22話
ウィル・ザ・スミス(19) 炎の斧使い 王都出身の優しい青年
ルサリィ・ウェンディ(23) 風使い 地方の宿場町出身で気高い女性
ンヴェネ・ルーイ(25) 雷の銃の使い手 国境近くの狩人の村出身 公平な人間
ルートヴィヒ・ラドカーン(32) 王国魔術師の中で、唯一まともな研究者
クルル 雷を司る鳥の神獣 元の名は「ユピテル」 アンジュ以外はどうでもいい。
ペチュウ・ヤナ 王国軍長官 五星士の上司
王国軍の王国軍長官の応接室には、クルルや五星士とルートヴィヒが集まっていた。ルートヴィヒが来たのはスイが良識的な魔術師1人いた方が話が早いと言ったからだった。
こうなったのもスイが言ったように、王宮の魔術式防御システムに彼は弾かれなかったことから始まり、仮にも元龍の一族に身を置いていた魔術師が正攻法で話がしたいと言ったのですぐにその場を纏められたのだ。五星士全員がその参加を認められたのはスイからの提案だった。そちらの護衛に他の連中が来るくらいなら、実力もアンジュと面識がある五星士が良いと言ったからだった。
「では、改めて自己紹介からしようと思う。」
10歳位の小さな少年が2人がけソファにどっしりと座って王国軍長官に不遜な態度でそう始めた。
「俺の名はスイ・ウォッカ。今は魔術師をやっている。竜の一族に身を寄せてはいたが、特に大事なことを覚えてない。その時まで記憶が混濁していて何が何だかあんまり分かってないんだ。思い出したら話すけど、基本彼らは秘密主義だから特にないと思う。」
「アンジュ・クラントを返せと主張していたと聞いたが?」
「勿論それは言う。だけど、エルも記憶が取り戻せていないから今は俺の独りよがりなわけだ。だから、正攻法で頼みに来た。こうなった経緯もちゃんと説明する。俺らが王国を憎む理由も理解、…いや知ってほしい。」
応接室は緊張の糸が張り詰められていた。
「そして、お前たちが話しているアンジュ・クラントは俺の双子の弟だ。」
「……双子?弟?」
まだ10歳程度の少年が16歳程度のアンジュに対して、双子でありさらには弟などと言うちぐはぐな状況を見て王国軍側は混乱するが、スイはそちらには構わずアンジュの方を見る。
「ああ、エル、まだ何もピンと来ないか?」
スイの隣に座ったアンジュは俯いていて、その表情を伺い知ることはできない。
『まだやっぱり早いよ、スイ。』
「それでも、手遅れになったら後悔するのはユピテルだろ。」
『クルルだって言ってるのに!』
「…もしかしなくても、クルルは神獣ユピテル?あの、かつて神獣の中でもトップにいたと言う。」
『そんなことどうでもいいでしょ。』
ンヴェネの動揺をバッサリと切った。クルルとしては既に大部分の力を失っているのだから、神獣のトップなどにはもう興味は無かった。
「エルには悪いが、続ける。俺たちは500年前から逃げてきたんだ。」
スイのその言葉にウィルは呟いた。
「……やっぱりそうだったんだ。」
「スミスは何か知ってるな。」
「いや、教えてもらったんだ。」
497年前魔術式防御システムを作り、その1年後逃亡し、まだ生存していると言うエル・ウォッカだ。あの魔術式防御システムの中の彼から聞いていたから、ウィルは何となく察するが、他は中々に懐疑的だ。
ルートヴィヒが怪訝そうに訊ねる。
「時を渡る魔法なんてそんなものが存在するのか。」
「それは…。」
スイは話そうとしたが言葉が詰まった。スイにはそれが分からなかったから。
「時は渡ってない。僕らはただ眠り続けていただけなんだ。」
アンジュの口がそこでようやく開いた。しかし、何度も傍で話していた彼と全く同じとはウィルは思えなかった。アンジュが顔をあげると、悲しそうな、しかし、どこか怒っているような表情をしていた。
「改めて…元ルーグ王国魔術師のエル・ウォッカ。」
「エル、思い出したのか?」
「兄さん。…そうだね、断片的に。」
スイは弾けるような笑顔を見せてアンジュに抱きついたが、反面アンジュは険しい顔をして髪をかき上げていた。
「双子なのに兄さんなんて変だから、スイって呼べよなぁ。」
「…兄さんは兄だったから。」
2人の話の横で、王国魔術師のルートヴィヒは震えた。
「…エル・ウォッカ、王国の防御システムを作成した、あの。」
「知っていたんだ、ルイスは。僕が王国から離脱した時に僕の名前は消された筈なのに。」
「……君は知識を奪われまいと魔術式の中に自分の名前を隠していただろう。複数の魔術式の中に、どう解読しようも何の意味も持たない“456c6c6520766f646b61”が出てくるんだ。研究者は調べるだろう。」
「…当時の魔術師はそうじゃなかった。だから、消されなかったんだろうけど。」
ルートヴィヒが自分の名を知っていると言うと、驚きながらもどこか安堵したようにアンジュは呟いた。
「とりあえず俺たちが500年前から来たって信じられるか?」
「私は信じるよ、エル・ウォッカの名を知るのは今は王国魔術師である必要があるからね。」
五星士たちもアンジュ・クラントの何でもあり具合を知っているから、とんでもないそのことを容易に受け入れた。
「で、こっからがエル・ウォッカを返してほしい理由。俺たちが王国を忌避する理由を伝える。エル、ダメそうだったら耳塞げ。」
500年も時を超えて、さらには記憶を捨てて逃げた理由があるはずだった。
「まず俺たちが見た目通りの年齢じゃないのは分かってるだろう。それに双子なのに歳の離れた兄弟のようだ。ああ、アンジュの体だって16歳じゃないぜ。エル曰く眠っていたらしいこの500年を除いても通算30は生きてる。」
「…ええ?」
「これくらいで驚かないでほしい。そっちは2分の1くらい、こっちは3分の1くらい普通の人間より時が進むのが遅い。これは魔力量の多さが理由だ。」
「いや…でも、アンジュはこの6年でちゃんと成長してるんじゃ?」
アンジュ・クラントは10歳程度の見た目でリレイラ村に現れ、それから6年の時を経て16歳らしい見た目をしていた。
「それはアンジュに聞いてくれ。俺は知らん。」
アンジュの方を見たが、アンジュは目を逸らした。
「その話は後にしよう。俺たちの父親もまた王国軍に当時は所属して、今でいう五星士、当時は五戦士のうちの1人だった。母さんと出会って俺たちが産まれたんだけど、普通の子供じゃなかったから隠れて生きていたんだ。誰も入らないような森の奥で俺たちは暮らしていた。」
「それは当時ここにあった?」
「今は伐採されて村になっていた。それが丁度リレイラのあたり。当時は深い森だった。」
「…なるほど。」
スイの説明に頷くものの納得をしていない様子を見てアンジュは口を挟んだ。
「…時代が違うから口を挟むけど、当時の戦士は王宮に常備されてなくて、呼ばれたら自弁で武器を持って戦うようなそんな存在だったよ。でも、それでも王都を守る人間は街中に住んでいたから、離れた森に住んでいるなんて怪しすぎるけどね。」
「でも、父さんはそれが許されていた。父さんは本物の竜を殺した勇猛な戦士だったから、当時の王様に気に入られていた。」
「…まるで星の泉伝説の主人公のようだね。」
「星の泉伝説?なにそれ。」
聞いたことないと首を傾げたスイに、ウィルは既視感を覚えた。あらましを伝えるとスイは納得した。
「ああ、俺の父さんの話だ。聞いたことがある。でも、その話の最後は現実と違う。」
「……処刑されたんだっけ。」
アンジュもストーリーを聞いて話を知っていると言っていたがエンディングは違うと言っていた。
「既に母さんはいなかった。母さんは……まあ、元の住んでた所に連れ戻されて、森の小さな家には子供の俺たちと父さんしかいなかったんだ。だから、当たり前だけど、それ以前ほど長く王宮にいれなかった。そこをつけ込まれて、父さんが王に気に入られているのが気に食わない奴が、有る事無い事吹き込んだ。…父さんは結果覚えもない謀反の罪で殺されたよ。」
そこまで言ってスイはアンジュの方に顔を向けると、力強くアンジュの耳を塞いだ。
「……昔は残酷だった。罪人の公開処刑というものが至極当然のエンターテイメントだったんだ。…俺たちは明日早く帰るって言った父さんが1週間帰ってこなくて探しに行ったんだ、王都まで。森から出てはいけないって固く言われたのの、初めて外に出て父さんを探した。」
「そして、処刑を見た?」
ンヴェネの質問にスイはこくりと頷いた。
「父さんを助けようと人の合間を縫って2人で…なんとか最前列まで辿り着いた時に…父さんの首は俺たちの前に転がってきた。」
何人かが父親の首が目の前に転がる情景を想像して顔を青くして息を飲んだ。
「…何でだろう、もう何年も…ここからしたら500年以上前のことなのにその時のことは目の裏に焼き付いて完璧に思い出せるんだ。」
冷静に話すが、その赤い瞳には憎しみが浮かび、強く唇を噛んで血が滲んでいた。スイはアンジュの耳を塞いだまま、アンジュの顔を見る。
「父親の首を前に冷静にいられるわけないだろ。俺はただ分からないまま、転がってきた頭を抱きしめたよ。…エルは、まだ5歳程度の体だったエルは、その魔力を暴走させたよ。俺だってまだ7歳程度で……。エルは会場をめちゃくちゃにした。現在と違って当時は魔術師も豊富だったから、すぐに暴走したエルは捕まった。」
なんとかスイは取り戻そうと手を伸ばしたけれども、エルには手が届かなかった。
「俺たちが何をしたっていうんだ!ただ静かに生きていただけだったのに!」
赤い瞳から涙が溢れ、震える手にはもう力は入っておらず、アンジュは簡単に手を退かせることができた。アンジュもその感情を写したようにその青い双眸から涙を静かにこぼしていた。サンセット・ブリッジで亡くなった父親の頭を抱えていた少女の姿に、泣いている目の前の彼が重なった。
「…後はまあいろいろあったけど、大したことはない。幸い俺たちは父さんに森の中で生きていく術を教えてもらっていたし、俺は剣を始め戦う術も教わっていたから、生き延びたよ。俺は再び弟と会うためにそれからは、ただ強くなるために色んなモンスターを倒したし、自警団に喧嘩売ったりもした。」
「スイは剣士だったんだね。」
「そういうこと。で、まあ俺もその名を少しずつ馳せていたんだ。そろそろ弟を奪還してもいいって思って王都で戦う準備をしていたその日、突然王宮の一部で爆発が起き、数多の悲鳴が聞こえてきたんだ。この騒ぎしかないと思って俺は王宮に乗り込んだ。」
そこから見た景色は地獄だったねと呟いた。スイは話を続けようとしたが、アンジュは止めた。
「……僕は、王宮で。」
「無理すんな。」
アンジュは首を振り、静かに話し始めた。普段流暢に話すアンジュからするとたどたどしく幼い話し方だった。
「ぼくは、簡単にいうと…、都合のいい奴隷、だった。うーん、叩けば魔術式が出てくる便利なガラクタだったのかな。」
「エル。」
「それは偶然だった。偶々自分を殴ってくる男を殺しちゃったんだ。…それが思いの外とても簡単で……そこからは自分でも曖昧だ。」
「エル!」
「もう理性なんて、残ってなかった。」
「もういいよ、エル。思い出したくないんだろ、いいよ。」
スイは頭に抱きついて、無理やりアンジュの口を閉ざした。
「俺は騒ぎに乗じてエルを見つけて、王宮、王都から逃亡したってわけ。その際に俺も何人殺したかは分からない。分かったろ?お前たちも俺らは祖先の仇だ。そして、俺らも王国は仇だ。……だから、エルを返せ。」
なあと睨むスイが睨んでも、王国軍長官ヤナは頷かなかった。これがまだ数十年前で当事者が生きていれば話が違うが、500年も前となると、もはや全てが伝説で御伽噺のように実感がないのだ。
「…話を聞いていると不思議なのはどうみても君たち反対じゃないか?」
アンジュは幼く魔力が豊富な魔術師、スイは剣術が得意な武闘家らしいのに、目の前の2人は反対だ。
「…そうだよ、俺ら反対だもん。エルは何故か俺の体にいるし、俺はエルの体なんだ。魔力も体の使い方も違くて困っちゃうよ。」
『アンジュはスイの体で無理やり魔法を使っているからすぐ気絶してるのが証明だよ。』
「2人の人格が入れ替わってるってこと?」
まるで現実的ではない話に信じられないという感情と、今までのアンジュを知っている人間からしたら妙に納得もするところもある。アンジュはそんな簡単でもないとも話す。
「入れ替わっているのは表層的な意識だけで、身体にも無意識的な部分の人格は残ってる。だから、俺は剣を使うし、あまり魔法の知識はあまり引き出せない。兄さんもそう…だよね?」
「確かに魔法の使い方は分かるし、身体が記憶している感情に引っ張られることがあるよ。最近になってこれはスイじゃなくてエルが悲しんで怒ってるんだって気づいたね。魔法の知識はあることは分かるのに、そこに辿り着くのに困難なのは俺がこの身体を使っているから使いきれてないんだろうなぁ。」
アンジュの説明にスイはなるほどと頷き、自分の起きたことについて事実を付け加えた。
「それで?」
「つまり、アンジュ・クラントはどこの世界にも存在しない人間だった。…兄さんの身体と僕の意識が混ざった別人だ。存外冷静でいられるのも俺がまだエル・ウォッカを…完全に自分だと意識していないから。」
五星士や王国軍に説明しているはずだが、今のアンジュは、リーラやミルフィーのことで頭が一杯だった。空っぽだった自分をアンジュ・クラントとしての人格を作り上げたのは彼女たちなわけで、アンジュを失ったら何になる。まだリーラは年齢もあるからそばにいられる期間を誤魔化せたとしても、将来のあるミルフィーの側にいる権利なんて存在しないのではないかと自分を責める。
しかし、それは王国軍には関係のない話だった。
「アンジュはどうしたいのか。ルーグ王国に暮らしていきたいなら、王国軍所属は免れない。」
ふと顔を上げ、アンジュはヤナ長官を見た。リーラやミルフィーと共に生きるのであれば、この国で生きる覚悟をしなければならない。他の国で生きようにも生活基盤はないし、その国がルーグ王国から敵対したと見られる可能性が高い。スイと2人だけなら、どうだって生きられるけども、リーラやミルフィーはそうじゃない。アンジュの人格が残れば望むのはミルフィーやリーラだ。
「…僕には500年前の罪がある。」
「話を聞く限り、王国側にもあるようだ。それにその話は王国史にはないから、こちら側にキミの罪を証明できない。」
「……この身体は流石に兄さんに返さないといけない。今まで兄さんは僕の犠牲になっていたんだから。」
「犠牲じゃない。俺もエルを理解するのに大切な時間だった。でも、確かにスイとしての意識を確立させてからはもどかしいことばかりで、身体は取り戻したい。」
「アンジュ・クラントが消えて、エル・ウォッカが戻ってきたらまた答えを出しに来る。それではダメ?」
「エル、ここは交渉だ。今は俺の体だが、エル・ウォッカの魔力で王都の魔術式防御システムで成り立っている。エルの要望が飲み込めないならさっき閉じた穴を再び開けさせるだけ。既にあの水害でこの冬たくさん人が死ぬのに、それは見てられないだろう?この500年間エルの魔術式によって王都は莫大な利益を得たんだから、これくらい構わないだろ。」
王都の魔術式防御システムを交渉材料に出されれば、引かなければならない。
「どれくらいで戻って来れるのか。」
「さあね。分からないけど。」
「リーラとミルフィーに心配かけないくらいには帰ってくる。」
その2人の名前を出せば、ヤナ長官も首を縦に振った。
「分かった。許可しよう。」
弟のこと以外どうでもよく全てを捨ててきたスイには何にも交渉の余地はなかったが、アンジュはそうではない。スイは不服そうだが、弟の発言を無碍にすることはなかった。
五星士たちに言ってくると告げた次の瞬間には2人は目の前から消えた。
「…私たちの許可なんて最初から不要だったのだな。」
2人が座っていた場所は、何もなかったようになっていた。
王都から星を眺めることはできない。
ーーーー
500年以上前のことだ。
深い木々の中にポツンと小さな荒屋が建っていた。そこには若い男と幼い子供の2人が住んでいた。男は黒くまっすぐな髪を一つに縛り、森の中に住んでいるとは思えない程綺麗な身なりをしていた。
男は玄関前に置いてある木の実が詰まった小さな籠を見つけると、またかと頭を痛めながら犯人の息子を探す。
「エル!また1人で森の奥に出かけたね。」
「お父さん、1人じゃないよ。シアも一緒だった。」
2人の中でも年下に見える方のエルは、少しばかり問題を抱えていた。森の中は危険が一杯で、父親がいない時は家で過ごす様に言われているのにすぐにフラフラと出かける。
「シアは蝶だろう。人間じゃないと数えちゃいけない。成虫は大人じゃない。」
「むぅ、森の中は危険じゃないよ。一度だってそんな場面はなかったもん。」
見た目通りの精神を持っているかと思えば口は達者で、父ナイは困っていた。年上に見える方のスイは活発だが父親の言う通りにしてくれるから安心するのだけれど、エルのことは止めてはくれない。
「大丈夫だよ、お父さん。エルは森の友達なんだから。」
「……私がおかしいのか?」
「ほらエルのおかげではちみつを分けてもらえたんだ。これで甘いものが食えるよ。」
「食べ物で釣られるな、スイ。」
大人ですら薄暗い森を歩くのは怖いのだが、エルは森を全く恐怖しないし、エルがいれば森の中で遭難することもない。それは父のナイだって知っているが、いつ何かに襲われたとしても幼いエルには対処できないだろうと思っていた。
「…はあ、スイ。明日も私は朝早くから王宮に行くがエルを任せてもいいか?」
「もちろん。」
子供達2人は仲はいいが、好きなことは違う。スイは体を動かすことが好きだが、遠くに行くことはせず、せいぜい近くで薪割りなどをする程度だ。エルは体を動かすのは苦手だが、本を読むのが好きで好奇心が強い。父からお土産として渡せば森へ出かける様なことはしないが、森の中は好奇心が刺激されるらしく、頻繁に森の奥へと向かってしまう。本は非常に高いので、なかなかエルを家に留まらせることができず父は頭を悩ませる。
「明日何食べたい?熊?」
「魚がいいんじゃない?」
「虫集めは任せたぞ、エル。」
「可哀想だけど仕方ないね。」
まだ7歳と5歳程の見た目の割に逞しい。いくら普通の人よりも長い時間をかけて成長しているとは言え、体の成長と精神の成長は一致しているはずなのに。
「…森深くには行ってはだめだよ。」
「はーい。」
「深くってどこまで?」
「エル…、こないだ父さんと出かけた所よりもっと近場だよ。」
「ぼくと父さんの『森深く』の意味は違うみたい。」
「エル…。」
「そんな目で見ないで。また意味が違うって怒られたくないの。」
「父さん、エルの光の魔法消してもう寝ようよ。」
スイの模範となる様な返事の後に、エルは質問を重ねる。もう何度も繰り返しても、ナイには満足に応えることができない。だから、いつもナイは申し訳ないと思ってしまうのだが、それを見てエルもまたやってしまったと悲しむ。その悪循環にスイは気づいて、パンパンと手を叩いた。
夜子供達が規則正しい寝息を立てている横でナイは不安を呟いた。
「私は君の分までこの子らを導いているだろうか、テミス。」
ナイは父親と上手くいかなかったから、自分はちゃんとした父親になりたいと志高く持っていたが、実際になってみると難しい。
「…でも、ゆっくりだが確かに大きくなってる。」
子供達の額にキスをして、ナイは眠りについた。
子供達は朝から元気だ。エルの魔法で顔を洗って、そのまま水遊びをして朝ごはんの前にびしょ濡れになるのもよくあることだった。
「風邪ひくから、太陽が上がってからにしような。」
「はーい。乾かすー。」
すぐに魔法で乾かしてことなきを得る。なまじエルがなんでも魔法で解決してしまうから、反省が深くないのがナイの悩みどころだ。
「遊ぶのはいいけど、ご飯が先だよ。」
「はーい。」
返事はいいけれど、また明日の朝になって遊び出したから、そっちの方に頭がいって忘れるのだろうなと思うとナイは頭が痛い。
「昨日も言った様に、私は仕事に行ってくるから、危ないことはしてはだめだよ。勿論森から出てもダメだ。」
「分かってるよ。」
好奇心旺盛なエルがまだ森の外に出ていないのは、まだ森の中への興味が尽きていないからだろうとナイは思うと後何年持つか不安だ。2人は家を出て行くナイを内心寂しく思いながらも、抱きつき笑って送り出した。
「父さんには言ってるし、魚をとりに行こう。」
暮らしている小さなその家から、遠くないところに川がある。家からそこまでなら鬱蒼としてはいないので、父もそう怒らない。
エルは魔法でおびきよせた芋虫をスイに渡す。エルは害虫を殺すことでさえ苦手だから、釣りや採集というのはスイがやっていた。スイはその割り切りは早く、必要だと思えば躊躇いは一切ない。いつもの様に手際よくやれば食いしん坊の子供2人分の昼ごはんくらいは一瞬だ。
「今日も最高だ。熊の方がやりがいはあるけど。」
「こないだ狩ったばかりで、干し肉が余ってるもん。毛皮も余っちゃう。」
「そうなんだよなぁ。ここに住んでるのグレートベアって言って、強い種類らしいし、あんまり殺しすぎると外の危険な奴らがこの森に入りやすくなるって言うしなぁ。」
大人ですら苦労するモンスターだが、スイとエルが2人揃えば大したことはない。それが神の血縁者たるところなのだが、それを2人が知る由はない。
「外ってどれくらい危険なんだろう。」
「な。エルが話す物語じゃそうでもなさそうなのに。」
聡い2人は父の様子から森の外が、森の奥よりも知ってはならない場所だと認識していた。それでも、エルが手にする本にはそんなことが書いていないから父の様子と本の内容が一致していなくいのに疑問は持っていたが、まだ自分の目で確かめる無謀さはなかった。
「こないだの赤ずきんの話は変だったなぁ。」
「ね、なんで狼は出会ってすぐその場で食べなかったんだろう。」
「実は赤ずきんって凄え力の持ち主なのかも。だから、騙し討ちが必要だったのかもしれない!」
「あの強い狼ですら子供に騙し討ちしないといけないんだから、外の世界って怖いね。」
「大きくなったら連れて行くって言ってたのはそういうことか。」
「外の世界は戦争ばかりなんだって。一年に一回はどっかで戦争してるんだって。そうしたらそうなるかも。」
「ここが穏やかなのはグレートベアとシェリルとギフトスパイダーのおかげだってお父さん言ってたもんな。」
グレートベアは人を好んで食べる大型の熊のモンスター、シェリルは人に決して寄り付かないが彼らの縄張りを荒らせば集団で襲いかかってくる狼、ギフトスパイダーは大きい大人でも眠る様に死ぬ毒を持つ毒蜘蛛だ。それらはスイとエルにとっては恐ろしくないが、普通の人間であれば畏怖し、忌避する。しかし、エルは側によっても襲われないし、スイは向こうから逃げ出して行くのだ。
そうして、父親と2人の子供たちは世界から隔絶しているせいで常識とはかけ離れていた。父が戦士として、よく血塗れで帰ってくることが多いのも誤解に拍車をかけた理由だ。
「今日はお父さん帰ってくるかな。」
どちらが呟いたかわからない。父は長く帰ってこられないことも度々ある。寂しいけれど、2人の子供たちにとってお互いがいればなんとかなるから、父に我儘を言って困らせはしない。
好奇心の塊であるエルとは違って、スイは少し冷めて達観しているところがあった。スイがエルの様に森の中を探検しないのは、自分にとってそれほどの価値があるとは思えなかったからだ。それでも、エルが見つけた新しい発見の話を聞くのは好きで、そこでようやく意外と世界は面白いんだなと思う。ただエルの冒険の話に触発されて1人で森に出かけても、自分の目には面白さが分からなくて、やはりエルの視点が必要なんだと再確認した。それに、スイが1人で森を見に行っても虫や動物は出てこない。それは安全ではあるが、やはり寂しさもあった。
「なあ、エル。明日はなにする?」
「ウィグレットの子供がそろそろ産まれるよ、見に行く?」
「鳥の子を?こないだ卵を拝借した巣じゃないよな。」
「隣のお家だから、多分大丈夫。」
そして、次の日、木に登って見守った。スイは容易にするする木に登れるけれど、エルはそうもいかないから魔法で移動して木に乗っていた。
「が、がんばれー!」
小さな嘴で殻を少しずつ破る雛に2人は食いついて見守る。
その次の日は木の実を潰して布を染めて遊んだ。
そうやって2人で遊んでいたら、父が帰ってきた。微笑んでいたが、酷く疲れている様子で、2人は顔を見合わせた。慌てて2人で父親をベッドに入れていつも父が2人にしてくれる様に撫でた。
「大丈夫、大丈夫。」
エルが父に元気が出るように魔法をかけながら。父ナイはそんな愛おしい2人の子供たちを強く抱きしめた。
「明日もまた仕事にいくけど、すぐに帰ってくる。そうしたら、もうどこにもいかないよ。」
「本当に?大丈夫…なの。」
「テミスがいなくなってから本当はずっとそうしようと動いてはいたんだ。ただ色々としがらみがあって時間がかかってしまった。」
母テミスが去ってからすでに5年は経過してしまっている。普通の人間の子供なら、大人の仲間入りとして頭に数えられるくらいの歳月が経過しているが、2人の子供は未だ幼い。母テミスをどこまで覚えているだろうか。
「やったぁ、明日の途中から一緒だね。」
「ああ、そしたら、森だけじゃなくて海や砂漠にだって連れて行こう。もっと世界は広いんだから。」
「危ないんでしょ?」
「スイも大分強くなったし、私が2人を守るから。」
「僕は?」
「エルは生きている者に優しすぎるからね。」
1人だけ仲間はずれだと怒るエルに、ナイは微笑んで頭をポンポンと叩く。
「私たちは冷たいから、エルの優しさが丁度いい。」
「冷たくないもん。あったかいもん。」
「ははっそうだね。スイもエルもこんなに温かい。」
その日、ナイは2人の子供を腕に抱えながら眠りについた。3人にとってこれが最後の幸福な日だった。
「今日はお父さんすぐ帰ってくるって。何する?」
「エル明日から色んなところに行くんだ。だから、今日はいっぱい休んで明日から全力だ!」
「うん、スイは頭いい。」
太陽が昇る前に出かけた父親だったが、その日太陽が森の影に沈んでいっても帰ってこなかった。
「…お父さん、大丈夫かな。」
スイは色々と考えたが、父が自分たちの約束を反故してどこかに行くとも考えづらくて、不安そうなエルの言葉に返すこともできず、ただ手を握りしめた。
「…エル、森の中を探ってみてくれないか。」
「うん。」
エルは近くの草に手をつけて魔力の流れを読む。今まで探ったところのないところまで広げて探ってみたが父を見つけられなかった。
「…いないねぇ。」
「明日、明日また探ってみよう。」
魔力を辿って父親が不在であることを確信して不安がるエルにはスイの自分の恐怖心などを感じさせたくなった。
それが1週間続いた。
「探しに行こう。」
それを口にしたのはエルだったか、スイだったかは分からない。もしかしたら2人とも一緒に口にしたのかもしれない。スイは少し季節は早かったが冬用のフード付きのマントを被り、エルにも被らせた。2人は手を繋いで森を出た。
木々が途切れてから少し先に人が踏みしめてできた道があった。スイは最初分からなかったが、本を読み込んでいたエルは、
「道があるよ!この先に…きっと他の人が住む村がある。」
と指差した。
「…でも、どっちに。」
森から出てきた2人には左右に伸びる道に困惑した。地図なんて持っていなかった。そんなのを持っていたのなら、エルが確かめようとしたに違いないから父は渡さなかった。
「王様がいるほうだよ。」
「それはどっち?」
「…分からない。歩いてみる。」
2人の小さな足で向かった。何時間ただひたすら歩いたかわからない。2人の足が悲鳴を上げながら歩き、とうとう座り込んだあたりでふと人に声をかけられた。
「坊ちゃんら、どこからきたんだ。」
2人は怯えて抱きしめ合いながら、その人間を見た。恐らく父親より歳を重ねた男だ。初めて見る自分たち以外の人間に恐々と睨んだ。
「……王様を探してる。」
「王様?ルーグ王国のか?」
ただの幼い2人が王を探しているなんてどんな遊びをしているのだろうと男は訝しげにしていた。
「まあ、いいさ。丁度王都に俺たちも仕事があったんだ。乗ってきな。」
「えっ。」
小汚い牛の様な馬が引いた車を指差した。その馬が疲れ果てており、きちんと世話している様には見えなくて、エルは後ろに後ずさった。スイはエルを背に守り、
「大丈夫。僕たち2人で行けるよ。父さんに会いに行くだけだから。」
「隣の街までまだ2マイルくらいはあるぞ。悪いことは言わねえ乗っていけ。」
2人の小さな身体は容易に持ち上げられた。彼の仲間が暴れる2人を馬車の荷台に乗せた。荷台には幌がついているので、周りの景色を見ることはできない。
「エル。」
スイ1人であれば持ち前の運動神経で、この緩やかな走りをする馬車から降りることができただろうが、エルにはそれができない。エルがもう少し大人であるか、もしくは生き物に冷たくできたのなら、あの人間たちにだって立ち向かえたのだが、優しいエルにはできなかった。
「スイ…ごめんね」
「大丈夫。まだいくらでも逃げる機会はある。ずっと走っているわけじゃないし、それに僕たちの足酷いことになってるからその時まで休憩。」
布靴はところどころ裂けていて、石で皮膚を切っていたりした。
「治すよ!」
「魔力使い過ぎれば疲れるだろ。」
「まだ、そんなに使ってない。」
スイのいうことは無視してエルは足と布靴を元通りにする。
「自分のも酷いんだから治しなよ。」
「…面倒くさいな。」
「僕だけが綺麗な靴を履いていたら、僕がいじめてるみたいだ。」
「分かった。」
それはスイの心情を優先しただけで、エルのことを思って言ったわけではなかった。エルだって余裕さえあればきちんと自分から自分の傷も治す。自分の傷を治すのが億劫だというのは、体がしんどいから言っているのは分かっていた。自分の我儘だと理解していても、エルが痛々しそうな姿をしているのが耐えられない。
心は休まらないが、少なくとも体の疲労にはありがたかった。2人は手を繋いだまま馬車の揺れに身を任せた。
「おい、着いたぞ。」
スイは荷台の幌が開かれた瞬間に、男の首元、顎を下から狙って蹴りを入れた。男が持っていた護衛用の棍棒を奪うと仲間の脛を殴りつけ、体勢を崩した男の頭にもう一撃を与える。スイは魔法こそ使えなかったが、魔力での身体強化はお手のものだった。男たちが怯んでいる隙にエルの手を引ったくって建物の陰に走って逃げた。そこまで来ればエルも冷静になり、気を逸らすように男たちに魔法で作った鴉を嗾けて追い払った。
「…結局アイツらなんだったんだろ。」
「子供売りかも。」
笑顔で心配そうに話しかけられたが、どうにも信用できなかった。父親ナイが2人に森から出てはいけない理由に、子供を攫って売る人間がいることを挙げていた。そんな御伽噺もある。
「はぁ、あんなんばっかりだったら困るなぁ。」
「でも、町には着いたね。なにかしらヒントがあるかもしれない。」
世間知らずだった2人には、森の中よりも人の町は危険だった。貴族のような煌びやかな服は着ていなくても、エルの魔法によってとても状態のいい服を着ていたから、悪意の標的になりやすかった。
「本当になんでこんなに。」
「あらあら、こんなところで大丈夫かしら?」
人の悪意に2人が疲れ果てて、塀の壁にもたれていると、仕立てのいい服を着た女性が2人に声をかけた。隣には伴侶らしい男性も立っていたが、彼は何も言わなかった。人の悪意に晒されて来た2人は当然警戒して睨んだが、女性は猫のようだとカラカラと笑った。
「あら、大丈夫じゃなさそうだわ。少し屋敷で休ませてあげません?」
「君が良ければ。しかし、すごく警戒されてしまっているようだからね。」
「では、東屋ならいかがかしら。」
夫婦は無理に連れて行くことはせず、2人の返答を待った。暫く黙っていたが、本当に無理やり連れて行くわけではないと悟った兄弟は頷いて、夫婦の案内の後についていった。
夫妻は家事使用人に声をかけてクッションを部屋の中から持ち出し、庭の東屋に2人を通した。それからお茶を出すと、2人に声をかけた。
「あんな所で2人はどうしていたの。この辺りでは見慣れないわよね。」
「お父さんを探してる。明日帰ってくるって言ってから1週間も経った。」
「あら、それは不安でしたよね。お父上は何をされている方なの?」
「…王様の元で働いてるって言ってた。」
「あらそうなの。」
夫妻は驚かなかった。
夫妻が2人を助けたのは、身なりがきちんとしていたからだ。だから、彼らの父親が王の元で働いていても違和感はなかった。
「それでお家から抜け出したのね。でも、2人だけで危ないわ。」
しかし、2人には他に頼るべき人間がいないので俯いた。
「それに王都はここからだと遠いわ。」
「…そ、うなんだ」
地図もない中ただ只管歩いていたせいで反対に歩いていたらしかったが、それすらも何も分からない2人には分からなかった。
「1週間後に王都で祭があるから、それに行こうという話をしていたんだ。よかったら君たちも来るかい。」
「何か望みがあるの?」
エルが不思議そうに尋ねふと、夫妻は驚き首を振った。
「どうやら君たちは余程酷い目にあっていたらしい。ただの親切だよ。でも、そうだなぁ。私たち夫婦に子供がいないので、代わりに話を聞いてくれないか。」
「…それだけ?」
「ああ、とても助かるよ。」
スイとエルはなかなか心を許せなかったが、夫妻は本当にただ親切な人たちだった。兄弟が自分たちの情報をあまり開示したくない様子を見て、夫妻は自分たちの話をした。エルは夫婦の子供に中々恵まれず、やっと産んだ子供も亡くなってしまったという話に同情した。その子供も生きていればエルの見た目くらいの年だったらしいから、夫妻は兄弟に殊更同情的だった。
一日中話をして、夫婦は兄弟をいたく気に入って、
「もし王都でお父様が見つからなくてもそのまま私たちと一緒に暮らしてよいからね。」
と2人の頭を撫でた。そんな日は来ないと思いながら、スイとエルは夫妻に感謝をした。
夫妻は2人にぴったりとは行かなくても、いい仕立ての洋服を用意してくれた。翌日、旦那さんの運転の馬車で王都に向けて出発した。道中何度かモンスターに襲われたが、騎士だという旦那さんとスイの活躍で事なきを得た。スイ1人でいるときや、エルと2人きりの時はモンスターや動物たちに襲われたことがないから新鮮で、張り切っていた。
「筋がいいね。」
「ドルクさんも。」
「ははっ、ありがとう。これでも騎士だからね。」
旦那さんは気前よくスイに一振りの剣を与えた。背丈には合っていなかったが、スイにはハンデとはなり得なかった。
「エルちゃんは、じっとしていて辛くない?」
「大丈夫。景色見ているの面白いから。」
「エルちゃんも剣を振るうの?」
旦那さんとは違って奥さんは大人しく馬車の椅子に座るエルによく話を振っていた。
「僕、剣苦手だから。」
「あらそうなのね。」
この時代、とにかく男は身体を動かしてなんぼだ。エルはそれには向いていなかった。しかし、奥さんはエルのことを否定はしなかった。
「エルちゃんは普段何をしているの。」
「本を読んだり、動物や植物の観察しているのが好き。」
「うん、素敵なことだわ。私は詩が好きなのだけれど、詩はどうかしら。」
「…詩は凄いと思う。」
自分にそれは書けないし、表現できない。円を表すのに、詩人なら太陽や指輪、丸い木の実を使ったりするだろうけど、エルは円周率や直径を使う表現しかできない。
「王都で良い詩集を見つけたら、買いましょうね。」
エルはそれが現実的ではないと思って曖昧に笑った。
王都は森で生きていた2人にとって衝撃的だった。人が多いし、家屋も多く並んでいる。また会う約束をして夫婦と別れ、2人は手を繋いで周囲を見回す。
「お父さんどこにいるんだろう。」
「エル、森より植物が少ないけど魔力を辿れるか?」
「やってみる。」
植物の代わりに人も多いから容易に辿れると思ったが、エルは人の魔力の弱さに驚いた。集中を高めてなんとか人の魔力を拾って辿る。当時は王都の地面が土だったのも運が良かった。
「あ、あっち!これはお父さんだよ!」
エルが力強く引っ張るので、スイはされるがままついて行った。
この時スイがエルに父を探すように頼まなかったら、ゆっくり行こうなんて言ったりしていれば、などと思ったことも数知れない。
エルが小さい身体で森の草木を抜けるように人をかき分けていくのを、スイは持ち前の要領の良さと運動神経で離れずぴったりとついて行った。どんどん人が多く密集して熱狂していっている理由を2人とも気づかなかった。
「その人の先に。」
人混みをかき分けて、ようやく前が見えるようになった時、人の首が切れてこちらに落ちて来た。スイはそれが何か理解できなかったのに、すぐに自分で抱え込んだ。ずっと繋いでいたエルの手が離れていたのには気づかなかった。頭の理解が追いつかなくて心臓がバクバクと鳴り響く。自分が今抱え込んでいるものは何か。赤く染まっていた。
ーーーー!
喉がはち切れるような叫び声が遠くで聞こえた。違う。自分が現実逃避をしていただけで、本当は隣にいる自分の兄弟が発していた。普段は達観して冷めていたスイだったが、この時はパニックに陥り、ただ目の前に転がった黒い頭を抱きしめることしかできなかった。
気づいた時、スイの周囲は真っ赤だった。公開処刑だけではない、エルの魔力暴走で周囲の人間を含む猫や犬などの様々な生き物が犠牲になっていた。スイが抱えている頭が、父であることを理解したのは、エルが暴走して近くにいた魔術師たちに取り押さえられてからだ。
「エル!」
赤い瞳から涙を流していた片割れに手を伸ばしたが、結界のようなもので弾かれた。関係者だと気づかれたスイは衛兵たちに取り押さえられかけた。スイはもし彼らに父親の頭を持っていかれたらきっと更に貶められるというのを彼らの態度から察して、全力で身体をねじらせたりして避けた。もう一度、走って連れていかれるエルに手を伸ばした。
「スイっ!」
エルも冷静になったらしく、スイに必死に手を伸ばすがあともう少しでというところで、届かなかった。
「っえっ…、る。」
届かなかったと絶望する時間すらなくて、スイの方も追手の手が伸びていた。寸でで躱して無我夢中で逃げた。血まみれで人の頭を持った子供をみて周囲は阿鼻叫喚だったが、スイの耳には届かなかった。
三日三晩眠らずに走り続け、力尽きて転けたのは家族3人で暮らしていた森だった。どうやって戻ってこれたのか全く分からない。だが、エルと2人で父親を迎えに行ったはずなのに、何故今自分は1人なのだろう。蹲ってひとしきり泣いた後、スイは腐り始めている父親の頭を持って、ふらふらとよろけながら家に向かった。父親が仕事に行って、エルが森に出かけている時、1人でいることも多かったが、その時には感じられなかった寂寥感で包まれていた。
家族3人で並んでいたベッドに1人で寝るのは辛くて、ベッドと壁の隙間にある小さな空間に縮こまって寝た。
「……助けて。」
スイが願った言葉は誰にも聞き届けられることはなかった。
ーーー
エルがいないスイは疲れ果てていた。スイが食べ物を得ようにも、1人で森を歩いても何も近寄ってこないからだ。人間を好んで食すタイプのモンスターですら逃げていく。逃げていく動物をなんとか全力で追いかけて捕まえてようやく少量の食糧を得た。そんなことをしていてもエルは戻ってこない。森に帰ってから1週間も経たず、森を出た。父親の頭は家の側に埋めて、大きな石で目印をつけたがいつ戻れるか分からない。
「ごめん、お父さん。行くよ、俺。」
靴がすり減っても元には戻らないし、服がボロボロになっても元には戻らない。傷ができてもすぐには治らないし、その傷は放っておくと化膿する。そんな当たり前のことが、エルが隣にいたことは当たり前じゃなかった。1人になって初めて、エルが本当に細やかなところに気を配っていたことに気づいた。あの時片割れの手を離さなければ、パニックになっていなければ、半身を失うことにならなかったのではないかと自問自答を繰り返す。
どこへ向かって歩いているのか分からない中声をかけられた。
「スイ!」
スイの名前を知っているのは、家族を抜かせばあの夫婦だけだった。
「…ドルクさん。」
「ああ、こんなにもボロボロで。何があったんだい。それに…、エルは。」
ボロボロになったスイのことを構わず抱きしめてくれた旦那さんにスイは思わず抱きついてわんわんと泣いた。旦那さんは、あの日王都で何が起こっているかを知っていた。
「私たちと共に暮らそう。」
この先に行く術もなかったスイには、渡りに船でにべもなく頷いた。騎士として生きる旦那さんとスイの相性は良かったが、旦那さんの老いていくスピードと自分の成長するスピードが合わないと実感したのは何年たったあたりだっただろうか。スイは養子としても誘われたが、それは困るだろうと断り、旦那さんの小姓として仕事をしながら剣の腕を磨いた。
「いやぁ、本当にスイは強いなぁ。」
「…全然。他に困り事があれば行くよ。」
領内のモンスター討伐もスイがいるだけで、王宮の強い戦士を呼ぶ必要なんて一切ない。
「A級モンスターのグレイヨンもあっという間だったね。」
「…俺はいつか王宮魔術師も五戦士も破るんだから当然。」
「1人で?」
「他の人を巻き込むつもりはない。」
「ジェニーが泣くよ。」
「何故?」
旦那さんの言うジェニーはこの家で働く12歳くらいのメイドだったが、彼女に何があったと言うんだと首を傾げる。
「ははっ、そういうところは朴念仁だなぁ、スイ。来てから6年経ったけど、まだまだ幼いなぁ。」
まだ10歳くらいの見た目のスイは、見た目と同様に人の恋模様なんてまだ知らない。
「なんの話をしているのか、俺には分かんない。」
「クールなのもいいけど、もう少し笑おう。」
「でも、分からない。何が面白いのか。」
「面白くなくてもいいのさ。笑顔は最大の武器なんだよ。」
そう言われて確かに旦那さんはいつも柔和な笑みを浮かべているのに気づいた。そして、その笑顔に絆されて、仕方ないと仕事をする人間も見て来た。
「スイ、本当の敵以外を敵にしちゃあだめなんだよ。」
「じゃあ、ドルクさんが俺のことを気に入っているのは嘘?」
「そんなはずないだろう!」
慌てる旦那さんにスイはあははと笑う。王都での顛末を知っておきながら、スイをそばに置いてくれる優しい人だったが、側にいられる時間は少しずつ無くなっていった。
「ジェニーが結婚して、仕事を辞めるって。」
12歳でメイドをしていた彼女がその5年後メイドをやめて結婚した。その時のスイは、まだ13歳程度の容姿をしていた。それこそ1番最初にあった10歳のジェニーはスイと同い年くらいだったのに、いつのまにか立派な大人になっていた。夫妻の側は温かく心地が良いが、頼ってばかりではいられない。近頃スイのせいで旦那さんが悪く言われているのを見てしまったのもあった。
「ドルクさん、俺出ていくよ。今までありがとう。」
「…フィリップに言われたことなら気にしなくていいんだ。君はきっと。」
「そろそろ俺も強くなったと思うから、エルを取り戻しにいくのに潮時だと思ったんだ。お世話になったから、ドルクさんには迷惑をかけられない。」
「気にしなくていいんだよ。」
「でも、俺がエルを取り戻して、全てのほとぼりが冷めたらまた会いにくる。エル頼りになってしまうけど、エルならこの恩も返せる。」
夫妻はスイが去るということを嘆き悲しんだ。もう10年近く一緒にいて、自分の子のように接してくれていた。
「貴方は少し歳を取るのがゆっくりなだけなのに。」
奥さんがなんとかスイを居させようとしたが、旦那さんがスイの背を押してくれた。
「我が子なら、そろそろ一度家を出る時なんだよ。もっと立派な人間になったら戻ってくるさ。なあ、スイ。ここが君のもう一つの実家だからね。」
スイはもう一度2人に感謝をして夫妻の家を出た。武器や多少の金子を渡してくれた寛大な2人だった。
危険なモンスターを倒したり、金を巻き上げている自警団を倒したりで、金を稼ぎ、少しずつ名前が一人歩きし始めた頃である。
スイはあの日以来初めて王都に来た。あの頃より土だった道も石が敷かれ、もっと整備されて綺麗な街になっていた。関所にはふたつの長い列ができていた。
「これがあの?」
スイが何気なく人が少ない方の列から関所を通ろうとすると、止められた。
「初めてならあっちの列で魔術式に登録してから来な。」
「登録?」
「何も知らねえのかい。最近王都には魔術式防御システムというのが導入されて、人の出入りには厳しくなったんだ。魔術式に登録しないと通れないんだよ。」
説明してくれた人に感謝してもう一度列を並びなおした時に、どうやら名前や血も登録しないといけないということに気づいた。名前は偽名で通っても、血なんて登録すればエルの血縁者だとバレること必至だ。それはまずい。
「あー、すっかり忘れてたけどもう登録してましたぁ!」
ヘラヘラして列から抜けて、関所から離れた城砦に背をもたれた。どこからか忍び込めないかと壁を睨みつけていると、それがどこか知っている気配を感じた。
「…エル?」
周囲を見てもエルはいない。壁の方を睨め付けると、そこからエルの気配がある。
「エルの魔力か、これ。」
10年も前、ずっと隣にいた片割れの力を間違えるわけなかった。スイがエルの真似事をして壁に手をつけて魔力を探る。エルほど得意なわけではないが、スイも僅かであれば分かるのだ。すると、エルの瞳と同じ真っ赤な結晶が姿を現した。
「…うーん、エルとして騙されねえかな。」
スイがそこからエルの魔力を感じて手を伸ばす。スイはエルと双子なのだ。兄と弟のように見えても、全く得意なことが違っても。本当は同一人物だったのが、1人の人間に収める容量を超えたから、2人にされたようなそんな感覚すらある。
スイがどうにか念じていると、突然小さな声が聞こえた。
ーーー認証、エル・ウォッカ
エルのような、しかし、エルにしては抑揚もなく人間みがない声だった。だが、スイは恐らく自分がエルとして誤魔化されたのだろうと、スイは壁をスイスイと登り簡単に王都に侵入することができた。
関所から見えた王都も大分発展していたが、中もまた見違えるように綺麗になっていた。街の中心には街灯(500年後にあるような鉄製ではない)があり、道にある露店もしっかりとした小屋が建てられている。ここだけ100年先だと言われても信じる気がする。
「あっちょっ、スリだ!そいつ捕まえてくれ!」
ここ一年で急激に治安が良くなったらしいとは言え、人間の心が存在する限り道を外す人間はいる。スイは反射的にその逃げていく少年を捕まえた。
「くっそ、離せぇ。」
「返すもの返したら話してやるよ。」
「なんだコイツ力強えええ。」
スイの14歳らしい華奢な少年の姿からは想像がつかないが、魔力のおかげでひとまわりふたまわり大きく暴れる人間すらも捕まえていられる。自分より幼い人間など赤子の手を捻るようなものだ。片手で抑えつつ、彼のポケットを探ればそれらしい袋が出てくる。
被害を訴えた青年が急いでやってくるとスイはそれを見せた。
「お兄さんの失くしものはこれか?」
「ああ、ありがとう。こら、これに懲りたらスリをやめるんだな。」
スイがそれを返すと、青年はそんなに怒った様子も見せず、少年を離してやるように言うので、スイもそれに従って彼の腕を離した。
「最近じゃ、憲兵に出したらすぐに町から出されるし、もう2度と王都に戻れなくなってしまうんだよ。全ての記録があの魔術式に残るからな。」
魔術式と言って青年が空を指差す。王都の中を守る物であるそうだが、まるで王都を監視しているようだと辟易した様子だった。
「ああそうだ。折角だし、茶でも出すよ。なんて言うんだ?」
「あー、スイ、スイ・アームストロング。あなたは?」
「名乗ってなかったな。俺はウェン。ウェン・ザ・スミス。王都で鍛冶屋を営んでいる。見たところ傭兵だろう。なら、贔屓にしてくれよ。」
「願ったり叶ったりだ。よろしく、ウェン。」
ウェンは王都は初めてだと言ったスイに町中を案内してくれた。
「あの大きな建物は。」
「あれは星の祈りの場だよ。星願所だ。」
「星の祈りの場。」
「預言者イカルアを知らないのか。」
「…いや、聞いたことはあるけど、そっか。」
「入ってみるか?」
ウェンの案内で聖堂に入ると、そこは今まで見てきたどんな建物よりも彫刻や絵画が施されていて、富を実感した。特に見事なのは、天井の一部が丸い形の青いガラスになってるところだ。ガラスから採光されキラキラといくつかの星が輝いていた。
「星の祈り…。」
そして、中央に黒髪の男性が描かれた絵画が壁にかけられていた。
「とっ…いや。」
その黒髪のまっすぐな髪を肩口まで伸ばしている男性は緻密なタッチで描かれていて、まるでそこに存在しているかのようだった。
「この人がイカルアと言われているんだよ。見事な絵だろう。」
そして、その男性に父親の面影があった。そっくりと言うほどでもないが、全体的な色合いや目の形にどこか既視感を抱くのだ。
「そんなに気に入ったのか、この絵。」
「…うん。すごく綺麗な絵だ。」
父親も自分の出自など2人に多くは語らなかった。スイはこの10年で森での生活がどれほど非常識的であったかを理解した。スイとエルの持つ特異性も。だから、絵の中にいる預言者イカルアが妙に頭に残った。
「えっ、宿まだ決めてないのか。」
星の祈りの場から出て、なんとやく世間話としてどこに泊まるのかとウェンが尋ねた時、スイは素直に決めていないと答えると大層驚かれた。
「それでよく関所を越えられたな。親戚もいないんだろ?」
「なんかてきとうに話してたらOKだったよ。」
「へえ。いいよ、これも何かの縁だし。俺の家に来いよ。」
「本当か、助かる。」
魔術式に登録できている時点で一定の身元は保証されているからなとウェンが言っていたのを、スイはやっぱりあの魔術式凄いなぁなどと暢気に話していた。
王都の中でも下町の町工場の並びにあるところがウェンの店だった。
「狭くて汚いけど、寛いでくれ。」
「助かるわ。…たくさん仕事残ってたんじゃないのか、これ。」
「いいよいいよ、皆そんな急いでねえから。」
「俺、力仕事は得意だ。なんか手伝えるものはないか?」
テーブルの上にいくつもの刃物が並んでいた。商品でも自分の道具でもなさそうなそれらは、やはり修理を頼まれたものたちらしい。
「大分刃こぼれしてるな、この剣。力任せに殴ってるんだろうなぁ。」
「お、武器には詳しいか。」
「ん、父さんが武器には魂が宿るから手入れは怠るなってよく言ってた。下宿先でも上手いって褒められたもんだよ。」
その話を聞いてウェンは不思議そうに首を傾げた。
「スイの父親は騎士だったのか?」
「んー、多分。でも、ほとんど分からないまま死んだから。」
「そうだったのか。無遠慮だったな。」
「いいよ。父さんも覚悟はしていたんだろうし。」
本当はそうではなかっただろうけれどと心の中で文句を言う。
スイは水を汲んだり、鉄や鋼を運んだりとウェンを精力的に手伝うとウェンはずっとここにいてもいいと軽口を叩いた。
「去年親父を亡くしてから、いろいろ大変だったけど、今日はスイのおかげで久しぶりに捗った。そういえば王都に来た目的はなんだったんだ。」
「俺が7歳ぐらいの時、ここで弟と生き別れて、探しに来たんだ。」
「それは災難だな。まだ王都にいるといいな。」
それが10年以上前だとはウェンも思ってはいないだろう。
「それなら、ここで働きながら、弟を探せばいいさ。」
「本当か?助かる。」
軽い気持ちでウェンはスイに提案したが、仮にも小姓として10年程度働いていたスイの働きにウェンは非常に満足していた。勿論スイの穏やかな気性も気に入っていた。
「スイはどこかの貴族の家の出か?」
「貴族がこんな名前つけないだろ。でも、偶然行き場を無くした時に、貴族の家に拾われて仕事をもらったんだよ。」
「ああ、なるほど。傭兵というには仕事が丁寧で穏やかだと思ったんだ。」
スイの名前が様々な文化が混ざる大国ルーグでも珍しい名前なのはよく知っていた。だから、旦那さんが揶揄われないようにとスイにミドルネームをつけようとした。スイは何となく嫌で断ってしまったが。
ウェンはスイの説明に大体納得したようで、それ以上深く詮索することはなかった。
ウェンの仕事を手伝いながら、スイは王宮の侵入を考えていた。王宮に張られている魔術式の結界ならば、街に侵入したときと同じようにすれば入れるはずだ。しかし、その後王宮の中が何も分からないまま侵入するのは避けたい。
「あ、お姉さん、落としましたよ。」
スイはニコリと微笑み、前を通り過ぎた女性にリボンを渡した。
「あら、落ちてしまったのね。ありがとう。」
「いいえー。」
スイはすぐに立ち去り、仕事に戻った。スイの下町にある鍛冶屋に来るのは主に同じ下町にある別の町工場だったり、近所に住む人間ばかりだ。
「おい、まだ出来ねえのか!」
その中には荒々しい人間もいる。特にウェンが継いだばかりで、舐めてかかっているよう年上の人間だ。ウェンはあははと苦笑いして謝るから、スイが代わるのだった。
「昨日、明後日っていったよな、俺。ちゃーんとこっちはメモ取ってるんだよ。余程物覚えが悪いか、店が暇なんだろうな。」
「舐めた口聞きやがって!」
「はーい、仕事の邪魔だからはぁ。」
スイが無理やり引っ張って追い出す。スイよりは体格が良かったから大口叩いたのだろうけども、スイが簡単に制圧すると萎縮したように去っていった。
「ありがとう、スイ。」
「いいよ、あんなのは客じゃないよ。どうせちゃんと仕事しても有る事無い事文句言って値切るに違いないしさ。真剣に取り合うのは労力に見合わない。」
「それもそうだけど、ちゃんと対応とか記録に残してくれて助かる。俺は字が読めないからな。」
王都でも識字率は30%もいかない。スイが字を読めて書けるのは、父親やエルのおかげだった。スイを拾った騎士の旦那さんもスイが字を読んだり書いたりすることに支障がないことに驚いた。あの辺りの地域は領主の家族しか知らなかったからだ。
「俺でよければ教えるよ。同僚のメイドのジェニーだって俺が教えた実績があるよ。」
エルがスイに文字を教えたようにジェニーに教えればジェニーはするすると読めるようになったし書けるようになった。
「ありがたいが、年高の俺が読めるようになるかぁ。」
「それはウェン次第かなぁ。」
「おじさんを揶揄わないでくれ。」
スイの本当に重ねてきた年齢とそう変わらないウェンは、この時代としては青年というよりは壮年という年だった。ウェンは顔立ちが若く見えるから少しややこしいが。
「一回で覚えなくていいんだし、分からなくなるたびに教えるから、いつかは覚えるよ、お兄さん。」
スイが王都に滞在して半年が経過する頃には、ウェンも仕事に使う言葉はほとんどが書けるようになった。スイも怪しまれないために少しずつ得た王宮の情報で王宮に乗り込む算段をつけ始めていた。
「スイ、今日も外でご飯なのね?」
「そういうエリーゼもここ最近はずっとここに来ているよね。」
「ええ、王宮の外も面白いなと思ったの。」
「そうかなぁ、王都民は王宮の方が謎だ。そっちの方が何かありそうだけど。こないだのお菓子の取り違え騒動も面白かったし。」
「聞いている分にはね、でも、本当に大変だったのよ。またグィネヴィアったらミスをして。」
エリーゼはスイがリボンを拾ったあの女性で、王宮で仕事をしている女中だ。スイの見た目からは少し年上、実年齢からは10歳近く若い女性だ。仕事は嫌いではないけれども、愚痴はたくさん出てくるらしい。ほとんど必要のない話ではあるが、それでもスイが王宮の中を知る数少ない手がかりだ。幸いスイは人の話をただ聞くのは嫌いではないから、毎回エリーゼの話を静かに頷いて聞いている。そんなスイをエリーゼは甚く気に入っていて、会えば毎回こうして声をかけてきて、最近はどんなに短い時間でもスイを探して声をかけてくるのだ。
「聞いたよ、スイ。良い相手がいるんだって?」
「そんな相手いないよ。そういうウェンこそ、ジェニファーとの話はどうなったのさ。」
エリーゼの他にだってスイは幾らか情報源として話をしている人がいる。エリーゼの身分的に怪しまれないために人がいるところで言葉を交わしていたのが、却って邪推を生んでいるらしい。
「そら、落ち着いたらだよ。」
所謂ジェニファーという女性はウェンの婚約者ではあるらしいが、父親の葬儀やら溜まった仕事やらで1年以上約束よりも期限がすぎているようだ。
「俺がこんなにも手伝ったんだから、大分落ち着いてきたよね?」
「う…。そうだなぁ…。最近何故か俺がお前を囲ったなんて一部で悍ましい噂も立っているみたいだしなぁ。」
「ああ、それでエリーゼのことか。俺が力技で追い出した連中のせいか?でも、さっさとジェニファーとウェンが結婚したら終息するじゃん。」
「……ジェニファーがその噂を1番間に受けていて。」
「それでその赤い頬だったんだ。」
恐らく女性の力で叩かれただろう頬をスイは気を遣って何も言わなかったけれど、ウェンの方から詳細を語ってくれた。
「じゃあ、俺がジェニファーに話してくるよ。メッセンジャーもページの時にたくさん仕事したから任せてくれ。」
「更に誤解を招きそうなんだが…。」
ウェンが引き留めるよりも早くスイは鍛冶屋を出て、3ブロック先の家に出かけた。ジェニファーの家は肉屋だった。
「やあ、ミス・バッチャー。ごきげんよう。」
店番をしていたジェニファーは、仇を見るような目でスイを睨む。
「そんな目で見ないでください。僕はウェン・ザ・スミスの伝言をあなたに連絡しようとしたんです。」
「へーえ?あなたが私に?」
スイは少し演劇めいたまま、恭しく頭を下げて伝えた。
「『あなたを愛しています。他に全く女性の噂がなかったのは、昔からただあなただけを愛していたからです。どうか信じて欲しい。』」
勿論そんなことをウェンはスイに頼んでいないけれども、スイは旦那さんのところで、些細な心の機微を読むことを鍛えた自負があった。
「それから、これは僕から。そろそろ時期が来たからウェンのところから出て行こうと思う。だから、コブツキだなんて思わないで。では、お仕事中におじゃましました。」
スイはニコリと笑って踵を返した。
他人がどう生きようとスイにはどうでも良いのだが、父親代わりをしてくれた貴族の旦那さんから自分が生きやすくなる方法を叩き込まれた。もうあんなパニックになって本当に大切なものをすり抜けさせないと誓ったから、旦那さんの教えは忠実に守るのだ。
衛士の交代のタイミングは完全に記憶した。それでも魔術師に関する情報が著しく欠けている。魔術師の部屋付き女中も従僕もいないのか、魔術師の生活だけが謎だった。皆がエルのように自分のことは自分で完結してしまうのだろうか。エルを連れ去られてからは、魔術師と対峙したことがないから、懸念材料はそこだった。
「魔法の発動よりも先に叩っ切るしかないか。」
ウェンにも出ていくことを告げないとなと考えていると、王宮の方から大きな爆発音が轟いた。人通りが少なかった道だったのに、様々な建物の中からなんだなんだと顔を出した。
「なんかの魔術師の魔法の失敗か?」
「はやぁ、こえー魔法作ってんのかなぁ。」
そう呑気に話しているのは、高齢者のお爺さんやお婆さんだ。
しかし、スイには天啓のようにそれは違うと思った。その音はスイにとっては禍々しくて、何故か人々の嘆きに聞こえ、すぐさま向かわなければならないと強く思った。
スイは人の間を縫って、堀を越え王宮の塀を楽々と登る。元々スイが集めた情報から衛士の守りが薄いところを狙ってはいたが、幸運にも再び王宮で爆発音が上がったおかげで衛士の意識が一瞬内部に向かったため、全く気づかれなかった。
王宮の中に入ると、そこからの侵入は容易なものだった。王宮内がパニックになっているからだ。
スイは1人の近衛兵に奇襲し、衣服と武器を奪う。後はもうなるようになれとスイはその胸騒ぎがする方向へと向かった。
「ば、バケモノめ!」
聞こえたその音は、馬鹿にするような色はなく、ただ畏怖し死を悟ったような怯え声だった。そして、その後は何も続いてこなかった。理由は簡単だ。既に彼は死んでいたからだ。
例えば地獄が存在したとして、これほど冒涜的ではないだろう。あちこちに人間の「部品」が落ち、血液、分泌物や吐瀉物などのあらゆる内容物が撒き散らされていた。原型などほとんど留めていないが老若男女関係なく、ただ殺されているようだ。その悲惨な最期にスイは哀れに思いながら、その先にいる彼を迎えにいく。
疑いようもなく、その悍ましい世界を生み出しているのは自分の弟であるエル・ウォッカだ。その全ての生き物に対して慈悲深く愛していた彼の瞳には、何も映って無かった。
「このっ!」
エルを止めるべく立ちはだかった勇敢な魔術師が何かの魔術式を発動するよりも早くエルの魔術の方が早かった。彼の体に浮かび上がるように魔術式が付与されるとそこから、百足のような足が出てくる。この世界を、人間を全て恨んでいるのだろうか。その魔術師を栄養にして食い破って怪物は生まれた。
「う、あ、うわぁぁ。」
とても残酷なことに、彼は即死ではなく自分の大半が虫に奪われても生きていた。
「あ、ああ、あああ!」
正気を失って狂いながら死んでいった。どれほどの人間が殺されてもスイにはどうでも良かったが、彼らが死んでいくたびにエルという存在が消えていってしまう気がした。
「エル!」
先ほど生まれたばかりの虫がエルの周りに這う。百足のような胴体に、カバのように大きな口を持ち、そして人の腕のようなものが生えている。スイは王都に来るまで様々なモンスターを倒してきたけれどもこれほど悍ましく、汚ならしい生物は見たことがない。スイは初めて生きている生物に心の底から同情し、一刀両断した。暫くその虫は痙攣していたが、数秒も経たずに死亡した。
「エル。」
スイと認識していたのか分からないが、来るもの問わず攻撃していたエルだったが、スイには何一つ魔術も魔法も悍ましい生物も襲いかかってこなかった。
「エル。」
スイの方を向いてなかったエルの肩を掴むと無理やり自分の方へ向けさせ、頬を包み込んだ。
「エル、俺だよ。忘れてしまったのか?」
エルの空虚な双眸が、ゆっくりとスイを捉え、小さくスイと唇が形を作った、
「迎えに来た。遅くなって悪かった。なあ、エル?」
エルの指が恐る恐るスイの手に触れる。
「もう大丈夫。大丈夫だから。」
エルの瞳にスイがはっきりと映し出されると、エルに正気が戻った。現実に帰ったエルは周囲の地獄に息を呑み己の行為に気づいたらしかった。
「あ…あああ、ああ、ぼ、く。」
「大丈夫だ、エル。」
人一倍優しいエルにはそれが許せないだろう。
「これからはずっと一緒だ。」
「……に、さん。」
エルの暴走が止まると、これ幸いと王国の近衛や魔術師たちがわらわらと集まり始めた。先ほどまでは無慈悲に殺し続けたエルだが、後退った。
「エル、これは俺たちの自由のために必要な犠牲だ。」
「う、うん。」
それでも、正気を失ってただがむしゃらに力を使っていたエルは酷く疲労しており、フラフラとしていた。
「エル、離れるなよ。」
「…いっかい、魔術…つかう。」
最後に力を振り絞ってエルは魔術式を展開した。城全体へと波紋のように広がるそれによって、護衛たちや魔術師たちは動きを止めた。スイはすぐに状況を理解してエルを背負うと逃げ出した。王宮をでたところで動きを止めた魔術が途切れて、城の外にいた衛士たちが侵入者と逃亡者を追いかける。騒ぎを聞きつけた住人が王宮の周りに野次馬の如く集まっていたが、スイは人混みをかき分け進む。それから、待てと大声をあげて追いかける衛士たちは住人たちが慌てて避けるために少しずつ左が埋まる。撒くために少しずつ複雑な下町の方に逃げる。ウェンを巻き込む気はないが、その方がスイに地の利がある。
「おい。」
スイは路地裏に引き込まれた。その引っ張ってきた姿を確認して驚いて口を閉ざした。その後、暫くして何人かの追手がやってきた。
「おい、ここら辺で子供2人見てないか?」
「見たよ、あっちのカーター女将の下宿屋方面に逃げていった。」
「くそっやっぱりあっちか。」
王都のカーター女将の下宿屋は“辿り着けない”ことで有名で、下町の人間が無法に町中を改築した結果、道らしき道を通っては辿りつかない。だから、衛士たちはその男の言葉を聞いて何一つ疑わず走って行った。
「…ウェン。」
「おいおい、親方に退職を言わずに出て行く徒弟がいるか?」
「それは悪かったと思ってるよ。」
「まあ、冗談だ。これで茶くらい飲めるだろ。」
スイはともかくエルは疲労困憊のため、ウェンの厚意に甘えることにした。入り組んだ路地を慣れた様子でウェンは入っていき、鍛冶屋の店の裏口から上がる。
「ずっと弟を探しているとは聞いていたけど、まさか王国魔術師をやってたなんてな。」
ウェンはお茶を2人に出し、甘味をエルの前に置いた。エルはびくりと怯えて、スイの背に隠れてウェンを見る。
「こんな小さいのに立派なマントだ。」
色々あった筈だが、傷も汚れも何一つない真っ白なマントを見る。マントは王国の花である睡蓮を模った意匠の紋章や、宝石、金糸で施された刺繍があり、素人目に見てもとても位の高い人間が着る服だと分かる。
「あ…う、ん。名前だけ、だよ。」
「ウェン、悪い。少し寝かせてやってもいいか?」
「勿論。」
おぼつかない様子のエルを見てスイは自分にエルを寄りかからせて眠るように誘導した。警戒していたものの、久しぶりの兄弟の温もりに少しずつ安心したのか目を閉じた。
「……ウェンは人がよすぎるよ。」
「そんなことはないさ。スイには世話になったし、給料も全然払えてないのにな。」
「住む場所とご飯をくれてたので十分だよ。何か聞いたりしないのか?」
「そうか?何を聞いていいのか全く分からねえけどな。王国魔術師を辞めたいと思った理由くらいか?素人からしたら雲の上の存在過ぎるから。」
「…それは、うーん。俺も知らないよ。ただ俺たちは別に貴族じゃない。“偶々”弟が魔法を使えることを知られてしまって捕まったんだよ。それ以降俺も知らない。でも、今日なにかがあったのは確かだ。」
「あの騒ぎはスイの弟が?」
「そう。説明しがたいけど、エルの魔力だと気づいた俺は何かがあったと思って中に侵入して弟を連れ出したんだ。」
「なるほど、漸く諸々合点がいったよ。だから、ミス・ターナーか。」
「ウェンもずっとエリーゼとの仲を疑ってたんだな。」
「いや、珍しくスイが人に興味を持ったなと思ったんだ。」
「隠せているつもりだったけど、バレバレだったんだなぁ。」
旦那さんに言われて、他者に興味を持たないということを隠していたつもりだったが、本物の人好きであるウェンにはバレバレだったらしい。
「バレバレっていうか。どんな人間に対しても同じ態度過ぎたのが疑問だっただけだ。」
「そう言われても分からないなぁ。デイビスとミス・バッチャーに対する態度は変えたつもりだった。」
「そりゃあ向こうの立場や物言いで、言い方は変わるだろうさ。でも、なんだろうな。スタンスが変わらないというのが正しいか。ま、おじさんの力だから、気にするな。」
見た目はともかく中身はほとんど同い年であるスイはじいっとウェンを見たが、きっとただ人のことをよく見ている人なんだと片付ける。
「これからどうするんだ。」
「王都からは出て行くよ。」
「そうだよなぁ。寂しくなる。」
「ミス・バッチャー…、ミセス・スミスがいるだろ。」
「そりゃ、お前…そうだけどさ。」
スイがエルの元に行った後どうやら2人の間でも進展があったようで、頬をかきながらもジェニファーとの仲を否定しなかった。
「…もしこの王時戻ってくる時があったら声をかけろよ。」
「その頃にはきっとウェンの孫がいる頃かもなぁ。」
「それでも、会えるなら構わないさ。スイも少し寝て、朝が明ける前に出ていけばいい。」
「…話が通り過ぎて怖いよ。」
「君の弟の立場が分からないけど、王国魔術師が恐ろしいって言うのはよく聞く話だからな。」
「俺は中々そんな話集められなかった。恐ろしいくらいに情報が出てこなかったんだよ。」
「王都民以外に話すことすら憚られるから、皆言わなかったんだろうさ。ここ数年はなかったけど、王国による子供狩りというのが王都では行われていたんだ。ブルネットじゃないスイの弟が生き別れたと聞いてその時点でそれかと思ったよ。」
「子供狩り…。」
ウェンが簡単に話した内容は、ブルネットでも魔法が使えそうな素養が見えたら連れていくらしいが、ブルネット以外の子供は容赦なく王国魔術師たちに連れ去さられ、2度と王宮の魔術師塔から出てくることはないという話で、昔はよく王宮の魔術塔から女子供の悲鳴が聞こえるのは常だったなんて言う。
「それは俺が子供の頃の話で、近頃はそんなことないと思ってたんだけどな。」
ルーグ王国の名誉として補足すると、当時周辺国を含めてこの地域は野蛮ではあった。子供や妻の躾に鞭を使うというのがごく普通のこととして認識されていた。だからというのも、500年後の未来からするとおかしな話だが、悲鳴が常だったというのは恐ろしいと言う認識はあれど、大きな問題とは思われてもいなかった。
しかし、ということはだ。ウェンは最初からそれを認識しながらも、王都の魔術師に敵対するかもしれないスイのことを快く受け入れてくれていたのだ。
「俺は人に恵まれているな。」
あの騎士の夫妻もウェンもスイに対して優しかった。スイが感謝していると、ウェンはははと笑って、スイを労った。
「さあ、もう時間が少ないが寝な。」
眠れないと思ったスイだったが、色々あって疲れていたところにウェンの優しさに安心したのか瞳を閉じたらすぐに眠れた。
ーーー
日が昇る少し前にスイは目が覚め、スイが身じろいだために、エルも目を開いた。スイの上にも毛布がかかっていた。2人ともぼんやりとしていたところに静かに焦ったような足音がする。
「スイに、弟くんも起きたか。もう少し寝かせてやろうかと思ったけど、衛士が2人を探しているみたいなんだ。こんな時間にパンを焼いても怪しまれるから、ポリッジで悪いが。」
「まさかずっと起きててくれたのか。」
ウェンは答えなかったが、今さっき起きたような様子ではなかった。2人はかきこむようにポリッジを食べて家を出る準備をした。
「さあ、早く行け。」
ウェンが2人の方をポンと叩いた。ずっとビクビクとしていたエルだったが、マントについた1つの王国の衣装施されたカフリンクスを取るとウェンの手に置いた。
「ありがとう、貴方や貴方の家族の末代まで幸福でありますように。」
カフリンクスが一瞬光り、エルはウェンに握り込ませた。
「そんな、貰えないよ。」
「ううん、それは目印。」
「なるほど、王都からいなくなったとしてもこれで会えるわけだな。」
「ん。」
「ああ、分かった。再び会った時には返すから、ちゃんと会いに来い。」
そうして、長いスイの人生の中ではたった半年、エルにはたった1日だけしか会っていない友人に感謝をしてその家を出て行った。
そして、二度とウェン・ザ・スミスと出会うことはなかった。
ーーー
スイとともにアンジュはその暗い泉に来ていた。水平線を見渡す限り、水しかない。泉は全く深くもなく、アンジュの膝までしかなかった。そして、頭上には無数の星が輝いていて、その暗い泉は星たちを鏡のように写していた。まるで現実の世界からは程遠い。
そうそこは、
「星の泉。」
「長い間離れていたのに、前にここに来たのは昨日だった気がするな。」
王国魔術師たちがこぞって欲しがっている、全ての願いが叶うと言う魔法の泉、星の泉だ。アンジュはこの場所が嫌いだった。
「…こんなものが存在したから、僕たちは。」
アンジュは少しずつエルのことを思い出していたし、元に戻るということがより怖くなった。
「…ねえ、兄さん。」
「エルは星の泉についてなんか知っているのか?元は母さんが《使い手》だったのはなんとなく分かっているけど。」
「…きっとね。」
朧げな知識で伝えることは難しかったが、来て確かだと思うことがある。
「…俺、いや、僕は最低だ。僕たちが入れ替わったのは僕のせいだ。ここに逃げたあの日、僕は兄さんのようになりたいと願ってしまった。そして、普通の人間のように歳をとりたいと。」
普通だったら思うだけで叶わぬ夢。しかし、星の泉はただ叶えてしまった。力無く蹲るように泉に浸かり、謝ろうとしたがスイは止めた。
「エルが昔言ったように星の泉の《使い手》は俺たち2人なんだ。エルだけじゃない。俺はエルが可哀そうに思って、代わってやりたいって、理解してやりたいって思ったよ。ただ俺が弱くてエルが耐えていた悲しみに押しつぶされてしまっただけだ。」
「でも。」
「エル、お前はよく頑張ったんだよ。だから、もう責めるな。」
スイがアンジュの頬に手を当て、微笑んだ。
「きっと俺が持たなきゃ行けない分の悲しみや苦しみの感情をエルが持っていてくれたんだよ。」
スイは優しく告げる。
王都からなんとか逃げ失せて、西の町(後のサンセット・ブリッジ)で隠れながら滞在していたが、それでも、3ヶ月持たなかった。漸く西の町に馴染めたところのことだった。逃げきれないと悟った2人は、かつて母から聞いたことがあった伝説の“星の泉”に頼って橋の欄干から落ちた。星の泉は全ての者の願いは叶えず、使用者を選ぶ。それがナイの妻であり、双子の母テミスだった。星の泉を利用してこの地に来たテミスがナイと恋に落ち、しかし、星の泉を乱用したとして元の世界に戻されたらしい。らしいと言うのはスイやエルもどこまでが事実で伝説かが分かっていないからだった。
スイが本当に心の底からエルを大切に思っていて、全く責める余地がないと知っていてもアンジュには納得ができなかったけれど、もう言わなかった。
「ううん、元に戻ろう。」
「ああ、そうだな。」
アンジュはスイに手を伸ばすとスイは嬉しそうに笑って握り返した。エルにとってずっとスイは大きな人間だった。しかし、今手に取るスイの手は幼い。幼い体の自分と入れ替わったのだから当然なのに、ショックだった。目を閉じてただ元に戻るようにと願い瞳を閉じた。頭上の星は燦然と輝き、暗い湖面から蛍のように光が舞った。ゆらりゆらりと光るそれらはまるで人の魂のように見える。
どれだけの時間が経過したのか分からないがふと目を開いた時には“よく知っている”スイの顔があった。
「…スイ。」
「エル。またちゃんと会えたな。」
アンジュではない、優しくもぼやけずはっきりと笑うスイに、エルは抱きついた。
「ごめんなさい。」
「なんで謝る?」
「…お父さんが処刑された原因は僕にあったんだよ。500年前は言い出せなかった。」
アンジュは、幼いエルの体を一度自分で抱きしめて告げた。
「僕がお父さんの服や靴を綺麗に直したり、怪我を治していたから、可笑しいと悪評がたって。」
「父さんも自分が神獣の子だと分かっていただろう。そんなの誤魔化すことくらいは慣れているはずだよ。」
「僕がかけた魔法があったんだよ。僕は無意識だったけど、お父さんに嫌がらせした人に発動する魔法が。元々身分不詳の成り上がりだった父さんが五戦士と呼ばれる地位にいると言うことで嫉妬されていたのも相まって。」
「エル、エルには大事なのかもしれないけど、俺にはどうでもいいよ。」
「でも。」
「父さんが人間たちによって殺されたのは悲しい。エルが連れ去られたのは腹立たしい。それから、再びエルに会えて嬉しい。頭の良いエルは信じられないのかもしれないけど、俺はこれくらいしか感じてないんだよ。」
スイがエルの頭を抱きしめて言う。
「生きててくれてありがとう。」
「うん。」
スイもエルが罰されたいという気持ちがあるのは分かっていた。それでも、スイはそれを叶えてやれなかった。どんなに他人が苦しんだとしても気にしなくても、エルが苦しんでいるのは苦しい。500年前はそれが何故か理解できなかったが、スイも自身が神獣の血筋だと気づいた時にその理由がわかった。世界がスイとエルを一対として作り、スイには最低限の感情しか用意されず、エルを通して理解できるようにしているからだと。
「…兄さん。」
「何?」
「先に王国軍に戻って説明してきてほしい。僕はもう少し感情の整理をしないと厳しくて。」
「本当に戻るのか。」
「兄さんにもアンジュの記憶が残ってるだろ。」
「そうだね。今はアンジュがミルフィーやリーラのために働いているのは俺も“知ってる”。それに、五星士たちにはちゃんと説明したいって言う心も分かるよ。」
エルの体にいた時は、酷く腹立たしく思った王国軍だったが、スイは自分の体に戻ると五星士は大切に思えた。
「兄さん、探しにきてくれてありがとう。」
「当たり前。」
結局助力を貰った騎士の夫婦にもウェンにも再会することは叶わなかったが、スイにはエルを取り戻すことができただけで重畳だと繰り返す。
「面倒くさいことを任せてごめんなさい。」
「このくらい平気だよ。メッセンジャーの仕事に慣れてるからな。」
そして、スイは星が輝く泉から姿を消した。




