地下室 後編
目の前の彼女に、俺は何も聞く事ができずにいた。
拘束着に身を包み大人しくベルトで固定されている彼女は、かつて【死神】の名で裏の世界で知らない者はいないくらい有名だったはずだ。しばらく姿を消していたその理由がこんなことだったなんて、正直がっかりしている。ただの人間に捕われてしまう神なんて神ではない。
彼女は目の前にいる俺を興味津々に見つめている。赤い瞳は淀んでいて、目の下には隈ができていた。ソルがバールで騒いでいた事は確かなのだろう。
「ねえ、ソル」
「なんですか」
「さわりたいよう」
「触る?何に」
「このひと」
俺の事だ。淀んでいるとはいえ、彼女の視線はずっと俺を捉えていた。そのせいで俺は瞬きと呼吸をするので精一杯だ。殺し屋の力は健在らしい。背筋が寒くなり身震いした。
ソルは判断に困り、またアルテさんの意見を聞いている。死神のことに関して決定権は彼女が持っているようだ。きっと、さっきの不思議な刀でソルのことを脅しまくったに違いない。ソルは力はないから命がかかると観念してしまうだろう。
アルテさんは許可を出した。甘すぎると思うが、俺はそれを言わなかった。俺も、大した力は持っていない。
ソルが鉄格子の向こうに小さな椅子を置いた。座っている椅子にその鎖を巻き付け、動く事ができる距離を制限する。新たに設置した椅子に届くか届かないくらいの長さだ。
「ウラミ」
「ああ、はいはい」
その椅子は俺の椅子だ。そこに座って動かないようにソルは言うと、彼女の体を固定しているベルトを解いた。同時に彼女は立ち上がり、相変わらずのにやにや笑いのまま俺の方に寄ってくる。足下が覚束無いのは地下にずっと閉じ込められているからだろうか。
彼女の拘束着は袖が長く作られていて、胸の前で腕を組ませ、長い袖をぐるりと後ろに回している。その上で革の首輪に繋がっているもうひとつのベルトでぐるりと腕を縛っているため、腕を動かす事は不可能だ。ソルは腕の拘束は解かなかった。だから彼女が転ければ顔から倒れるのは必然だった。グシャッと清々しく崩れ落ちた彼女はしばらくそのまま動かなかったが、もぞもぞ動いて縛られた腕を上手に使って起き上がった。
顔が赤くなっている。鼻の辺りが特に。鼻の穴から赤い雫が垂れるのもこれだけ派手な転び方をしてぶつけていれば当然のことだ。彼女は鼻を抜ける生温さに少し遅れて気付くと、ぺろりと舌を唇に這わせた。出血は酷く、顎を伝って彼女の白い拘束着を汚してしまっている。
「大丈夫?」と俺が声をかけると彼女は「だいじょうぶ」と変わらぬ笑顔で答えた。ずっとにやにやして顔の筋肉は疲れないのかと不思議に思った。気にする事なく彼女はベトベトの顔を俺に近づけた。憧れの赤い瞳が俺の目の前にある。数センチでくっつくくらいの距離だ。
「ソル、腕の拘束は解いてやらないの?」
「ああ。だめだ」
「あの人もソルも臆病なんだ。もちろん僕がその気になればこんな拘束なんの意味もないんだけど、それじゃあ何も変わらない。きっとこれが筋書き通りなんだって僕は受け入れているのに、全然わかってくれないんだ。こんなところに閉じ込めて独り占めしておかないと恐ろしくてたまらないんだよ」
何のことを言っているのかわからなかったが、彼女がここに閉じ込められている理由を教えてくれたことはわかった。それが理解できたかどうかは別として。
彼女の額がくっついた。人間の体温だとは思えないくらいひんやりしている。額を離したかと思うと、今度は彼女の唇が俺の包帯が巻かれた右目にくっついた。舌で舐めたり、少し歯を立ててがじがじしたりしている。包帯の上から生暖かさを感じながら、俺はされるがままになっていた。逆らうと何されるかわからないし、どうしてソルが彼女がこんなに俺を自由にするのを許しているのかもわからない。しばらくそうして、満足したのか「ふうん」と声を出した。
「ウラミ」
「はい」
「変な名前。偽物だね?僕と一緒だ。僕も本当の名前を知らないんだ。ねえ、両親のことは覚えている?」
「いいや、なんにも」
俺は正直に答えた。彼女は無邪気ににっこりした。心なしか顔色が良くなっている気がした。
「うそつき!」
笑って言うから、非難されているのかわからなかった。そもそも嘘じゃない。覚えているなら何の血のつながりもないおっさんの家に転がり込んだりするものか。俺は絞り出すように「嘘じゃない」と否定した。彼女は目を細めただけで、それ以上食い下がりはしなかった。ソルの方を振り返っていた。
「もういいよ」
「わかりました」
ソルは彼女にメイドのように従順だ。そこから予想するに、多分ソルにとって大事な人とは彼女の事だろう。微妙な空気にふたりの仲がうまくいっていないのがわかる。でもソルは手放せない。ふたりの間にはふたりにしかわからない何かがあるのだろう。愛だとか恋だとか言うつもりはないけど。
俺は鉄格子の内側から外側へ移動し、ソルが死神を元通りにするのを眺めていた。隣にアルテさんが立って、彼女の鼻血まみれの姿を見てまた眉間に皺を寄せた。
「ソル、新調しときなよ。アリスに紹介されたところでいい」
「わかりました。ほら、顔をこっちに向けてください」
大人しく顔を拭かれる死神が、俺が憧れたあの死神と同一人物だなんてやはり受け入れられなかった。けれど、事実だ。真実というものはいつでも残酷なものである。
「それから。ウラミ」
アルテさんが移動し、階段に足をかけながら俺に話しかけた。
「マスターにお前の役割について話しといて。死神の事を喋ったら殺すから」
吐いて捨てるように言うと、返事も聞かないままに軽やかに階段を上がって行った。その背中を見送りながら、取り残された俺たちは会話もなくただそこに立っていた。死神だけがふてぶてしく椅子に座って鼻を気にしている。
俺はぼりぼり頭を掻いて、ふたりに「よろしく」と挨拶した。