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星の泉  作者: 詩穂
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9話 黒髪のあの人①

軍に来て1ヶ月半、アンジュが漸く五星士ということの意味と、仕事を理解した頃だ。相変わらず王都は煙に包まれていて、アンジュも変わらず煙の先に想いを馳せるのみである。

 そして最初こそ騒がれていたクルルの存在も、1週間も経てばアンジュの頭の上にいるのに、殆どの兵が慣れていた。

 鍛錬の合間に休憩と親睦を兼ねて、ルジェロ以外の五星士は談話室でンヴェネが口にした話題に耳を傾けた。


「留学?」

「そう、モンスター討伐に関しては世界最高の兵士が俺たちだから、友好国からたまにそういうひとが来るんだよ。」


 ウィルの説明を横で聞いていたンヴェネがニヤニヤと口を挟んだ。


「今回はイザヨイちゃんでしょ。数年に1回はそれで来ているし、ちょくちょく姫様の護衛でも来てるから、最早『友達』だよね、ウィルは。」


 そのンヴェネとウィルのやりとりに、そのイザヨイという人がどういう存在なのかをすっとアンジュは理解した。


「ああ、ウィルが好きな人。」 

「いつもポヤーとしてる癖に、なんでそういうとこだけ察するのが早いんだよ!」


 悔しそうにだんだんとウィルは机を叩く。


「ウィリーが分かりやすいんだよ。そんなことないって否定しないところが可愛いよねー。」

「ふふ、たしかに。」


 アンジュの隣に座るルサリィも珍しくンヴェネに同調して微笑ましそうにウィルを見る。


「この、生暖かい空間…!アンのせいだぞ。」

「どういたしまして。」

「感謝してねえ!『おかげで』じゃなくて、『せいで』分かってる?」

「分かってるよ。ジョークだ。」

「分かりにくいんだよ!アンの場合!」


 2人のやりとりに注がれるのはやはり生暖かい目で。


「随分仲良くなったわねぇ。」

「最初からこんなもんだろ。」


 頬を膨らませたウィルはビールでも飲むが如く、ンヴェネが淹れた美味しいコーヒーをヤケになって飲む。


「香りを楽しめ、ウィリー。」


 ウィルの様子に苦笑しつつ、ルサリィはボソリと呟いた、


「…そろそろ、イザヨイも結婚とか考えるのかしら。」


 イザヨイの国ミズホでも、女性の結婚は10代後半からとなっているらしく、イザヨイも20になったばかりで色々とそういう事情もあるだろう。そのことを聞いたウィルの耳がピクリと反応した。


「…結婚。」

「イザヨイちゃん、僕たちと違ってむこうの貴族階級出身だしあるんじゃない?」

「イザヨイは貴族じゃなくて、騎士だってば。」

「それでも支配者層じゃん。貴族とは言ってないよ、貴族階級つったの。」


 アンジュがその話になかなかついていけなかったが、簡単に言ってしまうと身分違いの恋らしい。更に住む国も文化も大きく異なるーー


「大恋愛だな。」

「やめろ!」


 アンジュのそれがトドメの一言になり、彼は机に突っ伏した。


「…だから、友達なんだよ。」

「あ、ああ。」


 身分違い、国違い。それ以外にも様々な障壁がある。


「…前にも言ったけど、俺は両親が大好きだ。父さんは足も悪いし、俺が大黒柱なんだ。他に頼りもない。だから、あっちの国に行くということはどうしてもできないし、じゃあ、この国に来いなんて無責任なことは言えない。たしかに彼女はこの国の言葉こそ達者だ。でも、全然文化が違うんだよ。しかも、俺はいつ死ぬかもわからない仕事している。そんな俺がこの国に来てなんて言えるはずない。」


 アンジュが思った以上に深い問題だった。


「…お、お疲れ様。」


 的外れの慰労しかできない。ルサリィとンヴェネも、恋に生きろ!なんて無責任なことは言えることなく、ただ突っ伏す彼の肩を叩くのみだ。


「ルサリィはどうだった。今まで何度か付き合った男がいたじゃん。」

「大体軍をやめてくれって懇願されて1年も持たずに別れることばかりだったわ。」

「まじかよ、最低じゃん。ルサリィも辞められないってのをみんな知らねえのか。」


 この国では職業婦人というのもあまり多くはないし、結婚後、女性は家庭に入るというのがこの国の文化だった。


「しかも、基本的にルサリィの方が金持ちだからね。だから、僕と付き合ったら万事解決じゃん。」

「なにが?」


 解決するのだろうと興味本位で聞いたアンジュの頭をポカンとンヴェネは殴る。


「新入りくーん?」

「アンは偶にいらないこと突っ込むよなぁ。」

「…そのルサリィのほうが金持ちだと〜とことが良くわかんなかった。」

「新入りくんは何を知っていて、何が分からないのかが良くわかんないなぁ。一般化してしまうけど、男性の多くが女性より少しでも多く稼ぎたいって思うものらしいよ?」

「何で?」

「僕に聞かれてもなぁ。僕も気にしないわけだし、ウィルだってそうだろ…ていうか事実そうだよね。」

「姫様護衛しているイザヨイの方が高給取りだ、とは思う。給料なんて聞いたことないけど。」


 人々の話題は恋に行きがちなのは世の常で、今一番ホットな話題がウィルなせいか、話を曲げても絶対に彼女の話に戻るので、少しかわいそうに思った。


「軍人がアホらしい。」


 いつのまにか談話室に来ていたルジェロが、通りがけにボソリとつぶやいた。いつもは仕方ないと見過ごしているンヴェネが、苦言を呈した。


「僕らだってチームだからね。いつ死ぬかも知らないと言う職場で、仲の悪い同僚の隣では死にたくないだろ。」


 ンヴェネの発言を聞いたアンジュは妙に1人で納得していた。それに気づいていたのはルサリィだけだった。


「…俺は、死ぬつもりはない。」

「なーに言ってるんだ。いつも生き急いでいる癖に。」


 ルジェロは飲み物を取りに来ただけのようだったが、ンヴェネに首根っこ掴まれてしまった。


「そーいや、ルジェも新入りくんに武器強化してもらったんでしょー。どんな感じよ。」

「問題ない。」

「…あ、そ。」


 無愛想男のこの表現は、恐らく最大級の褒め言葉に違いない。しかし、アンジュは文字通り「問題ない」と受け取り、それに「なら良かった」と返す。それがルジェロの眉を更に皺を深くした。


『ねぇねぇ、魔導武器ってどんなの、アンジュ。』


 アンジュの頭の上で休んでいたクルルは魔導武器というものに興味を持ったらしく、普段はなかなか話そうとしないのに5人全員に聴こえるように話す。


「武器に魔術式と魔力結晶を組み合わせて魔法のような力を引き出すって、確か言ってた。」

『魔力結晶?』

「昔死んだ生物の魔力が固形化したものみたい。」

『へえ、アンジュ物知りになったねぇ。』


 クルルは偉い偉いと幼子に対するように褒める。子供扱いが過ぎるのではと周囲は思わないでもないが、本人は嬉しそうだから何も言わない。


「見せてやったら、ルジェ。今腰に下げてるんだからさ。」

「なんで俺が。」

「あの鳥さん、神獣だよ。難なく王都の魔術式防御システムを潜り抜けた神様よ?」


 ウィルの相棒である戦斧はここにはないし、神獣が魔導武器に興味を持っていると意味を理解したルジェロは渋々自分の剣をアンジュの方へ放り投げた。


「…わかったよ。」

『おおー、氷の魔術式だ。魔導武器はまた複雑な魔術式を描くんだね。どんどん人間の知識は賢くなるなぁ。』


 神獣はしげしげと武器を眺めた。それから、またどこか悲しげだった。


『この死んだ生物の魔力が脈動しているっていうのが不思議。』

「あ、それは俺がルジェロの魔力とリンクさせたヤツで、元は動かないよ。」

『あー、なるほど。』


 魔力というエネルギーを感じ取れる彼らにとっては、簡単な話らしい。ウィルには次元の超えた会話に聞こえるが。


「こういうの聞いていると、技術部に新入りくん異動した方が役に立ちそうだけど。」

「多分何も思いつかないから無理。」

『アンジュはいつも思いつきで使ってるから、火をつける魔法も毎回バラバラの構成しているしね。』


 いくら王国軍が魔術部隊を嫌っているとはいえ、こうして魔術や魔法に詳しいものがいない五星士では中途半端になってしまうのではないかと懸念して、技術部などと提案したンヴェネだったが、2人によって否定された。


「おい、用が済んだなら返せ。」


 ルジェロはこの場にいるのが苦痛で、早くと足を鳴らす。


「元は王国軍の支給品なのに。とはいえ、新入りくん、剣はルジェのおしゃぶりみたいなもんだから神さん気が済んだのなら返してやって。」


 アンジュはクルルに気が済んだかと了承を取ると、魔法で瞬時にルジェロの腰の剣帯に返してやる。


「本当新入りくんは惜しみなく魔法を使うね。」

「え…?」


 とは言われて、そうだったかと自分を振り返る。村にいたときは、良くしてくれている村人以外には、なるべく魔法が使えることをばれないようにしてた。2年前ほどにいじめっ子のジルの落馬した致死傷を治した際に村民たちにはバレてしまうまで、知っている人間は村でもかなり限られていた。


 いつの間にこうして気にせず使うようになっていたのだろうとアンジュは黙り込んでしまった。


「え。僕変なこと言った?」


 アンジュは首を横に振るとふらふらと談話室から出ていった。

「…トリガー?」

『…前提条件が消えたことに気づいただけさ。あれくらいじゃ、トリガーとは言わない。』


 ウィルとクルルの会話も他3人には分かり得ないことで、ルジェロは眉を顰め、2人は困惑して目を合わせる。


「前提条件。」

『魔法や魔術が禁忌だったんだよ、彼にとって。』

「クルル、彼とアンは同一人物か?」


 クルルは今までもたまにウィルと言葉(音声ではないが)を交わしてくれていたが、彼はあまり代名詞を使わずアンジュという固有名詞を使うことが殆どで、「彼」と使ったのは、クルルが王国軍に来たあの夜と今だけだ。

 しかし、クルルは答えもせず、さっさとアンジュの後を追いかけてしまった。


「…そのトリガーとか、前提条件ってなに?」


 ウィルはクルルと2人でした会話を安易に他人に伝えたくはなかった。例えアンジュが知らなくても、アンジュからの信頼を失うような気がするからだった。ウィルは目の前の3人をよく何度も見た。

 何度も何度も考えて、自分1人ではやはり抱えきれないことだと結論を出して、口を開いた。


「クルルは全部じゃないにしろ、アンの失った記憶を知っている。」

「…まあ、そんな感じはするよね。それで、教えてあげないのかって?」

「クルルはそれをアンに話す気がない。それで言ったのがこれだ。『彼はいつも記憶を取り戻すトリガーを持っている。』『忘れたいと願った。彼はそれが出来る魔術師だった。』…って話したんだ。いつもはアンジュって呼ぶくせに、その時と今だけ『彼』と言うから、彼とアンは別人なのか…と思って。」

「そして、前提条件っていうのが『彼にとって魔術や魔法を禁忌だ』ということだね。これが消えたってことになるんだろうね。」


 深く物事を考えるのはンヴェネで、ルサリィは静かに聞いて頷くのみ。ルジェロはどうしてだか珍しくウィルの説明に耳を傾けていたが、やがて興味を失ったのかさっさとその場から立ち去った。


「…話を戻すと、僕が最初に惜しみなく魔法を使うね、と新入りくんに言った。それに驚いたって言うことは、それまではあんまり使ってなかったから、僕に指摘されて驚いた。そして、あまり使っていなかったのは無意識に『魔術や魔法が禁忌だった』ということがあった。その禁忌だと言う意識が無くなった。つまり、『前提条件が消えた』ね、うーん、分かりそうにないね。というか僕ら新入りくんが居ないところで話過ぎじゃない?こういうことを話すなら新入りくんを呼び戻すべきだった。」

「確かに。」


 でも、それをしてよいのだろうか。

 ウィルの頭には新たな悩みが生まれたが、それを共有することはできなかった。



 イザヨイの話を聞いてから3日後、ヤナ長官からその人を紹介された。


「お前たちも良く知る友好国ミズホからの留学生、イザヨイ殿だ。1ヶ月程、お前たちと行動を共にする。」

「十六夜と申す。見知った顔ばかりだが、改めてよろしく頼む。」


 当たり前だが、異国人らしい風貌の女性だ。射干玉の髪と目が、光にキラキラと輝く。長い黒髪を彼女は後ろに一つで括っていた。

 長官の前から辞して、ルジェロも含めて全員で鍛錬場まで向かう。

 その道すがら、イザヨイの長く揺れる髪にアンジュは目を奪われていた。その様子を見ていたンヴェネが耳打ちをした。


「新入りくん、親友殿の想い人に惚れると厄介なことになるよ?」


 アンジュが見ていたのは彼女ではなく、その髪であり、全くもってウィルの恋路を踏み躙る気はなかった為にその返答には困り、代わりに質問する。


「ンヴェネ、俺はあの人を見たことある?」

「いや、知らないけど。なんで僕に聞くのさ。僕は君を知ったのも1ヶ月前くらいよ?」

「物知りだから。」


 そうやって聞くアンジュは16歳の少年には見えず、もっと幼かった。


「…僕は君の兄貴でもなんでもないんだ。君が誰の知り合いとか知るわけないだろう。」

 ンヴェネのいつもおちゃらけたトーンの声音が、低くなった。

「怒ってる。」

「は、はあ?意味わかんないことを聞かれりゃ、苛立ちもするでしょ。僕は聖人でもなんでもないんだから。」 

「嫌いなものに態々優しくしようとするからじゃねぇ?」

「新入りくーん、なかなか言うようになったねー。赤ちゃんから、プライマリースクールに入れるようになったかなー?」


 ンヴェネがアンジュの頭を拳でぐりぐりする。


「ちょっと、2人とも何しているの。」

「新入りくんが生意気いうようになったから。」


 ルサリィがンヴェネの手を掴んで、制止するとンヴェネはすぐに大人しくする。


「で、君は真っ直ぐで長い黒髪を一つに括った人をどこかで見かけたことがあるってことだよね。」

「た、多分?」

「君のいう黒がどこまで黒いのか分からないけど、イザヨイほどの黒なら、この国じゃあなかなかいないから、確かに気になるところではあるけどね。」

「…十六夜程の黒だったと思うけど、うーん、自信はないな。」

「あれ、君…?」


 ウィルが3人の名を呼んで、話は有耶無耶になった。





「お主の名前を聞いても良いか?」


 鍛錬場に着くやいなや、イザヨイはすぐにアンジュに話しかけた。アンジュを除けば全員が見知った顔だから、気を遣ったのだろう。


「アンジュ・クラントだよ、十六夜。」

「ふふ、アンジュは妾の名前が綺麗に呼べるな。」

「十六夜…、何がみんなと違う?」

「音節の区切りが綺麗だな。こちらの国はもっと音が繋がるような発音するだろう?」


 うーんと首を傾げて、ウィルが呼ぶイザヨイの音を思い出していると、少し違うかもしれないが、他国の言葉の発音の違いなんてよく分からない。


「お主は妾の国に来たことがあるのか?」

「十六夜の国は海の向こうだろ?行ったことない。」

「では、耳が良いのだろう。」


 手合わせしてみようと彼女はアンジュを誘う。アンジュはチラリとウィルの方を見るが、どうぞと手でサインを送っていた。

 イザヨイは礼をして、片刃の剣を抜く。その刀身は鏡のように美しく世界を反射していた。


「…綺麗だな。」

「妾の国は小さいが、昔から刃物産業は強くてな。これはそれの一つだな。」


 女性にしては大きい手のひらと剣だこ。それといくつかの打撲痕。きっと彼女はアンジュよりも何倍も鍛錬を繰り返し、達人となった。


「話はこれくらいにして、好きなように打ってこい。」


 彼女はアンジュの来歴を知らない。元は剣など握ったことのないただの農民だったのだから、立派な剣士である彼女に対して付き合ってもらうのは些か申し訳なさもあったが、それよりも彼女の片刃の剣が興味の方が大きかった。

 アンジュのことなんて基本的に興味のないルジェロだったが、2人の打ち合いには関心を寄せた。


「ルジェロが新入りくんに興味持つなんて珍しい。」

「…アイツの剣は馬鹿の剣とは違う。」


 それはンヴェネもなんとなく気になってはいた。アンジュが教わったのはウィルの筈だ。ウィルの剣は軍部が教えている流派に当たるから、同時期から軍隊に所属するルジェロも殆ど同じ。


「……魔法を使おうとするとウィルっぽい剣になるよね。」

「意味がわからん。」

「知らないよ、僕も直感だ。」


 ルジェロとンヴェネが会話しているのを知らず、アンジュはイザヨイとの稽古を楽しんでいた。一つに括った黒髪とその剣が何か大切なモノだったような気がしている。


「お主は刀を知っているな?」

「刀…。」

「妾の国の片刃の剣のことよ。」


 刀は斬ることに特化して薄いから、叩き折ろうとすれば折れないことはない。それも分からないけども知っている。知っていても、懐かしさを追いかけても、届かない。

 気がつけば、土に背をつけて天井を見上げて、ゼーハーと肩で息を吸うほどまで、続けていた。その一度も剣が彼女に届くことはなかった。


「鍛錬が足りんな。」


 イザヨイはばっさりと切り捨てるものだから、ちょっとかわいそうになってウィルはフォローする。


「そりゃあそうだろ、15年以上剣士として生きていたイザヨイと、たかだか1,2ヶ月程度のアンならさ。」

「1.2ヶ月前?、それは本当なのか?…それならばその短期間でこれほどなら天の才だろう。」

 アンジュは疲労で全く話せなかったが、ウィルはそうかもなと続けた。

「来て1週間くらいで、身のこなしはそこそこよかったから。」

 そうではなかったら、ウィルもアンジュの扱いには困ったかもしれない。

「色々興味深いが、ウィルもやるか?」

「おっと、アンと戦って疲れてるだろう。ハンデが重くね?」

「この程度構わん。」

「じゃあ、お願いしますかね。」


 ウィルは相棒の戦斧を担ぎ、楽しそうに笑う。イザヨイの持つ刀は、魔導武器ではなく、その火力にはベテランの彼女もおしきられる。

 その戦いようは、炎の檻で2人を閉じ込めているようだ。

 あの火の向こうに黒髪の人がいるのがどうしても心が落ち着かなかった。火の中に消えていってしまいそうな恐怖心で。

 クルルがすっと頭の上から降りてアンジュと彼の視線の先を遮った。クルルの行動を知ってか知らずか、ルサリィが金属でできた水筒を持ってアンジュの元へくる。


「アンジュ、お水飲む?」

「ありがとう、ルサリィ。」


 アルコール飲料からアルコールを抜いてなんとか飲み水にしたものが、今アンジュが飲める飲み物だった。


「ティム川の汚染が減れば飲み水増えると思うんだけどね。」

「今のところどうにもならないの?」

「流石に上も考えてると思うわ。葡萄酒なんて水分補給に適してないもの。」


 最も裕福な貴族たちは魔導濾過装置を所持しているから、後回しにされていてもおかしくはないが。


「魔導濾過装置…。」

「あら、アンジュも魔法でできたりするのかしら?」

「濾過を見たことないから。」

「でも、君コーヒーをミルクに変えていたじゃないか。」

 2人の会話を聞いていたンヴェネがそこで乱入してきた。

「どっちも飲んだことあるから。」

「新入りくんは実体験が伴わないと魔法を使えないんだな。」

「そうなのかも。」


 そう2人と話していながら、アンジュの目線はやはり炎の中の2人に囚われていた。




「なぁ、アンがイザヨイに惚れたとかないよね?」


 鍛錬が終わった後、ルサリィはボソリとウィルに尋ねられた。アンジュがずっとイザヨイを目で追っていたから、彼がミルフィーという幼馴染が好きだと知っていても、不安になったのだ。


「そういうことじゃないと思うわ。知り合いにイザヨイに似た黒髪の人物がいたんじゃないかって頭を悩ませていたのよ。」

「それって…、やっぱりイザヨイでしたーってことにならん?だって、ここの国にくるイザヨイほどの黒髪って、イザヨイの姫様かイザヨイじゃねえ?」


 ウィルの目線の先にはイザヨイの国に関して歓談している2人がいてモヤモヤとした感情が生まれてしまうのは仕方がない。


「それにしては、イザヨイという名前にはそんな関心がなさそうだったわ。気にしすぎよ。混ざってきたらどうかしら。アンジュも貴方がきてくれた方が話しやすくて良いと思うの。」

「絶対にそんなこと思ってないだろうアンに、ちょっとでも嫉妬してるって思われるのもものすごく気まずい。」

「じゃあ、一緒にいきましょ。私もアンジュと話たいし。」


 ルサリィにぐいぐいと2人の元に連れて行かれたウィルは、2人と目が会うと笑われた。


「ウィルの話をしていたら、ウィルがやってきた。」

「ちょ、何俺がいないところで俺の話を。」

「ウィルとイザヨイが初めて会った時のこととか。」


 イザヨイとウィルの出会いは、10年も前のこと。その時も今と同じように、国同士の友好目的の留学のようなものだった。そこでイザヨイは初めてきた国で迷子になってしまい、そこを偶然通りかかったウィルが助けたのだという。


「目に映る全てが、新鮮で眩しく見えたものだから迷ってしまった。言葉もまだ簡単な挨拶しかできなかったから、とても不安で。」


 そう彼女が話すのを、ただ頷いて聞いていたアンジュだったが、彼女の話すウィルがアンジュが知っている彼と全く同じで、その裏表の無さに彼らしいと感心していた。


「ああ、妾がこの国を好きになれたのもウィルのおかげなのでな。」


 彼女の力説にウィルが顔を真っ赤にさせるしかない。

 そのイザヨイが話す傍、アンジュはルサリィと目があって、恐らく2人とも同じことを思ったのだろうとその表情からお互い読み取って、笑い合った。


「ルサリィとアンは何を…。」


 それに気づいたウィルがワナワナと震える。すると、アンジュは口に人差し指を立てて微笑むのである。


「俺とルサリィの秘密だって。」

「そうよ、ウィル。」


 全く似ていない2人のはずなのに、妙に最初から息が合ってる。




 一度寝たら、基本的には朝まで起きないアンジュだったが、その日は違った。あの黒髪の人の影響か少し寝付けなくて、寄宿舎を出て散歩を始めた。下弦の月が空に浮かんでいる。しかしそれも、霞んでいてはっきりとは映らない。だから、月が出ていも暗い夜だった。

 その月の下で、彼女は刀を振っていた。


「十六夜。」


 イザヨイがアンジュに気がつくと、刀を鞘に収めて爽やかに挨拶をする。


「こんばんは、いい夜だな。」

「ああ、でも、霞んで綺麗に月が見えない。」

「10年前はもっと綺麗に見えたものだがな。この国にいても祖国と同じ月が見れたから、安心したものだ。」


 そうしてイザヨイは愛おしそうに月を眺めて、懐古する。

「十六夜って月の名だよね。名前の通り月が好き?」


 そう尋ねると、彼女は心底驚いたようだ。


「驚いた。よくこの名前が月の名前だと知っていたな。」

「え、ああ…。」


 アンジュは、いつのまにか受け入れていた。自分自身で持っていることを理解していない知識があることを。それは普段意識していないが、脳の中にもう一つの知識を貯めておいた倉庫があって、そこからふとした瞬間『持ってくる』感覚がある。


「16番目の夜って字を書くよな?」

「そうだ。…ウィルがアンジュは過去の記憶がないと言っていたが、その間に妾の国に来たことがあるのだろうか。」

「行ったことは無い。これは多分間違いじゃない。でも、きっと…、昔十六夜の国から来た人の側にいたような気がするんだ。」

「ふむ。あまり妾の国の人は外つの国に行かん。対象は200人もいないだろう。探してみてみるか。」

「あの人に会えるのなら会いたい。凄く大切な人だった気がする。」


 アンジュは十六夜のような髪の長い人だとも伝えると彼女はさらに不思議そうな顔をした。


「妾の国で髪が長い男は少ないし、この国に来た女性の数も少ない。本当にすぐ見つかると思うぞ。見つかったら、文を送ろう。届くのに1ヶ月はかかるだろうが。」

「ありがとう。」


 とんでもないと彼女は被りを振った。


「…お主は素直で良いな。ウィルが気にいるのも分かる。」


 イザヨイは、ウィルがイザヨイを話す以上にたくさんのウィルの話をアンジュにする。だから、それがイザヨイの心なのだと分かる。


「十六夜もウィルのことが好きなんだな。」

「…そうだな、好きだ。」


 しかし、その言葉とは裏腹に彼女の顔は悲しみで溢れていた。


「ウィルにまだ話していないが、妾の結婚が決まってな。」


 例えお互いが好き合っていても、どうしてもうまくいかないこともある。


「結婚…。それは変えられない、ってこと?」

「ああ。決して悪いものじゃないぞ。そもそも、私が仕えている姫様が結婚され、そのお相手の縁者との結婚だ。その方は妾がこの先も姫様に仕えていくことを赦してくださる方だ。」


 イザヨイにとってはメリットしかない結婚だった。問題があるとすれば、彼女がウィルのことが好きなことだけである。


「妾には覚悟がない。全てを捨てて、好きな人と生きることはどうしてもできん。そう生きるには妾には大事なものが多すぎる。家族、そして何より、我が敬愛する姫様と共に生きていきたい。一月もかかるこの国ではなく、妾は彼女の国で彼女の為に生きたい。」


 ウィルととてもよく似ていた。2人とも自分以上に大切な人がいて、それを叶えるためには一緒に生きることはできない。


「何故、お主がそのような悲しい顔をする?」


 折角の魔法使いで、好きな2人の願いを叶えてやりたいのに、そう上手くはいかない。


「…もしも、十六夜がこの国の出身だったり、ウィルが十六夜の国の人間だったりすれば、もっと違ったのかな。」

「ふふ、愚かなことよ。妾がミズホの国で、姫様と出逢わなければ、この国に来ることもなかった。それと同じように、この国出身だったとしたら、この国で迷子になることもなかった。ならば、ウィルとは会わなかったし、会ったとしても好きにならなかっただろう。この国で異国人である妾を、この国の言葉を解することができなかった妾を、なんの差別や偏見もなく助けてくれたウィルだから、好きになった。全てが大切な過程だ。もしも、などは起こらない。」


 彼女は熟慮して、納得しているから、アンジュの言葉など気休めにもならないし、解決の糸口には全くならない。


「大切な、過程。」

「ああ、勿論全てを捨ててウィルと共に生きなかったことに後悔もするだろう。だが、その後悔と共に生きていくとももう決めたのだ。」

「後悔する…。」

「ああ、だってお主も知っているだろう。ウィルはいい男だ。後悔もなく生きるには、魅力的すぎる。」


 結婚前にもう一度会い、剣を交わすことができて良かったと笑うイザヨイの表情は、優しく朗らかで、しかし、その奥でやっぱり寂しさも見てる気がして、アンジュは微笑んだつもりだったが悲しく、歪な微笑みとなってしまった。

 それが我が儘を抑え込んだ幼な子のように見えたは、子供を宥めるように頭を撫でる。


「妾の為に悲しんでくれるのはありがたい。しかし、そのように我慢した顔を見せられるのは辛い。泣きわめいてもいい、大きく口を開けて笑ってくれていい。だから、そのような顔をしないでくれ。」


 イザヨイの言ってくれたことにアンジュは驚いたが、被りを振った。

「駄目だ。泣いちゃいけない。苦しんではいけない。怒ってはいけない。」


「…何故?」

「魔法使いは、そうなんだ。」


 そうだ、泣いてはいけないと、苦しんではいけないと、決めたではないか。その大切な決め事も6年前目が覚めた時には忘れていた。


「しかし、それは無理だぞ。お主は人間だからな。」

「…例え普通の人間がそうだったとしても、俺は心が揺れてはいけない。」


 そこまでいうと、アンジュはイザヨイから逃げるように王宮の寄宿舎の中に駆けていった。

 それを宿舎の窓から、クルルは眺めていた。





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