その4 一日目の朝(後半)
業務開始二時間後。
私は新人の様子を見に行くことにした。
「計算教室ははかどってるか?」
ひょいと隅の机を覗き込むと、足し算の問題に顔面を引きつらせる美青年の姿があった。
「苦戦してるようだな」
「そ、そうですね。やる気はあるみたいですけど、ちょっと時間がかかりそうです……」
その傍らには、やや気まずそうなヤカナッカルが立っている。
「申し訳ございません」
「いいよ、いいから謝らないで!
この百倍も千倍も問題を解いて、ちょっとづつ出来るようになっていけばいいじゃない。
ね? がんばろう?」
「はい、尽力いたします」
人の好さそうな笑顔でヤクは後輩を励まそうとしているが、大してユーリの方は言葉と裏腹に覇気がない。
まぁ、無理もないと思う。性格こそ内向的でオドオドしがちだが、ヤクは数字に滅法強い上に努力家だ。
自分が百も千もの計算を解くことに苦痛を感じない性格なのだから、当然なれない計算という行為に苦しむユーリの心情など知る由もないだろう。
無自覚スパルタ教師とはつくづく恐ろしい奴である……。
しかしこれでいい。新人は打たれてなんぼだ。涙の数だけ強くなれる。
一人でそう納得し、励ましの気持ちを込めて新人の方をポンと叩くと玄関のベルの音が聞こえた。
丁度、新規顧客のイーサン様を迎える時間帯だった。
「お客様がいらっしゃいましたね。
じゃあユーリ。僕は書記の仕事をしてくるから、続きを解いててね」
「いや、まて」
私は二人に声をかける。
「新人も早く仕事を覚えた方がいい。ユーリ、私について来い」
「かしこまりました」
まず業務内容を知ることが大切だ。当分、なるべく色んな仕事についてこさせた方がいいだろう。
綺麗に掃除された応接室に、お嬢様とヤク様、フロンスキ様が座っている。
フロンスキ様はのっぽの痩身で、灰色の髪をしたお嬢様の部下だ。
そして、彼らに向かい合って座るのは先ほどいらした新規のお客様。
穏やかな雰囲気を纏い、ゆったりと革張りの椅子に腰かける彼はいかにも商人然としている。
傍に侍る秘書もなんだか有能そうに見えた。
「本日はよく我が商会にお越しくださいました、グリオ・イーサン様。
私、会長のキトラ・サルサ・ノンマルトンと申します。
若輩者ですがお世話になります。何卒よろしくお願い致します」
お嬢様が――初対面から無表情と怒り顔と渋面しか見せたことのない、あの愛想ゼロのお嬢様が――完璧な営業スマイルと共に名刺を差し出している。
人は仕事の為ならここまで変われるのか。人のことを言えた身では無いものの、俺は驚きを禁じ得ない。
このお嬢様は仕事以外で笑顔を見せることがあるのだろうかと疑わしくなる。
「ヴァーシ・フロンスキです。お世話になります」
傍らのフロンスキ様も軽く会釈する。こちらは無表情のまま。
「噂はかねがね聞いていますよ、キトラ会長。
中々繁盛してるみたいじゃないか。娘一人で金融会社を切り盛りするなんて……驚きさ。
お父上と違って評判もいいみたいだし、ね」
「光栄でございます」
ニコニコと笑いあう両者。和やかな空気が場に流れる。
「それでですね、本日は我が商会からの融資をお考えということですが」
「ええ、そうなんですよ。
今までは輸入食品の卸売業を営んでいたんですが、今後、商品を卸すだけでなく我が社で輸入食品の店を出す計画を立てておりまして。
その開業資金をキトラさんに融資していただきたいのです」
「ふふ、融資するのは私ではなく、我が商会でございます、イーサン様」
お嬢様が笑むと、フロンスキ様が事務的な口調で尋ねた。
「輸入食品というと、どういうものを扱っていらっしゃるんでしょう?」
「北方で取れる砂糖から南国のドライフルーツまで、食品系ならなんでも扱いますよ。
品ぞろえのいい店を出して、たくさん客を呼び込みたいものですね」
「事業を拡張なさるのですね。
よろしければ、卸売業に留まらず店舗を開業しようと考えられたきっかけを教えていただいても?」
「いやぁ、駆け出しのころはただただ儲けを増やし、会社を大きくすることだけを考えていたが、うちもある程度繁盛することができて一段落着いたのでね。
これをきっかけに、そろそろ新しいことに手を出してみるのもいいんじゃないかと思ったわけですよ」
「そちらのお噂も伺っております。
なにやら独自の搬入ルートをお持ちで、大層成功なされたとか」
「いやいや、大したことではありませんよ。所詮、この町の数多の商売人の一人です」
フロンスキ様の言葉に、丸顔の商人は気を良くして扇子を扇ぐ。
そんなイーサン様を眺めてお嬢様は言った。
「いいえ、ただ成功なさっただけではない。
最近はイーサン様に憧れて新しく卸売業を開業する者が続出している様子ではないですか。なかなかの影響力をお持ちのようですね」
「買いかぶりすぎですよ。それにねぇ……」
小洒落た扇子を片手に、イーサン様はスッと目を細める。
「残念だが、彼らは恐らく長続きしないでしょう。
私ですら長年苦労して、やっと地盤を固めて成功することができた商売です。
よい刺激を受けてくれるのは嬉しいのだが、彼らには難しいでしょうな」
「さすがイーサン様! やはり長い間苦労された方は度胸も器も違います。
もし私が同じ立場なら、とてもではないが安心できない。夜も眠れないでしょう。
新しい同業者が何人も出て来たとあっては……小さくても、商売敵とは恐ろしいものです」
言葉とは裏腹に、涼やかに微笑むお嬢様。
その上品な口元を見て、イーサン様はやや眉をひそめた。
「しかし御社は心配いらぬようだ。
ただ、ご融資の際には審査をしなければならないという決まりがありまして。
お伝えしていたとは思うのですが、御社の売り上げに関する資料など、お持ちならご提出いただいてもよろしいでしょうか」
「あ、あぁ、お見せしよう。ほら、君、例の資料を出しなさい」
支持された秘書が革製鞄から紙の束を取り出す。
受け取ったお嬢様は冷めた目でそれを眺めていたが、やがて顔を上げた。
「お見事な業績です。しかし」
完璧な営業スマイルのまま。
お嬢様は躊躇なく言い放った。
「最近は、少々右肩下がりのご様子ですね」
「まぁ、新しい人が増えて、少々勝手に戸惑ってね……。
しかし長くは続きませんよ、彼ら全員が成長することはありますまい」
「とは申されても2日3日で潰れるということはないでしょう。
確かに彼ら、3年ともたないでしょうね。
しかし彼らがリタイアするまで。問題はございませんか?」
「君。私に一体何がいいたいのだね?」
「新規事業、新しい挑戦は素晴らしいことだと思います。
こちらとしてもぜひ、イーサン様の試みにお力添えをさせていただきたい。
ただ……卸売業が不振なので、店舗の展開に手を出す。
そんな浅はかなお考えをお持ちでは―――もちろんありませんよね。
イーサン様ほどの賢明なお方が」
お嬢様の目じりが僅かに動いた。笑顔で接待している体を装いながら、少しづつ、お嬢様はお客様に迫りつつあるようだった。
和やかだったはずの空気が冷えつつある。
じわじわと、蛇のように、お嬢様はイーサン様の身体にとぐろを巻きつける。
「ここは商人と町人が支配する町です。
ご存じのとおり何百件もの店舗が町中に店を構えて、日々しのぎを削りあっている。
この町で成功するのは実に難しい。
競争に勝つ力が無い者はあっというまに食い殺されてしまいますから」
そう、ここヤムルカンドは天下に名高い商売の町で、町中人でにぎわっている。
できたばかりの店が2月後には潰れることも珍しくないそうだ。
もっとも、俺はあまり街を出歩いたことがないのだが。
「当然イーサン様も平々凡々な出店計画など組まず、色々と戦略を練っていらっしゃることだろうと思います。
恐らく相当いい場所を借りて、一工夫も二工夫もした店づくりで客を呼び込まないと、御社の売り上げ回復は難しいでしょうね。
ただでさえ、店を出すには金がかかりますから。
という訳ですので……御社の出店計画書などございましたら、お見せいただけますか。
いやはや、根掘り葉掘り聞くようなことをしてしまって申し訳ないのですが、ご融資は審査を経てからという決まりでして。
お手間をおかけします」
「わかった……いや、しかし……」
イーサン様は狼狽を完全には隠しきれずにいた。
膝に置かれた手は僅かに震え、引き結ばれた唇は屈辱を堪えているようでもあった。
「あぁ、すみません、突然出店計画書を出せだなんて失礼なことを申し上げてしまいました。
我々とて急ぎはしません。
御社におかれては現在色々計画を練ってらっしゃる最中かと存じますので、また出店計画書が仕上がりましたら、我々にご提出ください。
融資に関する細かいお話は、その折にでもいたしましょう」
有無を言わせぬ口調でお嬢様は話を締めくくった。イーサン様はもう何も反論しようとはしなかった。
ならまた来ます、と言い残して去っていく彼を見送りながら俺は思う。
イーサン様の望みは、落ちている売り上げを回復するために店を出すことだった。
しかしお嬢様は、十分に練られた出店計画書がないからと融資の希望を受け付けなかった。
何故そんなに厳しいんだろう。
「新人」
お嬢様の声が応接室に響く。
なんでしょう、と俺が言うと、彼女はこちらを振り向きもせずに言った。
「見るからに金を持っていそうな上客なのに、何故少し話をしただけで追い払うような真似をしたのか、とか思ってるんだろ」
「いえ、そのようなことは」
「おい新人、最初に言っておく」
冷たい緑の瞳がこちらを凄んだ。標的をブチ抜くような容赦ない視線。
「私に向かって嘘を吐くな。世辞を言うな。機嫌を取ろうとするな」
全てを見透かすようなその眼差しに――俺は怯んだ。
女に動じたことなど一度もなかったのに、このお嬢様にだけは。
直感的に敵わないと悟ってしまった。
はい、と短く呟き事務室に戻る。
元の席につくとヤク様がニコニコしながら話しかけてきた。
「怖かったでしょ、会長」
「ええ、少し」
「多分ね、あの人が純粋にお金に困って、商売を続ける為に融資してください、って言ってたんなら、会長はお金を貸してたと思うんだ」
「本当ですか?」
俺は僅かに目を見開く。
「実績があるからさ。今まであの人は卸売業の仕事で成功してきた。
ところがあの人がやろうとしていたのは、店を出すこと。
店舗業なんて手を付けたこともないのに、落ちた売り上げの回復――つまり大金が欲しさにそんなギャンブルをやるなんて言語道断、って会長は言いたかったんだよ」
「ギャンブル、ですか」
「商売なんてギャンブルみたいなもんだよ!
店を出すにしたって元金、場所代に内装代に仕入れ代でとにかく金がかかるし、大金を投入して成功すれば金持ち、失敗すれば借金まみれの負け犬になりさがってしまう。
会長は返ってこない金は絶対に貸さない。
ウチでは融資するときは、まず返済能力がきちんとあることを確認する。
その上で綿密な返済プランを立てさせて、最後まできっちり回収する。
ノンマルトン商会はねー、滅多な事がない限りほぼ100%、利子まできっちり回収するのが自慢なんだ」
貸した金を逃がさないから親切な利子で庶民に融資できるんだよ、とヤク様は得意げに話した。
そのそばかすを散らした笑顔こそ微笑ましいが、話している内容は中々のものである。
滅多なことが、というのが、どの程度のことなのかはわからないが――無い限り、100%の回収率を誇るというのは結構、恐ろしいことではないのだろうか。
この街は決して治安が良くはない。荒くれ者がわんさかいる。
借りるときはいい顔をしておいて、返す段になると強引に踏み倒そうとする人間などいくらでもいるだろう。
一体どんな方法で商会を守っているのか。俺はそれをすぐ知ることとなる。