赤い影
学校にいる間はエリーがペルセの面倒を見た。俺は放課後、ベビーシッターのお宅に直接向かう。
「ただいま」
家の扉を開けると、ベルの音を聞き留めて駆けて迎えに来てくれる。足にまとわりつくのが大変可愛いのだ。
「おかえり、ウラミ。おにわ行く」
「ペルセはお花が好きだね。荷物置いてくるから待ってて」
エリーはなかなか厳しい教育方針のもとに躾をしているらしく、ペルセは俺の帰宅を歓迎してくれる。俺はそれをたまらなく可愛いと思っている。断じて小児性愛者などではない。純粋に真っ直ぐ美しく可愛いと思っているだけだ。
最近バールの自分の部屋には帰っていない。この前掃除した部屋は俺とペルセの部屋になっていた。大きなベッドだから充分2人で寝る事ができる。ソルに訝し気な目で見られているが、決してそういう趣味はないため大丈夫だ。大丈夫だ。
「ソルよりおそいのどうして?」
荷物を置いて戻るとペルセが聞いた。ソルと俺が同じ学校にいる事を知っているのだ。教えた事を、こうしてちゃんと覚えているところも大変可愛いのだ。
「天気がいいからな。お嬢様がお庭でティータイムをご希望かと思って、お菓子を買ってきたよ」
「わあ」
ペルセは確かに肉を好んで食べるけれど、お菓子も大好きだった。相変わらず表情筋は凍結していて笑顔に乏しいけれど、声の高低からそれを察する事ができるくらいには親しくなった。
俺たちは夕暮れの中庭に布を敷いてその上に腰掛けてお菓子を広げた。そこで中庭に咲き誇っている薔薇の花を見るのが晴れの日の日課になっている。別段なにかを喋るという事もなく、ただそこにいるだけ。俺はそこで宿題をして、ペルセはじっと花を見つめている。何が楽しいのかはよくわからないけど、ペルセの赤い瞳に赤い薔薇はよく合う。
教科書をぱらぱらと捲って目的の記述を探していると影が差した。人が立っていた。誰なのか確認する前に「ソル?」と尋ねたら、「私」と澄んだ声が答えた。温かな空気が冷えた。
「アルテさん!?」
「何?」
「あ、いえ……お帰りなさい」
「別に私の家じゃないよ。で?それは何?」
大嫌いな虫でも見ているかのような冷たい目で見下ろしている。ペルセはそれを感じ取ったのか目を瞑って、目を合わせようとしなかった。
「俺の小遣い稼ぎ。ベビーシッターしてるんです」
「……ふうん」
ついにペルセの前に屈んで顔を覗き込んだ。人差し指でペルセの顎にそっと触れ、顔を上げさせる。ペルセは目をぎゅっと瞑った。
「目を開けて」
冷たい声に怯えて、指が添えられたまま首を振るからあまりうまく振れていない。
「アルテさん……」
「瞼を切り取る事もできるんだけど」
「ペルセ、目を開けてごらん」
最強の脅し文句に俺が折れざるを得なかった。ペルセは恐る恐るゆっくりと目を開けた。アルテさんが目を細めると、ほとんど黒目しか見えなくなる。決して笑っているからではなく、眉間には深く皺が刻まれていた。
「ソルはどこ?」
「中にいますよ」
「そう」
それだけ言うと家の中に早足に入っていった。恐らくご立腹だ。中でどういう話がなされるのかを想像すると、好奇心が掻き立てられたが同時に恐ろしさも湧き上がった。
つい、と服の裾を引っ張られた。ペルセが強く握っていた。「ん?」と尋ねるとペルセが俺を見上げた。
「……こわい人」
「そうだね。あの人は怖い。ペルセ、少しの間だけ1人でいられる?」
「ペルセまてる。みにいく?」
「……うん。大丈夫?」
「だいじょうぶ」
ペルセはまだ震えていたけれど、健気に頷いた。
俺はペルセをその場に残して家の中に入った。いつもの客室に向かうと、エリーの後ろ姿が見えたので給仕を終えたところだろう。俺は足音を立てないように扉に近づいていき張り付いた。以前と同じように聞き耳を立てるためだ。
「俺は関与していませんよ」
「ウラミのことはお前に頼んだ。監督者はお前だ」
「小遣い稼ぎの事まで俺が管理しなければならないんですか?そんなのはおかしいですよ。彼と契約したのは死神の件に関してでしょう。ペルセが死神と何の関係があると?」
「君があの瞳を見て気付かないくらい腑抜けの馬鹿だとは思わなかった。説明してあげても良いけど?」
「是非、お願いしたいものです」
部屋の中が静まり返った。売り言葉に買い言葉だ。ソルが喧嘩を買ったのだ。絶対睨み合ってるのだろう。
「少なくともこれで居場所はわかったわけだ。実際に見た訳ではないけど、能力は『朽廃』だと思います。6番目の【悪魔の子】です」
「死神は感じ取ってるはずだけど。馬鹿みたいに騒がないの?」
「気付いている様子は見せていません。地下だと鈍るんじゃないですか?」
これもソルの嫌みだろう。アルテは相手にしなかった。
「一体何が問題だって言うんです」
「はやく終わらせたいのが本音だから、今すぐにでも死神に殺させて欲しいんだけど」
「無理ですよ。ウラミがさせるはずがない。それにウラミに頼んだのはリデルです。契約を違反したら報復に何をされるか」
「あの娘が死神の存在を知ってるのは鬱陶しいと思ってた。今からでも消しておいたら?」
「気に入らない人ですけど、同業者ですからいないと困るのは確かなんです。気に入らないですけど。それに腕が立ちますよ」
「大した事はないだろ。そんなに気に入らないなら実行させてくれればいいのに……まあ、いいや。今度から定期的にアポロンをこっちに遣るから。勝手な事されると邪魔。あの子は……」
バタバタと足音がこちらに近づいてきた。こんな足音の持ち主を俺は知らず、変質者でも乗り込んで来たのかとびっくりしていたが見えた人影はエリーだった。廊下の向こうから、エプロンとワンピースのスカートをがっしり掴んで捲れないようにして猛スピードでこちらにやってくる。切迫した面持ちで、こちらまで緊張した。
「この馬鹿!何をしてるの!」
「エリー、しー!」
唇に人差し指を当てた。俺がここにいることを中の2人に知られてしまう。
「何を言ってるの?あの子がいないのよ!」
「あの子ってペルセのこと?中庭でいつも通り花を眺めてるよ」
「いないから言ってるのよ!馬鹿!」
弾けるようにその場を蹴った。中庭に急ぐ。考えてもいなかった。ペルセは感情を露さない。だからと言って意思がない訳ではないのだ。本当はここに居たくなくて、アリスのもとに帰りたいと思っていたとしたら、1人にしたのはまずかった。
「ペルセ!」
息を切らしながら玄関を飛び出て中庭に出たが、そこには誰もいなかった。返事をするものはない。俺の姿を見て駆け寄ってくる小さな影はいない。
大きく息を吸って、吐いて。呼吸を整えながら敷いた布のところまで歩いていった。お菓子だけが虚しく残されていた。
いや。お菓子の他にもうひとつ、布の上に置かれている物が目に入った。一輪の薔薇だ。ペルセは花を摘まない。
見事に咲いた赤い薔薇にはカードが添えてあった。
『お世話になりました。ありがとう。さようなら』