第6話
「ノート。」
「ダメ。まずメニュー。お姉さんが奢るから好きなの頼みなさい」
「…懐柔されたりしないからね。」
「難しい言葉知ってるね?」
メニューを手渡す。
雪夜君が不機嫌そうに眉を顰めた。
「馬鹿にしてるの?」
「褒めてるんだよ。」
だって雪夜君はまだ小学6年生だ。
「ならいいけど…」
素直だ。いい子なんだよなー。家族思いだし。だから余計に雪夜君にはあのノートを見られたくはなかった。雪夜君の実母は出産時に死亡。父は元からいない。雪夜君が桃花ちゃん家で養子として暮らしてるのは雪夜君の実母と桃花ちゃんの母が親友同士だったからだ。そう設定してしまったのは私なのだ。私の『設定』が雪夜君の実母を殺してしまった。私は人殺しだ。私の表情はどんどん暗くなっていく。
「そんなにひどい事書いたノートなの?」
雪夜君がちょっぴり心配そうに聞く。
「それは雪夜君が判断することだよ。」
私がただの妄想野郎なのか、人殺しなのか。
ウェイトレスさんに注文を済ませて、私はノートを雪夜君に手渡した。雪夜君は最初から丹念にノートを読み進めてゆく。真剣にノートを読み進めているが徐々に困惑した様子を見せ始めている。私は静かにジャッジを待つ。ノートを最後まで読み終えて一言言った。
「これってお姉ちゃんの妄想?」
予想通りの答えだ。すぐさま事実と認識したらそっちの方が頭が心配だ。
「うん。」
事の始まりは前世の私の妄想だ。嘘はついていない。素直に頷いてみたが雪夜君は納得した顔を見せない。
「…ううん、違うでしょ。俺と月姉と桃姉のことしかわからないけど情報が正確すぎるもの。それにオレの心の中まで知ってる…」
恐らく雪夜君が言ってるのは『幼い頃から変質者に狙われていた桃花を守るため、自然と格闘技に勤しむようになる』や『雪夜が一緒に生活しているうちに桃花の天真爛漫さや優しさに惹かれていった』って部分だと思われる。雪夜君が誰にも明かしたことのない心の内がノートには書かれている。
逆に疑惑を深めたようだ。ケーキとお茶が来たが二人ともまだ手をつけない。
「……」
私は何も言わない。
「これ事実なの?桃姉はゲームの知識を持って生まれてきた転生者なの?」
「……」
私は何も言えない。嘘はつけない。
「お姉ちゃん、誰?何者なの?その制服月姉と桃姉が通ってる学校のだよね?」
「私は七瀬桃花さんの同級生です。」
「名前は?」
「朝比奈結衣。」
「結衣お姉ちゃん。じゃあ桃姉に『桃姉ってゲームの知識を持った転生者なの』って聞いてもいい?」
「………いいよ。」
私は迷った末決断する。何故私がその事を知っているか桃花ちゃんが疑惑を持つのは避けられない。痛手だ。でも雪夜君が桃花ちゃんにそれを尋ねたところで桃香ちゃんが「私はゲームの転生者なの」と暴露するか、「知らないよ!何それ?」とシラを切るかの二択しか出てこないだろう。このノートこそが元凶だとは辿り着けないはずだ。雪夜君はじっと私の目の中を見つめている。
「駄目だね。結衣お姉ちゃんまだ何か隠してるでしょう?」
「!」
想像以上に鋭い。
「全部話して。」
「……」
私は沈黙を守る。運ばれたお茶が湯気を失っていく。
「結衣お姉ちゃん。真実が知りたいんだ。」
雪夜君は苛立った様子は見せなかった。それどころか真摯に接してくる。ぶれない瞳にじりじりと私の心が悲鳴を上げる。
「怒ったりしないから。」
「……」
沈黙以上の答えを持たない。
「知りたいんだ。月姉や桃姉、オレの事が。」
「……」
雪夜君は桃花ちゃんの事が知りたいはずだ。だって好きなんだから。でもそれが、その桃花ちゃんに抱いている恋心が私に植え付けられた虚像だと知ったら?果たして雪夜君の心は耐えきれるのか。そんな悲しい真似したくない。
「……もしかしてオレにとって辛い事?」
本当にいい読みだ。私の目が泳ぐ。
「だから心配してるの?」
「……」
パチンと両頬を掌で挟まれた。私の目が泳がないようにひたと見つめる。雪夜君の灰色の瞳が誠実に力強く訴えてくる。
「耐えられるよ。オレを信じて。」
私の…心が折れた。
このノートが突然部屋に現われたこと。このノートが前世の私の小説用設定資料集であったこと。雪夜君達がその登場人物であること。現世では設定どおり、シナリオ通りに事が動いていること。これからのイベントもこの通りに進むだろうと予測されること。私の『設定』が雪夜君の実母を殺してしまったと思われること。雪夜君の心に芽生えている桃花ちゃんへの恋心が『設定』によって決められたのだろうということ。全部洗いざらい喋った。
雪夜君は怒っているだろうか。悲しんでいるだろうか。それ以前に私の話を信じただろうか。私は怯えた目で雪夜君を見る。雪夜君はその視線に気づいたようで小さく笑う。
「怒らないって言ったろ。それに耐えられるって。大丈夫だよ。ほんの少し胸が苦しいけど。」
「ごめん。ごめんなさい。」
私は泣きだした。
「わっ!泣かないでよ。」
雪夜君が慌てる。でも涙が止まらないのだ。これは演技じゃない。真実の私の涙だ。
もしこうなるって知ってたら、雪夜君のお母さんの死など描かなかったのに!誠実な物語の設定を考えたのに!
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
私はひたすら謝り続けた。嗚咽が止まらない。
雪夜君がハンカチを貸してくれる。眼鏡を外して涙を拭う。拭っても拭っても涙がこぼれてくる。前世の私のどうしようもなく軽い脳みそが雪夜君に申し訳ないことした。雪夜君に不幸と試練を与えた。もう取り返しがつかない。私のせいで…雪夜君が。雪夜君だけじゃなくてみんなも…
雪夜君はそのまま私が落ち着くまで待ってくれた。
「大丈夫だよ。ね?ホントだ。結衣お姉ちゃんが悪気があってそうした訳じゃないってわかってるから。それにオレは今幸せだよ。だから大丈夫だ。」
雪夜君、それだけじゃないんだよ。私は君の他に10人の恋敵を登場させて君の未来まで不幸にするかもしれないんだよ。また涙が溢れそうになるが堪える。
「本当にごめんね、雪夜君。」
「もういいよ。大丈夫だよ。」
雪夜君は何度も『大丈夫』を繰り返す。
「ほら、飲んだら?」
お茶を勧められて私は目の前の紅茶にミルクを注いで飲む。ウバを頼んだのだ。あまりに泣きすぎたせいで味がよくわからないが結構冷めている。
「おいしい?」
「ん。」
一応肯定する。全然味がわからないが。
「あ、嘘ついた。味なんてわかんなくなってるんでしょ?」
つくづく鋭い。
「…うん。まだちょっとよくわからない。」
「その紅茶が味わえるようになるまで落ち着いて。」
雪夜君もゆっくりと自分のカップを口に運ぶ。雪夜君はコーヒーを頼んでいた。確か選んだ豆はサルバドルだ。私はコーヒーにはあまり詳しくない。どういう味かわからないが美味しそうに飲んでいる。コーヒーをブラックで飲む小6。シュールだ。雪夜君は結構大人舌だ。設定では好きな食べ物はペンネアラビアータとミネストローネ、チョコレート。飲み物だとブラックで飲むコーヒー。嫌いな食べ物はおでんだ。ノートでは『嫌いな食べ物:おでん(克服しようとしている)』と書かれている。
もう一口紅茶を飲むと今度はじんわりとした渋みと微かに薄荷のような香気を感じた。
「美味しい…」
「そっか。良かった。」
静かにお茶を口にする。雪夜君はフォークを手にとってケーキを食べ始めた。ラズベリーのチーズモンブランだ。飾りのラズベリーが艶やかに輝いている。
「ケーキもおいしいよ。」
言われておずおずとフォークを手に取る。私は苺とマスカルポーネのタルトである。一欠片切り取って口に入れる。程よい酸味とまろやかさが口に広がる。流石に噂になるだけの事はある。とても美味しい。
「こっちも美味しいよ。」
まだぎこちないが笑みを作ることができた。雪夜君は優しい目を向けて言った。
「じゃあ一口交換しない?」
「いいけど…」
テーブルの上で皿を交換して一口食べる。美味しい。雪夜君も一口食べて満足そうな顔だ。また皿を戻す。
「雪夜君は気にしないんだね?」
「何を?」
雪夜君があまりにも平常心な顔なので私がちょっと照れた。
「間接キスと…か。」
雪夜君が咽る。
「ゲホっ、そ、そんなこと考えてなかったよ!」
そりゃそうだ雪夜君の意中の人は桃花ちゃんだ。桃花ちゃん以外の人間との間接キスなど全く意識していないんだろう。私が勝手に照れてるだけだ。私は他の人と回し食いとかあんまりした経験がないからちょっと意識してしまったのだ。
「ゴメン、別にどうでもいいことだよね。」
「…まあ…いいけど。それにしても結衣お姉ちゃん不用心だよね。そんな不思議ノート道で堂々と開いて読んでて。」
あ、そういえば雪夜君にはまだ話してなかったか。
「そのノート、妹が見たら白紙だって言ってて、てっきり私以外の人間には白紙に見えるんだと思ってて。」
「えっ、そうなの?」
「うん。妹にからかわれたのかな?」
妹はあんまりおかしな嘘をつく子でもないけど、私をからかうことはたまにあるし。
雪夜君はちょっと悩んだ顔をした。
「オレ以外の登場人物には絶対見せない方がいいと思うんだけど。特にこいつとか。」
三国翔太郎の欄を見せてくる。三国翔太郎は雪夜君以上にひどい生い立ちだ。父はいない、母は遊び呆けて浪費ばかりする。今までずっと食事は孤児院の厚意で食べさせてもらってた。高校生になった現在の学費は孤児院の恩師からの借金と自分のアルバイトの賃金だけで支払われているという苦学生だ。確かにその境遇が私の『設定』のせいだと知られたらマジギレされるかもしれない。
「うん。見せない。三国君は喧嘩は馬鹿みたいに強いけど、女の子と子供には暴力振るわないから無理やりとかもないと思うし。」
雪夜君ほど勘が良くて頭の回る人でもないし、気迫負けしなければ大丈夫だろう。
「うっ、それは…ゴメン。」
私を投げた事を謝っているのだろう。
「気にしてないよ。私が怪しかったのが悪かったんだから。」
「ゴメンね。でも不思議だなー。字が見えたり見えなかったりするのか。ちょっと確かめてみる?」
「え?」
雪夜君はノートを開いて持ったままウェイトレスのお姉さんに声をかける。
「お姉さん。このノート読んでもらえますか?」
止める間もなくノートを見せてしまった。
ああああああああ!私の黒歴史がぁぁぁぁあ!!
「ボク?このノート何にも書いてないでしょ?お姉さん読めないわよ。」
ウェイトレスのお姉さんの答えはあっさりとしていた。手を振り笑って去ってゆく。仲のいい姉弟だとでも思われたのだろう。
「やっぱり何にも書いてないって。もしかしたら登場人物だけが読めるのかな?でも登場人物に読ますのは絶対反対だよ。」
「読まさないー!っていうか雪夜君も勝手に見せたらだめっ!」
私のものすご―――――――――く恥ずかしい妄想が形となってしまった黒歴史ノートと呼ぶにふさわしいノートなんだから!まさに恥部!隠すべきところ!!
「ゴメン。全然関係ない人だったから逆にいいかと思って。」
「良くないよ。これは私の黒歴史なんだか…あっ!別に雪夜君の事否定してる訳じゃないよ!」
あわわ。ノートをすべて黒歴史だと言ったらノートに書かれた登場人物である雪夜君の事も黒歴史だと思ってるって思われる!
「大丈夫。誤解してないよ。」
「そう。なら良かった。」
「オレって黒歴史の申し子なんだよね?」
雪夜君はニコニコ笑っている。からかっている顔だ。
「もー!!雪夜君の意地悪!」
「ゴメンゴメン。結衣お姉ちゃん可愛かったからつい。」
可愛いとか。小学生のくせに生意気でございますわよ。
私は動揺を押し殺すのに成功した。……と思う。思いたい。
「でもこれからどうなるんだろうね?桃姉自身は自分が『前世のゲームの知識を持って生まれてきた』って思ってるんだよね?」
「多分ね。」
「しかもこのままいったら11人の彼氏ができる。」
「ハイ、ソウデス…」
「あ、10人か。オレはホワイトデーに告白とかしないから。」
「えっ。しないの?それはやっぱりノートを見たから?」
「違うよ。元々告白なんかするつもりない。いい家族でいたいから。」
雪夜君はさらりと言う。そんな心情まではノートに書いてない。というか予測外だ。この前二宗君で実証した『ノートに書かれていない部分は不確定要素』ということだろうか。全員桃花ちゃんに恋心を覚えるところまでは確定しているが告白をするかどうかまでは不確定…いや、限りなく確定に近い不確定だ。
「でも雪夜君、イベントをこなして好感度を上げられたら途中で心変わりしちゃうかもよ?」
「そっか。その辺はゲーム要素なのか。とりあえずデートは断るけど…イベントって回避できないのかな?」
「さあ?やってみたことないからわかんない。」
「じゃあオレはイベント回避に専念しよう。元々イベント少ないし。っていうかオレのイベント少なすぎじゃない?」
そうなのだ。雪夜君のイベントは隠しキャラを除いた9人中1番少ない。
「実は雪夜君は元々一緒に住んでるから、何もしなくてもどんどん好感度が上がっていくっていう裏設定をしていて…」
「ええ!?その裏設定って有効?」
「ううん、無効。」
二宗君の妹さんの名前で実験した件を話した。脳内で構想としていた裏設定でも、ノートに明記されていなければ無効だ。雪夜君はちょっと安心したようだ。
「とりあえず有効な方法わかったら教えてくれないかな?こっちも桃姉の事とか教えるから。誰が本命とか…」
おお。それは助かる。
「よしきた!あ、携帯持ってる?」
「持ってるよ。アドレスと番号交換する?」
「しよしよ。」
雪夜君は鞄から携帯を取りだした。今時の小学生は緊急時に備えて携帯を持たされている場合が増えているのだ。レザーっぽいカバーに包まれた携帯だ。私も紫のゴスロリ御用達のブランドのケースに包まれたアイフォンを取り出す。さっそくアドレスと番号を交換した。
時間も時間なので私たちは帰ることにした。お会計するに当たって雪夜君が「高かったんじゃない?」と心配するが喫茶店の料金くらいなら大丈夫だ。まあ確かにちょっぴりお高めだったけど。雪夜君は気遣いができる子だなー。薄闇の中で私たちは別れた。