05
青味がかった灰色の長い毛並みのその猫は、まるで自分が以前からこの部屋の主であるかのように、クッションの置かれた長椅子で堂々且つ優雅に午睡を貪っていた。
「これは困ったわね……。ねぇお前、どこから来たの? わたくしに教えてちょうだいな」
そう言いながら艶の良い毛を撫でると、猫は薄っすらと目を開け、金色の瞳でシルフィーンを見る。
「あら変ね。なんだかわたくし、お前を初めて見た気がしないわ。どこかで見たような気がするの。でも、どこでかしら……」
首を傾げて考えるものの、どこで見たのか思い出せない。もしかしたら本当に、この猫を見るのは今日が初めてなのかもしれない。でも、何故だか、絶対に、どこかでこの猫を見た気がするのだ。
うんうんと唸っていると、ようやくある事を彼女は思い出した。
「ああ、そうだわ。そうよ。きっとお兄様の所よ!」
青灰色の毛色は、彼女の兄が最も好む色であり、無類の猫好きである彼の居住区にはこの色の猫が数多いて、猫達は我が物顔で闊歩している。小さな頃から飼っている猫は、既に寿命が尽きてしまったが、子や孫の世代がおり、それらと目の前にいる猫はとても良く似ているのだ。
まさかねぇ――とは思うものの、兄は信頼している(心を許している)相手には、自分の所の猫をあげる癖があった。
「ねぇ、もしかしてお前……アッシュ殿の猫ちゃんじゃないの?」
優しく囁きかけるように猫に問う。もちろん返事はない。けれどシルフィーンの中では、この青灰色の猫はトラヴァシュの猫である――と、半分ほど決まりかけていた。何故ならクルスカにいた時、彼はあの兄と親しくしていたのだ。だから兄が、彼に自分の猫をあげた可能性は充分ある。生まれたばかりの仔猫であれば、今頃、目の前の猫くらいになっているはずだ。
庭でトラヴァシュと会ったあの日から、少しではあるが思い出した事がある。
もちろんそれは彼に関する記憶だ。
だから何故、彼を「アッシュ」と呼んでいたのか……その理由だって今はちゃんと分かっている。幼子にはトラヴァシュというのは発音し難く、彼の名の後半の“ヴァシュ”が“アッシュ”になって、それが彼女の中で定着してしまったのだ。
トラヴァシュには妹がおり、彼女はシルフィーンよりも二歳年上であった。兄とは違い薄い色合いの髪と瞳で、可憐な感じの子であった。名前はまだ思い出せないが、兄達が遊んでいる横で、彼女と一緒に花冠を作ったりオママゴトをして遊んだり、兄の猫達にブラシをかけてあげたりした。
今度会った時に、彼女の事を訊いてみようと思っていたのだが、あれ以来、トラヴァシュとは一度も会っていない。
彼の妹は自分よりも年上であったから、きっともう嫁いでしまったかもしれない。子供もいるかもしれない。もしかしたら自分の事を忘れてしまったかもしれない。
けれどもし、彼女が嫌でないのであれば、幼い頃のように仲良くしたかった。
知り合いのいないこのロワルデンで、心を許せる相手が欲しかった。
皇妃としてではなく、シルフィーンとして自分と接してくれる同性の相手が……“友”が、彼女は欲しかった。
猫の横に腰掛けると、その小さな頭を優しく撫でる。猫の目はすぐに細い月のようになり、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。可愛らしいこと――と、目許も自然と和らぐ。クルスカでもよく、こうして猫を撫でながら兄弟とお喋りをしたものだ。その時テーブルに並んでいたのは、お菓子作りが得意な副料理長自慢の菓子であり、兄が密かに栽培し株を増やしている特別なお茶であった。
侍女に頼んでトラヴァシュに問い合わせてみようかと考えていると、部屋の扉が控えめに数回ノックされた。入室を許可すると、一番年若い侍女のローラが、おずおずと中へ入ってきた。
「皇妃様、あの……」
鼻の頭にそばかすを散らしたローラは、シルフィーンの傍までやって来ると、困ったように眉根を寄せる。
「ローラ、どうかしましたか?」
「はい。その……あのですね……」
言い難そうにモジモジしているローラに、やんわりと微笑んでみせる。自分より一つ年下の彼女は他の侍女らと違い、純朴な感じがしてシルフィーンは好きだった。あまり気が利くほうではないけれど、それは侍女としての年月が短いせいであり、後一年もすれば他の侍女らと何ら変わらぬ働きを見せてくれるだろう。
「えっと、ですね。リエナ様が、皇妃様にお会いしたいとおっしゃられていまして……」
「リエナ様?」
誰だったかしら?――と、ちょこんと首をかしげるシルフィーンに、ローラはさらに言い難そうに言葉を続けた。
「はい。あの、その、陛下のですね、愛妾のお一人でして……」
歯切れの悪い言い方に、シルフィーンは「あぁ……」と小さく頷いた。リエナとは、先日あからさまに彼女のことを軽んじた女性だyった。
彼女は後宮の庭で多くの取り巻きに囲まれ、声高にフェビアンとの閨の話しをしていた。そして、あのすばらしさを知らないでいる、可哀想な方がお一人いらっしゃるわね――と、たまたまそこを通ったシルフィーンに、リエナはわざと聞こえるように言ったのだ。その後、今気がついたとばかりに「まあ、皇妃様ではありませんか!」と、彼女はシルフィーンに話しかけてきたのには驚いた。
彼女は優雅に微笑みながら、シルフィーンを頭の天辺から爪先まで見ると、「随分と長い髪ですこと。お切りにならないのですか」と言って、真っ赤な唇の両端を上げた。
どうやら彼女は、シルフィーンの髪の事について知っているようで、細められた瞳は彼女を嘲笑しているかのようだった。
「いかがいたしましょう?」
「そう、ね……」
会いたくなど……ない。
自分は皇妃だ。会いたくなければ、会わなくたっていい立場にある。
だが、もしここで断れば、リエナに対し弱腰だと周囲に思われてしまうかもしれない。
自分は正妃であり、唯一の妻なのだ。
愛妾ごときに、臆してはならない。
「もしかして、今いらしているの?」
約束も無しに自分より上の立場にいる相手の所へ押しかけるのは、それは王侯貴族の社会において絶対にしてはいけない事である。もしもリエナがそれを破り、今、直接ここへ来ているのであれば、それは皇妃であるシルフィーンを軽んじている証拠であり許しがたい行為であった。
「いえ。侍女が申し込みにきているだけです」
「そう。それではその侍女に、お会いしますと返事をしてちょうだい」
「よろしいのですか?」
「ええ。かまいません」
「はあ……そうですか」
何か言いたげなローラを促し、侍女の待つ控えの間へと行かせる。ほどなくして自分の侍女を連れて、リエナはシルフィーンの部屋へとやって来た。羽根のついた扇子を優雅に扇ぎながら、艶やかな絹のドレスを纏った身体はひどく肉欲的で官能的だった。
「何かわたくしに御用ですか? リエナ殿」
ぐるりと室内を見回してから、リエナはようやくシルフィーンを見た。
「いえ別に。一度この部屋に入ってみたかっただけですわ。あら、綺麗な猫ですこと」
彼女が触ろうと手を伸ばすと、眠っていたはずの青灰色の猫は、パッと目を覚まし長椅子から飛び降りた。そして素早く寝所の方へと走っていく。それを見てリエナは不快気に眉根を寄せ、そしてシルフィーンを見た。
「ねえ皇妃様。あなた様のお国では、部屋を訪ねてきた相手に、椅子に座ることも勧めなければ、お茶の一つも出してはくださらないの? それともあれですの。陛下の寵愛を一番に受けているあたくしへの、嫌がらせですの?」
高慢ともいえるその態度に、シルフィーンは喉まで出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。控えていたローラにお茶の用意をするよう言いつけると、リエナに座るよう椅子を勧める。彼女はドレスの裾をふわりとさせて座ると、あからさまにもう一度寝所の方を見た。
「やはり皇妃様ともなると、随分と大きな寝台をお使いですのね。羨ましいわ、あんなに広い寝台をお一人で使えるんですもの」
クスクスと笑う。だがその目は少しも笑ってはいなかった。蔑んでいるようにしか見えなかった。
「あたくし、陛下にお願いして、もう少し大きな物と取り替えていただこうかしら? 二人で眠るには狭いんですもの。ああ、でも……その分体が密着するから、それはそれで良いのですけれど」
うふふと含みをもたせて笑うと、リエナは胸元を寄せるような仕草をした。その豊かな胸元に、紅い痕がちらりと見えた。
(ああ……この女性は、これを見せつけたかっただけなのだわ。昨夜も陛下が自分の許へ来たということを……そこで何があったかということを……彼女はわたくしに知らしめたかっただけなのだわ)
王族たるもの、感情を表に出してはならない――そう教育されたシルフィーンである。どんなに心の中が乱れようとも、それを表に出すようなことはない。
だから表情を変えることなく、彼女はリエナを見ていたのだが、何かに気がついたらしいリエナの顔が不快げに歪んだ。そして彼女はおもむろに立ち上がると、窓の方へと行き庭にでる。そして数歩進んだ所で足を止めた。
突然の行動に、シルフィーンは顔を顰める。リエナは一定の方角を見ているのだが、後ろ姿ゆえ、その表情は分からない。だが、心なしか肩が震えているように見えた。
彼女の視線の先にある物――それが何であるか、庭の様子を思い出す。
だが、何も浮かんではこない。
リエナが気にするような物が、この庭にあるとはシルフィーンには思えなかった。
「何なのかしら、一体……]
小さくそう呟くと、シルフィーンは口許を右手で覆い、うんざりしたように溜息を一つついた。