04
「いつの間に扉など? こちらにきて一月になりますが、わたくし、そんな物があるなんて知りませんでした」
少々の困惑を含んだシルフィーンの問いに、トラヴァシュは苦笑を浮かべた。彼女が扉に気がつかなかったのは、当然といえば当然である。シルフィーンがこちらに来る前に、壁をぶち貫き大急ぎで扉を付けたのだから。
フェビアンに内緒でクルスカに使者を向かわせた翌日、ヴィクタスは朝議の席で集まった各省の長官と副官を前に、皇帝私室の庭と皇妃の間の庭の間にある壁に扉を付け、自由に行き来できるようにすると言い出した。
唐突なそれに、彼が何故そんな事を言い出したのか、誰も理由が分からなかった。もちろん皇帝本人もだ。
当然のことながら、フェビアンは反対をした。
そんな物は必要ない――と。
けれどヴィクタスは引く気などなく、絶対に作ると言い張った。シルフィーンの婚姻に横槍を入れた事を内緒にしている手前、扉を付ける理由を言えないのが酷くもどかしかったが、それを喉の奥へ押し遣り堪えた。
言ってしまえば楽である。
きっとフェビアンも反対しないだろう。
だが、考えたくもないが、万が一という事もある。いくらロワルデンが軍事国家として大陸中に名を馳せていようと、誰も彼もが帝国の言いなりになるとは限らないのだ。
だから万が一を、彼女を手に入れられなかった場合の事を、ヴィクタスは考えて言葉を選ばなくてはいけなかった。
彼はさもそれが必要であるかのように、適当な理由を考えフェビアンを説得しだした。
さすが口先だけで、色々と丸め込んできた男である。渋々ではあったが、フェビアンもヴィクタスの提案を許可した。皇帝自身が許したのだから、他の者達が反対などできるはずなどない。中には娘を後宮に入れている者も何名かいたが、皆、黙ってそれを受け入れた。
ヴィクタスが至極真面目な顔で言ったのは、次のような事であった。
皇帝の私室に庭と、皇妃の間の庭は壁を挟んで隣同士であり、皇妃の庭は皇妃の間からしか入ることができないため、他の側室達に見られることなく、自分の都合で自由に行き来ができる。
現在、後宮には数多の側室がおり、たいへん面倒臭い状態であるため、正妻とはいえ後からきた皇妃の許へ足しげく通えば、後宮にありがちな女同士の諍いが起こり皇妃の身に危険が迫る可能性が高い。下手をしたら、命さえ危うい状況になりかねない。
そうならないためには側室を早々にどうにかするのが一番である。
だが、それができないのであれば、扉で自由に行き来できるようにするべきだ。
と。
それはもう、きりりと表情を引き締め、堂々と言いきったのだ。
信頼している者にしか、これは言っていないのだが、実はできるだけ早い時期に、後宮の規模を縮小するか、後宮そのものを無くしてしまおうとヴィクタスは考えていた。皇家存続の必要性はあるが、一夫一妻が望ましいと彼は思っているからだ。
本音を言ってしまえば、今すぐにでも後宮を無くしてしまいたい。そもそも後宮の費用だけで、かなりの額が毎年使われているのだ。側室達は寵愛があろうとなかろうと、湯水のように金が湧くとでも思っているのか、それともそうすることが許されていると思っているのか、贅沢をする者が非常に多い。
正直、彼女達はお荷物でしかなく、後宮費がなくなればその分を教育や医療に回せるのだ。その方がどれほど国のためになるか……私腹を肥やすことに夢中の腐れ貴族には、その事に気づきはしないだろう。
そもそも、何故こんなにも側室が多くなってしまったのか?
ありきたりではあるが、それにはそれなりの理由があった。
後ろ盾の弱い皇帝は、己が考えや意見を通すのは難しい。己が意見を通すにはためには、有力貴族の娘や縁者を後宮にあげ、寵を与えるのが手っ取り早い。これは昔からの定石で、そうすればその側室の父親や一族が味方につき、意見も通り易くやりたいことがやれるようになるのだ。
代々の王は、そうして政をやり易くしていった。だからフェビアンも、先王達に倣いそうした。側室を数多後宮に入れることを、彼は許した。
人質的な意味合いもあるのだが、私利私欲に走った貴族達が、その思惑にまんまとのっかった。その結果が、今現在の側室の数である。全員に手をつけてはいないが、おそらく歴代一の数の多さだろう。
だが、膨れ上がった側室の数は、なにもフェビアン一人だけの責任ではない――そうヴィクタスは思っている。
望んでもいない皇帝位に就いた彼が、皇帝としてどうあるべきかと考えた時、歴代の王達を参考にするしかなかった。彼らが通ってきた道を、自らも通るしかなかったのだ。
それでも最初の頃は、まだ戸惑いがあった。
けれどそれは、徐々に無くなっていってしまった。
感覚が、おかしくなっていったのだ。
皆の望む皇帝になろうと努力すればするほど、フェビアンはフェビアンでなくなっていった。
気がつけば、冷徹な男になっていた。
皇帝と呼ばれるのに相応しい、誰もが恐れる男になっていた。
武力により領土を広げ、自国を豊かにし、人々に富をもたらす――それは皆が求める皇帝像であった。
皆が求める皇帝になろうとしたばかりに、自分自身を見失ったフェビアン……シルフィーン同様彼もまた、皇帝とはこうあるべきという仮面を被っているのだ。そしてそれが、取れなくなってしまった。
フェビアンがフェビアンでなくなった結果、領土が拡大し国が豊かになったのは良かったと言えよう。そのせいでフェビアンには、嬉しくもない二つ名がついてしまったが………。
元々は心優しい、穏やかな少年であった。
その心優しい少年が、冷酷で冷徹な皇帝となってしまったことに、ヴィクタスをはじめ側近達は皆心を痛めた。自分達が不甲斐ないせいもあったのだが、おかしくなっていくフェビアンを止められなかった事が一番腹立たしく、だからこそ、時折垣間見える本来の彼の姿に、まだ大丈夫かもしれないと僅かだが望みを捨てずに持っていた。
本来の彼が現れる時、その切欠の中にクルスカの王女がいた事に気がついたのは、おそらくヴィクタス一人だろう。彼は彼女さえ彼の傍にいてくれれば、完全に元の優しいフェビアンに戻るかもしれないと思った。
彼女の婚姻が決まりそうだと知った時の、フェビアンの呟いた言葉で、彼の彼女に対する執着の深さを確信したヴィクタスは、シルフィーンの婚姻に強引に割り込んだのだ。
全ては本来のフェビアンを取り戻すため――ただそれだけのために、彼はシルフィーンをロワルデン皇帝妃にしようとした。彼女に皇妃としての資質があるかどうかなど、そんなものは関係ない。シルフィーンさえ手に入れば、あとはどうでも良かった。
本当に好きな相手と愛を育み、幸せになってもらいたい――ただそれだけなのだ。
彼が望むことは。
帝国のために妻を選ぶのではなく、フェビアン自身のために心から愛している相手を妻にし、生涯を添い遂げてほしい。だからそのために、ヴィクタスはどんな手を使っても、シルフィーンを皇帝妃にしたかった。それが自分にできる、唯一の償いであったから。
有力貴族の娘を側室にし、政をやり易くする必要ない。
もう終わっても良い。
それだけの力を、フェビアンはこの数年間の間に充分つけたのだから。
「あれです」
「まあ、本当にあったわ」
中宮と後宮を隔てる白い壁が見え、トラヴァシュよりも頭三つ分ほど高いそれの一部に、飴色の扉が一つ付いていた。この扉の向こうに、皇帝の私室に面した庭があるのだ。シルフィーンの心臓が、もう一度大きく跳ねる。
「ここより先は、陛下の私室の庭となりますが……本当によろしいのですか?」
こくり――と頷いたの見て、トラヴァシュがそっと扉を押し開ける。ゆっくりとした足取りで、シルフィーンは扉の向こうへと入った。
目的の人物は東屋なのであろう……半円形の屋根の付いたそこで、クッションを並べた長椅子に仰向けで寝そべっていた。相当疲れているのか……秀麗な顔には疲労の色が濃い。このまま寝かせてあげた方がいいのではないかと、シルフィーンは声をかけるのを躊躇ってしまった。だが………。
「陛下、起きてください」
彼女の心情を読み取ったトラヴァシュが、控えめな声でフェビアンに呼びかける。とても小さな声だったが、フェビアンはそれに反応し、のろのろと目蓋を上げた。そして声の方へと僅かに顔を傾けると、前髪の隙間から、とろんとした若葉色の瞳が二人の姿を捉えた。
「ひ、め?」
ハッとして、勢い良く起き上がったフェビアンに、シルフィーンは申し訳なさそうに眉根を寄せる。驚きを隠せない様子の彼に、トラヴァシュにもう一度助けてもらおうかと、シルフィーンは彼のいた方を見た。が、いつの間にか姿が消えていた。つまり東屋には、フェビアンとシルフィーンの二人しかいないということだ。自力でなんとかするしかない……シルフィーンは小さく一呼吸すると、まずは「おやすみの所、申し訳ありません」と謝罪を述べ、それから優雅に微笑んだ。
「イヤリングのお礼を、どうしてもわたくし自身の口から言いたく、トラヴァシュ殿に無理を言って連れてきてもらいました。陛下……あの、ありがとうございました。とても嬉しゅうございます」
フェビアンから目を逸らさずに、正確な発音のロワルデン語でそう礼を述べる。だが、フェビアンは何も言わない。黙ったままシルフィーンを見ていた。
「あの、陛下?」
僅かに顔を顰めたフェビアンに、シルフィーンは自分が何か失敗をしてしまったのではないかと急に不安になった。ドクドクと心臓の音がうるさく、早くここから立ち去らなければと、さらりとお辞儀を一つして身を翻した刹那、皮肉を含んだ冷たい声音が彼女の背中にぶつけられた。
「クルスカの宝石は、案外大胆でいらっしゃる」
その言葉に、シルフィーンは眩暈を起こしそうになった。
(ああそうだ。そうだった)
自分がどんな立場にいるのか、フェビアンからの贈り物が嬉しくて失念していた。これは失態である。市井ではどうか知らないが、女から男の許へ行くなど、例えどんな理由があっても、貴族の……ましてや王族の女がしてはいけない事なのだ。
きゅっと唇を噛み、シルフィーンはもう一度フェビアンの方を向くと、震える声を押さえ込み、謝罪の言葉を述べて深く頭を垂れた。そして逃げるように、彼女は後宮へと続く扉の方へと駆け出した。その後ろ姿を、フェビアンが苦しげに見つめていたとも知らずに………。
「まったく、お前って奴は……」
呆れて何も言えない――と、フェビアンの私室から庭に出てきた黒衣の副宰相は、東屋の近くまで行くと、わざとらしく大きな溜息をついた。膝の上で拳を握りしめているフェビアンを、酷く冷めた目で見やる。
「どうして傷つけるような事を言う? せっかく王女の方から、お前の許を訪れたというのに……あれじゃ彼女が可哀想だろが」
普段は何があっても臣下らしく振舞うヴィクタスであるが、今は怒りのためだろうか……従兄として、素でフェビアンに対している。皇帝である彼を「お前」呼ばわりできるのは、この国広しといえども、ヴィクタスただ一人であった。
「黙れヴィクタス」
「いいや、黙らないね。フェビアン、お前、何を考えているんだ? 折角の機会を」
「黙れっ!」
鋭い一喝に、ヴィクタスはぐっと喉を詰まらせた。
「いい加減にしろ。いくら従兄でも、お前の首などいつでも刎ねることができるんだ。その無駄に滑る口を閉じろ」
ぎろりと睨みつけ、フェビアンは立ち上がると、東屋の階段を下りた。むっつりとしたまま、視線すら合わせようとせず、彼はヴィクタスの横を通り抜ける。庭に面した大きな窓から室内へ入り、彼はそのまま寝所へ向かい寝台に身を沈めた。
「一時間したら起こせ」
扉の近くで立っているヴィクタスにそう告げると、フェビアンは静かに目を閉じた。酷く昂り荒れている己の感情を抑えるために、彼はゆっくりとした深呼吸を繰りかえす。
「了解……」
ぱたりと寝所の扉を閉め、ヴィクタスは嘆息すると、後宮のある方角へ視線を向けた。
「どうしたらいいんだ」
シルフィーンと共に過ごす夜は、いまだ訪れることはなく、彼女の髪は長いままである。
このままではいけないと思っていても、どうすることもできないでいた。
何がフェビアンを、あそこまで意固地にさせているか?――その理由を考えてはみるものの、ヴィクタスに思い当たる事は何もなく、ただただ溜息しか出てこない。
小さなことで良い、何かきっかけさえあればきっと、フェビアンはシルフィーンの許を訪れるだろうに……その何かが分からないのだ。
「いや、待てよ。そうだ……そうだった。その手があったじゃないか」
ヴィクタスはニヤリと口角を吊り上げ、悪戯を思いついた子供のように目輝かせた。