白い雪の夜
大晦日に思うこと。
その一年を締めくくる大晦日。誰もが翌日に控えた新しい歳に備えて動き回るその日、街は真っ白な雪化粧に覆われた。
「……まだ降ってるのか」
カーテンの隙間から窓の外を覗いた和意は小さく呟いた。
雪が降るのは年明けてからが多いこの地方にとって、年末の雪は珍しいことだ。たまにクリスマス頃にちらつく年もあるが、こうして積もるのは何年、いや何十年に一度のことかもしれない。
ことん、とマグカップをテーブルに置く音さえ響く静かな今宵、この家にいるのは和意だけ。多忙な両親は今日もスケジュールをこなすために出かけている。
会社関係者で行われるニューイヤーズ・パーティに出席するために外出準備をしていた彼らは、最後まで和意を連れて行こうと画策していた。だが、和意は頑として頷かず、両親と攻防を繰り広げることになる。
誰にも邪魔をされずに年の瀬を過ごすために。
実際はその予定も立たなかったのだが、敢えて人の多い場所で過ごす気分にはなれなかった。受験生という肩書きを免罪符に固辞し、更には麻痺するであろう交通事情を盾にして早々に彼らを追い立てたのである。
雪の降る日は周りの音を吸収してしまうらしく、普段は車の多い通りも、今日ばかりは大人しい。時折雪の塊が高いところから落ち、ドスン、と鈍い音を立てている。
「……静かだな」
自分の呟きがやけに耳につき、和意は独り苦笑をする。
暖房をつけていても冷気は常に周りにある。空から舞い降りる雪の白さは空気だけでなく感情まで震えさせる。
だからこそ、こんなときは温もりを寄せ合って過ごしたいと思ってしまう。
降り続ける白いそれを見つめながら、和意は傍にいない恋人との会話を思い出した。
『年越しはどうするんだ?』
この部屋で肩を寄せ合ったクリスマスの翌日のことだ。何気なく問い掛けた和意に彼は申し訳なさそうな表情を浮かべた。親戚の家に集まることになっており、おそらく元旦も抜け出せそうにない、と。
「一緒に過ごさないか」と続くはずだった言葉は喉で押しとめられ、替わりに「仕方ないな」と物分りのいい笑みが浮かぶ。
和意の落胆を感じ取ったのだろう。ごめんなさい、と肩を落とす年下の恋人に宥めるように送ったキスは切なかった。
本音を言えば、親類同士の集まりよりも自分を優先して欲しいと思う。だが、それは昶には無理な話だろう。両親や兄弟たちと共有する時間は彼にとって大切なもので、限られた時間なのだから。
視線を時計に向ければ、間もなく日付が変わろうとしている。
彼は従兄弟たちと暖かい部屋で笑いあっているのだろうか。
脳裏にその光景が浮かび、和意は胸の内に暗い感情を抱く。その考えを打破るように、電子音が部屋の隅で鳴り響いた。
予想もしていなかったそれに一瞬身体を強張らせた和意は、耳慣れた音楽に首を傾げる。
その音が示す唯一の人物は、鳴らす状況にないと思っていた昶である。彼は今団欒の中にいて、親戚に囲まれているはずなのだが。
何か、あったのだろうか。
和意は足早に携帯電話を取りに自室へと向かう。
「―――もしもし?」
『あ、先輩? 今かけても大丈夫ですか?』
聞こえてきたのは、いつもと変わらない明るい声だった。どう穿っても緊急事態が起きたようには感じられず、和意は密かにほっと胸をなでおろす。
ああ、と頷き返しながら、暖房の入ったリビングへと引き返す。
「電話かけてきて平気なのか?」
『え? あ……うん』
周囲に配慮しているせいだろうか。返ってきた言葉はどことなく不安定で、ぎこちない。もしかして、無理に抜け出してきたのだろうか。
「昶? もしも電話がしにくいのなら……」
『ち、違うよっ。そうじゃなくて―――』
「うん?」
口ごもる言葉と躊躇いを含んだ気配を察し、和意は促すだけに止めた。ここで余計な音を入れれば、彼はきっと自分の言葉で話せなくなる。
しんしんと雪の降る音だけが二人の間にあり、それを理解するだけの時間を置いてから、昶が弱い声音で言った。
『なんか……外見たら、夜なのに雪が降ってて……それで、先輩のこと、気になって……』
一部屋に集まった年の変わらぬ従兄弟達と話をしていた時間はもちろん楽しかった。それでも、ふと視線を窓に向けた瞬間、和意のことが思い出されたのだという。
和意が飲み込んだ言葉は、自惚れでなければ正しく理解していると思う。それをわかっていながら、和意との時間を選ばなかったことを昶は気にしていた。
ふと舞い降りた静けさに、和意は僅かに口元を綻ばせる。誰かと過ごしていても昶の中で自分という存在があるのだということを、彼自身が口にしてくれた。一緒に過ごす時間が年明けまで遠のいたのは残念だが、その言葉が聞けただけでも十分だ。
思いがけない言葉の贈り物に和意が言葉を返そうとしたときだった。電話の向こうから小さなくしゃみが聞こえてくる。
「風邪でもひいたのか?」
『ん? そんなことないと思うんだけど』
曖昧な返事に和意は眉を顰めた。
何かが引っかかると考え出した和意は、聞こえるべき物音がないことに気がついた。
一軒家に集まるからと言ったって、大人数の集まる場所で物音がまったくしないのは難しい。それなのに昶のかけてきた電話は一切物音を拾わないのだ。
「昶」
『ん?』
「おまえ、どこからかけてるんだ?」
『……どこだと思う?』
問いかけに問いかけで返すその声音は、どこか笑みを含んでいる。昶、と苛立ちを隠さずに再度呼びかければ、彼は和意とは正反対の明るい声で言った。
『ね、先輩。そこからの眺めってどう?』
「……眺め?」
『うん。先輩の部屋って上層階だから、下界って言うほうがいいのかな?』
その言葉に和意は慌てて大きな窓を開け放し、雪の降り続く中バルコニーから身を乗り出した。九階の高さから見下ろせば街灯も小さく、人影は完全に豆粒状態で―――。
『うわ、危ないよ』
「昶!?」
白く染まった道路の上に、ぽつんと立ち尽くす一つの影がある。電話越しに和意の声が届いたのか、その人影は手を振る替わりに傘を振っている。
それを見た和意は次の瞬間下に向かって叫んでいた。
「絶対そこから動くなよ!!」
締め出されてもいいようにと鍵だけは手にとったものの、薄着のまま和意は外へと飛び出した。エレベーターが上がってくるのを待つ間も焦れったく感じ、底冷えする寒さも気にならない。ようやく乗り込んだそれがエントランス・フロアに到着するまでの間も苛々と足踏みをしていた。
オートロックの扉を飛び出し、迷うことなく昶の立つ地点に向かう。先ほどの場所からさほど変わらないところにその姿はあった。和意が近づくと同時に彼ももまた駆け寄ってくる。
「先輩、何でそんな薄着で……」
呆れたような困ったような表情で傘を差しかけた昶を、和意は力強く抱きしめた。
「誰のせいだと思ってんだよ、この馬鹿」
「な……馬鹿って―――」
「おまえのことだろ」
むっと反論しかけた昶を言葉で封じ、さらに唇をも自分のそれで塞いでしまう。どれくらい前からここにいたのか、撫でた頬も触れた唇もすっかり冷え切っていた。自分の熱を移すように、和意は外気に触れていた肌という肌を両手で覆う。
その長い口付けは昶が頬を紅潮させるまで続けられた。
「……迷惑だった?」
腕の中で上目遣いに恐る恐る問いかけてくる。その表情はまるで悪戯がばれて叱られるのを待つ子供のようで、和意は今できる最上級の溜息を落とした。呆れられたのかと身を縮まらせるこの愛しい存在に、あの一瞬で抱いた想いをどう伝えようか。
言葉を探す脳裏とは別に、和意の身体は寒さに耐え切れなくなったらしい。盛大なくしゃみをした和意は、とりあえず場所を移そうと決心する。腕の中で心配そうに見上げてくる昶をもう一度抱きしめ直した。
「中に行くか?」
「―――いいの?」
「誰もいないからな。昶がこなかったら独りで年越しだった」
嫌味でなく言ったつもりだが、昶にとっては流せないことだったらしい。ごめんなさい、としがみついてくるその仕草に和意は笑みを浮かべた。
この温もりだけは放したくない。
そう想える相手と寄り添えることが何よりも嬉しいと思える自分は、やはり変わったのだと実感する。
髪にくっついた雪を払い落としてやりながら、和意は甘い声で誘惑する。
「風邪ひいたら責任取れよ」
「……そうなったら風邪、うつしていいからね」
真っ直ぐ向けられた瞳が潤み始めているのは、熱のせいだけではないだろう。それは和意の言葉をきちんと受け止めたというサインだ。
そのときは頼むな、と微笑むと、和意は目の前にある額へ唇を寄せた。
良い年をお迎えください。