誰かの右目
不安定なところに立っていた。
足下は千切れた紙切れで形成されているかと思うくらい紙で覆われていて、俺はその上に立っている。際限なく広がる空間は果てがなく、一面に本の切れ端や写真のようなものが貼られていた。人の顔はほとんど黒く塗り潰されていて誰だかわからない。わかったのはおっさん、ソル、アルテさん、そして死神とペルセ。最近会ったことがあってまだ顔を覚えている人。それだけだ。家族写真だと思しきものからはすぐに目を逸らした。真っ黒で、どれが自分なのかもわからなかったからだ。
足下の紙切れを拾って見たが、インクで真っ黒に塗りつぶされたものばかりだった。その下に書かれていたであろう文字はひとつも読み取る事ができなかった。その紙切れを足下に捨てると、そのすぐ横に穴があいているのが見えた。覗き込むために屈んだ。
見えたのは鮮やかな光景だった。意識が吸い込まれていく。
白い手袋をしている手が握っているのは燭台だ。銀の華奢な装飾のそれには長い蝋燭が立ててある。俺が歩く度に火が揺らめいた。向かっている先にあるのは祭壇である。これを作るために1日を費やし、その間少女には眠ってもらう事になってしまった。衣装の準備も必要だったから、丸3日になる。顔色は悪いが呼吸はしっかりしているから問題はない。どうせ、すぐに……。
祭壇の四隅に設置してある蝋燭に、反時計回りに火を移していく。ゆらゆらと揺れる火が祭壇の上の生贄を浮かび上がらせた。胸の上で手を組んだ、天使のような少女が眠っている。その美しさに興奮して手が震えた。薔薇の花に囲まれ、奇麗な衣装を着て、目を閉じる少女はまさに絵画のようだった。俺の口から感嘆の溜息が洩れる。
さあ、始めよう。永久の美しさを少女に与えるために。これはそのための儀式だ。
俺は燭台を置き、祭壇の前に跪いた。目を閉じて少女のために祈る。たっぷり時間を掛けたあと、目を開けて少女に近づいた。そっと滑らかな頬を撫で、輪郭を指でなぞる。そっと顎に手を添え、赤い果実のような唇にそっと口付けた。
「起きて!」
ハッと目を覚ますと胸の上に重みを感じた。息が吸えずに喘ぐように「どいて!」と叫んだ。上に乗っているものを押し退けるとドサッと落ちる音がした。恐る恐るベッドの下に目をやると、死神がくしゃくしゃになって落ちていて恨めしそうに俺を見上げていた。
「ごめん」
「あんまり乱暴すると攻撃しちゃうからね」
「もう充分致命的な攻撃だったよ」
そう言いながら助け起こす。彼女はベッドに腰掛けた。
「夢でも見てたかな。すっごく疲れてる」
首を左右に傾けて凝りをほぐす。
「誰の目から見たの?」
「え?」
質問の意味がわからず答えられなかった。死神はそれを予想していたらしく、それ以上追求してこなかった。
「出かけるよ」
本来の目的を告げる。まだ真夜中だったが、これはいつも通りだ。
「ソルは許可してるの?」
「出してくれたよ」
「放し飼いすることにしたのかな……」
ここ数日、俺は死神と「狩り」に出かけるようになった。本来アルテさんが俺にさせたかったことだ。おっさんから預かった依頼を伝え、標的を始末する。俺は実際に手を下す事はなく、死神の手綱を握る係だった。ソルの代わりだ。毎晩眠っているところを叩き起こされては、仕事に出かける。夜な夜な出かけるため、昼の講義は必然寝る時間になってしまう。落第したらソルを訴えてやる。
今日の獲物は組織の金を横領して逃げた裏切り者だった。死神は彼を精神的にも肉体的にもじわじわと追いつめていき、最後にはあっさり殺してしまった。怯えきっていた彼に同情する。
「おっかないなあ。こんな風に殺して、怖くならないの?」
俺はいつもびくびくしている。殺人したわけじゃなくて、脅したり殴ったりしただけでだ。死神はきょとんと首を傾げた。
「うらみはごはんを食べるのに恐怖を感じるの?」
「君にとっては食事ってわけだね」
それ以外になにがあるの、と言いたげな視線を向けられた。
「君だってそうでしょ。包帯取りなよ」
顔についた返り血を舌が届く範囲で舐めとっている死神が言った。そうだった。俺にとっての食事はこれだ。
俺は言われた通り包帯を外して右目を露にした。視界に入った彼の死体から、その負の感情を感じ取る。
「おいし?」
彼女は俺がその行為をする度にそう聞く。いつものように「うん」とだけ返事をすると満足そうにした。
彼女は白い拘束着のままだ。ベルトと目隠しは地下牢でももうしていないが、袖は長いままだし首輪もしたままである。首輪には鎖がついていて、それを俺が握っている。これじゃあ本当に犬みたいだと、これを持つことを拒否したのだがソルが許さなかった。
「何か見えた?」
「前みたいにって意味なら、見えなかったよ」
「残念」
血の付いたナイフを彼の血の海に放り投げた。彼のナイフで彼は死んだのだ。
「最近顔色がいいね」
部屋を後にしながら言った。死神の左目が爛々と赤く輝いている。
「たくさん殺してるから。でも肝心の奴は見つからないね」
「何を基準に選んでるの?」
俺はおっさんが受けている仕事の依頼をリストにして持って来るように言いつけられていた。そのリストの中から死神が自ら仕事を選んでそれをこなしている。
「いろいろたくさん。こういうのは繋がってるものだから」
「そういうものなのか」
「でも全然なんだ。間違ってるのかなあ」
「結構当てずっぽうなんだね?」
「まあね」
「気が滅入ってくるよ」
ペルセに会いたくなった。彼女に関して、ソルは諦めろと言った。俺もそれを了承したはずだったけどたまに思い出しては悲しみに暮れる。いっそのこと忘れてしまえれば楽なのに、状況が許さない。死神を見ていると嫌でも思い出してしまう。小さい女の子が動き回る。死神は血に、ペルセは花に。大きく違うけど、同じ赤が連想させる。
「目の事だけど」
「ダーマウス?」
「ううん。もう違う奴の手に渡ってる。けどそれが誰だかわからないんだ。もうここにはいないよ」
「じゃあ戻ってこないんだね」
「多分ね。いいんだ、あれはもうあげたものだから」
潔いのか未練はなく、本人よりも俺の方が執着している。
「ねえ。やっぱり本人に聞いた方が早いんじゃない?」
「そう。僕もそう思ってたとこなんだ。ウラミはよくわかってるね」
珍しく褒められた。俺の透視は役に立たないと見限られている。少し気にしていたから素直に嬉しいと思った。次の言葉を聞くまでは。
「手伝ってあげるから、ウラミがやるんだよ」
「……えっ」
「武器持ってる?」
「それって」
どういう意味?と聞く前に死神がニタリと笑った。それだけで答えは出ているとわかっていながら俺は聞いた。
「脅すの?」
「それだけで済めば良いけど」
それも自分がすることになっているなんて考えもしなかった。