03
部屋に面した庭の奥まった場所で、シルフィーンは大きな木の根元に座り、ぼんやりと空に浮かぶ雲を眺めていた。芝生の上に、彼女の淡い金糸の髪がうねっている。それをちらりと見て、シルフィーンは小さく嘆息した。
クルスカには、他の国にはない風習があった。それは何かと言うと、初潮を迎えたクルスカの女性は皆、結婚するまで後ろ髪をある一定の長さで保たなくてはいけない――というものである。そして初夜を終えた翌日、その長く伸ばされた髪を夫の手によって、夫の好みの長さに切ってもらうのだ。
いつからそんな事が始まったのか、それは分からない。少なくとも百年以上前なのは確かだ。シルフィーンも十三の春から髪を伸ばし始め、お尻が隠れる長さで今日まで保たれている。
後宮入りして一月――既に婚儀も済み、シルフィーンを皇帝の正妻として、そしてこの国の皇妃として、国民に対してのお披露目も済んでいた。だが、それだけだった。対面式で一度、そして聖堂での式と披露のための式典でもう一度、それ以外で彼女がフェビアンと会うことはなかった。
(陛下は、わたくしのような女はお嫌いなのだわ。だから一度も、夜の訪れがないのよ)
脳裏に、後宮に住む妖艶な女性達が浮かぶ。正式な妻はシルフィーンただ一人だが、彼女が輿入れするよりも前に、フェビアンには数多の側室が入宮していた。
故国の父王でさえ、側室を持ったのは正妃が第一子を生んでからだった。だからそれが普通だと思っていた。
けれどロワルデンでは違うようで、嫁ぐ前から聞いて知ってはいたものの、実際彼女らを目の当たりにすると、自分は何のためにいるのか分からなくなった。中には身分の高い女性もおり、わざわざ他国の……しかも何の利益ももたらさないであろう小国の王女を皇妃にする必要などないように思えるのだ。
その証拠に、シルフィーンの部屋に訪れなくても、他の部屋には行っているようで、後宮内ですれ違う彼女らのその白い肌に、生々しい夜の名残が見られることがあった。それはシルフィーンの心を酷くざわつかせた。
(わたくしは正妻であっても、所詮はお飾りの妻なのだから、彼に愛されようなどと思ってはいけない……)
ふうっと溜息を吐き、シルフィーンはゆっくりと目蓋を閉じる。対面式の時の、フェビアンの姿を思い浮かべた。
少し癖のある漆黒の髪は夜空のようで、若葉色の瞳は春の森を思わせる。男性にしては中性的な容貌で、あれで背が低ければ女性だといっても誰も疑わないだろう。感情を綺麗に隠し、ひどく冷めた瞳でシルフィーンを見据えていた。それでも彼の涼しげな美しさは、その場にいた他の誰よりも抜きんでており、彼と目が合ったほんの一瞬、息をするのを忘れるくらいシルフィーンはフェビアンに見惚れてしまった。
(あの口づけ……)
カァーっと、頬が朱に染まる。初めての口づけが、衆人の前でおこなわれるとは思ってもいなかった。慣例に則ってのことではあるが、シルフィーンにとってそれは初めての行為であり、できることなら二人だけの時にしてほしかった。
(あぁ嫌だ、わたくしったら。こんな事を考えるなんて……ダメね)
フェビアンの唇の感触を思い出し、シルフィーンの頬がさらに赤くなる。誰か見ていないかと、キョロキョロと辺りを見回した。が、シルフィーン以外、そこには誰もいない。何故なら彼女がいるのは、皇妃専用の庭だからだ。侍女達には、呼ぶまで誰も来ないよう言ってある。
(わたくしはクルスカの王女……それを忘れてはダメ。わたくしは王女……クルスカの王女……)
自身に言い聞かせるように、シルフィーンは何度も何度も呟いた。
王女としてどうあるべきか――あの事故以来、嫌というほど叩き込まれてきた。個としての感情を全て消し、公としての自分を作り上げてきた。そしてロワルデンが求めているものは、個ではなく公としての自分だ。それ故、彼らの理想の皇妃にならなくてはいけない。
再びそうっと目を閉じる。浮かんだのは下の弟の、はにかんだ少年らしい笑顔。ちゃんとお別れができなかった。それだけが心残りだ。
「マルティス……怒っているかしら? 魚釣りに行くと、随分前に約束をしていたのに、わたくし……それを破ってしまったわ」
少し年の離れた異母弟は、シルフィーンのことを慕ってくれていた。彼の柔らかな栗色の髪を櫛で梳くのが、彼女の日課の一つだった。
今は誰が、あの子の髪を梳いているのだろうか?
シルフィーン以外に、絶対に触れさせなかった。
姉上だけですよ――と、楽しげに囁いたマルティスの、その笑顔はもう見ることができない。
じわりと涙があふれ出し、それをレースのハンカチでそっと拭った。
もうそろそろ部屋に戻ろうかと立ち上がろうとした刹那、草を踏む足音がして反射的にそちらへ顔を向ける。ユスティの着ていた騎士服と、よく似たものを着ている青年がひょっこりと現れた。
「貴方は……」
ふわりと優しく微笑むその顔を、シルフィーンはどこかで見たような気がした。それがどこであったのか、すぐに思い出せるものでもなく、だからといって時間をかければ思い出すことができるとも限らない。記憶の一部が欠落しているせいだ。けれどこうも懐かしく思うのは、やはり自分と関係があるからだろう。こんな時、無駄に記憶力の良い兄がいれば、すぐにその人物が誰なのか教えてくれたものを………。
ここは皇帝以外の男子が入ることのできない場所ではなかったのだろうか?――身構えるシルフィーンに、青年は懐かしそうに目を細め、流れるような動作で地面に片膝を付いた。
「お久しゅうございます、シルフィーン様」
「あ、あの……」
久しぶりと言われても、彼の名前すら分からないし思い出せない。困惑している彼女に、青年は穏やかな口調で続ける。
「トラヴァシュ=ラルダにございます。幼少の頃、在クルスカのロワルデン大使であった父と共に、クルスカの王都にある大使館で暮らしておりました。兄君である王太子殿下と野山を駆け回り、シルフィーン様とも親しくさせていただきました」
「兄様の……」
シルフィーンは細く頼りない記憶の糸を手繰り寄せながら、目の前の青年――トラヴァシュを見上げた。ぎゅっと双眸を細め、彼の精悍な顔立ちの中に、何かを見つけようと必死に探る。
ふと、幼い頃の面影が見え隠れした。
その瞬間、パチンと何かが彼女の頭の中で弾けた。
「お尻の火傷の痕は……今も残っているのですか?」
その問いに、トラヴァシュはギョッとなったが、すぐにその口許を綻ばせる。自分を思い出してくれた事が、とても嬉しいからだ。
「はい。しっかりと」
お見せできないのが残念です――と、軽口を言ったトラヴァシュにシルフィーンは目をパチクリさせたが、すぐに可笑しそうにふふふっと笑った。
「クルスカにいた頃の夢を、今でも時折見ることがあります。私達は幼く、男でも女でもなく、ただ日が沈むまで一生懸命遊んでいました」
シルフィーンの兄である王太子ウィルデリークには、彼と年の近い少年達が“ご学友”という名目で集められていた。トラヴァシュもその中の一人で、彼は唯一の他国人だった。そして何故かウィルデリークは、自国人よりも他国人であるトラヴァシュを気にいり、ほぼ毎日二人は一緒にいる状態だったのだ。
ウィルデリークは少し気難しいところがあり、少しでも気にいらない者は傍に寄せない。おかげで気がつけば、沢山いたはずの“ご学友”の少年達はトラヴァシュ一人になっていた。これはこれで問題だと思うのだが、本人達は当時そうは思っていなかった。子供だったからだろう。
「トラヴァシュ殿……」
「どうぞ昔のようにお呼びください。そして昔のように“フィーン様”と呼ぶことをお許しくださいませんか?」
「……」
息を飲み目を瞠ると、シルフィーンは視線を落とし、ふるりと頭を緩く振った。
「ごめんなさい。わたくし、貴方をどう呼んでいたのか……そこまではまだ思い出せないのです」
「シルフィーン様」
「覚えて、いないのです。記憶の一部が欠落してしまって……だから、ごめんなさい」
あぁ、そうだった――と、トラヴァシュは浅く息を吐いた。
馬車の転落事故に遭ったせいで、シルフィーンが記憶の一部を失ったことは、あの時クルスカにいたトラヴァシュも知っている。彼女が事故に遭ったあの夜は、新しい在クルスカロワルデン大使の歓迎のための舞踏会がおこなわれ、そこにトラヴァシュの父であり前大使となったナフマンと一緒に、彼と彼の弟も出席していたのだ。
事故を知ったのは翌日であった。
すぐに駆けつけたかったが、シルフィーンの意識が戻らず、兄であるウィルデリークでさえ入室禁止の状態だった。
ようやく彼女の許へ行けたのは、帰国の前日で、その時運よく意識を取り戻した彼女と、ほんの少しだけ話しができた。
後ろ髪を引かれる思いで、ロワルデンへと帰国したトラヴァシュだったが、シルフィーンのことが気がかりで何も手につかない日々が続き両親を心配させた。目を覚ました直後は、まだかなり覚えていた彼女だったが、その後再び昏睡状態となり、次に目を覚ました時にはさらに記憶が欠落してしまっていた――と、帰国後に届いたウィルデリークからの手紙にはそう書いてあった。
「幼い頃のシルフィーン様は、私を“アッシュ”と呼んでおられました。ですからどうぞこれからも、私のことをそう呼んで下さいませんか?」
幼子には彼の名である“トラヴァシュ”というのは発音し難く、名の後半であるヴァシュがアッシュとなりそれが呼び名となった。もちろんこれは、彼女だけの呼び名だ。
「ですが、わたくしはもう幼子では……」
「そう呼んでいただきたいのです。私が」
じっと、焦げ茶色の瞳がシルフィーンを見つめる。どうやら一歩も引く気はないようだ。
「わかりました……。それではわたくしのことも、昔のように“フィーン”と呼んでください」
「はい。ありがとうございます……フィーン様」
トラヴァシュはシルフィーンの右手を掬うように持ち上げると、その細い指先に唇を寄せた。じわりと、指先から優しさと温もりが伝わる。どうして自分は、この人を忘れてしまったのだろう――と、シルフィーンはグッと奥歯を噛み締めた。
「ところでアッシュ殿。貴方はどうしてここにいるのです? ここは男子禁制のはずでは?」
さっきから疑問に思っていたことを口にすると、トラヴァシュはにこりと笑った。
「ああそのことですか。実は、ここは陛下の私殿である中宮の庭と繋がっているのです。私は陛下の雑用係兼近衛でして、幼い頃にフィーン様とも親しくしていたこともあり、ここに入ることを特別に許されているのです」
もちろん後宮の建物には、絶対に近付きませんが――と、彼は付け加える。
トラヴァシュの話によると、この庭だけ中宮のフェビアンの部屋に面した庭と繋がっているということだった。もちろんその間には壁があり、その一部を壊してそこに扉をつけ通れるようにしたのだ。今現在、ここを使うことを許されているのは、トラヴァシュとヴィクタスの二人だけである。
「もう行かなくては……。アッシュ殿、貴方に会えてとても嬉しかったです」
「私もですフィーン様。ああっ、そうだ! すっかり忘れていました」
「なあに?」
トラヴァシュは上着のポケットから、小さな小箱を取り出した。
「陛下から、フィーン様への贈り物です」
「陛下から?」
「はい。どうぞ開けてみてください」
包みを受け取ると、言われたようにその場でそれを開ける。
「まあ……」
それは小指の爪ほどの大きさのある、海の色の宝石が嵌め込まれた耳飾だった。大き過ぎず小さ過ぎず……自己主張せず控えめで、それはシルフィーンが最も好むものであった。
「綺麗……。あの、アッシュ殿。陛下にお礼を言いたいのですが、会うことは無理なのでしょうか? ほんの少しの時間でいいのです」
「フィーン様……」
お願いします――そう言って、シルフィーンは切なげに眉根を寄せてトラヴァシュを見た。
ロワルデンに来てから、彼女が何かを願ったのは、これが初めてかもしれない。しかもなんとも可愛らしいお願いではないか。
これは叶えてさしあげなくては――と、トラヴァシュは思った。とはいえ、勝手に中宮に連れていくは拙い。いくら夫婦といえども、皇族には色々と面倒な決まり事があるのだ。
だが、彼の体は自然と次の行動に移っていた。シルフィーンの手を取り、それを己の腕にしっかりと絡めた。
「どうぞこちらです。今なら執務室から、戻っておいでかもしれません」
「ありがとう」
トラヴァシュと一緒に、シルフィーンは中宮へと向かう。
心臓がうるさいくらいに跳ね上がる。
フェビアンに会えるかもしれない――シルフィーンの口許は自然と柔らかな弧を描いた。