その3 一日目の朝(前半)
「おはようございます、キトラ様」
なぜか知らないが、男の声が聞こえてくる。
聞こえてくるが、そんなはずはない。
ここは事務所に併設されてる私の自室で、今は恐らく朝で、更には私の睡眠中に部屋に押し入ってくる不埒な輩など我が商会には存在しないからだ。
「お目覚め下さい、キトラ様。朝でございます」
だというのに、おかしな話だ。男の声はまだ聞こえてくるのである。
おかしな夢を見る朝もあったものだな、と私は寝返りをうった。
「ふ…ぁ…はふぅ」
変な声が聞こえる以外は気持ちの良い朝だ。気温もほんのり温かい。
折角のんびり惰眠をむさぼっているにもかかわらず、何故か、何故かわからないのだが肩が揺さぶられる。
本当に変な夢もあったものだ。死ぬほどイラッと来る。
夢の中なら相手を暴行しても罪には問われないものだろうか。
「キトラ様、起きて下さい」
おかしい。やっぱりおかしい。
さすがに違和感を無視しきれず、試しにぱちっと目を開けてみたら。
「…………………、へ」
「やっとお目覚めになられましたね、キトラ様」
視界いっぱいに広がったのは、貌。それも、恐ろしく整った貌。
白磁の肌にスッと通った鼻梁とか、薄い唇とかアイスブルーの目ん玉とか、昨日床屋でザックリやったばかりの輝くプラチナブロンドとか、非常に見覚えのある男の貌が、世にも優美で麗しい微笑みをたたえているのである。
「うおわあああああ! おま! おまえ! なんで私の部屋にいる!」
「朝の支度に参りました」
「いらんいらんいらん!
っていうか、おまえ私の召使いじゃないんだからさぁ……!」
「私は召使いでございます」
「だー! バカ野郎! このっ大バカ野郎がぁぁぁ!」
バカかこいつは。ありえない。召使いとかありえなさすぎる。
怒りと興奮に任せ私は腕をグリングリン振り回し、戸惑うバカに詰め寄った。
「だーかーら、お前は今日からウチの社員だっつったよな? しゃ・い・ん!
お前が今までやってたような、貴人の世話を焼いたり疑似恋愛したりとか、そいういうの一切いらないの! 金輪際やらなくていいんだってば!」
「しかし私は愛玩用奴隷です。
私を買っていただいた以上、適切なご使用をなさった方がよろしいかと」
美青年が洗顔桶を抱えたまま、首をコクリと傾げる。
私はふと冷静になり、ブン回していた両腕をいったん止めた。
「あー、その、それはだな……」
私は奴隷など持ったことが無いし、奴隷制度も嫌いだ。
人間を売り買いするなど反吐がでる。
ついでに美形の兄ちゃんにも興味がない。
しかし、こいつはどうしても私の手で買い取らねばならなかったのだ。
ならなかったのだが――理由を説明しようとすると、どうしても長い上にヘビーな話になってしまう。
「ちょっと事情があったんだよ。それについては追い追い説明するから。
とにかく、私は自分の身の回りのことくらい自分でできる。
お前に頼んだ方が楽でも、そういう世話を人にやられると落ち着かないというか、不自然なんだ。
だから私の身の回りの世話は必要ない。うん、出てけ」
よし、大体ちゃんと説明できた気がする。これで出ていくだろう。
「了解いたしました。
しかしキトラ様も貴族令嬢。
ゆくゆくは身分のよろしい御家にお嫁入りされるでしょうし、私のような僕に世話をされるのも慣れた方がよろしいのでは……」
「あー、私みたいな没落貴族の娘は令嬢にカウントしなくてもいいんだよ。
やってる商売は実質ほとんど商人みたいなもんだし、それに別に貴族と結婚しなくても私、一人で稼いでいけるから。
余計な心配です。わかったか?」
「……、かしこまりました」
頷いてスススと部屋を出ていく新入社員(美青年)だったが、待て、なんだったんだ今の間は。
多分あいつ納得してない。絶対。
従者のような仕事をさせられていたというから大人しくて扱いやすい人間かと思いきや、案外癖のある男らしい。詐欺である。
恐らく、長年癖のある貴族社会で癖のある貴族令嬢の世話ばかりをしてきたので、突然引き合わされた私というノーマルな人間に馴染めないでいるのだろう。
仕方ないといえば仕方ないのかもしれないが。
だが、だからといって私を貴族令嬢扱いするのでは困る。
他の社員に示しがつかないし、自分がむず痒くて落ち着かなくて困るし。
教育的指導が必要だな、などと考えながら私は顔を洗いはじめた。
俺は今まで見たこともないような変なお嬢様に引き取られてしまった。
男喋りで無愛想、往年の紳士が好むような地味極まりない色味の服装。
俺の容姿に全く興味を示そうとしないばかりか、自分の会社の社員として雇い入れる、だなんて口走っていた。
そもそも本人の言うとおりキトラ嬢が本当に金融商会を経営しているのかどうか、まぁ恐らくは名ばかり会長なのだろうが……。
とにかく今までの生活が変わりつつあるのを感じていた。
少なくとも今日は人生初、朝の支度を拒否された日だった。正直なぜ起こしただけであんなに怒られたのか今一つ納得いかないが。
そう、新鮮なのはいいんだが、あのお嬢様は少々変わり者過ぎる気がする。
あんな事を言ってはいたが貴族令嬢たるものいずれ嫁入りするのは確定的、今からあんな調子で大丈夫なのだろうか。
今までノーマルな令嬢ばかり見てきたせいか、キトラ様の人格や生活環境が心配になってくる。
多少の教育が必要かもしれない、などと考えながら、お嬢様に連れられ「事務室」と書かれた部屋に入ると――。
そこで俺は、ひどく驚くことになる。
「おはようございます!」
「おはようございます、会長」
扉を開けたとたん、あちこちから男達の声が上がる。
広い部屋いっぱいに並べられた机、棚。あちこちに書類が積まれ、中央には最新の電話機が置いてある。
優雅さなんて欠片もない、機能的な空間。
そこで何人もの人間が働いていた。
真剣に何か書き込んでいる者、書類の束を整理している者、計算機をはじいている者、打ち込む内容は様々だ。
お嬢様はそんな彼らの前に立ち、声を張り上げた。
「おはよう諸君。
早速だが本日の予定を確認する。各自、手を止めたまえ」
「ウス!」
その一言で、今まで忙しく働いていた男たちがぴたりと手を止める。
「まずは午前の予定について。
新規顧客はいつも通り受け付けるとして、今日は2件ほどアポイントメントが入っている。
輸入食品の卸売業者イーサン様と、家具工場のグロッカ様だ。
イーサン様はフロンスキ、グロッカ様はラバロがそれぞれ私と担当するように。
書記はいつも通りヤク、お前だ。どちらも大口の客だから丁寧にな。
他は昨日の客の返済プラン案作成、集金状況、身元調査更新表くらいか。
昼メシまでには必ず仕上げるようにしろ」
「ウス」
「昼から私は集金に回る。
アンセル班、マナガ班はついてこい。今日回る客は少々問題がある。くれぐれも気を抜くなよ。
居残り組はいつも通り通常事務と定期返済客の対応にあたってもらうが、定期のグレー客で来ない奴がいたら各自で集金に行って構わん。
悪質な滞納客を増やすな」
「ウス」
「最近景気が悪いせいか、返済を渋ろうとするバカな客が増えてきた。
こちらの対応次第で向こうさんの態度も変わってくる。それを忘れるな」
「ウス」
――俺は目を皿みたいにかっ開いて、言葉をなくしていた。
全員、この部屋にいる全員がお嬢様の一言一言に、ひどく真剣に耳を傾けている。
いちいちキレのいい返事を返している。
どうやら、彼女は本当にこの商会のボスの座についているらしい。未だに、信じがたいことではあるが。
彼らの忠誠心は初対面の俺にもよく伝わってくる。
「あー、ところで、さっきから諸君が気になって仕方ないであろうことを発表しよう」
そこで彼女は俺に目を向けた。
「こいつは新入社員だ。今日からウチで働く」
「初めまして。ユーリと申します」
俺は大げさにならない程度に腰を折った。
「少々世間知らずな奴だが、まぁ礼儀なり何なりは多少弁えている
色々とサポートしてやれ」
「ウス」
改めて俺に驚きが飛来する。
このお嬢様、どうやら本気で俺を社員として使うつもりらしい。
「あのー会長、そんな綺麗な顔の奴、どこで拾ってきたんスか?」
「その辺で拾った。仕事に顔は関係ねーだろうが」
「会長もやっぱり年相応に美男子が……」
「バカ野郎てめー、顔なんか良くてもビタ一文にもならんだろ!
「こいつを拾ったのはたまたま職にあぶれてたからだ、たまたま」
「大体そんな小奇麗な坊ちゃんがこんな庶民金融にいる意味がわかんないっつーか…」
「あーもー! うっさいなお前ら黙れ!
時は金なりだぞ、さっさと仕事にかからんかぁー!!」
「すんませんした!」
机をブッ叩き一喝するお嬢様に、社員たちはそそくさと散っていったのだった。
「お嬢様は本当に経営者様でいらしたのですね……」
「おいバカ、次お嬢様って言ったらクビだからな。覚悟しろよ」
お嬢様が不機嫌そうにこちらを睨みつける。
怒られているにも関わらず何故か愉快な気分になるのは実に不思議だ。
「あー、うちの商会の説明をする。しっかり聞いとけよ」
「はい」
「午前中はさっきも言ったが、基本的に新規顧客、つまり初めて金を借りに来る客の対応をする。
客の収入や家計、返済能力を慎重に判断して、貸し出す金額、利子、返済期間と無理のない返済計画を立てていくのが、通常の新規顧客の対応だ。
それ以外の時間は全部事務作業。主に前日関わった客に関する資料を作る」
「はい」
「午後は新規じゃない客、今現在金を貸している最中の客の対応をする。
普通、客の方から返済する金を事務所に持ってきてもらう決まりになっている。
優良顧客は返済日にちゃんとここまで足を運んで、我々は金を受け取って数えるだけでいいんだが――うちの客は残念なことに、優良顧客ばかりではない。
事務所まで来ない客、返済する気が無かったり、返済不能な状態に陥っていたりする客はこちらから足
を運ぶ。
これが集金だ。
ちょっとグレーな程度の客なら社員に行かせるが、面倒な客は私が直々に集金することになっている。
その時私に付き添う社員は班で交代制だ」
「了解いたしました」
「まぁ仕事は追い追い覚えていけばいい。私もまた教えていく。
そうだ。お前、計算の仕方を習ったことはあるか?」
「いえ」
「――いちども?」
「はい」
「そいつは厄介だな」
眉根を寄せて顎に手を当てるお嬢様。
「申し訳ございません」
「謝らんでいい。今までそういう機会がなかっただけだろ、気にするな。
ただし、これからは徹底的にやってもらうことになるがな……ヤク!いるか!」
「はい!」
「ちょっとこい」
男にしては少し高い声が聞こえ、小柄な少年が駆け寄ってきた。
「こいつはヤカナッカル。ヤクと呼んでやれ。
見てくれは頼りないが、こう見えてうちで一、二を争うほど計算が上手い。
こいつをお前の教育係につける」
「ヤク様ですね。かしこまりました」
「かしこまらんでいいから」
妙な返しをするお嬢様の前で、顔にそばかすを散らした愛嬌のある少年がソワソワしている。
どうやら俺にどう接したらいいのかわからないらしい。
「ええ、僕がですか?! ちゃんとできるでしょうか……?」
「ビビるなバカ。このユーリは今まで計算というものに触れたことが無いらしい。
教育係として、こいつに仕事と計算のいろはを徹底的に叩き込んでやるのがお前の役目だ。
できるな?」
「は、はい! えっとユーリさん、よろしくお願いしますね……?」
途端、焦げ茶の頭がお嬢様に勢いよくはたかれる。
「バカ野郎、弟分に敬語使ってオドオドするアニキがいるかよ!」
「ええ! あ、アニキ?!」
「そうだぞ、今日からお前はアニキ分だ。しっかり教育してやれよ?」
「わかりました!
あの、ユ、ユーリ、今日からビシバシ計算を叩きこんでいくからね」
向けられた笑顔はまだ少し頼りなくはあるものの、人の好さを感じさせた。
「よろしくお願いいたします」
そう言って微笑むと、少年は赤くなってアワアワする。
面白がってそのまま彼を見つめていると後ろからど突かれた。
「さっさと始めろ、アホ共」
「「はい」」
お嬢様はさっきよりワンランクアップしたしかめ面でお怒りだった。
顔を青くしたヤクに手をひかれ、俺は部屋の隅の机に連れて行かれたのだが――
そこですぐに頭をパンクさせることになる。