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初恋  作者: 朔良こお
本編
8/34

07

 ぬかるみに車輪を取られた馬車は、カーブを曲がりきれず後方から崖下へと滑り落ちていく。


 空馬車ではない。中には淡い金糸の髪をした母と、その母に良く似た娘が乗っていた。


 母親は娘を守ろうと、小さな体に覆い被さって強く抱き締める。ぎゅっと目を瞑り、母親は必死に神へ祈った。


 その祈りが届いたのか……幸運にも崖の下は、木の生い茂る深い森であったため、辛うじて地面に激突する事は免れた。だが、馬車は大破し馬も御者も地面に強く打ち付けられ、彼等は二度と起き上がることはなかった。


 あまりにも大きな衝撃と痛みに、暫し気を失っていた少女の目が薄っすらと開く。だが、周囲は暗く何も見えない。その代わり、ひどく錆びた鉄の臭いが、少女の小さな鼻をつく。


「かあさ、ま……」


 母を呼ぶが、いつもならばすぐに「なあに? 私の可愛いお姫様」と返ってくる、綺麗で優しい声が聞こえてこない。どうしたのだろうかと、ぼんやりした頭で考える。だが、そこで漸く、自分の体がとても重く、何かが上に乗っていることに気がついた。それを退かそうと、腕を上げようとした少女を鋭い痛みが襲う。


「う、ああああっ! 痛い、痛いよぉ!!」


 ドクドクと心臓が脈打ち、割れるように頭が痛む。


「母さまどこ? 母さま、母さまっ、かーさまぁぁぁ!!」


 何度も何度も母を呼ぶが、やはり返事はない。圧し掛かる重みと、激しい痛みにもがく中、暗闇に目が慣れた少女が見たものは、自分を抱きかかえるように覆い被さった母の顔。良く晴れた日の、真っ青な空のような瞳は恐怖に見開かれ、乱れた髪からは赤い液体が幾筋も流れ、ぽたりぽたりと少女の顔に落ちてくる。


 少女は大好きな母が、既に生きていないことを悟った。


 そして自分も、母と同じようになるのだということも………。


 再び意識が朦朧としていき、全ての音が遠ざかっていく。


 あぁ、自分も母の所へ行くのだ――と、どこかホッとしている少女の、母よりも少し薄い色の瞳で最後に見たものは、雨上がりの澄んだ夜空に浮かぶ淡く光る丸い月だった。






**********






 大きく体を揺さぶられ、シルフィーンは目を覚ます。そして視線の先にあるのが、寝台の天蓋であることに驚いた。

 ゆっくりと体を起こすと、まだぼんやりとしている瞳で、ぐるりと室内を見渡した。既に太陽は沈み、窓の外は暗い。あの青灰色の猫の姿もなければ、自分で寝台に移った記憶もなかった。


 誰が寝台(こちら)に移してくれたのかしら?――と、考え込んでいるシルフィーンの耳に、侍女の無機質な声が聞こえた。


「皇妃様、水をお持ちいたしますか?」

「あ、あぁライナ。そうね、いただこうかしら」


 侍女のライナが、水差しからグラスに水を注ぐ。それを受け取り飲み干して、渇いていた喉を潤すと、先程交わしたリエナとの約束を思い出した。


「ああ、いけない……。リエナ殿に薔薇茶と白薔薇を分けて差し上げるのだったわ」

「薔薇茶と、白薔薇を、ですか?」


 訝しむような色を含んだライナの声に、シルフィーンはこくりと頷く。そんな彼女を、ライナは責めるような目で見た。その視線が痛く、シルフィーンはふいっと顔をそむけると、寝台からゆるりと下りた。


「花鋏はあるのかしら?」

「……ございます」


 持ってきてちょうだい――と、そう言って、シルフィーンは一人先に庭へと向かう。隣室にはローラも控えていて、何か言いたげな顔をしていたが、シルフィーンはそれに気がつかないフリをした。


 暗い庭に出ると、ローラとライナがその後に続いた。

 向かうのは庭の一角……夜目でも美しいことが分かる白い薔薇。

 その花弁にそっと手を添えて、ライナへと手を出せば、花鋏がそっと置かれた。小ぶりなそれを握り、花弁のすぐ下をパチリと切っていく。切ったそれは、ローラの持った籠に丁寧に置いた。


「本当によろしいのですか?」


 リエナの目的が目的だけに、ローラはシルフィーンの真意を探るように、淡々と薔薇を切る主を見つめる。ライナは事情が分かっていないのか、あきらかに機嫌の悪い同僚と、感情を一切見せない主とを交互に見ていた。


「差し上げると、約束してしまったのですから。違えるわけにはいきません」


 きっぱりと言われ、ローラはぐっと奥歯を噛んで口を噤んだ。皇妃(ほんにん)が良いと言うのだ、納得していなくても侍女である自分は主に従うしかない。


 咲いていたもの全てを切り落とした薔薇は、葉と茎だけになってしまった。なんとも無様な姿である。それを見てシルフィーンは、まるで自分のようだと思った。






 室内に戻ると、シルフィーンは薔薇の入った籠の持ち手に、鮮やかな赤い色のリボンを結わきつけた。その赤が、リエナのようだと思ったからだ。


「ローラ、これをリエナ殿の所へ。薔薇茶も忘れないようにね」

「……はい。畏まりました」


 ローラが部屋から出て行くのを見送り、シルフィーンは椅子に体を預けた。酷く身体が重い。やはり夢見が悪かったからだろうか……ほうっと深く息を吐くと喉の辺りを数回擦った。



 コンコンと、扉が叩かれる音がし、ライナが対応に出る。


「皇妃様、晩餐のお時間でございます」

「もうそんな時間なの?」

「はい」


 大きく扉を開くと、厨房女官達が料理を運んできた。シルフィーンは長椅子から食事用のテーブルへと場所を移す。女官達と一緒にやって来た料理長が、席に着いたシルフィーンに一礼し、今夜のメニューを丁寧に説明し始める。それを真剣な顔で聞きながら、次々と並べられる料理にうんざりとした。


 ロワルデンにきて驚いた事の中に、毎晩出される料理の種類と量の多さがある。一人では食べきれない程の料理が並ぶのだ。シルフィーンは元々食が細いため、出されたものを全て平らげることなどできない。毎回沢山残してしまう。それが申し訳なく、量を減らしてほしいと言っているのだが、一向に量も種類も減る様子はない。


 そもそもクルスカでは、食べきれる分だけの量しか出さない。残す事は、それを作った者にたいして失礼だからだ。そんな彼女にとって、目の前の料理の多さは醜悪なものでしかなかった。


「またこんなに沢山……。本当に、なんて贅沢なのでしょう」


 料理長が去った後、思わず漏らした本音に、くすりとライナが笑った。


「皇妃様のご実家では、よほど質素な食事をなさっておいでなのですね。これくらい、ロワルデンの貴族なら当たり前の量ですわ」


 シルフィーンの頬がカッと赤くなる。この侍女は最初からこの調子で、シルフィーンを主と思っていないような、不遜な態度や言葉がしばしば見うけられた。それでもマリエルに言って自分付きを辞めさせないのは、侍女として優秀で有能だからだ。故に彼女は、ローラの良い手本となっている。だから辞めさせるわけにはいかないのだ。


 好きなものを幾つか皿に取り、一人だけの静かな食事が始まる。

 ローラが給仕の時は、彼女の田舎のことや兄弟のことを聞いたりして楽しいのだが、このライナの時は苦痛でしかなかった。彼女は無駄口を一切開かない。黙って食事が終わるのを待っているだけだった。


 白豆のスープを飲み、魚と香草を蒸したものを少し食べて、シルフィーンはフォークを置いた。食べ物が喉を通らない。原因は分かっている。自分達は形だけの夫婦なのだから、気にする必要がないはずなのに、シルフィーンの胸はざわつき、もやついていた。


「ごめんなさい……もう下げてちょうだい」

「お口に合いませんでしたか?」


 眉根をきつく寄せるライナに、シルフィーンはゆるりと首を左右に振る。 


「いいえ。とても美味しかったわ。疲れているので、今夜はもう休みます。あなたも部屋に下がっていいわ」


 そう言って寝所へと戻り、シルフィーンは寝台に腰掛ける。さっき見た夢を思い出そうとしたものの、それが何であったか思い出せない。ただ、良い夢でないことだけは確かだ。その証拠に、目が覚めた時に脂汗をかいていた。


「嫌になる……」


 記憶の欠落は、シルフィーンを苛立たせるばかりで、大切な何かを沢山忘れているような気がしてならないのだ。


 大きく溜息をついて、そっと耳朶で揺れる石に手をやる。初めてフェビアンから贈られたそれは、シルフィーンによく似合っていて、貰ってからずっとこればかり付けていた。


「陛下……」


 目を閉じ、夫である人の姿を思い浮かべる。今宵もリエナの部屋で時を過ごすのかと思うと、シルフィーンの心の中に小さな嵐が渦を巻く。これが何であるのか……理解はしている。


「わたくしは……」 


 頬に流れ落ちるそれに指で触れ、シルフィーンは顔を両手で覆った。


(しっかりしなくてはダメよ。わたくしは皇妃なのだから、こんな醜い感情は捨てなくてはいけない。国のために有ればいいだけの、その程度の存在価値しか、わたくしにはないのだから……)


 何度も何度も、己にそう言い聞かせる。この婚姻は求め求められではない。互いの気持ちなど、これっぽっちも関係ないのだ。


 ようやく涙も止まり、顔から手を離したシルフィーンの耳に、ローラの自分を呼ぶ声が聞こえた。


「お入りなさい」


 ゆっくりと扉が開き、ローラが入ってくる。


「あのぅ……リエナ様のお部屋に届けてまいりました」


 随分と時間がかかったことだと思いながらも、ふわりと笑って労いの言葉をかける。


「そう。ご苦労様でした。今夜はもうお下がりなさい。誰も控えなくていいわ」

「あ、はい」


 まだ何か言いたそうなローラであったが、開きかけた口を閉ざし一礼して出て行った。シルフィーンはドレスを脱いで夜着に着替えると、薄いカーテンを開け窓の外の月を見上げる。


 青白く光る、大きな丸い月。


 それを食い入るように見つめていたシルフィーンの頭に、突如鈍い痛みがはしった。


「つぅ……」


 ズキズキと痛むその頭を抱え、立っていられずにその場にしゃがみこむ。侍女を呼ぼうと顔を上げるが、皆下がらせてしまったことを思い出した。どうしようかと考えている間にも、痛みはどんどん強く激しくなっていく。


「あっ、あっ、誰か……だ、れか……ああっ、へ、いか……陛下……あああああっ」


 頬に床の冷たさを感じながら、シルフィーンは小さな呻き声を上げて、そのまま意識を手放した。


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