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初恋  作者: 朔良こお
本編
2/34

01

 がたんと大きく馬車が揺れ、それによりシルフィーンは浅い眠りから覚醒した。長い睫毛に縁取られた目蓋が、ゆっくりと押し上げられたものの、空色の瞳はひどく虚ろで焦点が定まっていない。滑らかな白磁のような白い肌は、光の加減のせいか青白く感じられ、なだらかな曲線を描いた額には、汗の粒が浮かんでいた。そんな彼女の様子に、向かいの席に座る護衛騎士の青年はきつく眉根を寄せる。彼の横に座っていた女官が籠から布を取り出し、そっとシルフィーンの額に押し当てるようにして汗を拭い取った。


「エルマ殿……」


 掠れた声で女官の名を呟き、「自分で」と言って彼女から布を受け取ると、シルフィーンは緩慢な動きで顔の輪郭に沿って汗を拭った。


「王女殿下、大丈夫でございますか? 随分とうなされていたようですが……何か悪い夢でもごらんになられたのですか?」


 水差しから水をグラスに注ぎ、護衛騎士――ユスティ=ボアールは、シルフィーンに差し出す。礼を言って受け取ると、口に運び数口水を飲んだ。ゆっくりと喉が上下するのを、ユスティは黙って見つめていた。


「大丈夫です、ユスティ殿。確かに怖い夢を見ていたような気はしますが……けれどそれがどんな内容だったかは、目が覚めた瞬間に忘れてしまいました」


 グラスを返し、シルフィーンは小さく微笑む。顔色は悪いままで、あまりにも痛々しく、無意識にユスティは眉宇に皺を寄せた。


「わたくし、どれくらい眠っていましたか? 風景が随分と変わってしまったわ」


 馬車の小窓から外を覗き、シルフィーンは小さく首をかしげる。


「一時間ちょっとくらいかと……。王女殿下、もうすぐあちらに帝都が見えてまいります」


 そう言ってエルマは、シルフィーンの右側の小窓を指差した。今現在、三人を乗せた王宮の馬車は峠を下っている状況で、ここを下り終えた所にあるのがロワルデン帝国の帝都ラーゲルなのである。


「本当にわたくし……ロワルデンに来たのですね」


 ほうっと小さく息を吐き、シルフィーンは食い入るように外を眺めた。


「あんなにも早くクルスカを出る事になるなんて……正直、驚きました」


 シルフィーンの顔が僅かに歪んだのを見て、ユスティの心がちりりと痛んだ。“デリオラス大陸の白薔薇”と謳われる美貌の王女は、家族や友人と別れを惜しむ間もなく、輿入れ先のロワルデンへ向かう馬車に乗せられたのだ。彼女は輿入れ先が急に決まっただけでなく、その翌々日には住み慣れた城を離れなくてはならなかった。


 尋常ではない。

 通常、王女の輿入れともなれば、馬車が何台も連なるほど大掛かりで、移動にとても時間がかかるものだ。それなのに………。

 急過ぎた故に花嫁衣裳はなく、また、荷物もかなり少ない。小国とはいえシルフィーンは王女だ。一国の王女の輿入れとは思えないほど、彼女の持ち物は質素で数が少な過ぎた。それが何を意味しているのか?――ユスティは眉を顰め、己の考えが当たっていないことを願った。


「こちらの都合で王女殿下には、随分と無理をさせてしまいました。本当に申し訳ございません」

「いえ、そんなことは……」


 ありませんよ――と小さく呟き、困ったように微笑する。クルスカを出てからここまで、けして快適とは言えない旅程だった。けれどシルフィーンは文句を言うこともなければ、我が儘を言うこともなかった。本当にこの方は美しいだけでなく、とてもお優しい方なのだと、ユスティの罪悪感はさらに増していく。


「陛下はとてもお忙しい方で、本当は御自ら王女殿下をお迎えにあがると仰られていたのですが、それも山積した公務のせいで叶わず……けして無理をさせてはならぬと言われたのに本当に申し訳ありません」


 苦しげな顔で再び謝るユスティに、シルフィーンはやんわりと頭を振った。彼が気に病むことなど、何もないのだ。クルスカから自分を連れ出してくれるのなら、シルフィーンは何処の国でも良かったのだから。


 そもそもシルフィーンは、ロワルデン皇帝に嫁ぐ事が前々から決まっていたわけではない。彼女の輿入れ先は、ミラルダ王国の王太子にほぼ決まりかけていた。既に支度金などの細かい事を決める段階になって、そこへロワルデンが強引に割って入ってきたのだ。


 大国の、しかも正妃に望まれたのに驚いたが、ロワルデンが提示した支度金はどの国よりも飛び抜けて高く破格であった。それに今までロワルデンがしてきた事も無言の圧力となり、王太子の助言もあり、クルスカ国王は王女(シルフィーン)をロワルデン帝国皇帝に嫁がせることにした。

 これに怒ったのはミラルダである。当然だろう。だがそれもロワルデンの方で難なく抑え込み、ミラルダはすごすごと引き下がった。


 王族の……それも王子ではなく王女に生まれたからには、己が結婚に夢や希望はなく、ただただ国の利益になるためだけだということくらい、シルフィーンだって充分理解している。覚悟はとっくにできていた。どんな相手だろうと、黙って受け入れるしか彼女には道はないのだ。

 事実、ミラルダの王太子は女癖が悪く、庶子ではあるが子供が数人いる。母親は皆違っており、四人とも高級娼婦であった。今でも王太子の娼館通いは続いており、それでも満足できないのか……侍女や女官にまで手をつけるほどの乱行ぶりだ。


 それを知っても、シルフィーンには否やは言えない。

 黙って受け入れるしかなかった。

 だが、そんな王太子との結婚話がロワルデンのおかげで無くなった。その事にホッとしたのも束の間、翌日にはロワルデン帝国皇帝に嫁ぐと聞かされてシルフィーンの頭の中は真っ白になった。


 実はこの時まで、彼女は理由を知らされていなかった。ただ父王に「そなたとミラルダの王太子との婚姻は白紙に返った」と言われただけで、まさかそこにロワルデンが絡んでいるとは思ってもいなかったのだ。


 ロワルデン帝国皇帝フェビアンは、あまり良い噂のない青年王である。

 彼が即位したのは三年ほど前で、父王と兄王太子が戦死したため、急遽即位することになったのだ。


 ロワルデンは元々大きな国であったものの、代々の王は好戦的ではなく、どちらかといえば中立の立場をとっていた。

 だが、フェビアンは違う。

 彼は即位して半年後に、父王と兄王太子を亡き者にした隣国ファルマを滅ぼし自国の領土とした。その後も不穏な動きをする国を攻め滅ぼし、ロワルデンを国から帝国へ……国王から皇帝へと名称を変え、今やデリオラス大陸一の強大で広大な領土を有する大国へと押し上げたのだ。


 フェビアンのやり方は徹底しており、相手国の王族はもちろんのこと、有力貴族や重臣に至るまで皆殺しにし、二度とその国が再興できないようにした。そのため彼は“残虐王”と呼ばれ、大陸中から恐れられている。だが、好戦的で強引な手腕に、眉を顰める者も少なくない。けれど逆らったところで国を失うだけであり、それならば恭順であった方が良いと、帝国と同盟を結ぶ諸国の多くがその証にと娘を差し出した。そのためフェビアンの後宮には数多の側室がいる。


 結局フェビアンもミラルダの王太子も同じなのだ。

 ただ違うのは、彼には子供はいないということと、全ての側室に手をつけているわけではないということの、たった二点だけだ。


「まぁ……」


 小窓から外を眺めていると、ふいに視界が広がった。帝都が一望できる場所に、馬車が差し掛かったのだ。


「クルスカの自然ほど美しいものはないと思っていましたが……」


 うっとりと、シルフィーンは溜息をつく。眼下に広がるそれは、とても美しいものであった。


 ロワルデンには“森と湖の国”という別名がある。その名の通り、国中に数多くの美しい森と湖が点在しているのだ。今シルフィーンの空色の瞳にも、瑞々しい葉の茂る森と、水面に光がキラキラと反射している大きな湖が映っていた。


「ラーゲル城の近くにも、美しい湖がございます。王女殿下がお望みになられれば、陛下が連れて行ってくださいますよ」

「陛下が?」


 ユスティの言葉に、シルフィーンは顔を顰めた。多忙極まりない彼が、いちいちそんな些細なことを自らするというのだろうか?――あきらかに疑っている彼女に、エルマが慌てて付け加える。


「陛下は王女殿下のことを、心から大切にしたいと想ってらっしゃいます。ですから殿下のお望みとあれば、どんなに小さなことでも叶えてくださいますわ。色々と世間では言われ、酷く誤解されておりますが、陛下はとてもお優しい方なのです」

「そう、かしら?」


 小さく首を傾げるシルフィーンに、ユスティは力強く頷き「妹の言うとおりです」と言った。そんな兄妹に、シルフィーンは小さく首を傾げる。確かに二人がフェビアンの話をする時、その顔はいつも嬉々としていて、まるで家族のことを話しているような愛情が滲みでていた。良い噂など一つもないというのに………。


 黙ってしまったシルフィーンに、どう声をかけるべきか困っていると、ユスティの頭の後ろにある小窓が叩かれ、御者がラーゲルの外門が見えてきたことを告げた。その声に、シルフィーンが顔を上げる。


「着いたらすぐに、わたくしは陛下にお会いするのでしょうか?」

「いいえ。王女殿下には、一旦後宮に入っていただきます」

「そこから先は、後宮の専属女官である女官長が知っております。わたくしは陛下の私殿である中宮(ちゅうぐう)の女官ですので、兄同様、後宮の前までしかご一緒できません」

「そうなの。分かりました」


 少し速度を上げた馬車が、ロワルデン帝国帝都ラーゲルへ入った。

 道行く人々が、王城へ向かう馬車を見上げていく。紋章もつけていない質素な馬車であるため、外からは誰が乗っているのか分からない。道中の安全を考えてそうしたのだが、実は馬車の中は外見からは想像もできないほど上質であった。


 馬車は帝都の中心を過ぎると、王宮のある緩やかな山道へと入る。外正門をくぐり左の脇道へと入っていくのを不思議に思っていると、ここが後宮へと続く道なのだとエルマが説明した。自然と、シルフィーンの手に力が入る。ここまで来てしまったからには、もう引き返すことはできない。


 徐々に速度が落ちていき馬車が静かに止まると、ユスティは内側の鍵を上げゆっくりと扉を開けた。そして素早く馬車から下りると、シルフィーンに向かって右手を差し出す。その手に、シルフィーンは自分の左手を乗せ、ゆったりとした動作で馬車から下りた。顔を上げた彼女の目には、細かな意匠が施された大きな扉が真っ先に飛び込んできた。


「まあ……」


 その美しさに見惚れていると、「王女殿下」と耳元で囁くユスティの声で現実に引き戻された。視線の先に女官が五人並んでおり、その中で一番年嵩の女官が一歩前に進み出た。


「遠路遥々ようこそおいでくださいました。わたくしは後宮の女官を束ねておりますマリエルと申します」


 深々と頭を垂れるマリエルに、シルフィーンも小さく頷いた。


「こちらに控えておりますのは、シルフィーン様のお身の回りのお世話をさせていただきます侍女にございます」


 マリエルの後ろにいた四人の女性が、一斉に頭を下げた。皆、シルフィーンとそう変わらない年頃の娘で、揃いの衣装を身につけている。緊張しているらしく、皆、少々表情が硬い。シルフィーンは彼女達に向かって、「よしなに」と言ってふんわりと微笑んだ。それは見惚れてしまうほど美しく……侍女達の頬が赤く染まった。


 ユスティもエルマも、ここから先には入れない。シルフィーンは二人に礼を言って、マリエルの先導で後宮内へと足を踏み入れた。中にも多くの女達が控えており、職種別に着ているものが違っているのだとマリエルが説明をした。


 後宮の最奥の部屋に案内される。そこは代々の王の正妻が使う部屋で、この後宮内で一番美しく、そして一番広い部屋だった。


 部屋中の窓と扉が開け放たれ、柔らかな風がシルフィーンの頬をかすめる。ふと、隣室に続く扉の先に、一人で眠るには大きすぎる寝台が目に入り、シルフィーンは細くしなやかな体を強張らせた。


 夫婦になるということは、どういうことなのか?――知らない年ではない。


 頭で理解はしていても、まだ、心がそれに伴ってはいなかった。


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