真夜中の来訪者 後編
アリスのお喋りは客室に案内するまでの間ずっと留まる事を知らなかった。彼女は挨拶を交わした後、一言目には俺の事を名前で呼んだ。そして自分のことは「アリス」と呼ぶように言った。
「ウラミ、その頭はどうかしたの?」
「右目がちょっと痛むんです。はい、こちらですよー」
目についてあまり触れられないうちにさっさと歩くスピードを上げた。ソルの感情が高ぶり始めているのを感じたから、案内してしまったらすぐに掃除に取りかかろうと思っていた。後ろから付いてくる人の気配が、ひとつ多い事に気付いていたが、気付かぬ振りをした。
部屋に入り、アリスはソファにお嬢様らしく座った。続いてソルが座り、ふたりは向かい合って睨み合っている。俺はくるりと背を向け、ドアノブを握ったところでソルに呼び止められ、ここにいるように言われた。ものすごく遠慮したかったが、怖い顔で睨まれたので観念してソルの横に立った。
「それで、ご用件は?」
「そうね。速やかに済ませましょう。はっきり言ってしまうと、お願いがあるのよ」
「お断りします」
間髪を容れずにソルは断った。
「あなたの命を救ったのは誰だったかしらね?借りは返してもらうわよ」
アリスも負けずと言った。ソルが命をかけた事があるなんて初耳だった。きっと死神が関与しているに違いない。それ以外にソルが怪我をするなんて事がこの世にあるとは思えない。ソルは渋々「なんですか?」と聞いた。
「この子のことなの」
腕に抱いている人形を見ながら言った。
「人形を預かればいいんですか?それはいい。ウラミがきっちり面倒を見る事ができますよ」
「馬鹿にしてるの?よく見てから発言しなさいよ」
どこに目が付いてるのよとばかりに彼女は抱えていた人形を抱え直して、俺たちにその顔がよく見えるようにした。ぴくりとも動かない。
「ペルセ。その瞳を見せて差し上げなさいな」
目を閉じていた人形は、突然ぱっちり目を開けた。
その瞳は驚く程真っ赤で、最近こんな瞳を見た事があった。ぐるぐると渦巻く闇が宿るような、見つめていると飲み込まれてしまいそうな瞳は死神の瞳だ。
ソルは人形を凝視したままだった。なるべく感情を表に出さないように努力しているようだったが、うまくいっていなかった。驚きがほとんどと、複雑で読み取れない感情が少し。アリスはそれを見てクスッと笑った。
「喉から手が出る程欲しいでしょ?この子がいればきっとユキトの居場所の手がかりになるわ」
「……ああ、それは間違いないな。あらゆる手がかりになる」
「感謝しなさい、ジュール。私が面倒な状況にいなかったらこんな機会はなかったのだから」
「面倒な状況?」
アリスはわざとらしく大げさに溜め息をついた。
「ええ。実を言うと、変な輩に付き纏われているの。それがこの子にも及びそうだったからこういう手段に出たわけ。預かってもらっている間にどうにか解決してみるわ」
「目処は立っているのか?」
「さあね。これからなのよ。毎日ご苦労な事に、真っ赤な薔薇を届けてくださるの。カードを添えてね。今日で1週間になるわ。そこからなにか割り出せないかと思っているところなの。気味が悪いから早く対処したかったのだけど……そう、私にはあまり信用できる人間がいないのよ。色々当たってみたけど、やっぱり駄目だった。仕方なく、目的を同じくしているあなたに頼む事にしたの。仕方なくよ」
「それは光栄な事で」
皮肉を言いながら、ソルは別の事を考え始めているようだ。きっと、彼女を使って何ができるのかいくつか案を練り出しているのだろう。
「まあ、ストーカー野郎を取っ捕まえたら迎えにくるわ。もちろん、お礼も支払う。ちゃんと人間らしく扱ってくれるなら、それ以外は好きにしてちょうだい。彼女の意思に基づいて、だけど。お願いできるかしら?」
「もちろん、喜んで」
ソルが手を差し出して、アリスがそれを握り返した。契約は成立だ。アリスが立ち上がって、少女を抱えたままこちらに近づいてくる。そして、少女を胸の高さまで抱えて差し出してきた。
「いや、無理無理無理!俺、無理!」
「あなたが面倒を見てくれるんでしょ?」
「そうだ。ウラミが世話係だ。必要な事があるならこいつに伝えておいてくれ」
「はあー!?」
「細かい事は手紙に書いているの。ペルセが持ってるわ。受け取って、読んでおいてね」
「ちょっと、待って、わあ」
ぐいぐい少女を押し付けられて、つい支えるよう手を出してしまったが運の尽き。アリスは俺に少女を抱えさせた。仕方なく体勢を整えさせて抱きかかえる。身体はとても軽かった。少女は大人しく、またぴくりとも動かなくなった。
「あのさあ。これ、ちゃんと人間だよね?」
「どうかしらね。私も詳しくは知らないの。わかってるのはユキトと同じものってことだけ。詳しくは手紙に書いてるけど。この子、路上で花売り娘をしていたのよ。偶然見つけて連れて帰ったの」
「それって人攫いなんじゃ」と言いかけたが口を噤んだ。アリスの目は爽やかな空の色だったが、その奥に暗い澱みがあるのを俺はちゃんとわかっていた。人を殺したことがある人の目だ。アリスが誰を殺したのかなんて考えたくないけれど、恐らく間違っていない。彼女を見ると右目が疼くのはそのせいだろう。
腕の中の少女が、ついに動いた。居心地が悪いせいか、黒い手袋をはめたその手をもぞもぞと動かしている。
「どうしたの?」
できるだけ優しい声を出すように気を遣った。彼女は耳が遠いのか、聞こえない振りをしているのか、もしくは言葉を理解できていないのかもしれない。一向に返事をしてくれなかった。
果たして子守りが俺に務まるのだろうか。疑問を覚えたが押し付けるように逃げた雇用主にそんなことを言えるはずもない。依頼主の方は俺に預けることを喜んでいるようだった。後日着替えを届けると言い残して、突然現れた客人は厄介なプレゼントを残して去って行った。