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初恋  作者: 朔良こお
本編
3/34

02

 艶やかな光沢のある執務机の上に積まれた書類を、青年はうんざりとした顔で見た。


「絶対に嫌がらせだ」


 ぼそりと口中で呟き、深い溜息をつく。ここ数日、政務に身が入らない自分も悪いのだが……さすがにこれはないだろう――と、己が右腕たる相手の顔を思い浮かべ忌々しげに舌打ちをした。


 身近な書類を引き寄せ、文面に目を通していると、ノックもなく扉が開かれた。そんな事が許されるのは、王宮内でも一人しかいない。彼の従兄であり、彼を補佐する役目を担う副宰相のヴィクタスだ。青年――ロワルデン帝国皇帝フェビアンは、ちらりと目を上げ相手を確認すると、すぐに書類へと視線を戻した。


「ユスティ達が戻ってきましたよ、陛下」

「そうか」


 裁可の印を押し署名をする。そこでようやくフェビアンは顔を上げた。少し癖のある漆黒の髪を軽く掻き上げ、若葉色の双眸を目の前の男からその後ろへと移す。


「ユスティ=ボアール、エルマ=ボアール、ご苦労だった」


 労いの言葉に、兄妹は頭を垂れる。


「クルスカ王国王女シルフィーン殿下は、先ほど無事後宮にお入りになられました」


 ユスティの言葉に、エルマが頷いた。


「何も問題は起きなかったか?」

「はい。道中は(つつが)無く……」


 そこまで言って、ユスティの顔が僅かに歪む。それを見逃すフェビアンではなく、軽く眉根を寄せた。


「何か気になる事でもあるのか?」


 エルマがごくりと唾を飲み、一瞬、どうしようか迷ったものの、やはり有耶無耶にはできないと、フェビアンにその事を報告することにした。


「はい。実は、馬車の中でうたた寝をなされた時に、酷くうなされておいでになることが幾度かございました。その……就寝時にも、です」

「うなされる?」

「はい。夢をごらんになられているようですが、どんな内容だったか覚えていないと仰られて……」


 ですがそれが本当なのかどうか、分からないのですが――と、エルマも眉根を寄せ、ユスティは下唇を噛んだ。そんな二人の様子から、只事ではないと感じ取り、フェビアンとヴィクタスは顔を見合わせる。


「その……一度だけ小さな声でしたが母様(かあさま)と……」

「母様? 母様と言ったのか?」

「はい」


 頷くエルマにフェビアンは、何かを思案するように若葉色の瞳を細める。そして彼女がうなされていた原因が、あの事であると思い至った。


「そうか……そういう事か……」


 フェビアンはそっと視線を落とすと、口許を右手で覆った。


 シルフィーンの母親は、彼女が幼い頃に馬車の事故で亡くなっている。その時彼女もその馬車に同乗しており、生死の境を彷徨うほどの大怪我を負った。それは記憶の一部を失うほど酷いものであり、今でも無くした記憶は戻っていないと聞いている。おそらく彼女が見た夢は、その時のものだろう……あの事故は、今も彼女の心を深く抉ったままなのだ。


「それよりユスティ、王女殿下とはどのようなお方なんだい? やはり噂どおり、目の醒めるような絶世の美女なのかな?」


 室内の暗く沈んだ空気を払拭するかのごとく、明るくおどけた調子でヴィクタスが声をあげ、ユスティの脇腹を肘でつついてそんな事を訊いてきた。この中で、今現在の王女と会っているのは、このボアール兄妹だけなのだ。


「そう、ですねぇ……。はい、確かにお美しい方です。白薔薇と謳われる価値のある方です。ですがその、なんといいますか……どこか無理をしているというか……」

「無理?」

「はい。上手く言えないのですが……その……まるでそうある事(・・・・・)が、自分に課せられた義務であるかのように、皆が求める完璧な王女の仮面(・・・・・)をつけている――そのような感じがいたしました」

「王女の仮面? そう、か。エルマ、お前も兄と同じ意見か?」


 頷く彼女を見て、フェビアンはふいっと双眸を伏せた。机の上で組まれた、己が手をじっと見る。ボアール兄妹も口を噤み、黙ってしまったフェビアンを見ていた。


 しんと静まり返った執務室の、その静寂を最初に破ったのは……やはりヴィクタスの陽気な声だった。


「さあさあユスティ。きみ、一度宿舎に戻って湯を使いなさい。エルマもね。ああそうそう、陛下もそろそろ支度を始めないといといけませんよ。まさかその普段着のままで、麗しの王女殿下にお会いになる――なんて言いませんよね? そんな野暮なこと、しませんよねぇ?」

「だ、ダメ……か?」

「当たり前でしょう! だいたい、剣術の稽古もしたじゃないですか。その時、沢山汗をかいたでしょうに。いいですか陛下? 汗臭い男は嫌われるのですよ。さっさと中宮に戻り、湯に浸かって、汚れを落としてきてください。ああそれと、衣装は念入りに選ばないといけませんよ」

「今日は顔を会わせるだけだろう。服など、普段どおりで構わないと思うが?」

「いけませんねぇ。きっと今頃、彼女に付けた侍女達が、王女を美しく飾り立てているはずです。ですから陛下も、それ相応の格好をなさってくださらなくては。彼女の前で恥をかきたくないでしょう?」

「……わ、分かった」


 渋々頷くとフェビアンは立ち上がり、私室へと向かう扉へと歩を進めた。エルマがそれに付いていき、ユスティも旅の汚れを落としに騎士棟へ戻るために執務室の扉から出て行った。執務室の中には、ヴィクタス一人である。彼はやれやれと肩を竦めると、窓の外へと視線を遣った。巣に戻るのか……それともどこかへ移動するのか……鳥が群れを成して飛んでいた。


「やっとここまできたか」


 胸にくるものがあるなぁ――と、ヴィクタスは独り語ちると、王女との対面がおこなわれる正宮(せいぐう)の大広間へと向かうため、彼もまた踵を返し執務室を後にした。




**********




「シルフィーン様、湯をお使いくださいませ。あと二時間ほどしたら、陛下とのご対面が控えております」

「……分かりました」


 休む暇すら与えてくれないのね――と、口には出さず心の中で文句を言う。


 国から持ってきた荷物は多くなく、荷解きにはそう時間はかからなかった。帝国側はシルフィーンに、必要最低限の物だけ持ってくるようにと言ったからだ。他は全てこちらで用意するから――と。

 出立が婚儀が決まったことを知らされた翌々日なのだから、荷造りなどしている時間は無きに等しい。ましてやシルフィーンは、侍女を多く使っていなかった。そのため本当に必要な物や大切な物だけしか、彼女は持ってくることができなかったのだ。

 とはいえ、元々持っている物は一国の王女としては少な過ぎるくらいで、彼女の兄王太子や弟の第二王子の半分ほどしかないもしれない。


「こちらへ」


 一番背の高い侍女――ライナの案内で湯殿へと向かったシルフィーンであるが、訊けばそこは彼女専用とのことで、中を見たら一人で入るのにはもったいないほど広く、それはクルスカではありえない事であるため、シルフィーンは驚いて目を丸くした。


 ロワルデンには数多くの温泉が湧き出ており、ラーゲル城の近くにも温泉の源泉があった。だからなのか、浴槽の縁にある獅子の像の口からは、もうもうと湯気をたてた温泉が惜しげもなく吐き出されている。ふと、湯面へ視線をやったシルフィーンは、そこにある物を見て息を飲んだ。


「どうしてこの花が……」


 湯面に浮かぶ白く小さなその花は“シャラ”という名で、くっつけるくらい鼻に近づけないと香りが分からないのだが、湯に浮かべることにより、その香りがとても濃くなるという変わった小花だ。シルフィーンはこれを浮かべた湯に浸かるのが好きで、そしてそれは彼女のしていた唯一の贅沢でもあった。


 けれどこの花は、クルスカにしか咲いていない花だ。

 それが何故ここにあるのか?……呆然としているシルフィーンに、ライナは淡々とした口調で「陛下が殿下のために取り寄せられたのです」と言った。


「お好きだと、伺っております」

「……」


 どうしてそれをフェビアンが知っているのか?――この事を知っているのは、あの離宮で共に過ごした乳母と、いつも自分のことを気にかけてくれている兄弟だけのはずなのだ。

 けれど今、そんな事を考えても仕方がない。

 やるべき事があるのだ。

 シルフィーンは疑問を追い出すようにふるりと頭を振ると、ドレスを脱ぐために衝立の向こう側へと回った。




 クルスカを出て十日――とても疲れが溜まっていた。馬車を止めて休ませて欲しいと、何度思ったことか……けれどそんな我が儘は言えない。言ってはいけない。


「はぁ……」


 甘い、甘い、シャラの花の香りが、シルフィーンの疲れた体と心を癒していく。

 凝り固まった心が解けたからだろうか、ぽたりぽたりと湯面に雫が落ち、シルフィーンは自分が泣いていることに気づいた。


 これは悲しみの涙なのか?


 それとも安堵の涙なのか?


 彼女自身にも、それがどちらであるのか分からない。


「ふっ、あっ、ああ……」


 慌てて口許を両手で覆い、外で控えている侍女らに、泣いているのが聞こえないようにした。

 ここには優しく背を撫で、抱き締めてくれる乳母も兄弟達もいない。ここはクルスカではないのだ。ここはロワルデンなのだ。


 弱みを見せてはいけない。


 侮られてはいけない。


 背を伸ばし、顎を上げ、真っ直ぐ前だけを見なくてはいけない。


 自分はクルスカの王女であり、己が失態は国の失態なのだから。


 不思議なことに声を殺しひとしきり泣いた後は、何故か身も心も軽くなったような感じがした。それがどうしてなのか、正直言ってシルフィーン自身分からない。けれど溜まっていた物が、一気に出ていったような爽快感があった。


 湯殿から出ると、待ち構えていた侍女らに髪や体を拭かれ、まだ少し火照る体に、次々と衣服が着せられていく。シルフィーンの瞳と同じ色のドレスは光沢があり、滑らかな肌触りで羽根のように軽い。それにクルスカのように、体を締め付け補正する下着もなかった。


 丁寧に櫛で髪を梳かれ、淡い金糸のそれが背に流される。小さな粒の真珠がいくつも散りばめられた小冠をマリエルが頭の上にのせれば、侍女達の唇から感嘆の吐息がもれた。


「お美しゅうございますわシルフィーン様。さすがはデリオラス大陸の白薔薇……本当に……本当にお美しくていらっしゃる」

「……ありがとう」


 褒められるのは嫌ではないが、うっとりと自分を見つめる彼女達の目に多少居心地の悪さを感じつつも、シルフィーンは笑みを浮かべ賛辞への礼を述べた。


「それでは参りましょう」

「ええ」


 さらりと衣擦れの音をたて椅子から立ち上がると、ここに来た時と同様にマリエルの先導で、今度は後宮から正宮へと向かった。いよいよフェビアンとの対面である。


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