なくしたもの
空が薄く明るくなり始めた。静かな街を死神と歩く。彼女は数歩先に居て、ゆらゆらと特徴的な歩き方をしている。楽しそうにも見えるが、長く監禁されていたせいでふらふらしているだけかもしれない。
こんな日が来る事を誰が想像しただろうか。仕事と称して街をうろついている時に、たまたま出くわした不味い場面。下手すると殺されていたのは自分だった。でも彼女は無関係な俺を殺しはしなかった。鋭く赤い一瞥は俺の脳天から足の先まで一瞬にして電撃のように駆け巡った。あの日から彼女に捕われ続けていた。その本人と今、並んで歩いている。
その上彼女は俺を助けに来てくれた。俺が勝手に屋敷を抜け出して来たことをどうやって彼女は知ったのだろう。彼女がいる地下牢では地上の音は一切しないのに。またあの不思議な力を使ったのだろうか。
「はやくー」
考えに意識を寄せていると歩幅が狭くなっていたらしい。死神は随分先で、足を止めて俺を振り返っている。その顔が酷く汚れていて、そこで漸く思い出した。一番に気にしなければならないことだった。
「信じられないよ……ごめん、ぼやっとしてた。俺ってほんとどうしようもないね」
彼女は俺と引き換えに、その赤い目を犠牲にした。顔の右半分は血で汚れて真っ黒だ。酷く出血したようだが、それはもう固まりかけているように見えた。
「出血は収まってる?ごめんね、俺のせいで」
「へいき」
「平気なわけないよ。どうしてこんなことしたの?痛かったでしょ」
「痛くないよ」
「そんなわけないだろ。俺の服で顔拭って良いよ。擦っても大丈夫かな」
「やだ。もういいってば」
顔を拭ってやろうとするといやいやと首を振って避けられてしまった。俺の体を離そうとぐいぐい押す。
「もう、なんだってこんなことしたんだよ?君だったらもっとどうにかできただろ?」
「ウラミにはかえられないよ」
「……俺の事好きなの?」
そんなはずはないとわかっていながらも、自分の身を犠牲にしてまで助けてくれる理由が他に思いつかなくて聞いた。死神は残った目をまんまるにして一瞬ぽかんとした後、ふっと笑った。
「あのね、ウラミ。憎しみとカミヒトエ、だよ」
それだけ言うと振り返って歩き出した。それから屋敷に着くまで、一言も喋らなかった。紙一重だと言った。俺を恨んでるの?
門をくぐってすぐ、彼女が立ち止まった。彼女の視線を追って、屋敷へ視線を移すとぎくりと身が竦んだ。明かりがついている。
「うわあ」
「困ったね」
「絶対怒ってるよ……」
絶望感が背後からのしかかる。きっとペルセが戻ってソルを起こしたのだろう。俺の身を案じての行動なら、怒る事はできない。
「先に行ってよ。僕その隙にどうにか戻るからさぁ」
「そんなのずるいよ。ソルは死神には甘いんだから死神が先に行ってよ」
「君がしくじらなきゃ僕が行く必要なんてなかったんだけど。それに僕、脱獄しちゃってるし」
さも状況を見ていたような言い方にカチンとくる。助けを求めた覚えはない。けど、助けられたのは否定できないし、彼女を傷物にしてしまった責任もある。俺も男だ。腹を括って玄関に踏み入れた。
中は極寒の真冬のようで、また灼熱の地獄のようだった。物音は全くしなかったが視線を感じてそちらに目を向けた。
ソルは腕を組んで柱に凭れ掛かっていた。確かに視線を感じたのだが、彼は目を閉じていた。たっぷり時間をかけて目を開くと俺に焦点を当てる。無表情を繕っていたが青い目は怒りに燃えていた。とてもお怒りです。
「おかえり」
できるだけ穏やかに聞こえるように努めているような声だった。ただいまを吃りながら返すと、俺が怖じ気づいているのを察したらしく、怒りを隠すのをやめるか迷っているように見えた。
「ユキトは?」
「地下じゃないの?」
「確認したから聞いてるんだ」
俺は恐怖に耐えきれず、入ってきた扉にすごすごと戻って時機を窺っている死神と目を合わせた。彼女はがっかりしたように溜め息をつき、諦めて渋々一緒に中に入ってくれた。そろそろと足音を立てないようにしているが、千切れた鎖がじゃらじゃら鳴るのは止められなかった。ばつが悪そうにしている。俺も同じ気持ちだった。
ソルは俺たちに「跪いて」と酷い要求をした。2人とも大人しく従って、玄関から入ってすぐの床の上に正座した。柱から体を起こし、腕は組んだままのソルがその前に立って見下ろしている。
「それで?」
自分が話を始める前に前置きとして聞いた。俺は勢い良く挙手をする。
「どうぞ」
ソルのお許しを頂いて発言する。
「死神は怪我をしているので見逃してあげてください」
「……怪我?」
明かりがついているとは言っても、それは弱い蝋燭の明かりだ。夜が明け始めているとはいえまだ暗い。見えなくて当然だ。ソルが確認するため死神に近づいた。そっと顔に振れ、ぼさぼさと伸び放題の髪を搔き分けた。未だに赤黒い血がこびり付いたままの顔を見て息を呑んだソルは、ちょっと待つように言うとバスルームに走り、タオルを持って戻って来た。反対の手には救急箱もある。
「へいき」
「いいから。ほら」
優しい手付きで血を拭い、そして気付く。彼女の右目がもう赤く光らない事に。瞼がべこんと凹んでいて見た目も悪い。ソルの瞳は悲しそうに伏せられた。
「義眼でも入れますか」
「んー」
血を奇麗に拭ってしまうとソルが言った。傷を見ようと明かりを死神に近づけたり遠ざけたりした。酷い傷はもうほとんど塞がりつつあるらしく、彼にできる事はほとんどなかった。丁寧に消毒だけしている。
「夜闇を入れとくよ」
「そんなことが?」
「うん。夜に近づけば近づく程、つながりは強くなるから」
「どういう意味ですか」
「あのね。僕は夜闇そのものだよ。腕輪にしておく理由がない。一緒だから」
支離滅裂でわからない。ソルにも理解しきれなかったようだったが負担をかけたくないのかそれ以上聞かなかった。救急箱に消毒液を戻すと、それを抱えて立ち上がる。
「俺の部屋で話しましょうか。それとも地下に行きますか?」
話を聞きたくてたまらない様子でソルが急かしたが、俺は気になっている事があるのでそれを止めて、先に聞く事にした。
「その前にペルセに会わせてよ。あの子の治療はしたの?」
ソルは首を傾げた。訝し気に目を合わせる。時間が止まった。俺の脳みそはぐるぐると回った。そんな馬鹿な事があっていいはずがない。ペルセは確かに逃がしたのだ。戻ってくるならここ以外にはありえない。
「取り戻せなかったんじゃないのか」
怒りを納め、真剣な表情でソルが聞いた。そのことからも最悪な事態に陥っていることがわかる。ペルセは戻ってこなかったのだ。ダーマウスからは逃げ果せた。その後のことだ。
「死神……」
縋るように彼女を振り返ると、まだ床の上にいた。右目を長い袖で覆われた手で押さえている。ソルが慌てて駆け寄った。
「やっぱり痛むんですね」
「んーん」
思案顔で首を振った。何を考えているのかわからない。ソルは死神の腕を取って無理矢理歩かせた。
ソルの部屋に入ったのは初めてではない。落ち着いた色の家具で揃えられていて、客室と違って派手な装飾はされていなかった。実用性を重視したものが多いが、それがソルらしさを表している。ベッドにはこだわりがあるようだ。大人が3,4人寝られるくらいの大きさで空気をたくさん含んだ枕がたくさん並んでいる。休む時はしっかり休むという事だろう。ところがベッドに入ってからも本やら書類やらに目を通すらしく、端にはランプが固定されていた。本棚は作者名で昇順に並べられていて、目的の本がすぐ取り出せるようになっている。几帳面を全面に表した部屋だ。
ソルはベッドに死神を座らせて、俺のために仕事用の机の椅子を引き出して用意した。自分はお茶を入れるためにサイドテーブルで作業をしている。食器がカチャカチャと音を鳴らす。
「じゃあ、最初から話してくれ」
カップをそれぞれに渡して、ソルはまたサイドテーブルのところに戻った。立ったまま話を続けるらしい。除け者にされたのをことごとく根に持っている。
俺は事細かに話して聞かせた。ダーマウスのことを知っていたらしく驚いていた。ソルが知っている彼は活発で筋の通っている真っ直ぐな青年だったらしい。恋は人を変えてしまう。目の前の友人を見るとその言葉を痛感する。ペルセのことに話が戻ると、ソルは呆れ果てて馬鹿な犬を見るような目で俺の事を見た。
「結局状況は変わらないんだな」
「はい」
「しかも失ったものの方が大きい」
「返す言葉もない」
「あなたはどう考えてるんですか。またウラミを使って彼女の居場所を探りますか?」
むっつりと黙り込んでいた死神に話を振る。時折このように話しかけてはいるのだが、心ここに在らずな反応しか示さないでいた。何かを考えているかのようで、考えていないようにも見える。右目は「夜闇」を中に入れたお陰でぷっくりと膨らんでいたが、目を開けていると黒目ばかりで気味が悪い。吸い込まれてしまいそうな深い闇のような瞳になってしまった。
ソルの呼びかけに彼女はようやく反応すると、俺の事をじっと見つめた。その目で見られるのは居心地が悪い。
「だめ。ウラミじゃ役に立たない」
ばっさり切り捨てられた。
「なんで!?お腹くらいならいくらでも触るよ。頭の中見られるのだってペルセのためだと思えばなんてことない。居場所がわかるんならやってよ!」
「だめ。君の力はね、違うんだよ。君が手に入れたからって君のものじゃないんだ。それに君はあの子に入れ籠み過ぎてる。本当に庇護欲の塊だね。すごい執着心。初めて会ったんじゃないみたい」
「あの日が初めてだったと思うけど」
アリスがペルセを連れて来た日のことだ。死神は無視した。
「僕の目の行方を追ってみる。動き出したら教えるから、それなりに顔出してよね」
「……地下に戻ってくれるんですか?」
ソルが驚きまじりに聞いた。すっかり忘れていたが、雁字搦めに拘束されていたはずの死神はそれらをすっかり抜け出しているのだ。謂わば脱獄。自ら戻ってくる囚人なんているわけがない。
「うん。だって、もう役者は揃ってるし。ただ飯食わせてくれるのなんて、今じゃあここくらいなものだよ。でもこれでわかったよね。あんな拘束じゃ僕には意味ないって。牢屋には大人しく入ってるから、ベルトの拘束はしないでもらえるかなあ。あ、首輪はしててもいいよ。君の犬でいてあげる。忠犬の証だね。わんわん」
死神はへらっと笑いながら吠えてみせた。
その後ソルは気遣いながら死神を地下へ連れて行き、俺は真っ直ぐ自分の部屋へ戻った。ベッドは冷たく、彼女がいないことを思い知らされた。