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物語綴  作者: 碓井旬嘉
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3

 時折酷く精神が蝕まれる気がしてならない。

 そういうときは、俯き、目を閉じ、大きく息を吐き出す。何によって縛られているのか、何によって封じ込まれているのかすらわからない。暗く狭く、一筋の灯りもない処。

 岩間のようであって、洞窟のようであって、それでいて、空の上のような処。何とも云えぬこの空間は、心地好くもあり、息苦しくもある。

 総てのものを封じられることは、歓びでもあり、苦痛でもあるのだ。この、本来のなりでないものに、強大な総てを閉じ込めておくのは、放出する場を無くすことで、全身に熱を持たせ、喘ぎ、呻くときもある。けれど、総てを閉じ込めておくことで、安堵も抱けるのだ。

 本来よりずっとずっと小さなこの手は、まるで人間の形を取っていて、それだけは酷く落ち着かない。そんなの、まるで人間のようではないか。

 鋭く伸びた爪に、凡そ化物としか称せぬ身体。その総てが枷であった。だというのに、総てを封じ込まれた今、その形はまるで人間そのものだ。

 小さな手に、器に入る水に写った目は黒色をしている。光輝く黄金の瞳は面影も見えない。長く赤かった髪も、絹のように真っ直ぐで、滑らかになっている。そして、額に生えたものが、ない。

 何度手で触ってみても、何度水に写してみても、それは、ない。

 そして、その力は、この小さな身体に納められてしまっている。

 これでは、傷を付けるものが何もないではないか。それでは、困る。そうしてまた、精神を蝕まれていくかのような錯覚に陥るのだ。

 幾度言い聞かせても、幾度お前は駄目だと言い聞かせても、この姿で抑える術は何もない。

 安堵と苦痛。

 それらを同時に与えられること。それは、己の総てを破壊していくのだ。

「お辛いのですか?」

 不意に降りかかる声に、自分が身体を丸めていたことに気付く。小さな身体を、更に小さく丸めていたのだ。踞るその態勢は、端から見れば苦しみにもがいているように見えるのだろう。

 実際、苦しみにもがいているのだが、それは身体上のものではない。

 ──辛い。

 その言葉は、すんなりと心に沁みた。そうだ。苦しいというよりは、辛いのだ。

 頭上が人間の顔一つ分程開き、そこから見下ろされている。長く美しい濡羽玉ぬばたまの黒髪がはらりと垂れ、その顔立ちを半分以上隠してしまっている。

「……辛くなど、ない」

 低い声で返せば、左様ですか、とまた声が降る。しんしんと降る雪のような声は、この静寂の漂う空間だからこそ、耳に届くのだ。

 しかし、どんなに見上げど、どんなに手を伸ばそうと、その頬に触れることは叶わない。この形を手に入れたというに。

「何か、ございますか?」

 決まり事のように訊かれ、緩く首を振る。何も、ない。

 願わくは、どうか、解放して欲しいということだけだが、それは決して叶わぬこと。そして、何からの解放を望むのかも、己自身でわからぬのだ。

「どうか、悲しまないで」

 そういう声が、余程悲しんでいるように思えた。手を伸ばすも、それは空を切り、只それだけで終わる。以前の身体であらば、届いただろう。けれどそれでは、傷付けてしまう。

 また、精神が蝕まれていく。

 元よりかたちのないようなものであるこれは、この姿となると同時に、身体の中心に宿ったものだ。これが人間特有のものであるのならば、厄介なものを抱えたのが人間ということになる。

 じわじわと、真綿で首を絞めるかの如く、徐々に徐々に、精神を蝕まれる。小さなそれを、端から端から、食い潰されていくのだ。

 叶わぬことが叶う。叶うことが叶わない。安堵と恐怖。苦痛と悦楽。相反する感情が止めどなく渦巻き、疼く。

「悲しんだのなら、消え失せることが出来るのか」

 一言問うと、それは、涙を溢した。ぽたり、と額に落ちてくる温かい雫。それが額を伝い、目に入った。すると、それは目から零れ落ち、頬を伝い、首に流れる。

 まるで、己が泣いているようではないか。

 己の目から、涙が零れたようだ。

「悲しくはない。悲しいことなど、何もない」

 それは本心から出た言葉だった。本当に、悲しくなどないのだ。悲しさなど、知らない。悲しいと感じることは、刹那もないのだ。

「ならば、何を感じておられるのですか?」

 細やかな問いに、瞬きをする。それの涙は、まだ目の中にあり、また、涙が零れた。もしかしたらこれは、己の涙なのかもしれない。己が、涙を流したのかもしれない。

 また、精神が蝕まれる。

 泣くという行為が、こんなにも心を掻き乱すものだったとは知らなかった。ならば、あの上にいるそれも、今、心を掻き乱しているのだろうか。

 そう考えると、また精神が蝕まれる。小さな針先で、心の臓をちくりちくりと、刺されているようだ。例え小さな衝撃でも、続けば続く程に効果がある。ならば、いっそ、この身体を貫いてくれれば、と思う。そうすれば、蝕まれることなく、終えることが出来るのではないか。しかし、それが叶わぬことも知っている。

「美しいと思った」

 長い髪で半分隠れた顔が真正面から見える。どうやら、髪を後ろへと流したらしい。

 驚愕おどろいた表情は、それには見えない。どうしたら、この心は落ち着くのだろうか。どうしたら、穏やかな気持ちを知ることが出来るのだろうか。

 不意に、微笑みが降ってきた。

「覚えておいでなのですか?」

 しかし、その問いに、首を振る。それでも、それは、笑った。


 ──君の笑顔は、僕の薬です。


 乱れた、拗らせた心は、次第に落ち着きをおぼえていく。





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