2 森の月
「こんばんは、リナルド様」
ある晩、綺麗な娘が公爵を訪ねて来ました。執事に連れられてやって来た彼女は、焦げ茶の艶やかな髪に、公爵と同じ鳶色の瞳です。例の公爵の恋人でした。
本を読んでいた公爵は、ああ、とだけ返事して顔を上げました。いつものように無表情でしたが、目元はどことなく優しげでした。
「こちらへどうぞ、フォン=ファデーナ嬢」
「あら、イスラでよいと前も申しましたわ」
「そうでしたか」
公爵はイスラ嬢の手を取り、自分の座っていた隣に座らせました。椅子は鳥籠のすぐ隣でしたので、イスラ嬢はすぐにピアスラに気づきました。
「綺麗な赤いカナリアですね」
公爵は相変わらず口数が少ないままでした。二人はほとんど何も喋りません。本をひたすら読む公爵の隣で、イスラ嬢がピアスラを見ているだけでした。
少しして、イスラ嬢は公爵を振り向きました。
「このカナリア、お名前は?」
「ピアスラです」
彼女は微笑みました。公爵は少し恥ずかしそうにしています。
「歌ってはくれないのでしょうか」
さあ、と公爵は返事をしました。
「歌うのはピアスラだから、ピアスラに聞いてみてください」
分かりましたわ、と言うと、イスラ嬢はピアスラに向き直りました。
「ピアスラさん、歌ってはくれませんの?」
同じ鳶色の瞳でも、公爵とは違って優しげな雰囲気に驚きつつ、ピアスラは嘴を開けました。
あまりうるさくない、さりとて悲しくない曲を選んで、ピアスラは歌いました。
「素敵、素敵ね。綺麗な声」
嬉しそうにイスラ嬢が言うので、ピアスラは得意になって、あと少しだけ歌いました。
ピアスラの歌が終わった後、公爵がイスラ嬢に言いました。
「実は、ピアスラを預かってほしいのです。また戦争になりそうです。今度はシャルトレーズ王国が宣戦布告をするようです。我がハーシフェルト王国は、アナクレア公国やロギーヌ王国、セントバルト王国などと共に、アストレーズ王国とカルディリア王国にまた味方するそうです。私は前は王都にいましたが、今回は陸軍として出陣せねばなりません。その間、面倒をみてやれないのです」
長く喋ったせいか、公爵は少し黙っていました。
「分かりましたわ」
イスラ嬢が答えました。
「戦争はもうすぐのことでしょう?いくら没落貴族とはいえ、私のことは心配しないでください。ピアスラの面倒はしっかり見ますから」
あまりのことにピアスラも驚いていましたが、公爵とイスラ嬢はピアスラにおやすみを言うと、二人で別の部屋へ行ってしまいました。
公爵と離れるのはとても寂しいことでしたが、あまり公爵の迷惑になるのもピアスラは嫌でした。イスラ嬢も悪い人ではなさそうですし、仕方のないことでしょう。
そして次の日、ピアスラはイスラ嬢と一緒にファデーナ城へ向かいました。
イスラ嬢の城はとても古く、修理もされていないようです。庭も荒れていますし、公爵のところと比べると、あり得ないほどです。
ピアスラは幾度となく人手を渡ってきて、当然貴族にも飼われていました。公爵の城ですら、その貴族たちより幾分か荒れていたと感じるのです。ですから、イスラ嬢の家は幽霊屋敷のようでした。
それでもイスラ嬢はできるだけ明るく居心地のよいところ(イスラ嬢の部屋だったのですが)に置いてくれました。ご飯もきちんと貰えますし、鳥籠の掃除もしてもらえます。
「ピアスラ。リナルド様は戦地に行ってしまわれましたわ」
ある日、ご飯をくれながらイスラ嬢はそう言いました。ピアスラは「戦地」がどこなのか想像はできませんでしたが、公爵がどこか遠くへ行ってしまったことは分かりました。イスラ嬢はとても寂しそうです。
ピアスラはなんとかイスラ嬢に笑顔になってほしくて、できるだけ景気のいい、かといって激しすぎない歌を歌いました。イスラ嬢は少し、微笑んでくれました。
しかし、イスラ嬢と二人きりで静かに暮らす生活も、長くは続きませんでした。ある日、公爵の兄のロナルドとハロルドがイスラ嬢のもとへやって来たのです。
「おい、ファデーナ嬢。あんな弟よりも、俺たちのどちらかの嫁になるといい」
「そうだぞ。こんな潰れそうな貧乏公爵家の一人娘を嫁にとろうってんだ。感謝してさっさと来い」
しかし、イスラ嬢は毅然とした態度で言いました。
「できません。私はリナルド様と約束をしているのです」
怒った二人は召し使いに言い付け、イスラ嬢とピアスラを昼でも暗く魔物の出るという「黒昼の森」の奥にある、廃屋の城へ閉じ込めてしまいました。城の近くは実のなる木がたくさん生えていたので、幸いにも食べ物に困りはしませんでした。
けれど、逃げようとなると魔物が襲ってきます。イスラ嬢はとても逃げることができませんでした。
ある日、すっかり仲良くなってしまった魔物がイスラ嬢に話しかけました。
「戦争は終わったらしいよ。どうやらハーシフェルト王国は勝ったようだ。じきにそのリナルド公爵も帰ってきて、あんたを助けに来てくれるだろうよ」
イスラ嬢は喜びました。ピアスラも喜びました。
けれど、待てども待てども公爵は来ません。
戦争が終わった日から、月が二回、満ちて欠けました。三度目の満月になりかけたある日、イスラ嬢はすっかり落ち込んでいました。
「リナルド様は戦って亡くなったのかもしれない。こんなに遅いなんて。それとも、もう私のことなんか忘れてしまったのかしら?」
きっと公爵はそんな人ではない。そう信じて、ピアスラはひたすら歌っては彼女を慰めました。