共鳴する最初と最後
どくどくと心臓の音がうるさい。俺はシートの前で薔薇の花を握ったまま呆然と立ち尽くしていた。ソル達がやってきて、俺を家の中に引き摺り込み、客室で会議が開かれているのに気付いたのはそれからまもなくだ。いつの間にか椅子に座っていて、ソルとアルテさんと机を囲んでいた。
「おかえり?」
俺が現実に戻って来たのに気付いてアルテさんが言った。ソルが呆れたように溜め息をついた。
「やっと戻って来たか。どこまで聞いていた?」
「ごめん。全く」
「まあ大したことは話してない。多分ペルセを連れ去ったのはリデルのストーカーで間違いないだろうって」
「ああ。その通りだと思う」
薔薇を毎日届けてくるストーカー。間違いなくそいつだろう。何故ペルセを攫ったのか理由は見当もつかない。アリスがペルセを大切にしているのは「死神」の手掛かりだからだ。彼女が異常なまでに死神に執着していて、探していることはソルから聞いている。まだここにいることに気付かれてはいないが、彼女の権力や財力を総動員させてしまえばあっという間に知られてしまうはずだ。だが幸いなことに彼女はそれに気がついていないのか、小さな手掛かりから探ろうとしている。ペルセという小さな手掛かりが手に入ったから、それに気を取られているのだ。しかしペルセのことを彼女が探そうとするかはわからない。彼女が自分の力に気がつくのは時間の問題だからだ。彼女は馬鹿じゃない。
「あの子が【悪魔の子】なのは間違いない。手紙を見たけど、6番目だと思う」
「俺もそう思います。リデルが手袋をさせていたのはそのせいでしょう」
「うん。だから、私たちも彼女を探す事に全力を尽くさないといけない」
「待って」
話の流れを遮った。アルテさんとソルがこっちを見た。2人はもう、協力し合ってペルセを探してくれる気になっている。けど、俺は。自分の失態を人にまで背負わせる気はなかった。ひとつの欲望が、俺の頭を支配していて止められない。
「あのさ。悪いんだけど俺に任せてくれないかな。必ず見つけ出してみせるから。だって、こんなことになったのは俺が目を離した事が原因だ。責任はちゃんと取る。だから、お願いします」
沈黙が部屋を過ぎる。アルテさんは俺の真意を見抜こうとしているし、ソルは熱苦しさに引いている。静けさを打ち破ったのはアルテさんだった。
「しくじったら許さないよ。必ず連れ戻して」
「はい、命に代えても」
「そんな大げさな」
「冗談じゃないから。ソル、お前はできるだけ協力して」
「わかってますけど……」
「それから、死神を使うと良い」
アルテさんの発言に、ソルが敏感に反応した。ソルは死神の事になると過剰に反応する節がある。彼にとって死神は大きな存在だ。彼女を巻き込む事に反対する彼を尻目に俺は「ありがとうございます。そうします」と答えた。思い切り睨まれたけど、そんな顔は怖くない。
「一体死神が何の役に立つって言うんですか」
「お前は知ってるだろ」
「そうですけど。それとこれは」
「あの子を一番必要としているのは死神だよ」
階段をゆっくりと降りていくにつれ、彼女の笑い声が近づいてくる。ソルが地下室のドアを開け、中に入るその後に俺は続いた。
「こーんなときだけ頼るんだぁ?ずるいよね」
明かりがつけられる。ベッドの上にだらしなく座る彼女の姿が漸く見えた。相変わらず細い手足は折れてしまいそうな程だったが、声はしっかりしている。
「飼い犬ですからね」
ソルが答えると、彼女は楽しそうに「わんわん」と吠えた。死神のクスクス笑う声だけが地下室に響いている。
「狩りの日なの?お腹空いたよ」
「俺が預かってた子供が誘拐されたんだ。犯人もその居場所も全く見当がつかない。なにか思いついた事があったら教えてほしい」
簡単に説明すると、死神は足枷の鎖をじゃらじゃら言わせながら勿体振るように設置されてある椅子に座り、ふぅんと鼻を鳴らした。
「これ取ってくれない?」
目隠しのことだ。足をパタパタ揺らしてはいるが大人しく座っている。俺がソルを見ると、渋々中に入っていって死神をベルトで椅子に固定し始めた。自分で椅子を準備して、鉄格子越しに彼女の前に座った。
「ちーがーうー。そうじゃなーいー」
身を捩らせてソルの行動を阻害している。
「なにがですか」
ソルが手を止めて言ったが、ベルトを離す気配はない。
「前と一緒。触りたいんだ」
死神が言った。前のように俺に牢の中に入れと言っているのだ。包帯をべろりと舐められた感触を思い出してゾッとした。ソルは溜め息をついたがその申し出を受け入れるようだ。一度こちらに戻って来て、小さな机の引出しを乱暴に開けた。そこには小さな拳銃が一丁、箱の中に収まっている。それを手に取るとズボンのベルトに拳銃を挟み込んだ。
「ソル……」
そんなこと、したくないだろうに。俺の視線に気付いたのか、困った顔で笑った。
「アルテがいないからな。念のためだ」
アルテさんは地下には付いてこなかった。彼女はなんの魔法か、なにもないところから刀を取り出す事ができるため、死神は逆らわない。俺たちだけで死神の対応をするのはなかなか怖いものあったが、事態は窮する。それ以上は止めなかった。
牢の中に入り、椅子に腰掛ける。ソルは向こう側から見守っていた。椅子に縛り付けられていない自由に動けるはずの死神は椅子に座ったまま、じっと俺の目を見ている。
「試してみたい事があるんだ。お願いきいてくれる?」
「俺にできる事ならね」
まっすぐな視線にたじろいだがなんとか答えられた。あまり隙を見せたくないのに。
「簡単だよ。包帯を取るだけ。君の右目を僕は見たい」
「……普通だよ」
「誰かに見せた事ある?」
「知ってるのはマスターくらいだ」
「ソルにも見せてないの?」
頷いた。
「なんで?」
何も言えなかった。沈黙は答えだ。死神は察したに違いない。もしかしたら、知っているのかもしれない。
じゃら、と音をたてて立ち上がった死神は俺の足の間の隙間に膝を差し込んで椅子の上に置いた。良い事を思いついたとばかりに俺とソルに向かって喋り始めた。突然の接近に身を縮める。
「ソルはそのままそこを動かないでね。ウラミはこっちを向いてるから、包帯を取っても僕にしか見えない。でしょ?」
「そうだね。でも……」
「何も問題ないよね。駄目だって言うの?」
「死神」
次々に喋る死神を諌めようとソルが呼びかけた。
「ねえ、いつからソルまでそんな風に呼ぶようになったの?」
俺越しにソルを射抜くように見たその赤い目は、人を殺してしまいそうな程鋭い。止めに入ろうとした彼を黙らせて、自分の椅子にどっかり座りなおすと、拘束されて動かせない腕をじれったそうにもぞもぞした。
「僕はこの通り。取ってあげられないから。ほら」
急かす声に逆らえなかった。心臓が強く胸を打つ。逆らえば、殺される。もちろん武器なんかは取り上げられているだろう。それでも、そう思わせられる威圧感がある。おずおずと包帯に手を伸ばし、それを解いた。閉じた右目をゆっくり開く。
ぼやけた視界がはっきりしていくと同時に、彼女の恍惚とした笑顔が目に入った。
「やっぱり。なんとかなりそうだよ」
彼女はとても嬉しそうだけれど、俺はそれよりも剥き出しの右目に映った彼女から入ってくる情報に圧倒されていた。負の感情が溢れている。まさに闇と呼ぶべきそれは、今まで味わってきたものとは桁違いに力を感じる。
「ウラミー?」
「あ、うん……」
「おいしかった?」
そう。簡単に言ってしまえば、まさにその言葉だ。
「すごく」
死神は無邪気に笑った。「僕もだよ」とも言った。
ぼーっとしているうちに、確認したいことを確認してし終えていたらしい。「じゃあ次ね」と彼女はまた俺の前に立った。
「僕のおへその辺りを触ってくれる?」
「へ?」
「はやく」
訳の分からないままにその辺りに掌を押し付けた。温いと思っていたら、それはだんだん熱を籠り始めた。心配になるくらい熱い。
「ちょっと、これ……」
「目を閉じて。あの子を思い浮かべて」
目を強く閉じた。掌が熱で熱い。
すごく嫌な気持ちがする。後ろの方から湧き上がってくる黒い何か。具体的にはわからないものが、何故かとても恐ろしい。どんどんそれは近づいて来ていて、ついには俺に覆い被さった。悲鳴を上げたが、声は出ていない。死神の腹部に触れたところだけが現実世界との繋がりだった。これを離してしまえば戻れなくなる。この最悪の悪夢の中に取り残されてしまう。悪夢は次々に姿を変えた。塗り潰されていてわからないが、兄。母。そして父だろう。『どうしてお前みたいなの生まれたんだ』初めて声を聞いた。違う。俺は知っているはずだ。忘れているだけで。でも懐かしさなんて、少しも感じない——
「どうですか?」
「見えた。近いよ」
遠くから声が聞こえる。
「犯人は?」
「大した事ない。拍子抜けって感じ……子ネズミだよ」
「ウラミに何をしたんですか?反応しないんですけど」
「色々思い出してるんじゃない?」
体を揺さぶられた。大きな手が肩を掴んでいる。モノクロだった視界に色が戻って来るにつれ、俺の考えははっきりしていった。心臓の鼓動が早まっていく。
「俺、今から行ってくるよ」
思いきって言うと、ソルは想像通り何を馬鹿な事をと言いたそうな顔をした。
「気持ちはわかるけど、あまりに無謀すぎる。俺も行くから、明日の朝にしよう」
「それじゃあ遅いよ。ねえ、死神。俺あんまり場所がはっきりしないんだけど」
「まだうまく見えていないんだね。練習しないと使えないなぁ」
「ウラミ、駄目だ」
「いくら言ったって聞く訳ないよ。こいつは自分の庇護のもとにいる者を放っておけやしない。自分で手を下さないと気が済まないんだ」
「あなたじゃないんですよ。いいか、ウラミ。明日の朝だ」
ソルが頑なに言い張るので、俺は従わざるを得なかった。聞かなければ死神とともにこの地下牢に縛り付けると脅されたのだ。いくらなんでもそれは心から遠慮したくて、いつもの客室に戻る事を約束した。死神は俺と一夜を共にできると思ってわくわくしていたが、そうでないことを知ると拗ねて鉄格子にガンガン体当たりしていた。ソルが元通りベルトで彼女をぐるぐる巻きにして、手足が使えないからだ。お陰でまた頭から地面に崩れ落ち、顔面を強打した。俺が来てからというもの度々こんなことをするようになったらしい。ソルが彼女の鼻血を処理しながらぶつくさ言った。
「先に戻ってろ。朝起こしにいくから。それからだからな」
「わかったよ。今日のところは寝る。おやすみ」
部屋に戻ってシーツに潜り込むまでの時間さえも惜しかった。