08
「これは……」
浴槽に浮かんだそれに、フェビアンは眉根を寄せる。どこにでもある白い薔薇の花弁。今まで一度として、リエナがこれを湯に浮かべた事はない。いつも色鮮やかな花弁ばかりだ。それなのに今夜のこれはどうしたことか? 湯殿番の侍女を振り返り、この花弁の出所を問いただす。
「先刻、皇妃様付きの侍女が届けてくださいました」
「何?」
さらにきつく眉根が寄せられ、フェビアンは湯に浸かることなく湯殿からでると、脱いだ衣類を身につけた。それに慌てたのは湯殿番の侍女だ。何か気に障ることを言ってしまったのかと、ほっそりとした面を蒼白にし、急いでリエナを呼びに行った。
「陛下、侍女が何か粗相をしましたの?」
そう言ってフェビアンの胸に、そろりと右手を乗せたリエナから、ほのかに薔薇の香りが漂っている。ますますフェビアンの眉宇の皺が深くなった。
「どうなさいましたの?」
怒りの理由が分からず、リエナは軽く首をかしげる。
「アレは何だ」
「アレ?」
「湯に浮かんでいるアレだ」
「湯に……ああ、薔薇ですわ。綺麗でございましょう? 侍女の手違いで、今宵使う花が届かなかったものですから、皇妃様にお願いして頂いたんですの。でも……陛下がお気に召さないのでしたら、貰っても何の意味もありませんでしたわね」
肩を竦め、リエナはしなだれかかるようにフェビアンの腕に腕を絡めると、耳朶に唇を近づけ、甘えるように「寝所へまいりましょう」と囁いた。が、その手をフェビアンは強く振り払った。
「へ、陛下?」
「不快だ、中宮へ戻る」
さっと踵を返し、フェビアンはリエナの部屋から出て行こうと扉の方へ向かった。
「陛下っ! お待ちください陛下!!」
すぐさま後を追いかけ、腕を掴もうと手を伸ばすものの、察知したフェビアンが振り向きざま彼女を睨んだ。手は空を掴み、リエナは唇を噛んで俯く。そんな彼女を見向きもせず、フェビアンは足早に部屋を出て行った。バタンと大きな音をたてて扉が閉まると、夜着の上にガウンを羽織った姿のリエナは、がっくりと膝が崩れその場に座り込んだ。
「どうして?」
何がいけなかったのか、彼女には分からない。とにかくフェビアンの気に障ったのは確かだ。やはり白薔薇なのだろうか? アレがいけなかったのだろうか? 皇妃以外、白薔薇を使うのは許せないという事なのだろうか?
「くっ……」
強く握り締めた拳を振り上げ、リエナは悔しさをぶつけるように床を叩いた。
**********
後宮の美しく磨かれた大理石の床を、フェビアンの靴が荒々しく蹴っていく。彼の頭の中にあることは、どうしてアレをリエナなどにあげてしまったのかという怒り。フェビアンが自身の手でアレを植えたという事を、彼女だって聞いて知っているはずなのに、それを易々とリエナにあげてしまった。それはまるで、自分を拒絶しているかのようで、ますますフェビアンの感情が負の方向へといく。
「側室ごときに強請られ、断れなかったとでも言うのか!!」
ありえない話ではない。リエナはこの後宮において、強い力を持っている。シルフィーンがくるまでの間、リエナの許に多く通っていたのは事実であり、彼女を抱いているのも事実だ。だからといって、特別な感情を持っているわけではない。リエナの後ろについているのは、有力気遺族のラゼック侯であり、彼を思い通りに動かすためにはリエナへの寵愛が深いように見せなくてはいけなかった。
訪れるたびに、彼女を抱くわけではない。部屋に行くことに意味があり、その事により、向こうが勝手にフェビアンの都合の良いように誤解してくれている。それはとても助かるのだが、近頃のラゼックやリエナの態度に、顔を顰めることが多々あった。そして一部の貴族から、その事で不満の声が出ていることも………。
シルフィーンの性格上、強く押し切られれば、その通りにしてしまうだろう。優しさは彼女の美点でもあるが、今はそれが酷く忌まわしい。
フェビアンは歩を止めると、くるりと方向を転換し、リエナら側室がいる部屋とは別の、もう一方の廊下をカツカツと踵を鳴らして進む。この際奥には、皇妃の部屋がある。無性に、彼女に会いたかった。会って、どうしてリエナに与えたのか、その理由を彼女の口から聞きたかった。
細かな細工の施された扉の前まで来ると、合図もせず無言で部屋の扉を開いたフェビアンの、若葉色の瞳が驚きに見開かれる。開けてすぐにある控えの間に、必ずいるはずの不寝番の女官の姿がないのだ。
厳しい顔つきで奥の扉を開け、フェビアンは部屋の中――居間へと入った。室内は真っ暗で、庭に面した窓が開いているらしく、夜風でカーテンが揺れている。
「どういうことなんだ、これはっ!?」
本来ならば、ここには控えの侍女がいるはずである。だが、やはり、ここにも誰もいない。フェビアンは視線を漂わせ、寝所の方へとそれを定めると、急いでそちらへ近づき扉を開ける。が、一人で眠るには広過ぎるそこに、この部屋の麗しい主の姿はなかった。スーっと血の気が失せていく。
「どこ、へ……」
人を呼ぼうと体を捻ったその視界の、隅に金糸の髪先が見えた。急いで寝台の窓側へと回ると、そこには苦しげに顔を歪めたシルフィーンの姿があった。駆け寄り、片膝をついて彼女の首の後ろに腕を差し込み、抱きかかえるように上半身を起した。
「皇妃! 皇妃っ! しっかりしろ」
頬を軽く叩いてみても、何の反応も返ってこない。
「皇妃! 皇妃!」
体を揺さぶるものの、シルフィーンの瞳は閉ざされたままだ。フェビアンは彼女を抱き上げると、居間の窓から庭へと出て中宮へと急いで戻った。室内で控えていたユスティが、庭から入ってきたフェビアンにギョッとなり目を見開く。しかもその腕には、蒼白な顔色のシルフィーンが抱かれているではないか。
「へ、陛下。これは一体……」
「急いで医師を呼んで来い。内密にだ。誰にも気づかれるな。それとマリエル女官長もここにつれて来い」
「はい!」
いつになく切羽詰った様子のフェビアンに、只事ではないと感じ取ったユスティは、飛び出すように部屋から出て行くと医師の許へと走っていった。その間フェビアンはシルフィーンを寝所へと運び、彼女を己が寝台へ横たえると、汗で顔に張り付いた髪を指先で払う。
青白く生気の無い顔は、まるでこの世の終わりを告げているようで、フェビアンを恐怖に慄かせる。それを拭うかのように激しく頭を振ると、そっと彼女の頬へ手を伸ばした。だが、体温も低く、触れた頬は酷くひんやりとした。
「あぁ……なんて冷たいんだ」
少しでも温かくなるように、己が体温を分け与えるかのように、フェビアンはシルフィーンの頬を擦る。
「フィーン、フィーン、フィーン」
震える唇を噛み締め、フェビアンは頬を擦り彼女の愛称を呼ぶ。だが、シルフィーンの頬に赤味が差すことはなく、閉ざされた瞳が現れることもない。
どれくらいそうしていたのか……短かったかもしれないし、長かったかもしれない。
ユスティと共に医師が部屋へ到着すると、そこにはシルフィーンを抱きかかえ今にも泣きそうなフェビアンの姿があった。
「ラ、ランバルト。早く、早くフィーンを診てくれっ!」
「は、はい」
普段の皇帝とはまるで別人のような様子に、医師団筆頭医のランバルトは驚いた。だが、すぐに気持ちを切り替えて、寝台に横たえ直したシルフィーンの診察をし、最悪の事態にはならないであろう事にホッと安堵の息をついた。
「どうやら気を失っているだけのようでございす。時間が経てば、皇妃様は目を覚まされるでしょう」
「本当か? 嘘ではないだろうな? フィーンは、フィーンはちゃんと目を覚ますのだな?」
「はい。心拍も安定しておりますし、おそらく貧血で倒れらたのではないかと……。それと陛下、大変申し上げにくいのですが……」
「ランバルト?」
「皇妃様は、充分に栄養を摂られていないのではないかと思われます。こちらに来られた時よりも、随分と痩せてしまわれたようにお見受けいたします」
その言葉にフェビアンの表情が一瞬強張る。だが、僅かな変化であったため、ランバルトがそれに気がつくことはなかった。
若葉色の瞳を眇めると、フェビアンは横たわるシルフィーンへと手を伸ばし、先程よりも多少は良くなった顔色に安堵しつつ、彼女の頬をそろりと優しく撫でた。そこへマリエルが部屋にやってきて、寝台で眠るシルフィーンを見て顔色が一気に悪くなる。
あきらかに動揺しているマリエルに、フェビアンはさっき自分が見たことを問いただし追い討ちをかけた。
「あれはどういうことだマリエル。皇妃の部屋に、控えの女官も侍女もいないとは……。あれでは万が一の時、誰が皇妃を守るというのだ。たとえ皇妃が下がれと言っても、控えているのがお前達の仕事ではないのか」
「は、も、申し訳ございません」
深々と頭を下げる後宮女官長に、フェビアンは尚も苛立ちを募らせる。
「それに皇妃はきちんと食事を摂っているのか? 何故こんなにも彼女は細いのだ」
信用できる者を後宮に潜り込ませ、フェビアンは毎日シルフィーンの様子を報告させていた。だから彼女の食事量が少ないことは把握していた。五日ごとにあがる報告書……最初は特に気にすることはなかったが、ここ最近になって、以前にも増して彼女の食欲が落ちている旨が書かれていた。医師の言ったことは当たっているのだ。
「も、申し訳ございません。わたくしの所には何も報告が上がってきておりませんゆえ、まったく気がつきませんでした。どうかお許しください」
深々と頭を下げる女官長に、フェビアンはもういいと手を振った。マリエルが嘘を言っているとは思えないからだ。彼女の性格上、絶対にそれはありえない。
二人の遣り取りを冷や冷やしながら見ていたランバルトを下がらせると、フェビアンは寝台横に椅子を持ってきて、眠るシルフィーンの手を握り締めた。
ほっそりとした指……少し力を込めれば折れてしまいそうだ。フェビアンはもう一方の手を彼女の頬に添えると、ゆっくりと顎に向かって撫でていった。
慈しむように、愛おしむように、彼は何度も何度も彼女の頬を撫でた。
そんなフェビアンの様子を開いた扉の向こうから、ユスティとマリエルが見ていた。そして彼らの後ろには、いつの間にやってきたのか……厳しい顔つきのヴィクタスの姿があった。