頭は悪いから簡単に教えてくれ。」


 アンジュは少し言いづらそうにして双子の片割れに一瞥をした後、ゆっくりと口を動かした。


「俺は神々の末席に座るエル・ウォッカ、人間の神獣の孫で『生』を司る者。」

「きみは今何語で話している?」

「ちゃんとあなたと同じ言語で話しているよ。」


 五星士たちとちがってベルンハルトは、アンジュの通常人とかけ離れた部分はみていないから、頭の可笑しい発言と受け取られるのも仕方がない。


「バーニー隊長、信じられなくてもいいので話を進めてもらいましょう。」

「…そうか。」

「うん、とりあえず貴方は神獣…、俺の眷属になってしまったようだ。」

「眷属?」

「…ンヴェネとウィルが話し通り過ぎるから、俺もどう話せばいいのか分からないよ。」


 アンジュが困ったようにンヴェネに顔を向けるが、ンヴェネもそれまでの積み重ねでさもありなんだと思っているくらいで、以前任務で一緒になった時に森で見た光景で少しずつ真実であることを、本当の意味で受け入れ始めたくらいだ。


『神から遠い種族の人間が、『はいそうですか』と頷くはずなかろう。』

「…やっぱり、鳥が話しているよな。」


スイの頭に乗っているクルルが呆れて口を挟んだ。


『ああ、だが、ただの鳥ではない。余は鳥の神獣だ。昔の名をユピテル、現在の名はクルルだ。』

「ユピテル・・・、もしかして500年前王都の城門で暴れたという伝説の神獣。」


 ユピテルと聞いて本をよく読むサフィのほうが、伝説を聞いてピンときたようだ。アンジュが王都で特別扱いを受ける要因の一つでもあるが、地方ではその情報は届いていない。とりあえずンヴェネはスイとエルを気に入って側にいて、神獣だから中央でも咎められず認められていると粗方説明をし終える。


「その城門の話ってウィルも言っていたような。」

『忘れろ。エルが見つからなくて、騒ぎ立てたら出てくると思った馬鹿な話だ。』

「…今、結構凄い発言ありましたよね。つまり、アンジュ殿は500年前から存在していたということになりませんか?」

「500年前からいたというよりは、500年前にいたという方が正しいかも。俺の感覚としてはね。」

「…は、はあ、そうですか。信じ難い話になってきますね。」

 ベルンハルトとサフィは理解が追い付かないながらも少しずつ自分が理解できるようにかみ砕く。

「まあ、そこらへんはなんとなく知ってくれてればいいよ。本題はこっち。貴方は僕の眷属となって生きるか、それとも死ぬか。どちらか一つを選ぶことになった。死ぬ場合は、死を司るスイが貴方の命を奪うので辛いものにはならない。」

 あの時は、ベルンハルトが死にかけていて意識がはっきりしておらず、その時に許可を得ることはできなかったので、とりあえず眷属の状態にして元気にしてからベルンハルトの意思を伺おうとしたということらしい。

「…なるほどねぇ、要は俺は神の力で今生かされている状況ってことだな。でも、それだけじゃ神の力で生かされているという状況がどんなものかが分からねえ。」

「俺も眷属を持ったことがないから、貴方にどんな力が与えられるかは分からないけど、一つ、普通の人間と同じように年を重ねられない。非常にゆっくりとした時間を生きることになる。2つ目、眷属である貴方は主人の俺の命令には逆らえない。これはクルルの予想だけれど、3つ目、俺と同じ特性を受けるなら、毒や寄生虫に苦しめられることになる。」

「え、なにそれ聞いたことないけど、新入りくんは寄生虫にも対抗できるんじゃなかった?」

 

 アンジュは少しだけ躊躇ったが、ウィルやルサリィがいないのでいいやと思った。


「…それは少し違う。俺が中々死ぬ性質ではなかったから、苦しみながら抵抗できる魔術を手に入れているだけ。俺自身は最終的には勝てているけど、眷属の君がどうなるかは知らない。特に寄生虫は辛い。俺の中に住む寄生虫は俺の『生』の力を受けて、通常よりも早く成長し種を増やす。勿論、眷属の事に関してはなんとなく主である俺には分かるから危機的状況に陥れば貴方を助けることは可能だけど、助けるのにも時間かかるから多分慣れていない君はとても苦しいと思う。」

 何故そんなことが分かるのかと問えば、やはり件のマッドサイエンティストが問題だった。王国魔術師時代苗床としても役に立っていたなんていうのをこぼしたときに、スイとクルルから鋭い目線を浴びてそんなこともないとごまかしていたがごまかし切れていない。あの二柱がミルフィ―とリーラを説得して王国から連れ出そうとするのがまた一歩近づいている。

「で、隊長さんはどういう選択を取るんだ?」

「…その、これって急ぎか?死にますか、永遠の命ですかと聞かれるのなんて初めてでね。」

「そんな経験あってたまるか。俺だってないわ。」


 混乱極めるこの中で唯一冷静なスイがツッコむ。


「で、俺は待つのは面倒くさいけど、エルは?」

「…いや、俺だってこの状況で永遠に近い人生を歩むか、死ぬかって聞かれたら…迷わず死を選ぶ。」

「迷うっていうところだぞ。」

「でも、それは俺が何の目的もないからで、ベルンハルトさんはそうじゃない。なるべく早くに結論を出してほしいのは確かだけど。」

 猶予を与えたくないのは、あまり知らないうちなら死を与えることにそこまで苦しくならない。でも、長い付き合いになったらどうせ愛着が湧いてしまう。その時に死にたいと言われたらと思うとなるべく早く結論を出してほしいとは思う。

「エル、逆らえないってことをどういうことか教えてあげたほうがいいと思うぞ。」

「…そうだな。たとえ貴方が心の底から拒んでも俺の命令は絶対。」

「…あんまりイメージ湧かないな。」

惚けた顔をしたベルンハルトに、アンジュは冷たい視線を投げかけて命令した。

「“サフィを殺せ”」

「な、なにを?」


 その瞬間ベルンハルトは腰に下げていた剣を抜いてサフィの首を狙った。が、何かに弾かれて剣は届かなかった。


「“やめて”」

 

 エルのその一言でベルンハルトは我に帰り、腕の力が抜け、大切な愛刀を手から滑らせて落とした。



「な、なんだったんだ。」

「俺の魔術でサフィに防御結界を張ってなかったら、間違いなく貴方は自分の手で優秀な部下を殺した。これで、貴方がどんなに心の底から拒む命令でも勝てない、ということがわかるよね。」


 ベルンハルトは力が抜けたように座り込んだ。


「何が凄えって、全然疑問に思わなかったんだ。心が一瞬で作り変えられた感じだ。」

「だからと言って、眷属をやめたら死ぬんですよね?」

「死ぬ。」


 ベルンハルトとサフィは思うところがあり、それ以上なかなか言葉が出てこなかった。


「バーニー隊長、それにサフィ。新入りくんは確かに変だけど、悪い奴ではないです。ずっと王国から隠れ続けたかったのに、貧しい家の子が死にかけているのを無視できず助けて王国に所在がばれたんです。一旦新入りくんに命を預けてみるのも悪くないんじゃないですか?」

「……そうだな。いや、今ので流されそうになったが、俺たちを利用するつもりなら、こんな説明をするはずもないし、やはり様子見させてくれ。」

「分かった。」


 考えておいてほしいと言ってアンジュはスイとクルルを連れ立って部屋を出て行った。ンヴェネは慌てて2人と一柱の後を追った。


「ちょっとどこ行くの?」

「死の森。ちょっと知りたいことがあって。」

「…分かった、僕もついていくよ。」


 クルルは鳥で、スイはアンジュの意思を優先するから、ストッパーになり得ない。


ーーーー

 死の森の前につき、さっさと中に入るのかと思いきや、アンジュは立ち止まった。


「やっぱり見覚えがある気がする。ンヴェネはあんまり近寄らないほうがいいよ。毒虫も毒の草木も危険だけど、それ以上に空気にも毒が含まれてる。」

「え?」


 アンジュはいつものように木に手を当てて、魔力の流れを探ろうとした。しかし。


「ゴフッ、強…。」


 ほんの数秒だったのに、血を吐きダラダラと鼻から鮮血を流した。


「エル、それは不味い血の流れ方だ。」

「だ、大丈夫。ちょっと時間かかるけど俺は治る。」


 流れる血で手が汚れても、白いマントだけは弾いて綺麗なままだ。


「…キミのマント、どんな素材でできてるの。」

「純粋な魔力だよ。」

「…え、ええ。」


 それは人が素材になったのかとは聞けなかった。そうではないとは言っていたが、なにかしら近しいものの可能性がありそうだった。


「戻る?」

「俺の体の性質上毒の回りが早い上に、直接の毒を取り込んだから、酷い症状に見えるけど、大丈夫。」

「なに一つ大丈夫な要素なかったけど。」

「大丈夫大丈夫。兄さん。」

「分かった、俺だけで探ってくるよ。」

「それだけじゃない。」


 毒が効かないと言うスイが手を振って森の中に進もうとしてアンジュは呼び止めた。


「この森を変えたの兄さんだろ。」

「ええー、本当に?」


 驚いてスイは振り返った。


「兄さんの魔力を感じたよ。少しだけ兄さんがこの体にいた記憶も思い出した。」

「……そういえば、そんな気がする。」

「カンカラと経緯はほとんど同じ。他者を助けたくて俺が書いた魔術書を持ち出した。」

「俺やってること最低じゃん。すっかり忘れてる。」

「僕の感情が兄さんの思い切りの良さによってとんでもない方向に行きやすいんだと思う。だから、今更俺は俺である必要を再認識した。」


 と言うアンジュの血がなかなか止まらない。重要な深い話だろうけれど、2人の話よりンヴェネはそっちの方が気になってしまう。


「本当に問題ないの?」

「あと3分ほどで止まるから大丈夫。」

「そのキミの具体的なのって…いやなんでもない。」

 

 突いたら絶対にぬるりと闇の部分が出てくるに違いない。本当に大体3分後に血が止まるんだから、恐ろしい。

『…しかし、この死の森の効果は余にも効きそうだな。どのような効果があるのかわかるか?』

「俺の魔術を兄さんは100%同じように再現ができてない。しかも、多分今回は兄さん自身の死の力の悪魔合体が起きていてより複雑化して、対抗する術を持ってないと神獣ですら死ぬ。スイの力なら僕に対しては絶対に死ぬことは無いけど。」

「なんでエルは絶対に俺の能力に勝てると信じているんだ?」


 スイは、自分には勝てないといわれているのに対して苛立っているというわけではなくて、もし自分の力が勝ったらエルが死んでしまうという不安から訊ねる。


「兄さんが神の権能を一切使わずに、ただ俺を絞め殺そうとしたり切り捨てようとするなら俺は死ぬけど、ただの神の力なら絶対俺の方が勝つんだよ。何故なら世界が神獣なんて用意して生物を保護するくらい、『生き物』を肯定しているから。兄さんの権能()俺の権能()に勝ってしまったら、生物はいなくなっちゃうだろ。だから、世界は、1500産んで、1000死ぬ設定してるんだ。それに、兄さんは自分のその力をあまり利用したくないから実戦経験は少ないじゃん。俺は試行回数だけは多いよ。」


 スイは丸め込まれているような気もしたが、それなりに真実だと思ったので一定の納得をした。


「じゃあ、とりあえず俺は『魔術書』探しだな。ちゃんと俺もエルだった頃の記憶に向き合って事実を確認しないと色んなところで似た被害出してそうだなぁ。」

「うん。多分、エリスに持ってかれてもいるのもあるだろうし、アンジュとして安穏を享受した6年の精算はしないといけないかもとおれも感じてる。」

「新入りくんはすごく気にするだろうけど、護衛くんまで気にするのは意外。」

「俺が気にしなかったらその分エルが抱えるだろ。」

「でも、実際入れ替わらなかったらこんなこと起きなかっただろうし、俺の…。」

「だぁかぁらぁ、俺にも入れ替わりの責はあるんだって。」


 ンヴェネは藪を突いて蛇を出してしまったことに後悔をした。つい「面倒な2人だな」と口にして、2人をフォローする鳥の神獣から鋭い目を向けられた。


「とりあえず、護衛くんが森に入って確認する。僕らは一応どこまでが入ることが可能かを確認する?あっちの西の方ならまだ大丈夫なんじゃないかな。」

「そうだね、魔術によってどこまで歪んだか分からないけど元の植生とかを調べる必要がある。」

「何かあれば俺を呼べよ。」

「…僕が作った魔力で形を得ている生き物は、眷属たちと同じように苦手なんだよ。だから途中で死んでしまってこっちから伝えることはできないから、兄さんが頑張って俺を見つけてくれ。」

「難易度高。」

『余はここにいよう。スイがなんらかのピンチに陥った時に駆けつけて外に連れ出すくらいなら、死にはしないだろう。』

「そんなことは起きねえよ。」


今度こそ森の中にスイは入っていった。


「って言うか500年前の本がちゃんと残ってるんだね。」

「ああ、多分僕が暮らしていた物置に幽霊がいるとか眉唾物の噂で封印されたっぽいんだよ。何人もの魔術師によって高度にかけられたから現在もほとんどそのまま残ってる。魔術ベースとしては否定されている幽霊の存在を王国の魔術師が怯えているんだから、人の信仰って馬鹿にならないよね。」

「…それでその部屋に見にいったの?」

「行くわけない。魔術式防御システムのデータから情報を得てるだけ。」


 アンジュはマントのフードを被って、死の森から離れた位置のまだ死の魔術がかかっていない場所に進んだ。


「ここら辺は以前と変わらないけど、死の森じゃなくたって狼型モンスターのフェンとか、熊型のA級モンスターのエラヴァンがいるからね。」

「俺の能力を消す兄さんがいないし基本的に俺のそばにいれば何も起きないよ。それより怖いのはモンターニュ兵だ。イカルアの本拠地から離れてる時点で、神獣から遠い人間ばかりなはず。検知は難しい。」

「今の神獣はアナンタでしょ。彼がもしモンターニュ側にいるのなら魔力持ちがいるかもしれないよ。」

「世界は広いしモンターニュにいるかなぁ。イカルアと同じ道は進まないと言っていたし、多分眷属はそれほど多くないはず。」

「ま、そうだね。そっちを気にしすぎても意味ない。と言うか君の魔術書他にヤバいものはないの?」

「それは、いくらでもある。正直その全てがばら撒かれていると色々まずい事がおきる。例えば僕は病気を治すために、また、寄生虫を殺すために、病気や虫をたくさん調べて紙に書いた。あの時紙やインクが足らないと自分の血肉で作った。」

「…本当に?」

「今じゃ植物繊維の紙がほとんどだけど当時は羊の皮の方が一般的で。」

「待って、それ以上は言及しないで。はくよ。」

「まあ、つまるところ、僕の体って殆どが魔力でできているから、魔力を持っていようがいまいが、発動は大概誰にでもできる。」

「君、図鑑を作ったって言ったよね。」

「うん、引きこもっていたから詳しい生態系は分からないけど、動植物、モンスターについてまとめたものがある。いくつかあるはずだよ。」

「君小さい羽の生えた竜も作っていたよね、魔法で。」

「うん。」

「つまり、本当に、君の魔術書は誰にも奪われちゃいけないってことだね。」

「うん、あと、嫌がらせで燃やされた経験もあって殆ど火炎耐性はつけたはずだよ。」

「うん、簡単に処分できないね。とんでもない爆弾を明かしてくれたね?」

「ほとんどはまだ昔の僕の部屋だから、怯えることはない。でも、あ、幽霊伝説ってもしかして僕の魔術が勝手に発動したところから始まるのかも。僕が死んだとされる後も。一番やばいのは…。」

「やばいのは。」

「人間の頭の再現を目指した技術。結局最終的に魔術式の中で自己学習で作るようにしたけど、それまでいくつも頭を作ろうとした過程が書いてある紙束は大量にある。あ、幽霊騒ぎはそれが勝手に喋り出したのかな」

「…君ってさ、頭がいいバカだよね。」


  ンヴェネが頭を抱えて嘆いた。アンジュは苦笑して、


「頭なんてよくない。俺はただ魔術を作るのと発動させるのが人より上手いというだけ。魔術の技術と知識に劣る男に、僕は昔完全敗北している。」


 と答えた。それを謙遜というには彼の表情は苦々しい。


「で、君がなにを失われているのかを確認して、魔術師のスイが持ち出したものを明らかにしないといけないってことだよね。」

「ん、そう思うよな。ただ、見たくないんだ。部屋が現存しているのまでは確認していても、今の俺の精神状態ではその中身までは見れない。」

「……それは確かにそうだよね。」


 アンジュがフードで顔を隠す。スイがアンジュが過去の話を淡々と話す時は魔術を使っている可能性が高いと言っていた。そして、それを濫用すると心が壊れるとのこと。記憶が鮮明に思い出される過去の記録達は直接の負荷があまりにも大きい。


「勝手に進んで、勝手に魔力暴走なんて起こしたくない…。そもそも、大量に資料があるけど、リスト化なんて考えてないから細かくなにが抜けているかなんて分からない。」

「自覚があるだけマシだね。でも、抜かれたら困るものくらいパッと思い付かない?」

「それも膨大にあるから、難しいけど、未だに致死率6割を超える病気、四肢が腐るロリット病、覚せい剤と同じ興奮作用と幻覚作用がある魔術、落書きだけど架空生物の雲竜ヌービルスなんて妄想を描いたものが実現したら恐ろしい…と思う。」

「落書きの架空生物が?…いや、カンカラという事例があるんだから、看過できないか。」

「特筆してあげたけど、疫病の類はどれも危ないし、精神作用系の魔術もたくさんある。誰かに渡ったら危険なものばかり。」

「なんでそんなものばかり…。」

「当時の王国魔術師の研究主体がそう言ったものばかりだった。僕も反転・解術を作るために元の病や症状は調べて研究していたから…。」


 エルは王国魔術師時代、何かに興味を持って研究するというより殆どが対抗手段として研究していた。だから、新しい移動手段、便利な道具という発想には至らなかった。だから、アンジュは目から鱗の魔導技術が好きだ。

「誰だ。」

 2人が雑談のように魔術の話をしていると、ンヴェネが視線の先に何かが動いた音がして、その方向へ銃口を向ける。


「…隠れたね。」

「俺が探ってみるよ。」


 アンジュがしゃがんで足元に手を置くと、彼の腕からぬるりぬるりと多数の蛇が現れる。エルの体に戻る前は魔術式の中から出現していたが、今の技は彼の肉体の中から生み出されている。その方がより強固で効率的に作れるらしいが、見ている方はグロテスクさを感じる。

 ンヴェネは音がした方向への銃の構えを解かない。


 アンジュは複数の蛇の目から得た情報を頭の中で纏めて場所を特定する。周囲に他の人間の姿はないことも確め済みだ。


「捕まえた。」


 アンジュが作った蛇の麻痺毒でその人間の捕縛は簡単に終わった。アンジュとンヴェネが遅れて到着して人間の身なりを見た。服装はボロボロのモンターニュ兵で武器は10年前のモデルの長銃一丁。


「服装は脱走兵。そして、1人で国境越えね。」

「そういうことあるのか。」

「あるよ、向こうは誇り高き騎士団。規律は厳しいし、国の予算の殆どが軍に使われる。対して、ルーグ王国ノスランド領は、辺境とは言われるけど、大都市があって、ディラン辺境伯領経由の様々な物が溢れて、劇場や画廊がある裕福な土地なんだよ。」

「なるほど。」

「理由は、魔力結晶が産出される北部と南部の穀倉地帯。それから、芸術に力を入れているところ。」

「芸術、そういえば街も華やかだった。」

「先先代のノスランド辺境伯が軍人に対しての慰労のために力を入れていた。…今のノスランド伯爵は自領に興味はないようだけど、辺境伯時代から続く土地管理家令(ランドスチュワート)の家が守っているみたいだね。実際の行政の主人はここ。で、話を戻すと、そういうのに釣られて偶にこうしてモンターニュからの脱走者が出てくる。」

 そう言った脱走者は暫く監視され、定期的に軍に己の生活のことを報告しなければならないが、それでも、存外普通に暮らしていけるらしい。


「ただまあ一旦は本当にただの脱走兵かどうかは拘束して確認を取る。」


 ンヴェネは手慣れた手つきで脱走兵の腕を縄で結ぶ。脱走兵は何か言いたげだったが、口まで麻痺が回っているので動かない。


「キミ、どんだけ強い魔法かけたの。」

「瞬時に動けなくさせる毒を持つ蛇を作ったから強力だけど、暫くすれば解けるように改変してるよ。」


 ミニ竜もそうだが、アンジュはいない生物も魔術で再現できるのだから、生き物にとっては神に近いのではとンヴェネは頭に過ったが、心の中だけに留めた。

 アンジュは近辺に落ちている彼の荷物を拾い上げる。


「脱走、か。」


ーーーー


 死の森、深く。


「こうしてみるとエルっぽい魔力だ。でも、ちょっと違う。俺の力もある。」


 日がほとんど当たらない森は、昼間なのに夜のような暗さだ。アンジュの記憶を頼りにスイは魔法の光を作りで周囲を照らす。昔は暗い中を歩く時は松明のようなものを片手に持っていたので片手が塞がった状態だったが、魔法だと空中に漂わせることができるので両手が空く。とは言っても、周りにエルや他人がいないから何かが襲い掛かろうとすることはない。スイの力が効かない人が排除されているから、強く警戒することもない。


 人が排除された森は、家族で暮らしていた森を思い出す。

 父の頭を埋めたあの森はもうない。開拓されて、そこには人の村ができていた。だから、余計にこの森が懐かしく思う。


「ああ。だめだめ、早く進め。いつから俺はこんなに思考がかき乱されるようになったんだ。考えるようにし始めたからか?」


 ここ最近可笑しいと頭をかきむしり、変な感情を振り払ってただエルが求めていた魔術書に向かって歩く。

 暗い森のその先、齢1000年程の大木が聳え立っていた。その木の元に大きなうろがあり、その中に本とは言えない、紐で括られた紙束があった。


「…見覚えがある。」

【そこでなにをしている】


 人間などいないこの森で話しかけられ、虚をつかれたように大きく振り向いた。


「…神鹿しんろく。」


 体長2ヤードほどの大きな鹿がいた。スイは朧げながら覚えている。この森にいた菌糸類を司る鹿の神獣、あの時人間から呼ばれる名は無いと言うのでスイが勝手につけた名前が神鹿だ。だから、スイしか呼ばない名前だった。


【……お前は、アイツの血縁者か。】

「いやぁ、久しぶり。何年振り?」

【知らん。】

「会ったことあるよ。俺がここにこれ置いたじゃん。」

【…彼は名を持たぬ人間の魔術師だったが、お前が?】


 ただスイの言っていることを簡単に信じられても不気味だから、神鹿が怪訝そうな顔つきをしていても指摘することなくその通りと頷く。


【よしんば、お前の言うことが正しかったとして、お前が我の為と置いた物をなぜお前が回収する。】


 神鹿を直接見たおかげで少しずつだがその時の記憶を思い出した。時折この妖精の森ではモンターニュ兵が入り込み、それを迎撃するルーグ兵が応戦していた。人間たちの境界の争いがこの森を拠点にしている神鹿には許せなかった。そこは偶然やってきたエルの強い感情に押されていたスイが共感して、神鹿との相性も良いこの魔術書を置いていった。


「いや、これ実は人から借りパクしてたやつなんだよね。本当の持ち主から返して欲しいと言われたから悪いけど回収しにきた。」

【カリパク…?いかんせん、お前の都合でしかないな。】

「そう思うよ。」

【ただしかし、既に我のものだ。いくらお前でも盗ることは許さん。」


 スイは気の抜けた顔であちゃあと頭を押さえたあと、余裕そうに腰に差してあった剣を抜いた。


「言っておくけど、貴方が神獣でも、貴方の司る権能じゃ俺には勝てない。俺にとっては最高の相性だよ。」

【抜かすな。】

 

 エルがスイの能力に対して強気な理由がわかる。本能的に“そう思う”のだ。それを天啓というのかもしれない。

 菌糸類は生きている。殆どが無生物の力を権能とする神獣の中では珍しい。花などの植物や微生物など環境側に近い生物のみだ。


 神鹿の特殊な力を用いた催眠作用のある胞子も、毒の胞子もスイの力で簡単に殺せる。全ては生き物だからだ。


「それに俺は人間。動物たちが狩猟や逃走以外の休息に使っている時間も、俺たちは鍛錬しているんだ。」

【…ほう。】

「俺は知ってるんだよ、ほとんどの神獣たちは努力しないことを。」


 神鹿は致命傷を避けられているが、少しずつ傷が増える。そして、死を司るスイがつけた傷は神獣がもつ治癒の力では治らない。

 距離から離れて神鹿の魔法も研鑽を積んだエルの魔術に比べたら赤子レベル。生まれ持った力のままだ。アンジュの時に鍛えた魔法でも余裕で打ち返せる。スイ以外には恐らく“世界”から貰った“菌糸類”の能力だけで負け知らずだっただろう。それに、多くの草食動物は余程のことがない限り、生き延びられさえすれば自ら攻撃は仕掛けることは少ない。


「分かったなら、神鹿。諦めてくれ。」

【…それを失えば再びここが戦場になりかねない。まだ燃えてはいないがいつか燃えるかもしれない。】

「俺もそれは残念なんだけどな。」


 協力したのは、魔術師スイの意思。ただそこにエルの心が介在しなかったということはない。エルに率直に伝えればそれもありと言われるかもしれない。


「分かった、神鹿。聞いてくる。元の持ち主にさ。でも、一応持ち帰らせてもらうぜ。」

【……そう言って2度と戻らないだろう!】


 神鹿がやけになったのか、体を巨大化させてその大きな角でスイを襲った。


「その巨大で速く動けるほど広くねえよ、この森は。」


 ひらりと避けて魔術書を拾い一目散と森の外へ抜け出した。追いかけようとしたのだろうが、巨大なツノが木に絡まって闇の中で逃げ切った。


 森の外に出たスイは魔術が已然動いていて少しずつ毒が広がっているのが分かる。

「や。やべ。とりあえず、俺の力で動いている箇所を止めれば、多少はマシになるだろ。」


 魔術の切り方もなんとなくアンジュ時代に覚えたから、慌てふためきながらも拡大はそれほどひどいものではなく止まった。ひとまず安堵して兄弟の元へ急いだ。


ーーーーー


「さすが魔術師というべきなのか。」


 北の国境警備隊の隊長であるベルンハルトは、自分の頭を押さえた。森を出たスイはすぐにクルルと合流し、そのままクルルの案内でアンジュとンヴェネにあった。一通り「魔術書」についてのことは説明を終えたあと、アンジュは脱走兵のことを話した。


「来て早々脱走兵を捕縛して、別件で死の森の原因を突き止めるなんてな。」

「後者については、元より俺らの責任ではあるので。」


 500年前の話をベルンハルトやサフィには詳しく話していない。さらりと話の中で出しただけだし、そもそもスイとアンジュに神獣の血が流れているということすらもしっかりと飲み込めずにいるのだ。長くなりそうなので、それは置いておいてアンジュが捕まえた捕虜の話を続ける。


「捕縛した兵はどうなる?」

「一通り尋問して、しばらくは捕虜になる。その後は監視付きの生活を送ることになる。」

「尋問…。」

「まあ、スパイだの何だのを簡単に自白する筈ないが。」


 アンジュは尋問と聞いてすぐにサウスポートの刑事たちを思い出せなかった。代わりに出てきたのはエルの時にあった残虐行為の数々で、五体満足では決して帰ってこれない。


「尋問は俺やれるよ。傷つけず本心聞き出せます。」

「え?」


 当時のことが頭によぎった時には既にそう伝えていたが、ノスランド領の2人以外にンヴェネとスイも混ざって驚いた。


「ど、どうするのさ。」

「大丈夫。体や精神に作用する魔術が一番得意なんだ。」

「すごい怖いこと言ってないか?」

「恐怖で聞き出さないよ。安心させて聞くだけだから。」

「より怖さを感じるんだよ。」


 ベルンハルトはううむと首を傾げた後、アンジュの申し出を受け入れた。


「分かった。元より君たちを受け入れたのは、建前としてだが、魔術師や中央との軋轢を減らすのが目的だった。俺たちが魔術に詳しくないから、そうやってできることを申し出てくれるのは助かる。」


 既にかなりの強行軍で砦につき、そしてアンジュが魔術によって(厳密には魔術ではないが)、危機的状況だったベルンハルトを助けたことが隊内に広まっていて、アンジュや彼の魔術に関しては反発や侮辱等の感情はかなり薄れているが、魔術師が珍しいのは確かでよりそれを見たい人間は多い。


「ただそれには俺も同席させてもらおう。」

「私も後学のために拝聴させていただいてもよろしいでしょうか。」

「可能か?」

「なんの問題もないよ。」


 ンヴェネとスイが、今までのエルを知っているから何にも言えなくなってしまっていた。ンヴェネがこそりとスイに耳打ちする。


「君の弟くん、聞けば聞くほど怖い部分が見えてくる気がしてるんだけど。」

「ンヴェネ、数ヶ月西の町…サンセットブリッジの町に暮らしてきた時、本当に何もかもにビビりながら生きていたんだよ。信じらんねえだろ。いつの間に強くなったんだ。」

「本当に信じられないや。」


 ほとんど分かっていないベルンハルトやサフィの方がアンジュの発言を普通に受け入れられているが、人に怯えていたところを知っているンヴェネやスイには不可解に思えてしまった。


 北の国境警備隊がいる砦は、窓が小さく、昼でも基本的に薄暗い。アンジュは魔術塔の窓のほとんどが、大きく開放的だったことを思い出す。魔術式を作るときに商業の発展を理由に、当時から北を任されていたノスランド辺境伯の家から反発があったことがあった。魔術塔の窓の大きさはお気楽さを、国境警備隊の砦の窓は緊迫さを伝えているようだ。


 アンジュは何気なしに魔法の光の塊を作っては廊下に置いていきながら尋問の場所へと向かう。


「森に捨てられる子ども?」

「この先にいるのが魔女でそこはお菓子の家かもなぁ。」

「君魔法使いじゃん。」

「昔森の中に住んでたし、人喰いモンスターもたくさんいたし、あ俺たちの昔の家だ。菓子ではないけど。」

「この先に続くのが、俺たちの家ならいいな。」


 魔女役と子供役兼任なんてとんだマッチポンプだと呑気な話をしながら行くのはお菓子の家でもスイとエルのかつての家ではなく取調べ用の一室だ。先ほどの脱走兵の男と尋問官がいて既にある程度の話は聞いたらしい。

男の名前はアビゲイル・マックス。出身はルーグ王国のノスランド辺境伯領で、戦争当時は12歳の現在24歳。そして、特に兵だったわけでもないが、それ以降モンターニュ側に拉致されて捕虜の扱いで無償労働に従事させられていたとのこと。


「バレニアの村で墓守の仕事をしていたんだ。あそこは今では戦地になってしまって村は潰れてしまったね。」

「…そ、うだったか。」

「墓守って大変な仕事だよな。あまり好かれない人間がやるし。」

「ちょっと。」


 アンジュもリレイラの村で死体の処理をやっていたから分かるが、かなり忌み嫌われる仕事の一つだ。ただアンジュは便利屋として重宝されていたから、それだけで距離を置かれることはなかったが。


「馬鹿になんかしてないよ。俺も村ではその立ち位置だったから。俺は魔法が使えたから楽していたとは思うけど。」

「魔術師のアンジュ殿がそのような仕事をしていたとは。」

「それよりも大事なことがあったから。」


 魔術を使わない所でもある程度の話は聞けたが、アンジュは本題に取り掛かった。座っているアビゲイルに屈んで目線を合わせてから、両の手で顔全体を包むようにして目を合わせる。アビゲイルは動揺しながらも、何の抵抗はしなかった。虜囚という立場故ではなく、既にその紅い瞳に既に囚われていたからだ。アンジュの声は静かにそして穏やかに紡がれる。それはとても幼い子供に対するような言い方だった。


「お帰りなさい、アビゲイル。大変だったよね。」

「…い、いや。…ああ。」

「怖かったよね。助けに行けなくてごめんね。」


 アビゲイルの瞳は大きく開かれて、アンジュを見ていた。


「でも、もう大丈夫だよ。怖くないよ。怖いものはもうないからね。」


 それを見守る周りの人間たちも、24の草臥れた容貌の男に対して何をしているのだろうと驚きながらも口を閉ざす。

 アンジュがずっと「大丈夫」「怖くない」と繰り返していると、少しずつ男の目から懐疑心や自尊心がなくなっているようだった。一種の催眠術に近いのだろう。


「12年前、戦争が始まる前は何をしていた。」

「あの時は…、いつものように、薪を割っていた。そしたら、何故か武装した男たちがやってきて、逃げ回った。」

「うん、怖いね。よく生きていたね。」

「怖い。本当に怖い。痛い。殴られたし蹴られた。」

「今も痛い?」

「今は…心が痛い。」

「そうだよね。痛いよね。」


 それから、暫く捕虜としてただ捕まっていた時の話をすると、ご飯は2日に一度程度で風呂は入れないから汚くなっていて不衛生な状況下にいて同じように捕まった人間が1人、2人と死んでいった。そして、あの日と口にした。


「着替えろと言われて着替えて、銃を持たされた。お前たちはもう自由になったから出て行けと言われて母国の砦に向かって走った。」


 ンヴェネはそれを聞いて耳を塞ぎたくなった。それはきっとその日。


「たすかると思って走ったのに、母国の砲撃が降った。俺は足が遅かったから、食らわなかったけど、足が早かったやつはだめだった。子どもも女も皆死んでいった。」


 モンターニュ側の作戦は、ルーグがなかなか中央から派兵をしないことに気づき、千載一遇のチャンスに少しでも弾を減らすために弾除けとしてルーグの人間の虜囚たちを走らせたらしい。


「気づいてあげられなくてごめんね。」

「ルーグはもう俺たちを見限ったんだ。要らないものにされたんだ。俺たちの絶望が分かるかよ。」


 アンジュは震える声を出す男の頭を包むように抱えた。


「だから、また捕虜になったんだね。」

「そう…、じゃない。」

「うん、そうだよね。今のは口裏を合わせようとしただけだ。知ってるよ、本当は今ルミナ・グロリアの諜報部隊にいるよね。」


 驚いたのは当の本人のアビゲイルだけではない。そんな情報一度も出ていなかったのだ。


「大丈夫、分かってるんだよ。」


 そう告げれば、アビゲイルは一つ一つ本当のことを告げた。

 あの時砲撃した母国を憎んでいたこと。それから、自分を見下してくる村には愛着はなかったこと。だから、簡単にプライドを捨ててモンターニュに頭を下げて軍に入隊したこと。お帰りなさいなどと言ってもらえるような人間はないと。実際に何をしてきたかを告げた後、彼は疲れたのか眠った。


「魔術を使いすぎたな。暫く彼はぼうっとしてしまうだろうけど3日後くらいには普通に戻っているよ。」

「それ以上に聞きたいことあるけどな、とりあえずエルに。」

「そう?どれ?」


 初めから魔術で聞き出すと言っただろうと首を傾げる。


「アビゲイルが諜報部隊だってことは魔術じゃないだろ。」

「ああ。それか。」


 そばに置いてあった男のくたびれた鞄から、汚いと古びた飴の缶詰を取り出した。


「これ、魔導技術の機械。男の荷物から魔力があるのに違和感があってさっき覗いた。使われている魔術式はとても単純で魔力をただの動力として絡繰技術を動かしてるんだ。ルーグ王国の魔術式は僕が作った物が元となっているからとても複雑で、より効率に動くようになっている。代わりに絡繰技術はとても単純な仕組みだ。だから、これは確実にモンターニュの技術だと思うし、ただの兵が買えるような値段でもない。」


 ルーグ王国で見た魔導技術は、機織りや通信機、それから魔導武器など基本的には業務用しかないものだ。簡単な魔導技術だとしてもそれ一つで世界的にも裕福な方の王都の庶民の生活費の3ヶ月分はする。いくら他国だからといえ、そんなものがただの脱走兵が持てるはずない。もしそれよりももっと安価ならルーグよりもモンターニュが今頃世界のトップとなっているはずだが、なってはない。

 アンジュは魔術を使って丁寧に飴の缶を上下に分けて、中の機械を確認する。


「駐在所にあったやつよりコンパクトだけど、音声信号を送るもので正しそう。暗号に関しては…、また明日にでも聞いてみたら?」

「戻るのは3日後ではないのか?」

「明日はまだ魔術の影響の酩酊状態で、誰でも聞けるんじゃないかな。警戒させてしまうと、上手く答えないけど。」

「ああ、分かった。明日はサフィに頼もう。」


 あんまり一介の五星士に海外の機密は持たせない方が良いとベルンハルトは判断した。五星士というのはあくまで国内向けのヒーローなのだから。


「今回のことは助かった。暫く休んでくれ。」

「この双子が色々やったけれど、僕は何もしてないんですけどね。」

「魔術書の件でもっと話したいことがあるので、時間が欲しい。」

「勿論、それはこっちも同じだ。」


 尋問部屋を退出して3人は鍛錬室と向かう。その道すがらスイはまだ納得いってない様子だった。


「一般の兵か諜報部隊か、なんて結局あれだけじゃ分からないだろ。」

「そこは賭けだよ。モンターニュの騎士団規定に、ルミナ・グロリア籍以外は入団できないんだ。但し諜報部隊は例外。」

「ふーん。そんなのいくらでも誤魔化せそうだけどなぁ。でも、そんな情報。」

「一応これはルーグ王国の超機密情報。俺は王都に置かれている情報はいくらでも調べられるんだよ。機密だろうがなかろうが。」

「調べられるにしても、よく調べようという意識が働くよね。管理簿とかがあってそこから索引を引いて調べてるわけじゃないんだよね。500年なんて途方もないデータの量を虱潰しに調べたっていうの?」

「ンヴェネはよくそこまで考えつくな。」

「これでも、書庫や図書館にはよくいくもんでね。」

「ん、本当に単純なことなんだけど、情報が“そこにある”ことを覚えているんだよ。」

「それだってさ、とんでもない量の知識が必要だよね。」

「それはねぇ……、単純に俺が凄いだけだよ。」


 何を言われるかと思えばただの自画自賛。スイも茶化すことなく頷く。


「これは本当だな。一度話した内容は覚えているし、目測とかもかなり完璧に近い。単純に全て覚えているんだと思う。」

「…今まで一番化け物であることを感じているよ。」


 ベルンハルトを救ったことよりも、蛇を大量に生み出したことよりも、アビゲイルがスパイであることを見抜いたことよりも、それの方がンヴェネには驚異的に写った。何しろそれは『神の力』ではないはずだからだ。


「俺がンヴェネより年上だって信じられた?」


 悪戯が成功したような子供の顔に、ンヴェネは苛立って頭を叩く。スイはンヴェネに同意してうなずく。


「俺もそれは信じらんねえもん。」

「兄さんはこっちの立場じゃないのか。」

「俺は逆に精神性って体と一致するもんだなぁと思ったけどな。」


 アンジュはそんなことないとは言えなかった。だって、自分自身この大人に見せる魔術が解けると、もっと感情が激しく出そうになるのだ。これが大脳新皮質の持つ効果なのだろうと思う。この見た目を変える魔術は見た目だけじゃなく、能力値の底上げにもなるのだろう。


「兄さんはこの魔術の効果を見抜いてたんだな。」

「え、何が?」


 魔術の効果なんて見抜けるものかと首を傾げているから、ただただそういう勘が働いているだけらしい。


「まあ、別にいいや。」


 大したことはないと口にした。


ーーー


 鍛錬室の中に入った途端のことだった。男の怒鳴り声で、アンジュが後ろにのけぞりそうになったのをスイが支えた。軍の中でそのような大きな声というものはよく聞くものだが、それでも尋常ではない怒りを孕んだ声だった。


「それだけでへたれるとは何事だ!」


 すみませんと謝罪しながら若い兵が立とうとしているがどこか動きがぎこちない。気合を入れてやるなんて拳を振り上げたのを、アンジュは魔術で無理やり止めた。


「すみません、失礼します。」

「あっ君。」


 アンジュは少しの距離を魔術で移動し、立ててない青年の前に移動した。


「動かないで。」


 青年の腕や足を触ると、それだけで痛そうに彼は顔を顰める。アンジュはそれを具によく見ていた。


「…免疫系の病気だよ。絶対安静。動くのダメ。」


 色々彼の症状について言いたいことはあったが、それをこんな大勢の前で言うのも、そもそも彼本人に直接言うのも躊躇った。


「おい、何してくれてんだ。」

「僕は医術を齧った王都の魔術師だよ。」


 上官だろう男は殴る手を止めて、アンジュの方を睨みつけた。何か言いたげだが、アンジュが魔術師と名乗ったからおいそれと口に出せないと言った様子だ。


「…あの、その、俺やれます。」


 アンジュの手を跳ね除けて、青年は立ち上がった。余計なお節介なのだと理解していながら、立ち上がった青年に声をかけた。


「まだ暫くいるから。」


 傍観していたンヴェネはアンジュの首根っこ掴んで鍛錬の邪魔したことを謝罪し、暫く世話になると挨拶をした。今日はまだベルンハルトから何も共同訓練の内容は通達されてないから、その場を離れた。


 彼らに聞こえないように、ンヴェネは廊下に引っ張ってアンジュに説明を求めた。


「…あくまで俺の推察でしかないんだけど、彼は不治の病だ。」

「君の力を持ってしても?」

「そう。恐らくなんだけど、彼は免疫系の異常なんだよ。今までの医療魔術の中心は寄生虫や流行り病といった、外部から異物が入ることで起きているものなんだ。つい最近の研究で『自分自身をなぜか自分の免疫が敵と認識してしまって症状が出てしまう』という病気があることが発覚したんだ。俺は一度も研究したことがないし、読んだけど現状解決策がないんだ。」

「そりゃそうか。そうだよね、君でも治せないものはあるんだ。」


 いつからか何もかもアンジュの知識さえあればなんとかなると思ってしまっていたから、治せないものがあるなんて当然のことなのに驚いてしまった。


「死なない方法はないわけじゃない。それはベルンハルトさんと同じで全て僕の力で置き換えることができれば、恐らく死なない。ーーー魔力耐性がなかったら死ぬけど。でも、だからと言って、悪戯に眷属は増やせない。」

「そもそも眷属って延命するためのもんじゃない。」


 すぐにはついてこなかったスイがやってきて、不機嫌そうにアンジュを咎める。


「眷属は神獣自身が管理するものだから、眷属がバカやったら世界から咎められるのはエルだぞ。」

「そ、そうだね。」

「エルがいなくなった後で確認したけど、さっき声かけた男、死の匂いがするわ。」

「なにそれ。」

「多分死期が近い。それをエルはあの場で伝えられなかったんだろ。」

「俺はそんな何か感じたわけじゃない。でも、軽く触れただけなのにあちこちで痛みを訴えていた。」

「それって本当に感染の病じゃないの?」

「確かに似た症状のはあるんだけど…そのなんだろう。外から何かが入って起きた症状は俺はわかるんだ。“本人のものじゃない何か”があるのが。でも、免疫系疾患は自分自身が攻撃しているからそれがない。そうすると俺も何が原因で苦しんでいるのかが、たかが触診程度では分かんない。恥ずかしい話、俺の体でそれを再現できてないから、疾患を理解できないんだ。」

「…今まで君が治せるもの全て君自身が罹ったことがあるってこと?」

「100%とは言わないけど、8〜9割は。人間に対して治験できてない魔術を使うのは言語道断だからな。」

「でも、君は神獣の血を引いているわけだから、100%人間と同じじゃないんでしょ。」

「ううん、構成はちゃんと人間。人の症状による苦しみ方は忠実に再現できる。」


 と言うと、つまりはアビゲイルにかけた魔術と似た状態になったことがあるし、蛇毒の麻痺も同じなのだろうと気づいたンヴェネはスイと一緒に言い表しがたい気持ち悪さを感じた。以前魔術式防御システムの中の彼が言っていた「実験体としての認識が強い」だけなのか。


「きみってさ、サイコパス?」

「ええ…と、どんな魔術だろうと実験は必要だし、動物や他人を巻き込むより死なない俺の方がマシ。」


 それが発端だとしても、痛みや苦しみを経ても何度も自分の体を使えるのは異常だろう。けれど、アンジュはいうのだ。


「助けてと手を伸ばされた時、ごめんと突き放すことがすごく苦手で苦痛。それなら、まだ自分が苦しい方が楽なんだよ。」

「……でも、あいつは助からない。別に助かる気もない。」


 理想を語ったアンジュにスイはバサリと現実を突きつけた。


「いいか、エル。俺はアイツの存在がエルを苦しめるならいくらでも殺すぞ。」

「兄さん。」

「これは俺のエゴだ。エルのその感情は生きている者にしか反応しない。なら、俺は殺してやる。それでお前が助かるなら。」


 ンヴェネは本日何度目か分からない頭を抱えた。何故こんなにもこの双子の相手は面倒臭いのだ。アンジュは確かに死にかける者に対してはとても固執するが、死んだ者に対しては殆ど心を揺るがされない。反対にスイは死んだ者に対して哀悼をしているのを何度か目撃している。

 2人で1つというスイの言っていることをンヴェネは理解できる。しかし、反対に彼らが対になっているせいで、お互いを理解することに苦労しているようでもある。

 それを口には出さなかったが、顔に出てしまったようで再びクルルから冷たい視線が降ってきた。


ーーーー

 今日のところは、外に出て鍛錬の続きをして終了した。あの死にかけの青年もあの後必死に鍛錬に食いついていたようだ。


 ベルンハルトやサフィと共に夕食をするとその彼の話になった。


「こちらにも鍛錬中に介入してきたとの苦情が来ていた。」

「…それは本当に申し訳ない。」

「とは言え、魔術師殿にも理由があったんだろう?」


 彼自身に聞こえることがなさそうだと確かめた後にアンジュは何故そんなことをしたのかを丁寧に話すと、ベルンハルトやサフィは行動に理解を示した。


「魔術師殿が声をかけたのはアルベルトという青年で、父親は戦争で亡くなってる。彼には母と妹がいて、彼が一家の大黒柱なんだ」

「…つまり、アルベルトが働けなくなったら彼らも路頭に迷うと言うことか。」


 頑なに鍛錬を辞めなかった彼はそう言う背景があったらしい。休めと言われても、彼の背に2人の命もあるのだから簡単に休むわけにもいかない。


「一応妹も宿屋で働いているが、まだ13歳だから大した賃金にはならん。」

「そうなんだ。」


 この国の女性の賃金は男性の8割程度になる(だから、金持ちは男性を雇っていることがステータスになる)。だから、男性が女性を養うのは当然の義務となっているし、女性だけの家族になった時、生活が困難になるのは目に見えている。


「彼が働いていた年数を鑑みても遺族手当も大した額にはならん。戦での死亡ならもう少し手当が厚くなるが。」

「本人も何となく認識してるんじゃねえか。少しずつ体力が落ちているはずだ。だったら、今は少しでも遺すものを増やしたいのかもな。」

 ベルンハルトも悲しんではいるが、よくあることの一つでもあるのだ。こんなことにウジウジ悩むような人間はエル以外いない。


「…そう、だよね。」


 全ては救えない。それでも、生を司る神獣の血筋の人間は、生きたいと思う者を助けたいと思う。


「そうだ、そんな魔術師殿を見込んで頼みがあるのだが、よいだろうか。」


 ベルンハルトからの提案には断る要素もなくすぐに受け入れた。


ーーーー


 アルベルトのような悲劇はいくらでもどこにでも転がっているというのが分かった。

 ベルンハルトの提案は砦から数百ヤード後方にある軍の病院であるノスランド平和記念病院での奉仕作業。元は12年前の戦争の野戦病院だった施設で、今は軍人のための医療施設だ。クルルは森に出かけてしまったので再び3人になった。


 魔術師と護衛だけで行ってもらうわけにもいかずンヴェネもついていった。奉仕作業といっても看護業務では無く、魔術師としてなるべく多くの人を助けてこいと言う依頼だ。


「俺、人を治して来いって言う仕事は初めて。」

「はぁ?500年前の君の魔術ってそればかりなのに?」

「頼まれたことは一度もない。俺が勝手にやってただけ。」


 だから、ちょっと嬉しいと言った。確かに戦いに行かせるより、こっちの方が彼の得意分野ではあるはずだ。彼ができる範囲が広いから何とも言えないけれど。


「そういや、あの魔術書どーすんだろ。」


 誰に利用されても困る代物はベルンハルトに預けてきた。ベルンハルトが誤って魔術書の魔術を起動しないように保護はかけてきたので、あの魔術が砦に広がるようなことはしてない。魔術書は最終的にエルとしては知識として保護しておきたいのが本音だ。エルの頭の中にあるのは索引で辞典の中身ではないからだ。


「マトモに嫌な記憶も一緒に蘇るのに取っておきたいって言うのはどうなんだ。」

「それでも、あの日々に耐えて得た知識を無駄にするのも嫌だ。兄さんの言う通り魔術書を神鹿が守ってくれるのは安全なんだけど、ただの迷い人を殺すのはちょっと。戦争を起こさせないためのにはなってはいるけどさ。」


 人を割かなくてもそこからは侵入できないと言うのが分かっているので、防衛しやすくなっていることは事実だ。


「すぐには魔術の影響は消えない。だから、人間にとって必要ならもう一度ちゃんとしたものをかけ直すし、神鹿に知識を分け与えることも構わない。」


 しかし、この地に暮らすわけでもないアンジュがそれを勝手に進めていくことはできない。ベルンハルトと北の国境警備隊の幹部で魔術式の処遇については決めてもらうように既に伝えてあるので、アンジュたちには何もすることはない。

 だから、ベルンハルトから頼まれた仕事をこなすだけだ。


「まあ、歴代トップと言われた天才魔術師の実力を知らしめておいでよ。」


 ノスランド平和記念病院は100人を超える病人がいた。今までもアンジュの能力というのはリーダーとして把握していたつもりだった。ただそれはイレギュラーの対応でしかなく、彼の得意分野ではなかったのだ。

「結核か、大丈夫。すぐに治るよ。」

「これは誤診。クーリーの寄生虫が原因。十中八九加熱が足りない肉を食べたせい。兄さん来てくれ。」

「これは赤熱病だね。これもすぐ治るよ。」

「精神から来る不調。彼から話を聞くことを優先して。魔術で一時的に回復ことは可能だけど、すぐ再発する。」

「生きているのが奇跡なくらい病状が進行しているようだけど、根本は治した。1週間は何もしちゃいけない。そこから少しずつ戻して行って。」

「これは三半規管の障害だね。ずっと目が回った状態になっていて、そこから疲労が蓄積した。うん、耳の中は治すのが困難で完全復活は無理だけど、楽にはなるよ。」

「最近大きく頭をぶつけたでしょう。脳にダメージが入ってる。脳の研究はなかなか進んでないから直すのはとても難しい。できる範囲で直すとしても、君自身の情報が不足しているから、今いる自分と多少性格が変わる可能性があるけど覚悟はある?」


 難しい状態の人間をさておき、殆どが5分かからない程度の診察と治療で処置を終え、退院手続きの方が間に合っていない。


「……ここまでとは思ってなかったな。」


焚き付けたのはンヴェネだったが、


「そうか、見たことないか。一応昔数ヶ月いた西の町でもこんな感じだったよ。夜だけの診療でも殆ど解決していたし、解決できなくてもマシになったって言って喜んで帰っていた。」

「それは仕事じゃなかったんだ。」

「頼まれてはなかったからな。そもそもそんな仕事があるっていうのが当時分かってなかった。当時の薬師や医師、占術師の類はエルのことを疎んでいたこともあったけど。」

「占術師もか。ああ、まあ、精神的なものも操作できるもんね。」


 対処に時間がかかるのを後回しにしてアンジュは数をこなし、再び時間がかかるタイプの人間を診て回っても、夕方になる前に終わった。その中にも彼が治せない人もいて、心を痛めなかったわけではないし、簡単にそこらじゅうに悲劇が多く転がっているのを目の当たりにして、やりきれない思いがないわけでもないが、それでも、前を向けた。


「治せなかった人もいるけど、ちゃんと話をすることができた。少し苦痛を和らげる魔術を使って残された時間を何に使うかを検討するって言ってくれたよ。」

「アルベルトもその道を選べるといいね。」

「ん。」


 素直に頷いたアンジュは、付き添ったンヴェネに謝罪した。


「ンヴェネも俺の監視の役目でつまらなかっただろ。」


 モンスターと戦うようなこともなくただ仕事をするアンジュを見守るだけで、手持ち無沙汰であったのは確かだが。


「君ほどではないけど、僕も知らないものがあると気になるたちだから、興味深かったよ。」

「ンヴェネも魔力が多かったらいい魔術師になるのにな。魔導武器のコントロール上手いし。」

「昔だったら魔術なんて下らないって思ってたけど、新入りくんのように自由であれば少し羨ましいね。」

「ンヴェネも俺の眷属になったら使えるよ。」

「そしたら、寿命が伸びるんでしょ。」

「ん。」


 それは覚悟がないとンヴェネは笑い飛ばした。スイはンヴェネの気持ちを理解して、夢でしかないよなと補強する。


「エルのレベルは本当に難しい。エルは魔力を自分の手足と同じように変幻自在に操るけど、一度に数十本の針に糸を落とすようなことをしてるんだぞ。ユピテルだってそんなことは無理だと言った。」

「まあ、そこは俺も天才かもしれない。」

「そ。魔力のコントロールと観察眼、記憶術は天才。人間としては幼児。」

「何年したら人間として大人になれるのかな。」


 ンヴェネよりも長い時を生きていて、普通の大人より遥かに知識を持っている子供の願いが「大人になりたい」なのは、当然なのかもしれないが不思議な気分だった。


 


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