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初恋  作者: 朔良こお
本編
7/34

06

 花の盛りを迎えた皇妃専用の庭の、その一角で咲いている美しい白薔薇――リエナはそれを忌々しい気持ちで見ていた。

 まるでアレは、皇妃そのものではないか。穢れのない、白く、純粋な、身の内から輝きを放つ白き薔薇。フェビアンの心を縛る、唯一の気高き花。


 苛立たしげに舌打ちし、リエナはあの花がここに植えられた経緯を思い出し、ギリッと奥歯を噛み締めた。


 この庭で咲くアレは、昨年の花祭りで行われた薔薇の品評会で、満場一致で第一位に選ばれたものだ。フェビアンはその薔薇に「デリオラスの聖女」と名をつけた。

 本来、一位に選ばれた薔薇は、王妃に贈られるのだが、フェビアンには側室はいても妃はない。献上はされるが、おそらく側室の誰かに下賜するのではないかと、誰もが薔薇の行方に興味を持っていた。

 リエナもその中の一人だ。

 そして彼女は、自分こそがそうなのだと思っていた。

 数多いる側室の中で、フェビアンと肌を重ねている者は、片手で数えるほどしかいない。その中でも、一番回数が多いのがリエナである。故に周囲も、フェビアンが白薔薇を贈るのはリエナにだと思っていた。リエナ自身も、そう思っていたし疑いもしなかった。


 だが、いつまでたっても薔薇は彼女の許には来ず、それの行く先を耳にしたのは冬が過ぎた頃だった。




「陛下は皇妃専用の庭に、あの白薔薇をご自身で植えられたそうだ。しかも花師の所にある白薔薇を、陛下自ら赴き全て買い取って、庭に植えたというのだから驚きだ」




 デリオラス大陸の白薔薇――その名を知らない者などいない。


 そして今まさに、自分の目の前にいる小国の王女こそが、その白薔薇と謳われている人物だ。


 フェビアンは最初から、彼女をこの部屋に住まわせると決めていたのかと考えると、リエナの心中は穏やかでなどいられなかった。今は昔ほどの勢いは無いとはいえ、彼女とてこの部屋の主になれる家柄の出である。けれど他の女たち同様、いまだ側室という身分だ。

 側室は妻ではない。

 子供が生まれれば妻へと昇格する。呼び名も「夫人」となる。ただし「正妻」ではない。公には認められない「妻」であった。


 それなのに皇妃は、何の努力もせずに既に「妻」である。


 たとえ子供ができなくても、愛されてなどいなくても、離縁しなければ死ぬまで「正妻」なのだ。




「ねぇ、皇妃様。あたくし、貴女様にお願いがありますの」


 庭から室内に戻ったリエナは、ゆったりとした動作で長椅子に座り直すと、口許を扇子で隠しながら微笑んだ。それは同じ女性であるシルフィーンでも、ゾクリとするような妖艶な笑みであった。


「お願い……ですか?」


 何を言われるのか見当もつかない。だが、あの笑みを見れば、それがあまり良くない事のような気がするのはシルフィーンも感じていた。


「ええ。あの白薔薇、あたくしに譲ってくださいませんこと? ああ、花の部分だけでいいんです。花弁だけ。今宵も(・・・)陛下がおいでになるというのに、湯に浮かべるはずだった花が、新入りの侍女の手違いで届きませんの。ですからあたくし、とても困っていますのよ」

「それは……」


 お困りですね――と、口ごもるシルフィーンに、リエナは更なる追い討ちをかける。


「ダメですの? こんなにお願いしていますのに? もしやご自分の所へ陛下がおいでにならないからといって、あたくしをやっかんでおいでなのではありませんこと? だとしたら皇妃様ともあろうお方が、お心が少々狭くはありませんこと」

「なっ……」


 シルフィーンは海色の瞳を大きく瞠り、楽しげに目を細めこちらの反応を窺っているリエナを見た。わなわなと唇が戦慄くのが自分でも分かる。ここまで言われて、黙っている愚か者はいない。だが、今宵も――と、強調したリエナの言葉が耳から離れない。


「失礼いたします」


 シルフィーンが口を開きかけた時、ローラがお茶を持って戻ってきた。二人の前にある楕円形の低いテーブルに、紅茶の入ったカップを置く。立ち昇る湯気と一緒に、薔薇の香りが混ざっていた。リエナは手の伸ばしカップを取ると、香りを嗅いでから一口それを啜った。


「まあ、随分と上等な茶葉を使っていますこと。さすがは皇妃様。あたくし達とは大違いだわ。ああでも、これはどこのお茶かしら? ロワルデン内では流通していない物ですわね」


 驚いているリエナに対し、ローラが得意げに答えた。


「はい。これはロワルデンでは求める事のできない、貴重なお茶でございます。皇妃様のご実家であるクルスカにて、極小量しか作られていない茶葉だからです」


 薔薇の香りがする紅茶は、クルスカ城内の花園で偶然できた紅茶葉の亜種で、大量栽培が難しいことから一般には出回っていない。これを飲むことができるのは、王族と一部の高位貴族と高官だけだった。


「まあ、それはそれは……是非あたくしも欲しいわ。ねえ、お前。これは誰に言えば手に入るの?」

「それは……その……」

「はっきりおっしゃいな。主が主なら、侍女も侍女ね」


 ローラはちらりとシルフィーンを見てから、紅茶の入手先をリエナに告げた。


「トラヴァシュ殿から、いただいたのです」

「んまぁ、トラヴァシュ殿ですって!?」

「はい。皇妃様はこちらの物の方が、お好きだからとおっしゃって」


 トラヴァシュの心遣いに対し、シルフィーンの胸に暖かいものが込み上がる。思えばここに入った時から、当たり前のようにこの紅茶が出されていた。不思議には思っていたのだ。きっと彼が、兄に頼んでこれを送ってもらったのだろう。


「あらじゃあダメね。あの人、あたくしを嫌っているもの。ああそうだわ。皇妃様がわけてくださればいいのよ。よろしいでしょう?」


 挑むような、試されているような、そんな強気の視線に、シルフィーンは僅かに双眸を細めた。


「……ローラ、茶葉をリエナ殿に譲って差し上げて」

「皇妃様っ!」

「まあ、ありがとうございます皇妃様。それでは薔薇の件も、よろしくお願いしますわ」


 薔薇の件は承諾した覚えなどないが、そう言われてしまえばそちらも譲るしかない。


「後で侍女に、茶葉と一緒に届けさせましょう」

「ふふ。皇妃様がお優しい方で良かったですわ。薔薇の香りを纏ったあたくしに、陛下は今宵も満足してくださいますわね」


 ありがとうございます――リエナは口先だけの礼を述べ、温くなった紅茶を飲み干すと、用は済んだとばかりに控えさせていた侍女と共に自分の部屋へと戻っていった。

 それを見ていたのか、寝所に隠れていた猫が「にゃおん」とひと鳴きして出てきた。ふっさりした尻尾をゆったりと揺らしながら、優雅な足取りでシルフィーン傍まで来ると、彼女の膝の上に軽々と飛び乗る。大きな金色の瞳が、またもやシルフィーンを見つめる。顎の下を指先でくすぐってやると、猫は気持ち良さそうに再び喉を鳴らし始め、三日月のように目を細めた。そうしてうっとりとした表情をしたかと思えば、彼女の膝の上で丸くなりそのまま眠ってしまった。


「それにしても困ったわね。お前のご主人は、今頃お前を探しているかもしれなくてよ?」


 頭から背中へ優しく猫を撫でながら、いつしかシルフィーンも深い眠りの淵へと誘われていった。そんな主を、ローラは心配そうな顔で暫く見ていたが、踵を返し寝所から薄い掛け布団を持ってくると、彼女の体を横たえた。その際、猫は素早く飛び降りる。それを見て、ローラは苦笑を浮かべた。


「ったく、こんな所にいていいの? ご主人様が心配しているよ」


 彼女の体に薄掛けのそれを掛けながら猫にそう言えば、猫は問題ないとばかりに「うにゃん」と鳴くと、大きな欠伸をしながら体を伸ばした。そして軽やかに長椅子の上に飛び乗って、眠るシルフィーンと長椅子の背もたれの間の隙間に入り込む。そんな猫に、ローラは呆れたように肩を竦めた。


「さて、これを片付けなきゃ」


 二人分のカップを持って、ローラは静かに部屋を出て行く。扉が閉まる直前、振り返り眠るシルフィーンを見たが、それに気がついた猫が薄っすらと片目を開け、さっさと行けとばかりに尻尾を大きく立てに揺らした。




**********




 カタリと小さな音で、それは目を覚ます。閉まっていたはずの窓が静かに開き、ふんわりと風が薄いカーテンを揺らした。


「ここにいたのか、悪い子だね」


 やっと迎えに来た飼い主の姿を見て、猫は「にゃおん」と嬉しそうに鳴くと、金色の瞳で主をじっと見上げた。主はくすりと笑うと、大きな手で猫の頭をひと撫でし、宝物のようにそっと猫を持ち上げる。


「さあ、部屋に戻ろうか」


 うにゃんと返事をしたものの、まだ長椅子で眠るその人を、猫は心配そうに振り返る。そして、非難めいた視線を主へと送った。


「……分かっているよ、お前が何を言いたいのか」


 溜息をつき、猫を床へと下ろすと、音を立てないように反対側へと回り込む。床に片膝を付いて、規則正しい寝息をたてるその人の、麗しい寝顔を覗き見た。




 真珠のような白い肌。


 なだらかな曲線を描く額。


 形の良い弓形の眉に、海色の瞳を縁取る長い睫毛。


 すきりとした鼻梁は高過ぎず低過ぎず。


 ぷっくりとした愛らしい唇は、なんとも甘そうで美味しそうだ。




 それらをそっと指先でなぞっていく。今はかたく閉ざされて見ることのできない彼女の、その瞳よりも濃い色の石が付いたイヤリングが、柔らかな耳朶を飾っていることが嬉しい。彼女の背でうねる金糸の髪に指先を絡め、まるでそれが神聖な行為であるかのように己が唇をそっと寄せた。


「……フィーン」


 切なげに囁く。


「僕の……白い薔薇……」


 控えめな色の紅を刷いた唇に、彼はゆっくりと自分のそれを重ねた。


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