23話 黄昏
ウィル・ザ・スミス(19) アンジュ・クラントの同室で面倒見のいい青年
ンヴェネ・ルーイ(25)五星士のリーダー なんだかんだアンジュに優しい
ルサリィ・ウェンディ(23) 五星士唯一の女性 6年前アンジュと似た少年に助けられたことがある
ルジェロ・ビトレーイ(18) ウィルの同期 周囲の人間には興味はあまりないが、アンジュに目的があるなら使えるものは使った方がいいと言われて少しだけ行動を変えた。
アンジュ・クラント(16)エル・ウォッカの精神とスイ・ウォッカの肉体によって新しく生まれた人格
エル・ウォッカ(体年齢は12歳程度、生きた年月は30歳以上)500年前王国から逃走した天才魔術師
スイ・ウォッカ(体年齢は18歳程度、生きた年月は30歳以上)エルの双子の兄弟 天才剣士
ルーグ王国の王都は、新進気鋭の魔術師が療養のため不在とされていた。王国軍の一部は元気な状態のアンジュ・クラントを目撃していたから不満を抱いていたが、五星士と近しい人間たちは五星士たちがどこかピリピリした様子であったために何かあったとは察していた。
アルフレッド・ヴァレンタイン軍曹もその1人だった。ウィルはいろんな要因が重なった結果、誰よりも不安そうにちらちらと空を眺めていたから、アルフレッドは力を渡すように背を叩いた。
「ヴァイユの居酒屋に、こないだ新しい女の子が入ったんだぜ。次の非番に行かないか?」
「アルフレッド。」
「未成年のアンジュに気を遣って最近いかなかったろ?」
「ああ、いや、まあ、そう言うわけでもないけど。」
それが全ての理由ならアンジュが任務でいない時に行くのだが、イザヨイとの失恋を癒すのに違う女の子の力を借りるのがウィルは嫌だったからだ。こういうところがロマンチストの潔癖だとンヴェネは揶揄う。
「俺は三男だから自由だけど、一人息子のウィルは早く相手見つけなきゃだろ。小さな店なのに、何百年と続く老舗鍛冶屋の跡取りさん。」
「……重え。」
「にしても、貴族のように必死に名を守ってるわけじゃないのに珍しいよなぁ。」
「うちの家、運だけは強いんだよ。父さんだって、ほとんど壊滅してしまった部隊にいたのに足一本失っただけで帰ってきた。ってだからって酒屋で女の子漁りなんてしねえ。」
「本当ロマンチストだよな。」
何故ロマンチストはダメなのかなんて怒ることはできなかったのは、アルフレッドの言っていることも、間違ってはいないと思っていたからだ。ただウィルにはそんなことができないというだけで。
「別に父さんだって無理して結婚なんて考えてないさ。軍属で殆ど俺はそばに入れないから。」
「これは母様の意見なんだけど、パートナーがいるってだけで将来孤独ではないって安心するんだってさ。ただ俺には甥姪がいるから、そんなに気にしてないって。」
「俺ら軍人は相手を未亡人にさせる可能性もあるじゃん。」
「確かにぃ。でも、そんなこと言ってばっかりだったら一生結婚できねえよ。」
この国では結婚しない人間も当然ゼロではないが、結婚しない男は一人前とも認められないのもまた事実で、重責の仕事に就くことが決まっていたら否が応でも結婚しなければいけない。ウィル自身は結婚したくない人間ではないし、パートナーさえいれば積極的にしたいとも言えるからその文化にはどうとも思わないが、ただウィルは相手を探すのに今は消極的だった。
「せめて女騎士のような人に会うなら女性部隊だったろうに。運が悪かったな。」
「やめだやめ。」
ウィルが無理やり話を打ち切った。昔第五師団が女性部隊に対してやらかしをしたため、王国軍から切り離されて、王妃直属の部隊として編成されたと噂ばかり聞いている。事実としてあるのは宿舎としては近いが、関わりは一切ないということだ。
アルフレッドはずっと話していたそうだったが、それを第二師団の副師団長に見つかり、引きずられるように後にした。呆れながらもウィルは心配をかけているのだなと思った。
「アルフレッドは本当仲間に優しいな、ウィル。」
ウィルが驚いてそちらを見るとアンジュがそこにいた。だけれど、アンジュらしからぬ笑顔だった。
「…アン、じゃないよな。」
「あはは、変な感じ。俺は確かにウィルを知っているはずなのに、こうして話すのは初めましてって感じがする。挨拶しておくか。スイ・ウォッカ、改めてよろしく。」
正直に言ってウィルは愕然とした。アンジュの顔と声なのに、全くの別人だったからではない。アンジュらしさがスイの中にあったからだ。前回会った時のスイは、苛立っていてアンジュ以外の全員に冷たかった。だから、例え外見が変わってもアンジュはアンジュだと思っていた。けれども、今目の前にいるスイには、アンジュらしさがあるのだ。アンジュが自分が消えるかもしれないと恐れていた理由が今なら分かる。
「そんな青ざめて幽霊じゃないぞ。」
「ああ、いや。悪い。」
「主人格がエルだったとはいえ、俺もアンジュ・クラントを構成する一部だったんだから、アンジュっぽさがあるのは当然だよ。」
「そんなに俺って分かりやすいか?」
「ん、いや?」
スイは考えたが、首を振った。
「それくらいウィルはアンジュを大切に思ってくれてたんじゃ無いかなって思ってただけ。」
「…うん。」
「この後は任務じゃなくて普通に鍛錬場?なら、一緒に行こうよ。」
「ああ…いや、報告しなくていいのか?」
「まずンヴェネに会ってからと思ってな。」
「そうか、確かに。」
その後鍛錬場に着くまでウィルはスイに話しかける言葉が出てこなかった。何故スイが旧知のように話しかけてくるのか、どうしてそのことにあまり違和感を持てないのかと考えると、自分は親友だと思っていた人間に対して強い感情など持ってなくてただの自己愛に過ぎなかったのかと思えてきてしまうのだ。
ウィルはスイを伴って鍛錬場に入ると当然の如く注目を集めたが、規律のある軍人である彼らが群がるようなことはしない。
「…とりあえず元気そうで何より。向こうで話そうか。」
リーダーであるンヴェネは鍛錬場からスイを連れ出すと近くの備品室に誰もいないことを確認して、誰も入れないように施錠をした。
「単刀直入に聞くけど、君は誰?」
スイとアンジュの2人で出て行って1人で帰ってくれば、怪しまれても仕方がない。スイはウィルに話したように改めて自己紹介をして、アンジュは自分の一部であることも伝えた。
「じゃあ、あのエルに入っていたスイとも違うわけだ。」
「ああ。とはいえ、あのトリパスでンヴェネを殺しかけたのは俺だな。」
自らその話をしてくるとは思っておらず、ンヴェネは面を食らったが、おくびに出さず静かに答えた。
「……ああ、そう。その記憶は取り戻したわけね。」
「殺されかけておいてそんな風で済むのか。」
「僕自身は、アンジュに治療もされているわけだからね。」
「それはアンジュと言っても確実にエルの人格だな。」
「何故そういえるの?」
「ンヴェネにはエルが話しているようだからいうけど、エルは『生』を司っている神獣の血筋だ。そして、俺は対の双子だ。」
「生の神獣の対、つまり…、『死』の神獣な訳ね。」
「そう。一度エルは狂って人を惨殺したが、本来の性格は虫さえも殺すことを躊躇う。で、ンヴェネはその俺を討伐対象にするか?」
竜の一族は全員王国の敵と見做され、殺害許可は出ている。厳密にいえば彼が竜の一族ではないにしても、スイは100人以上の王国の人間を殺した歴とした殺戮者ではあるのだ。
「……君と王国の話し合い次第だね。」
「聞き間違えたな。ンヴェネ自身は俺を殺したいのか?」
スイの悪行を実際に目の当たりにしていた五星士はンヴェネたけだ。ンヴェネははあと大きくため息をついた後、口を開いた。
「君たちがいう『アンジュ・クラントが消えた』のと同様、倒すべき魔術師も消えてしまった、と思った。」
「罪は消えなくても?」
「そう。僕個人の感情でしかないけど、あの竜の一族の魔術師は倒さないといけないと思っていたのに、今目の前にいる人物が彼だなんて思えない。だから、却ってその件に関しては困惑している。」
あの時解決に尽力したアンジュ・クラントでもあるスイだ。見た目だけなら全く同じだから、余計にンヴェネは戸惑うのだ。
「君はどうしてその話をした?」
「俺は罪だとは思っても贖う気は無い。それは最低だと軽蔑してくれ。でも、エルが五星士に残りたいと思った時俺の存在が邪魔になるのは困る。それは政治的な意味じゃなくて、そばにいる人間の感情側でな。アンジュ・クラントとエル・ウォッカの最大の違いは感受性だ。多分皆が1番当惑する部分だ。」
「新…アンジュは消極的に死を願っていたよ。彼の本性はそちらだと思ってたけど。」
スイはああと頷いた。
「それこそ消えたアンジュ・クラント自身の願いだと思う。」
「エルでも無いと。」
「あくまで俺の推測だけど。あるいは対の俺の存在を無意識に求めたか。でも、それはないな。そうであるなら、エルの体にいた俺のように求めていたはず。言い方はおかしいかもしれないが、アンジュ・クラントはエルの願いでできた存在。そのエルの願いの本質が逃走。だから、アンジュはこの世界から逃げたかった。でも、エル自身は死を願うことが許されない『生』を司る神獣だから死ぬことはなかった。だけど、もし他ならぬ自分の種族である人間に死ぬことを求められれば、それも可能になる。…というのはどうだ?エルじゃ無いアンジュ・クラントの一部だった俺の推測。」
「…なかなかに新入りくんの中の人は壮絶だった訳ね。新入りくんが『逃げたい』と言っていたのは、エル・ウォッカが望んだから、か。君は完全に巻き込まれていた訳だ。」
「巻き込まれに行っただけだ。」
いつだってスイは兄弟を見捨てて平穏に生きることができたタイミングはあった。騎士の家でも、ウェンの家でも。彼らを捨ててでも、スイは弟を取ったが、何一つだってそのことをスイは後悔していない。
「難儀なものだね、神獣って。」
「そうだなぁ、エルがアンジュとは違って感受性が高いと言ったけど、俺は逆。アンジュよりもっと淡白で、色んなが起きたけどどれも然もありなんってな。」
「いろいろと極端なのね、君たちは。」
「ははは。まあ、いつか慣れるよ。」
気楽そうにからからと笑うスイは、アンジュとは違った。発言の様々なところでンヴェネが敵とみなした魔術師らしさはあるが、同一人物だとは決して思えず、ンヴェネは消化不良の気分だった。そこで聞き取りをやめて部屋に戻った。最後にスイは言った。
「罪は消えない。許される許されないは結局目の前の人の感情次第で、俺は許されたいとは思わない。」
ああ、彼はやっぱりアンジュ・クラントの一部だったのだとンヴェネが実感した言葉だった。さらにその後それをより強く感じることが起きた。
部屋から出てアンジュが帰ってきたという噂を聞きつけたのか、エリカが目の前を通り、スイはごく自然に声をかけた。
「エリカ、久しぶり。」
「アンジュ、あの後大丈夫だったの?」
「ん、問題ないよ。また戦おうな。」
横にいたンヴェネは内心恐懼し、それを払拭するようにエリカにヤナ長官への伝言を頼み、その場から離した。
「…普通にアンジュで返したね。君がアンジュとして生きていく気なの?」
「え、ああ。なんかそれが普通な気がしてた。多分エリカとは剣での交流が多かったからだろうな。きっと俺の意識の方が強かったんだ。」
鍛錬場に戻ったスイは、木の剣を持つとルジェロに声をかけた。ルジェロは憎々しそうに睨んでもスイはニコニコしていた。
「なんでやらなきゃならない。」
「ルジェロはタラリアに復讐を果たすんだろ?少なくとも俺に勝てないようじゃ、ただ死ぬだけだ。」
王国軍最強の剣士とも言われているルジェロに喧嘩を売るような言い草に、周りからは侮蔑の目を向けられるが、スイは彼らのことなんて目に入らなかった。
「…お前が?」
「いっておくけど、エルは本当に体を動かすことは不得手なんだ。それなのにそこそこやれただろ?俺はアンジュより強いぞ。」
ルジェロは睨みながらも剣を取り、スイへ向けた。誰もがルジェロの圧勝だと思った。今までも当然そうだったから。だが、ルジェロ自身はそう思わなかった。以前不意打ちで剣を向けた時にやすやと弾いたのが彼だったのであれば、簡単にいくはずないと分かっていた。
最初に動いたのは、スイだった。今までのアンジュだったら存在する冗長さはなく最短でスイの首に叩き込む剣をルジェロはギリギリで止めた。そのままカウンターを狙おうとしたが、読まれていたのか簡単に避けられた。その瞬間2人の間でのチャレンジャーはスイではなくルジェロになった
その戦いに五星士のみならず周囲の人間は息を呑んだ。
「どう、俺と戦ってみて正解だろ。」
スイが剣を振るいながら訊ねるが、ルジェロは答えない。そんな隙は無かった。5分の激しい撃ち合いの末、先に地面に背をつけたのはルジェロだった。
「俺に負けているウチは1人でタラリアに戦いに挑んじゃだめだよ。」
ルジェロはまだまだやる気だったが、ンヴェネによって止められた。
「…キミをヤナ長官が呼んでるってさ。勿論僕らも向かうよ。」
「ああ、勝手に城に入ったせいかな。それは俺じゃなくてエルに言って欲しいんだけどなぁ。」
「それだけじゃないって分かってるでしょ。」
「はーい。」
スイは大人しく返事をして、ンヴェネや他の3人も連れて王国軍長官の執務室へと向かった。
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エルは一際輝く星を睨みつけて、星が輝く泉からでていった。とにかくあの場所から出たいと思ったエルが現れた場所は、どこか分からない小さな町だった。雰囲気としては小さな宿場町だ。王都の近くの街よりももっと長閑で、空が広い。王都の発展ぶりからは50〜100年遅れているのかもしれない。それでも、500年前から来たエルにとっては、小さな町でも道が綺麗になっていて、しっかりとした石造りの家が多いのを見ると本当に未来だったのだと実感する。
エルはスイが着ていたマントで顔を隠しながら町を歩く。浮浪児にしてはきれいな恰好をしているが、それなりの家の割には小さな子供が1人で歩いているという奇妙さが時折視線を集める。1人の優しそうなおばあさんがエルに声をかける。
「見慣れない子だけど、どこから来たんだい?」
「…ここは…どこです?」
「迷子かい、ここら辺は町の西だよ。どこに行きたいんだ?」
「この町の名前は?」
「ん?奇妙なことを聞くねぇ。サルザンだよ。」
「そう。」
エルが持っている知識では分からなかった。スイもアンジュもこの町のことを一度も認知していない。
「地図はどこで売ってますか?」
「シュメールの売店で売ってるだろうさ。ここから3ブロック先を右だよ。」
「ありがとうございます、探してみます。」
エルはおばあさんに礼を言ってさらに歩き始める。アンジュ・クラントだった時と比べて身体がとても重く感じる。歩くのが酷く億劫だ。エルが自分でしかなかった時には気づかなかった、人の個体値の差に苦しみながら歩いた。
結局売店はたどり着いたが、いい地図は売られてなかった。縮尺がおかしく、人の主観によって作られた行楽用のガイドマップ程度のそれは参考にならなかった。目的のある地図じゃないとダメらしい。
エル・ウォッカは町の中央の小さな広場で座り込んだ。とりあえずで星の泉を出たのだ。もう一度星の泉に願い、王都は帰る様にすればいいのだから、迷う必要なんてない。
ただ1人で考える時間が欲しかっただけなのだ。
アンジュ・クラントは、スイのようになりたかったことと逃亡の夢を叶えるための存在だった。エルが逃げたかったのは自分の罪だった。あの場所に耐えきれなくなって狂ってしまったエルは、ただその場にいた人間たちをどんどん殺した。ただ気が狂っているうちに殺しているなら記憶にはなかったかもしれないが、自分は王都の魔術式のデータ層の記録を覗いてしまった。ありありと全ての罪がそこに残っていた。
アンジュ・クラントだった冷静な自分がなんとか感情を押しやっていられているが、過去の王国のことがチラつくだけでもすぐに魔力が暴走しそうだ。
「……どうしよう。」
「どうしたの?」
女の子がエルの顔を覗き込んでいた。年齢としては7つくらいだろうか。浮浪児というよりは、どこかの宿場で下働きしているような恰好だ。
「君は誰?」
「あたし?あたしはサラ。コメットおばさんのやどで、はたらいているわ。」
「そう、偉いね。」
「えらくないわ。おばさんは、いつもおこるもの。ろくでなしだって。」
「ううん、そんな場所でも生きるために一所懸命に働いているのは偉いよ。」
だって、それに耐えかねて多くの人間を巻き込んで逃亡したのが自分なのだから。
「ほめてくれたの、あなたがはじめて!」
彼女は嬉しそうに笑ってエルの隣に座った。
もしエルが金持ちだったら、気まぐれに彼女を雇うだろうか。もし活動家だったら、許せないと立ち上がるだろうか。それらをするほど、エルは情熱的ではなかったし、反骨精神も持ち合わせてなかった。ただ目の前にいる少女を憐れむだけだった。
「手を貸して。」
サラの手は、赤くなって皮が剥け傷だらけだった。同情的だったエルは彼女の手を魔術で癒した。
「ええ、どうして?」
綺麗になった自分の手をサラは空へ掲げてまじまじと見る。
「すごい!」
「皆んなには秘密だよ。勿論コメットおばさんにも。」
「うん!」
エルの自己満足なのに、僅かなことに喜んでくれる彼女に、荒れていた心に救いがあった。
そう、西の町(現在のサンセット・ブリッジ)でもそうだった。500年前の僅かな安らぎの時間で、日が落ちるのを待って外へ出た。外にはいくらでも困っている人がいて、傷や病を治した。エルはそれで満足だった。だけれども、長く続かなかった。それに目をつけた金持ちが取引を持ちかけてきた。その男があまりにも傲慢で王国魔術師たちを想起してしまい、感情のコントロールができなくなったエルはその男を殺してしまった。慌てるエルの罪を分けようとしたのか、スイがその男の亡骸に剣を突き立てた。
ーーー復讐の連鎖になったら面倒くさいし、屋敷の人間は全員殺すか。
その時のスイは、森で暮らした時の「明日のご飯は熊でいいか」と言ったくらいの気軽さだった。好んで殺生はしないが、いざ殺すことになった時のスイに躊躇いは一切ない。しかし、エルは弱虫だったのでスイの提案を止めた。スイは一瞬迷ったが、エルが望むように殺さなかった。だが、結局スイが正しかった。その男の妻や息子によって王都にばれてしまったのだ。町人たちもまた王都から来たその金持ちの男を嫌いだったこともあってエルたちを隠し通そうとしたが、エルは巻き込むことに耐えきれず外に出てスイと共に橋から落ちた。
「どうしたの?」
幸せな記憶だっていくらでもあるのに、最後には全て自分の愚かさで失うハメになった。自分がこの世界で1番憎い。
「…何も?」
「でも、ないているよ?」
「…自分の愚かさ…馬鹿さ加減にに飽き飽きしてたところだったんだ。それで悲しくなって。」
「よくわからないよ。」
「逃げることがもうできなくなってるのに、まだ逃げたいと思う。そんな自分が嫌いだ。」
「あたしもよくおもうよ!みずくみにいくのがおもいからいやで、いつもギリギリまでやらないの。それでけっきよくおこられて、いくの。」
話す彼女の側に汚い馬穴が置かれていた。
「今も?」
「うん。」
エルは話を聞いてくれたお礼の代わりに馬穴に水を満たし、馬穴が軽くなる魔術式をつけておく。サラはキラキラした目で声を上げようとするが、エルは指で静かにと合図した。
「今日はもう怒られない?」
「ううん。コメットおばさんがおこらないことなんてないの。」
なんとひどいと言おうとしたが、自分のコントロールができず人を殺してしまう人間よりまだマシだから、罵ることなんてできなかった。
「サラに平穏な日が来ることを祈ってる。」
「へいおん?」
「コメットおばさんから怒られない日が来ることを願ってるよ。」
「あなた、てんしさまなの?」
「そう見える?」
サラはニコニコとして笑う。
本来であれば神獣の手伝いをするのが神獣の血縁者として正しいのかもしれない。それならある意味天使というのは当たっている。
実情はかけ離れてしまっているけれども。
「……例えば神様がいたとして、神はなにをするべきなのだろう?」
「神さまはひとをあいするんだよ、しらないの?」
人の神は人を殺してばっかりなのに、愛するなんて馬鹿げている。でも、彼女の心にいる神は、本当に彼女を愛しているのだろう。
「でも、もし神様が人を殺していたらどう思う?」
「神さまはそんなことしないよ。ひとをころすのはひとなんだよ。」
それもそうだと思った。エルが人を殺したのはエルがただの人間だったからだ。エルがただ人を憎いと思ったからだ。そして、人を殺して泣いているのは、神の血を持つ自分だ。殺した人間に追悼の感情なんてない。神である自分はただ人を殺してしまったという罪だけに泣き、そして、人間である自分は自分を追い込んだ人間を殺して清々している節すらあるのも事実だ。それが分かると現実はなにも変わらないのに、荒れる心が凪いでいくのが分かった。
「サラ。」
「なあに?」
「ありがとう、ちょっとだけ冷静になれたよ。」
エルは立ち上がると、少しだけ前に歩いた。
「じゃあ、サラ。元気で。」
「バイバーイ。」
サラが手を振りかえしたときには既に目の前にマントの少年はいなかった。
「やっぱりてんしさまだったんだ。」
水が入っているのに軽い馬穴を持って、サラは怒っているだろうコメットの元へと慌てて戻った。
ーーーー
また違う町でエルは親子を見た。まだ遊ぶのだと子供が泣き喚いていて、親が草臥ながら諭す。子供は言葉が拙いながらなんとか自分の想いを伝えようとして伝わらなくて悲しがっている。
「よう、坊ちゃん。」
前を見ていなかったせいで背の高い男にぶつかった。いや、そんなには高くなかった。ただ今のエルがアンジュだった頃と比べて小さいのだ。
「テメェがぶつかってきたせいで、怪我しちまったんだよ。どうしてくれんの?」
自分より大きな大人が、大きな声が怖い。恐れる心は感情の乱れを引き起こしてしまう。エルは必死に自分はアンジュ・クラントだと心で唱える。アンジュの時にいくらでもこんなことはあっただろう。
エルはフードを外すと、男に対して笑いかけた。
「怪我したのか、それは大変だ。僕が治してあげるよ。」
「…はぁ?」
「大丈夫、こう見えても腕は確かなんだ。例え君の首が落ちてもちゃんと繋ぎ合わせられるよ。俺に任せてみなよ。」
アンジュ・クラントはそんな変なことも素で言っていたが、エルはきちんと不気味に聞こえるだろうと加味してなんでもないようににっこりと笑って見せる。
「ったまおかしいんじゃねえのか!」
男は睨みきかして、吐き捨てるように言ってエルから離れて行った。男が離れて、自分の体を見る。震える小さな体。頼りない小さな手。すぐ疲れる小さな足。
「…僕…俺はアンジュ・クラント、だよ。」
ミルフィーの顔が思い浮かぶ。ミルフィーと同い年だった自分が、こんなにも小さくなるなんて信じたくなかった。エルはスイの身体だった時が忘れられなかったし、自分の体を許せなかった。
リーラやミルフィーを愛したのは、自分だ。でも、彼女たちが愛したのは自分ではなくスイの姿をしたどこか人間味が薄いアンジュ・クラントだ。今のエルを変わらず愛してくれるのだろうか。
エルはもう一度フードを被り路地裏に隠れた。
ーーーー
スイは、人に期待などしていない。人が悪か善かなんて考えるのだってくだらない。肝要なことは、眼前の人間が自分に対して善い人間かどうかだけだ。だから、スイは、自分が殺しかけたンヴェネという人間は、当然自分を憎むと思い、気をつけるべき相手だった。しかし、ンヴェネはスイが思っているよりも、感情で行動する人間ではなく頭で思考する人間だった。
「ンヴェネはもう少しだけ感情的に動けば幸せになれそうだな。」
「…はあ?」
嫌そうな顔をしたンヴェネはヤナ長官の執務室の扉を開けた。
執務室の中には前回と同じくルートヴィヒも待っていた。ヤナ長官は、まず戻ってきたことを労った。
「よく戻ってきたな。君はスイ・ウォッカで間違いないな。」
警戒するヤナ長官に、スイは落ち着き払った声で答える。
「はい。弟は頭の中を整理してから来ると言っておりました。」
「……本当にあの小さな子供の中身なのか?」
「そうですよ。前回会った時はあの姿に引っ張られていたのと、エルの体に残る感情に少なからず引っ張られていたようです。でも、貴方の知っているアンジュ・クラントとも違うでしょう?」
「…全く持って信じられんが、確かにアンジュとも違うな。…アンジュがどのように戻って来るかが些か不安だな。」
スイの朗らかさには全員が驚くところだった。それはアンジュは持っていなかったが、アンジュらしさもある。これから戻って来るアンジュはもしかするとあの幼い少年のように陰険な雰囲気で帰って来るのかもしれないと恐ろしくなった。
「…時に聞くが、君は魔法が使えるのか。」
「使えませんーーーいや、とても簡単な魔法なら使えるようになりました。500年前はわからなかったけれど、魔力の操作が上手いエルがこの体を使っていたから、分かるようになりました。」
スイは軽く炎を出したり、近くのペンを凍らせてみたりしてみせた。
「でも、アンジュ・クラントがやってたレベルを求められるとできないですよ。」
魔法のことを聞いて魔術式開発部部長であるルートヴィヒは興味深そうに掘り下げた。
「アンジュくんがやっていたレベルとは?」
「花を作るとか、物を自由自在に動かすとか。あとは、魔導武器の調整とかですね。」
「クルルが難しいと言っていた類ね。」
「ああ、そう。あのユピテルも舌を巻いたやつ。」
「スイは、クルルとは呼ばないんだね。」
「それは、俺自身がクルルというよりユピテルとして出会ってるからな。」
ンヴェネは戦闘では使えないとクルルの感嘆を切り捨てたが、アンジュ・クラントらしい魔法といえばそれらだった。スイの中のアンジュらしさとアンジュではない部分が交互に襲って来る、そんな気分だった。
だが、スイがアンジュ・クラントではないならば、エル・ウォッカを待たないといけない。いつまでも、仕事を療養で誤魔化せるはずがない。
「五星士の魔法使いアンジュ・クラントはどれくらいで帰ってくる?」
「それは分からないです。」
「兄に全てを任せて逃げたーーーとは考えられないか?」
ヤナ長官も本気でそう思ったわけではないが、その可能性を口にすると、朗らかだったスイの顔が急に鋭くなる。
「勝手にエルを語るな。そんなエルだったらーーー。」
「お待たせ。」
白いマントがふんわりと広がり、白鳥が水面に降り立つように静かに彼は舞い降りた。それは、金髪の髪に赤い瞳、そしてスイと同じくらいの年齢の少年ーーーエル・ウォッカだ。
「遅れてごめん。ルーグ王国筆頭魔術師エル・ウォッカ改め、リレイラ村のアンジュ・クラント、ただいま戻りました。」
「エル!」
いつもそう挨拶しているかの如くスイは一段興奮して抱きついた。抱きついたエルが知っている大きさではないのに、
「なんでその見た目?!」
「え…、だって、恥ずかしいじゃん。」
「確かに!」
魔術師スイの10歳くらいの姿でアンジュ・グラントが現れるだろうと覚悟していたが、アンジュはすごく可愛らしい理由を述べて元の姿と同じぐらいの年齢の姿で現れた。
「…ごっほん。」
王国軍長官を前にしたとは思えない兄弟の再会にヤナ長官は眉を顰めて咳払いをした。
「君たちは城門の衛士を通すということをする気がないのかね?」
「その手続きが面倒くさいし、今僕と話したかったみたいだから、ちょうど良かったでしょう?」
「まるで見ていたかのような言い方だな。」
「見ていたんです。」
ヤナ長官は胡乱げな目でアンジュを見たが、アンジュは決してふざけた様子は無かった。
「その話を含めて、今後の話をしよう。」
ーーーー
王都に1番近い宿場町は、出稼ぎらしい草臥れた装いの人間たちの活気とどこかもの悲しさで溢れてきた。王都に近いせいか、リレイラのような空の青さはなく、曇った灰色の空だった。
アンジューーーエル・ウォッカはその町のとある宿屋に来ていた。スイと、アンジュ・クラントと同じぐらいの年頃の姿で。様々な試行錯誤をし、なんとかスイと同じ年頃にすることができたのだ。
「テレーズ・テロット夫人はいらっしゃいますか?アンジュ・クラントが来たとお伝えください。」
「…畏まりました。」
突如尋ねてきた五星士と同じ顔の旅人を訝しげにみながら、宿屋の人間は確認に向かった。しばらく受付の前で待っていると、同じく訝しみながらミルフィーの母であるテレーズ・テロットがやってきた。
「…アンジュちゃん、よね?」
「お久しぶりです。テレーズさん。」
村から出て行ったアンジュと同じ顔でありながら、瞳の色や纏う雰囲気が何もかも変わっていて、テレーズはアンジュ・クラントだと思えなかった。しかし、アンジュが話す内容はアンジュ・クラント以外が言う訳がないので目の前の人間をそう認めた。
「そんなに変わりましたか?」
「…ええ、そんなに立派になって。ううん、貴方は賢い子だったもの、成長もあっという間なのね。でも、迎えには来れないとは聞いていたけど、どうしたの?」
「…事情が色々変わりまして、状況がどうなるかわかりませんが、予定通りテレーズさんにはリーラと王都に来て欲しいんです。問題ないですか?」
「分かったわ。元々ミルフィーの顔を見る予定だったもの。」
「ありがとうございます。あの、リーラと2人で話したいんですけどいいですか?」
「ええ、もちろん。」
ミルフィーの母は席を立つと、宿屋の自室へアンジュを招き、外へ出ていると告げた。アンジュは中に入るとベッドで伏せっているリーラのそばに駆け寄った。
「リーラ。」
リーラはアンジュを見ると驚きながらも体を起こした。
「リーラ、久しぶり。」
アンジュはベッドのそばで膝をつくと、リーラの手を握った。以前よりもっと骨ばった手は、農具を握りしめるのも大変だろう。リーラは懐かしそうに静かにアンジュの頬を撫でる。
「……元気だったな。」
「うん、元気。でも、リーラは…、そうじゃなさそうだ。」
「…元々だ。」
「そんなことなかった。リーラは。」
「アンジュと会う前のあたしはこんなもんだよ。」
リーラは申し訳なさそうな顔をしたあと、枕のそばに置いていた包みをアンジュに渡した。
開けなと指示するように首をくいっと動かす。アンジュが徐にそれを開くと、とても見慣れた白いマントが入っていた。
「これ。」
「あの村で倒れていた時、それをお前は被っていた。」
王国から逃げていたエルが唯一捨てることができなかったその王国魔術師の白いマントだった。だが、それはエルが身につけていたから、500年の先にスイが無くしてしまったと思っていた。けれど、そのマントはアンジュと共にリーラの元にいたらしい。
「これを隠したのはあたしだ。これを持っていたらすぐにお前がいなくなってしまうと思ったからだ。」
告解のように恐る恐る話すリーラの体をアンジュは思わず抱きしめた。王国の紋章はわからなくても、質のいいマントは、アンジュの確かな身分を示していた。それだけを見れば、アンジュを探す身内がいる可能性は高いと思ったことだろう。実際にはエルが憎む場所を示していたとしても。
「ありがとう、リーラが隠してくれたおかげでこの6年の間平和に生活することができたんだ。」
「そんなことない、これさえあればお前は何一つ不自由なく。」
「リーラ。あの村で静かに暮らすことを望んだのは俺だよ。お金が欲しいのなら、もっとたくさんご飯を食べたかったら、俺は別の方法を模索したよ。リーラのために稼ごうとせず、ただ自分が静かに暮らしたいがために何もしなかった。ごめん、リーラ。」
もしリーラがずっと罪悪感を抱いていたことに気づいていたのなら、アンジュは他にやりようがあっただろうに。
「…リーラ、それでも、これから先も俺の家族でいてくれる?リレイラの村じゃなくても。」
「…っ、当たり前だ、バカ。」
「ありがとう、リーラ。愛してる。」
「ああ、あたしも。」
リーラがエルをアンジュだと、家族だと言うのならそれでいい。例え大事なミルフィーの存在を手放すことになったとしても、悲しみながら少なくとも母のリーラと共に生きていくことができるのだと思うと、ミルフィーときちんと向き合うのが怖く無くなる。
抱きしめた後、マントを広げる。10歳程度の大きさのエルが着ていたものだから、今16歳くらいのアンジュにはとても小さい。しかし、アンジュがそのマントをパタパタと振るうと、不思議なことに大きくなる。リーラが驚いてアンジュを見ると、アンジュは微笑んだ。
「これは魔法のマントなんだよ。多分もう誰も作れない。…俺も含めて。」
「お前は本当に。」
「ルーグ王国筆頭魔術師、エル・ウォッカ、こっちの名前では初めまして。」
「…何が初めましてだ。あたしにとってはアンジュはアンジュだよ。」
「…ん、ありがとう。色々あって一緒に王都には迎えないけど…、なんとか色々いい条件で迎えられるようにするから。」
「無理はするなよ。生きているだけで十分なんだから。」
「ありがとう」
アンジュは親愛を込めてリーラの頬にキスをする。すると、不思議なことにリーラは消えていた活力というものが沸々と湧き出始め、こけていた頬は元のようにふっくらとした。リーラは驚愕してアンジュを見るが、アンジュは優しく微笑むだけだった。
そして、そろそろ行かなければと惜しそうにリーラから離れる。
「俺には兄弟がいるんだ。今度紹介する。」
「はは、子供が1人増えるんだな。」
スイのことを伝えるとリーラは困ると言った顔は一切せずに嬉しそうに笑った。それが嬉しかった。
「じゃあ、また。」
そういうと、リーラの目の前から忽然とアンジュがいなくなった。我が子と話していたのは狂った末の幻かと疑ったが、鏡に映る顔が以前よりずっと元気そうなのを見てアンジュがいたことを証明した。
「また、な。」
リーラは嬉しそうな声色で再会を誓う挨拶を呟いた。
ーーーー
今後の話をしようと言って緊張感が走ったが、その空気を壊すようにアンジュが「あっ」と声を上げた。
「お茶の準備してないじゃん。」
ただ長官と仕事の話をするのにそんな準備はしていないのは当たり前だが、アンジュが手を広げると、突然宙に茶器や茶菓子が現れて、ひとりでにお茶が注がれていく。そして、ローテーブルや長官の机の上に紅茶とお菓子のセットが並ぶ。
「じゃあ、ゆっくり。」
「ここはキミの部屋じゃないんだが…、ちゃんとこの部屋用の茶器を持ち出しているな。」
「この王宮のことで俺以上に知ってる人はいないと思います。お菓子の在庫表もちゃんとつけたから、安心してください。」
「……どこに安心の要素が。まあいい、君たちも飲みたまえ。」
ルートヴィヒや五星士たちは困惑しながら恐る恐るお茶を飲む。
「全く恐ろしい力だな。」
戦闘ではなくこうして使われる魔法が、意外にも難しく繊細だ。ルートヴィヒはアンジュがパーティで披露していた魔法を暇な時間に挑戦したりしていたが、どうも上手く言った試しがない。
「そして、そのマントは。」
「500年前…、495…年前かな、俺が作った特別なマントで、離反した後もずっと持ってた。その後は、リーラがずっと隠れて持っていたらしい。」
「ああ、確かに500年前のエルはそれを身につけていたけど、なら俺が身につけていたはず…。」
「俺もそう思っていたけれど、僕についてきたみたい。このマントは特別なんだよ。」
五星士たちはチラリとアンジュを見る。あの惚けた顔ではなく、アンジュは目の前のことをしっかり見据えている。ミルフィーやウィルの後を子供のように付いていっていた彼ではないのが分かった。
「それから本題だけど、俺は離反する気はないよ。」
「エル、まあそうか。」
「兄さん、ごめん。」
王国軍長官ヤナは安心することなく、エルの言葉を待った。
「それで?」
「雇用契約、結び直そう。」
2人の前に一枚の紙が舞い降りる。
それは王国軍に来た当日暗躍部隊の隊長であるストールに書かされた紙。文字が読めるようになった今では確かにアンジュ自身に不利益が被る内容ではなかった。アンジュは契約書の一点を指指した。
「ここ、無期契約になってるけど、10年にしない?」
「…何故。」
「双方の都合の良さだよ。」
「意味がわからない。こちらのメリットは?」
「突然の契約終了より外聞も王都の防衛もマシだと思った。」
「なるほど、簡単に辞められる気でいたのか。」
「僕は父さんと同じ間違いはしないよ。」
今までのアンジュにはない力強い瞳でヤナ長官を見る。
「さっき言ったように俺が1番この王宮のことを知っている。理由はただ一つ、王国の防御システムの魔術式を作ったのが俺で、今でも魔力供与して魔術式と繋がっているから。その証拠に数日前起きた魔術式防御システムをモンスターが突破した事件だけど。」
「それは俺がなんか魔力引っ張られてる気がするなぁと気付いて一部切っちゃったのが多分原因だな。それが大事な魔術式を稼働させるために必要なんて俺は分かってなかったから。」
「500年ずっと?」
「…そうだね、僕が時を飛んだわけじゃなく、眠り続けたと断言できる理由。もし時を飛んでいたのなら、既に魔術式は稼働を止めていたはずだから。」
「や、ちょっと待ってくれ。」
ウィルは黙っていたが、思わず声を上げた。何故ならあの時確かに魔術式防御システムの彼は497年間動いていると言っていた。もしスイが魔力の供与を切ってしまっていたなら、彼はいなかったはずだ。
「そうか、ウィルは『彼』に会ったんだ。」
「ああ…うん。」
「僕しか知らなかったから、名前をつけなかったんだけど…良い機会だから紹介しよう。」
アンジュが手を伸ばすと、10歳近くのエルらしい子供の姿がそこにいた。
「ウィル・ザ・スミス、また会いましたね。」
アンジュが着ているものと同じデザインの小さな白いマントを着て、彼はそこに立っていた。
「え、現実世界にも居られるの?」
「本体の力添えがあれば可能なようです。」
「君から説明を。」
「畏まりました。」
魔術式防御システムの中の彼はウィルにしたように、魔術式の稼働についてエル・ウォッカから一部受けて、サブシステムである自分は全てエル・ウォッカの魔力で動いていると説明した。
「本体を通してスイ・ウォッカ様が魔力を絶ってしまったのはメインシステムの方のみで、僕の存在は消されませんでした。僕の存在が無事だったのは、魔力の供与のつながりが別になっていたからです。メインシステムの方は魔術式に記載がありますが、僕の存在は完全に魔法によって作られています。魔法によって作られている理由は僕の存在を王国魔術師によって読まれないようにするためです。」
「読まれないようにするために、か。」
アンジュはしばらく無言だったのちに口を開いた。
「子供っぽいだろ。当時、本当に王国魔術師が嫌いだった。そのことはあまり口にしたくない。500年後の世界の人にそれをぶつけるのはフェアではないのと僕自身が思い出したくない。」
「王国魔術師と名乗ってはいるが私も実は好きではないよ。ただ魔術式が好きだからここにいるだけだ。」
「……王宮のデータを見る限り、これでもこの100年で改善した方なんだ。ルイスは信じられないかもしれないけど。」
「これで改善した方、か。魔術部隊の恥部をここで明言するつもりはないから、曖昧な言い方になるが、500年前はどんな気の狂い方をしていたんだ、と言っておこう。」
「500年前は魔術部隊による子供狩りが当然だったって、王都民を言ってたからなぁ。」
スイがそう言ってもアンジュは口を閉ざした。それが悪意を持って話せない訳ではなく、彼自身青ざめていて口にすることすら恐ろしくてできないという様子だ。
「あの、君の本当のシステムの名前を名乗って良いよ。」
「はい、畏まりました。」
アンジュに言われて、魔術式防御システムの中の彼は五星士や長官たちに向き直って名乗る。
「僕の本来のシステム名は『消去システム』です。本体の命に従いメインシステムに上書きを行い恒久的に魔術式を使用不可にすることです。」
「いつでも俺は魔術式を消す用意がある…、と言っても結局500年前逃げる時それをやる勇気がなかったんだけど。」
「しかし、それがどうして王国のメリットになる。」
「契約を終了したら、僕は彼の力を使うつもりだ。」
「尚更王国にデメリットしかないじゃないか。」
「…違う。僕1人の手に簡単に王都を委ねられているのが問題っていうこと。そして、その俺は王国に忠誠を誓うような人生は送ってないし、そういう性質でもない。それに、僕が持っているのは王都の警備だけじゃない。」
「魔術式防御システムに入っている情報をいくらでもエル・ウォッカは確認できます。それは王族、貴族、王都の民の生活全てです。遡ろうと思えばどんな密約や裏取引なども知ることができる状況です。そして、それを防ぐ手立てすらも、王国にはないことを本体はわかっています。」
「余程の模範者でない限り、いくらでも人生を壊す情報は手に入る。試しに誰かの人生を抜き出したって構わない。」
ヤナ長官は深く息をついて、頷いた。確かに脅してはあるのだが、手の内を明かしている部分は関係ない。
「…なるほど、つまり、魔術式防御システムの作り直しを君は提案しているわけだな。」
「そう、それが10年、と提案している。そして、その10年はちゃんと王国軍の仕事をするつもりだよ。魔術式防御システムがこの500年の間何度も作り直しを行おうとしたけれど、採算が合わないとしてその度に頓挫したのを知っている。だけど、10年後に使えなくなると言われれば王国魔術師も本気を出すと思う。」
「王国は君を殺すこともできない、魔術式が壊れてしまうと言われていれば。」
「再び永久的に眠りにつかせようとしてもそれも無駄だよ。王国魔術師の技術力じゃ10年も持たず僕は衰弱して死ぬだけ。」
「ようやく理解した。契約を変更して10年の有期契約は確かに王国側のメリットだ。君に今すぐ王都を離れられるよりはな。それを覆すほどの手段は今の王国魔術師では厳しい。」
リーラやミルフィーを人質にしても、それなら、王族や貴族の名誉を人質にし返すことだって可能だ。国を盗ることだって可能なくらい強い力を持っていながら、アンジュはそれを望まない。
「分かった、何がなんでも王宮側には説明しよう。」
「ありがとう、説明が難しければいくらでも呼んでくれれば説明するし、誰か1人の人生を犠牲にだってしよう。特に横柄な人間を選んで。」
「他に望むものは?」
「ちゃんと五星士の給料を払ってくれれば問題ない。兄さんは?」
「ん?ああ、なんでも望んで良いのか?なら、俺はエルの側にいる仕事をくれ。」
「…それくらいなら、君たちが無欲で王宮は助かるが…。」
「あと、エルの500年の献身にそれなりの給料を払ってやってほしい。力の無償提供なんてバランスが崩れる。それが嫌ならちゃんと金払って衛士を多く雇うべきだと思う。エルのためじゃなく、世界のバランスとしてな。」
「……できる限り予算を組んでみよう。なかなか500年の給料の計算なんて恐ろしくて構わないが。」
「そんなの考え始めるのは、この冬の後でいいよ。そのお金のせいで、助かる命が助からなかったなんて聞きたくもない。」
良識や良心のあるヤナ長官との話は驚くべきスピードで話がまとまった。そこから、役人たちとの話があるから、実際問題どう転ぶかは分からないが、とりあえず決まったことはいくつかあった。 まずアンジュ・クラントがエル・ウォッカであることは、王宮内での秘密となり、民衆には変わらずアンジュ・クラントのままとすること、そして、スイ・ウォッカはスイ・クラントと名乗ることとアンジュ・クラントの護衛としての仕事が決まった。守る側の軍人がなぜという声も上がるのは何故と上がるのは必至だろうが、ヤナ長官は上には説明つけるとは言っていた。
執務室から退室したアンジュは、大きなため息をついた。
「すっごく緊張した!」
「そんな風には見えなかったけどね。」
「…アンジュの間に知った兄さんの人生が無ければ絶対無理だった。」
俯きながら、恥ずかしそうにスイの影に隠れて話すアンジュは見慣れない。いつもあっけらかんとしていたのは、スイの方のアンジュだったようだ。それでも、アンジュにいつものように聖母なルサリィは笑いかける。
「頑張ったわね。もし良かったらこの6人で少し話さない?スイとは全然話したことないし、為人を理解しないと背中も預けられないと思うの。」
「いいの?ありがとう。」
「ったく、ルサリィは、いつも新入り君を甘やかすんだから。」
「あら?私が提案しなかったら、リーダーとしてとかなんとか言ってンヴェネが話すと思ったのだけれど。」
「王国軍の他の人間に聞かれたくないし、小さい会議室でも借りようか。」
ンヴェネは態とらしく話を変えた。アンジュはクスクスと小さく笑うし、スイは確かにと頷く。双子を見ていると本当にアンジュ・クラントとはどちらとも表情が違って、彼が1番に危惧していたアンジュ・クラントは消失したのだと実感した。いないアンジュ・クラントに悲哀を感じながら、それでも、5人は目の前の人間がアンジュだと信じることにした。
ルジェロはそんなことどうでもいいから、鍛錬をさせろというような顔をしていたが、首根っこを掴んで連れ、小さな会議室に6人は顔を見合わせた。
「…えっと、久しぶり?うーん、すごく久しぶりに会った気がするんだけど、モンスターの王都襲撃から2週間も経過してないんだな。」
話を切り出したのはアンジュで、心許ないのかずっとマントを握りしめていた。
「僕は君たち兄弟と久しぶりのような、初めましてのような不思議な感覚があるよ。」
ンヴェネがそういうと、スイも感覚として同意した。
「俺は全員既知だと思ってるけど、よくよく考えたら初めましてのが正しいよな。」
「ちゃんと話したことはないものね。」
スイとアンジュの顔を交互に見てルサリィは気づいたことがあった。
「もしかして私が王国軍に所属する前、オルガンの宿場町で会ったのは、スイ…なのかしら。」
「……会ったっけ?」
「あなたが私のことを風使いと教えてくれたわ。」
「……風使い。あっ、ああ…あー、うん。」
思い当たる節があったのかないのか分からないような曖昧な言葉を出した。アンジュは記憶をしっかりと取り戻したがルサリィの記憶はなかった。記憶力に関してエルは自負がある。
「…この体にいたのはスイだけど、兄さんは体の意識に呑まれ気味だったから。」
「俺がそもそも感情が希薄だったから、いきなり激情を抱えているエルになったらそうなったんだろうな。ごめん、ルサリィ。あんまり覚えてないよ。」
「ううん、知れただけでも良かったわ。」
ルサリィにとっては大事な思い出であってもスイにはそうではない。ただそれだけだ。
「スイは風使いのことをよく知っていそうだったけど。」
「ん、ああ。偶に他の神獣に挑みに行ったりしてて、仲良くなった神獣からそんな話をしていたんだ。」
「…兄さん。」
戦いを司る神獣マルスとはその過程で出会ったらしい。だから、久しぶりに会ったマルスとスイは楽しげに会話していたわけだ。
「風使いってどんな存在なの?」
「今お前たちが持っている情報とさして変わらないと思うけど。普通神獣の眷属って自分の種族から選ぶのに、ウェンティは賢い人が気に入ってしまって人に眷属の力を与えたんだよ。そして、人に恋をして子供が生まれた。その辺りまではまだ辛うじて神獣だったらしい。でも、人と人の戦争に眷属がその力を使ってしまったことによって最終的にウェンティは神獣の地位から堕ちてしまったらしいよ。風使いは眷属の流れだと思う。眷属が先祖返りしたのかルサリィは再び風の民として生きているわけだけど。」
「それってすごい謎じゃない?過去の眷属の血によって力が戻るってこと?」
「さあ、分からない。こんな事例を他の神獣から聞いたことない。」
神獣についてはエルよりもスイの方が詳しく、獅子のマルスや他に土竜のサトゥルヌスとは戦いを挑んだことがあるらしい。特にマルスは戦いの神らしく、一度気に入られると向こうから何度も戦いを挑まれるらしい。土竜は、基本土の中にいるため会えないが、偶然森の中で出会って喧嘩を売ったが、すげなくされただけで終わったなどと語った。
「じゃあ、クルルとも?」
「いや、ユピテルはエルしか知らなくて、エルが500年前突然消えたから探し回っていたらしいよ。エルに兄弟がいることは聞いていても、俺という存在に気づかなかったらしい。目の色が違うのは、なんらかの魔法の影響だと思ってたらしい。」
「クルルは、父さんと仲が良かったんだよ。父さんに会いに来たクルルが父さんが見つからないと悩んでいるところで僕が声をかけた。その後魔術式が完成したからクルルは無条件で王都内自由に出入りできるように設定していた。」
「最初の頃、『友人が製作したから入れる』の発言の『友人』が新入りくんだったわけね。」
「今思えば、そうだね。」
王都の防御システムの魔術式がどれほど強固なもので、他のモンスターを弾いていたかを先日のモンスターの襲撃で理解した。そして、クルルだけが本当に例外だったらしい。
「…俺があっさり魔術式解除できないのも、500年王都を守っていたせいで、500年間蓄積された他のモンスターたちの不満によって、一気に侵入につながるというのが分かってしまったから。堰き止められていた水が一度に放出されるみたいに、モンスターが押し寄せてくる。そこで人が死んでいくのは本意じゃない。」
「…だから、有期契約ね。その後君はどうするつもりなの?」
「…そのいつまで俺が表に出られるかっていう問題でもあって。」
「確かに、老けない…どころか今無理やり魔法で俺と同い年の見た目にしているんだろ?」
「そう。魔法を使うのをやめたら元に戻るよ。」
「…確かに。老けないのは不気味だよね。」
アンジュはマントについているフードを被って顔を隠した。
「隠者として生きるしかないっていうか。元々それが理由で森に隠れて生きていたわけだし。」
「それってこの先生きていけるの?フロンティアは無くなりつつあるのに。」
「…世界情勢次第だね。」
「祀られて生きるっていう方法があるけど、俺もそんなのは嫌でずっと旅していたよ。そのあとはそういう生き方でいいんじゃん?関所越えはいつも苦労するけど。」
「ミルフィーに認められれば、それでも。」
ほとんどの人間が気になっていたが聞けなかったミルフィーのことについてアンジュの方から先に口にした。揶揄う口調でンヴェネは訊ねた。
「新入りくんはミルフィーちゃんと添い遂げる覚悟ができたの?」
「今までの俺じゃなくても許されるなら。」
「ふーん。まあ逃げてた前の君よりマシなんじゃない?」
ンヴェネの返答にアンジュは目を丸くしてから、安堵したように微笑んだ。ウィルはアンジュの心の芯たる部分が変わっていないのには安心しつつも、もう1人のアンジュが心配になった。
「アンジュの半分であるスイはそれでいいのか?」
「ん?俺?ミルフィーは確かに特別だけど、アンジュとして共にいたいと望んでいたのは、エルだと思うよ。俺はエルかミルフィーをどちらかを選べって言われたら、間違いなくエルを選ぶ。」
「…なんでそこまで。」
「俺の人生の大半がエルを探していたからな。エルと一緒にいた時間よりそっちの方が長い。」
「……兄さんの中の俺と現実の俺で乖離起きてないの、それ?」
心配そうにアンジュはスイを見るが、スイはひらひらと手を振る。
「俺はそんな違いは興味ないね。」
「兄さんにとっての俺ってなんなんだろう。」
「なんだろうなぁ。失ってはいけない半身だと思っているけど、それ以外は分かんねえや。でも、それ以外特に必要もない。」
「兄さんの理屈が俺には理解できないよ。」
「そばにいれば自然と分かる。頭で考えようとするから分かんないんだよ。俺は考えてないからな。」
「む、無茶苦茶だ。」
それもこれも世界に象られた神獣の血がさせているんだろうなと思うと少しだけ哀れだ。
「ミルフィーがもし兄さんの方がアンジュだと思ったら?」
「そんなことはないと思うけど、エルはそうだったら諦めるのか?俺よりも優先しておいて?」
「そういう言い方はやめてよ。…俺はミルフィーが心の底から望む形にしたいだけだ。」
「エル、人の心はエルが思ってるよりは簡単に変えられるもんだよ。例えば俺の方が好きだったとしてもお前が親身でいればミルフィーはエルの方が好きになる。」
2人は真剣なのは分かっているが、ンヴェネは心のうちで「同じ顔してるけど、重い男と軽い男」なんだなと揶揄していた。以前のアンジュ・クラントが淡々としているのに、愛が重いなと思っていたが、それらは別々の人間から生まれたものならわかりやすい。
「ま、次の非番で証明すればいいでしょ。ここでそんな話をしても、何にも進まない。」
「そうだね。」
ミルフィーの話の後、これからの任務であったり、王宮内での行動について話をまとめて、小さな会議は終わった。
「5人が揃っている日って珍しいよね。」
「そうだな。まあ、多分広報の仕事が最近無かったからだろうな。」
疲れただろうからと寄宿舎へ戻る道でアンジュはウィルに話しかけた。
「ああ、確かに。」
「あの水害で王都近辺は色々自粛ムードだからだけど。」
「…ん。」
雨の神獣が起こした事件の余波は、特に酷かった。土砂が酷くて飲み水がないことや、反対にその近くでは、雨がしばらく降らず干害も起こってしまった。
「また派遣されれば俺もなんか役に立つ。今ならもっと色々できることがあるから。」
「全てお前に任せておけばいいってなったら後々めんどくせえぞ。土木事業者も仕事がなくなるし。」
「そうだね。あと、ウィルに話したいことがあって、リーラは予定通り王都につくから、よろしく頼みたい。」
「ああ、確かに。でも、今なら王国に言えば俺の家よりもっといいホテル取ってくれるんじゃ?」
ウィルはその方がリーラも楽なのではと思ってただ提案したのだが、アンジュは恥ずかしそうに顔を赤くした。
「そ、そうだよな。ウィルが提案してくれたのは俺が困っていたからで、王国からの援助が見込めるならそっちで頼むのが筋だよな。」
フードを深く被り、早口で捲し立てる。
「あ、俺の家はぜんっぜん気にしてないから、そのままの予定でも!」
「……予定通りお願いしていいの?」
「当たり前だよ。」
「ちゃんとおみやげよういする。」
「どうした、アン。」
以前のアンジュが、滅多に表情が動かない人間だったから、百面相しているアンジュが新鮮だった。
「…いや、なんでもないよ。」
恥ずかしそうに顔を隠すアンジュに、
スイの部屋の用意がないので、宿舎にある客室へ向かったため、久方ぶりにアンジュとウィルは2人きりとなった。アンジュは久しぶりのベッドだと喜んで飛び込んだ。
漸くウィルは今まで悩んでいた彼のあだ名を口にした。
「あのアン…、アンジュ聞いてくれないか?」
「何?」
ウィルが改まって話す態度になったので、アンジュもベッドから上半身を上げて、ウィルの方を見た。
「…どこから話せばいいんだろう。」
彼がエル・ウォッカなら、魔術式防御システムの彼のように記録へアクセスできるはずだ。いくらでも知ることはできるだろう。しかし、恐らく彼の良心からそれはしていない。
「偶にルジェロが俺に『幻想を見てるな』と怒るだろう。」
「いつもウィルが返答を窮してるやつ?」
「…それは分かっていたか。」
恥ずかしそうに頬をかくが、アンジュは茶化すようなことはせず、ただ真っ直ぐとウィルを見ていた。
「俺には親友がいたんだ、既に亡くなってるんだけど。その彼の名前がアナトール。」
ウィルの伝える唇が震える。
「俺は『アン』と呼んでいた。」
亡くなった親友と同じニックネームで呼ばれているなんて、気持ち悪いだろうと思って詰られる覚悟をした。けれども、違った。アンジュはわなわなと震えて呟いたのは。
「俺でいいのか?」
「え?」
「俺を大事な親友と並べてよかったのか?」
「え、ちょ、やだろう、死んだ人間と同一視してるかのような呼び方なんて。」
「ううん。嬉しいよ。」
嬉しいと答えた。ウィルは、様々なシミュレーションをしたが、そんなふうに言われるとは全く考えてなかった。
「なんで、アンは許せる?」
「ん?ウィルの言ってることが分からない。ただ偶然同室になった人間に対して、ウィルの大事な親友と同じあだ名をつけてくれたんだろう。とても光栄なことだよ。」
嬉しそうに微笑む彼に、だだ勝てないと思ってしまった。最初アナトールと同じあだ名で呼んでしまったのは、そんなよいなことじゃなかった。簡単に五星士となり上がったアンジュを許せない気持ちがあったのは覚えている。せめて嫌いにならないようにとアナトールへの感情で誤魔化したはずだった。
アンジュの為人を理解してからは、同じように呼ぶのは彼の存在を無視しているような気すらあった。
それでも、呼び方を止められなかったのは、ルジェロ以外に自分の醜さを知られたくなかっただけだ。
恥ずかしかった。
「俺のこと、醜いとか、最低だとか思わないんだな。俺はずっと…卑怯者だと思う。」
「ウィルの言うことに賛同できなくて申し訳ないけど、ウィルは誰よりも優しいよ。ずっとそのことで悩んでいるのも、ウィルが真っ直ぐだからだし、アナトールのことを忘れられないのもウィルが本当に彼のことが大切だったから今も悩んでいるんだろう?優しい人じゃないとそんなことで悩まないんだ。本当に醜い人間は他人がどう思うかなんて一端の思慮もしない。」
「…そう、かもしれない。」
「…俺は…、いや、少なくともエルである僕は王国側の人間は嫌いだった。全てが敵だと思っていた。僕から派生したアンジュ・クラントもそうだった。忘れていてもベースの部分で憎んでいた。それでも、毒気を抜かれたのは、最初の任務ですぐにウィルが俺を信じたから。」
魔術式防御システムの中の彼が言っていた通りだった。
「少なくともウィルがいるのなら、王国軍にいることは地獄ではないと思った。ミルフィーとリーラを連れ出して逃げ出そうという極論を持ち出すのを止めたのは、ウィルがいたから。」
「そんな立派な人間か、俺が?ンヴェネのように頭は働かないし、ルサリィのように共感できないし、ルジェロのように公平じゃない。」
「ンヴェネのように頭の良い人だけだったら、簡単に割り切れた。ルサリィの共感だけだったら解決しなかった。ルジェロの公平さだけだったら、苦しかった。」
アンジュは一つ一つ確かめるようにゆっくりと言葉を綴る。
「アナトールが俺にはどんな人か分からないけど、それでもウィルの親友だと名乗ることができたのは彼にとって救いだったのかもしれないよ。」
「えっ?」
「汚い世界ばかり見えていた人間にとっては、ウィルは暖かい光だ。」
アンジュ・クラントではあまり見なかった表情、穏やかで眩しそうに笑った。それでも、疑問には思わなかった。目の前にいる人間が隣にいることに。
「だから、ウィルが自分のことを許せないのなら、俺はウィルを許すし、肯定できないのなら、俺はウィルを肯定する。」
「…あ、り、がとう。」
アンジュは、エルであっても言葉を躊躇わずストレートに伝える。アナトールだったらもう少し気恥ずかしそうに言うだろうことだ。でもきっとアナトールも似たように思っていてくれたようなそんな気がしてくるのだ。
「ありがとう。」
ウィルは感謝の言葉を伝えることしか出来なかった。




