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ちょっと長めです。
電車通学の聡里とは駅前で別れ、昶は家へと歩を向ける。頬に当たる風はまだ冷たく、春という言葉は暦上で一人歩きしているように感じてならない。
ふいに、頭の中を覚えあるフレーズが駆け巡る。
卒業シーズンということも手伝い、この時期には春に因んだ歌が流行する。どの歌詞にも大抵、古との別離と未来での出会いが書かれているものだ。誰しも同じ環境にいるわけではないが、それなりに似た境遇を味わうことになる。
「……出会いと別れの時期、か」
普段意識したことのない在り来たりな言葉が、今はやけに胸に響く。
自分もこの言葉と重なる状況になってしまうのだろうか。
空を見上げる余裕もなく、足元ばかりを見て歩く。そのせいで昶はマンション前の人影に気づくのが遅れた。
「昶」
最初は空耳だと思った。繰り返し呼ばれ、ようやく視線を前に向ける。
「………………先輩」
「遅かったな」
そう言いながら姿勢を起こす和意の背後には大型バイクがあった。それに寄りかかりながら昶を待っていたらしい。
いつもと変わらない涼しげな表情。先日の夜の諍いを彷彿させないそれに、昶は胸の奥がいきり立つのを感じる。
すっと一呼吸分を置き、飛び出た声は冴え冴えとしていた。
「何しに来たんだよ」
挑むような視線を投げかければ、さすがの和意も表情を変える。眉を顰め、探るような目つきで昶を見つめた。
「……ずいぶんなお言葉だな。恋人に会いに来るのに理由が要るのか?」
「恋人? へぇ……それはご苦労様。好きなだけそこで待ってれば?」
和意に背を向け歩き出しながら、肩越しにバイバイと手を振る。程なくして二の腕を力強い手が掴んだ。その痛みに昶は咄嗟に歯を食いしばる。
「痛……っ! 離せよ!」
「話もさせないつもりか」
「話なんてない」
「俺にはある」
「だから―――っ」
「いいから部屋に入れろ。それともここで人の注目を集めながら押し問答をしたいのか?」
「…………」
答える代わりに昶は抗うことをやめた。促されるままマンションの自宅へと向かう。
鍵を取り出し玄関のドアを開けた瞬間、昶は背後からきつく抱きしめられた。布越しに感じる和意の肉体に、昶は自分の目が潤むのを感じる。
あれだけ和意のことを突き放して考えていたつもりだった。なのにどうして、こんなに嬉しいと思ってしまうんだろう。
「……ずるいよ」
無意識に零れた声は僅かに震えていた。
「なんで今更ここに来るわけ?」
「今更?」
「そうだよ! 昨日だって一昨日だって来ようと思えば来れたはずだろ!」
「それは……金曜からの呼び出しで来る暇が作れなかったんだよ。解放されたのは今日の昼だし」
頭上で溜息をつかれ、それを嫌がるように首を振る。
「解放って、なんだよ。何でそんなに呼び出した人と一緒に過ごしてんの? どうしてその人のほうが優先されるんだよ……っ!」
自由登校になってから和意と過ごす時間は格段に減った。それを不満に思ったことはない。和意なりの時間の過ごし方があるのだし、同じ校舎に通っていた頃とは状況が違うのだから。
だが、ようやく会えたとしても、その大半が携帯電話で邪魔をされる。しかも携帯電話が和意を呼び出せば、必ず昶は置いていかれる。
何においても昶を一番に考えて欲しいとは言わない。だが、一緒にいる時間を潰されたのだから、それなりの言葉を与えて欲しい。
「先輩の人間関係が広いのはわかってる……でも、だからって俺と一緒にいるのにその人たちのところに行くのは酷いよ……」
「………家の事情だと、ちゃんと理由を言っただろう?」
「毎回毎回家の事情? 先輩が受験終わるまでそんなこと一度もなかったじゃないか! それが急に増えるってどういうことなんだよ!」
不謹慎な話だが、誰かの容態を伝えられていたのだと仮定する。電話がかかる度にそれに変化があったのだと。
だが、それなら最初から昶と会う約束などしないだろう。ましてや人の命に関わる状況なのだ。約束があったとしても電話で一言断ればいい。
昶といる時間に繰り返される呼び出しは、昶の不安を煽るに十分な要素だった。
「あんたが誰と会おうと俺には関係ないけど……見えるところでやるのは卑怯だ……っ!」
心の奥底に溜まっていた感情を表に出せば出すほど、自分が弱く情けなくなってしまったように思えてしまう。
目の淵が熱を持ったように感じ、昶はそれを零さないようぎゅっと瞳を閉じた。ここで泣くのは男じゃない。そう心の中で唱えていると、ややあってから溜息が昶の髪を掠めた。
「―――ずいぶんと疑われたものだな。俺の素行はそんなに悪いか?」
自嘲気味に呟かれた言葉に昶はただ俯くしかない。
「……ちょっと待ってろ」
平淡な声音に昶は視線だけを動かした。空いた手でポケットから携帯電話を取り出した和意に、昶はあからさまに身体を強張らせる。次の瞬間嫌がるように捩らせれば、逆らうことのできない強い力で強引に抱き寄せられた。
逃げ出すことも叶わず腕の中に閉じ込められた昶は、それでも抗うことを止めない。それを一瞥した和意は、逃がさないよう昶を捕らえる指に力を加えた。
ようやく電話が繋がったのか、和意の声が頭上から落ちてくる。
「俺。居るならとっとと出ろ。あんたの我儘のせいでこっちは大変な目に……は? それはそっちの責任で、俺のせいじゃありません。あんたの自業自得だろ。……ああ、こっちは構わないからとっとと説明してくれよ」
ほら、と有無を言わさず昶の耳に携帯が押し当てられる。それを避ける前に和意の顎が昶の頭を固定してしまったため、否応なく相手の声を聞く羽目となった。
『―――もしもし?』
「え……?」
電話越しに聞こえた声は男のもの。しかも聞き覚えがあるような気がしてならない。昶の気持ちを汲み取ったのだろう、向こうで笑う気配がする。
「あ、あの……」
『初めまして、春日悠一です。出ているCMとかも言ったほうがいいかな?』
「え……ええぇぇぇっ!?」
春日悠一。昶の年代でその名前を知らない人は滅多にいないだろう。彼を表現するには一言では済まされないほど、形容する言葉が多い。
腰の高い長身にバランスが取れてすっきりとした体躯、着ている服の下には締まった体があり、ほど良く甘いマスクを裏切る低い声を持つ男。
男女問わず憧れの対象となる彼は、とあるCMで鮮烈な芸能界デビューを果たした。今ではドラマや映画に引っ張りだこの俳優だが、どうして和意と繋がるのだろうか。
『まさかあの和意が一人に絞っているなんて想像外だったよ。だからこそ振り回していたんだけれどね。君に迷惑をかけたようで申し訳ない』
「いえ……その……」
『今度彼を呼び出した時には、君も一緒に来てくれるかな? お詫びもしたいし』
「と、とんでもないです!」
『それとも会いたくないほど嫌われちゃったかな?』
「そんなこと………?」
必死になって辞退する昶の手から携帯がもぎ取られた。見れば、苦虫を潰したような和意がそこにいる。
「―――もういいだろう?」
「先輩……」
「ユウ、あとでまたかけ直す……冗談じゃないね。誰が……それこそ余計なお世話だ」
力いっぱいボタンを押して通話が一方的に終わる。和意が通話を終える前に、向こうから笑い声が聞こえたのは気のせいだろうか。
「先輩……」
「―――まぁそういうことだ」
「……また誤魔化す」
「そうじゃない……わけでもないか」
腕の中にむっとした表情を見つけた和意は苦笑を浮かべる。
「さっきの電話の相手はわかったな?」
「うん、本人が教えてくれた。なんで先輩が春日悠一に振り回されるの?」
「それはあいつがうちの親の事務所に所属してるからだな」
「事務所って、え? 芸能プロダクションってこと!?」
「……言ってなかったか?」
「聞いてないよ!!」
お互い学校内の話題が多く、両親の仕事にまで興味を持つことはなかった。昶が知ってるのはせいぜい共働きということくらいだ。
もしかして会えなかった時間のほとんどを、事務所の手伝いに費やしていたのだろうか。そうだとしたら、昶といるときにかかってきた電話もまた仕事絡みで、その関係で呼び出されていたと考えれば納得がいく。
まさに“家の事情”だ。
「なんだ……そうだったんだ……」
思い当たった可能性にがくんと膝から力が抜けた。その場にへたり込みそうになった身体を力強い腕が支える。そのまま和意の胸に抱きこまれる形になった昶だが、今度は抵抗をしようという気にはならなかった。
「納得したか?」
こくんと素直に頷く。すると和意が不満げな声音を落とした。
「まったく……これだけ尽くしてもわかってもらえないというのも考えものだな」
「こ、今回のは先輩のせいじゃんっ。いつもいつも家の事情でわかるはずない……」
「電話に出なかったのはおまえだろう? 家電の留守電はかかっていない、携帯はご丁寧に電源まで落としやがって」
「だって……」
聡里に言ったように、携帯が鳴ること自体恐かった。
でもそれは建前でしかないことを昶自身が一番知っている。
「……先輩から着信がなかったら? いつ来るかって待ちながら過ごすの?」
「昶……」
でもそれも失敗だった。今度は和意がこの部屋に来ることを期待して時間を過ごすことになったのだから。
「待ってる間、本当に気が気じゃなかった。付き合う前の先輩の噂は知ってるし、俺だけを相手にしていたのが不思議だったんじゃないか、とか……余計なこと考えちゃうし」
連絡を絶っている間、何度も和意が他の誰かと並んでいるところを想像しては傷ついていた。打ち消しても形を変えて蘇るそれに追い詰められ、衝動的に物を壊したくなったこともある。
今こうして抱きしめられていることで、あの影も消えてくれるような気がした。
「……よかったぁ」
「馬鹿だな」
「―――どうせ……っ」
「どうしようもなく、馬鹿だ」
言葉とともに強くなる抱擁。ぎゅっと胸に押し付けられた耳から彼の鼓動を感じる。
「だが、不安にさせたのは俺だな。……悪かったよ」
「……聞こえない」
「悪かった」
「……もっと」
「昶」
「同じ言葉じゃなくてもいいよ。だから、言って」
催促するように背中へと回した腕に力を入れた。すると、後頭部を押さえる手が強引に昶を上向かせる。
強い意志ある瞳と潤んだ瞳がかち合う。惹かれるように、和意の額が昶のそれに押し当てられた。
「俺を操れるのはおまえだけだ」
「うそつき」
「そうじゃなかったら、ここに来てない。おまえだけは何があっても手放したくない―――手放せない」
「俺が逃げたら……?」
「愚問だな。当然捕まえるし、その前に逃がす隙さえ与えないさ」
「隙なんて見つけるもんだろ」
「では言い換えようか? おまえが逃げ出したいなんて考える暇もないほど、俺のことだけ考えさせてやる」
「……自意識過剰」
「誉め言葉として受け取っておくよ」
当然とばかりに笑う和意を間近で見つめ、昶は小さく息を吐く。
そのタイミングを見過ごすことなく和意はその唇を塞いだ。僅かな隙間を埋めるように舌を差し込み、奥に隠れたそれを脅かすことなく誘い出す。擦り合う感触に昶の身体は震え、和意は嬉々としてそれを押し付けた。
こうして口付けを交わすのもどのくらい間が空いていたのだろうか。
互いに同じことを思っているのだと疑う余地もない。
それだけ、互いに餓えていたのだと知っているから。
「ちゃんと……」
キスの合間に呟けば、和意が一瞬だけ距離を置く。
「うん?」
「逃げないように、捕まえてて」
その答えは再び重なってきた唇が持っていた。




