一章 頼まれごと
「……えーと、もう一回言ってくれる?」
大学のキャンパス内に、白髪天然パーマの少年はいた。戸惑い気味な声を出し、左手の人差し指を立てる。背は男子の平均くらいで、体格的にはどちらかというと小柄。印象的なのは優しい目だった。大学一年生の正義である。今、彼は信じたくない言葉を耳にしたところだった。
「だ、だから、その……」
会話の相手は幼なじみである新見有紗。栗色の長髪で清楚な見た目の少女である。髪には黒の髪留めをしていた。背は女子の平均くらいで、正義と並ぶと見た目のバランスがいい。ただ、スタイルは平均より上だった。恥ずかしそうに、顔を赤らめている。
「好きな人ができたの」
うつむき加減に、さっき口にしたばかりの言葉をもう一度繰り返した。さすがに二回も言われれば、聞き間違いのはずもない。正義は現実を受け入れるしかなかった。
今まで幾度のチャンスを逃し、想いを伝えなかったために、恐れていた事態が起きてしまったのだ。
正義と有紗は家が近所で幼い頃からよく遊んでいた。有紗は同い年でありながら姉のような存在で、正義は何をするにも後を付いて回っていた。いつも優しく接してもらい、たくさんの言葉を交わして、気づけば異性として彼女が好きになっていた。義務教育を終えた彼が、父の勧めがあったとはいえ高校、大学と進学を選んだのは、彼女の存在が大きい。
しかし、長年一緒にいながら、告白することはできなかった。原因は至極単純で、正義が弱気、悪く言えばヘタレだからだった。
「……まあ、そうだよね」
「えっ、何?」
「ううん、なんでもない」
なので、この期に及んでも何も言い出せなかった。今まで何もできなかったのに、急にできるわけがない。遅かれ早かれ、こういう類の事態が起こるのは目に見えていたのに。
「それで、なんでそれを僕に?」
動揺しているのがバレないように、極めて普通を装いながら尋ねた。隠せているのかどうかは怪しかったが。
「その……、一人じゃ不安だから、色々手伝ってほしいんだ。こんなこと、まさちゃんにしか頼めないし」
自分にしか頼めないという言葉に、正義は曖昧に微笑む。ほんのわずか残っていた好きな人とは自分のことではという希望は、完全に断たれた。
本当は微塵も手伝いたくなどない。何が楽しくて、好きな人の恋を応援するというのか。
「……うん、分かった。僕にできることなら手伝うよ」
しかし、そこで断れないのが正義であった。
「ホント!? ありがと、まさちゃん!」
赤い顔のままだったが、有紗は表情を明るくした。正義にはとっても素敵なものなのだが、向けられている理由が理由なので、気分は複雑だった。
「じゃあ、さっそくお願いするね」
正義は慣れっこだが、意外に彼女は遠慮がない。内心抵抗を覚えつつも、うなずく。
「うん。いいよ」
「えっとね……」
こんな会話を交わしたのが、六月上旬のある日の昼休みであった。
同日、午後二時半すぎ。正義は四限の授業を受けるために、中規模の教室にいた。席はだいたい横に十五の縦二十列。正面向かって右側の教室前後に出入り口があり、左側には窓がある。
「はぁ……」
彼は、教室後方で壁に寄りかかりながら、ため息をついた。原因は、有紗からの頼みごとである。
正義と有紗は、専攻こそ経済と経営で違ったが、授業は同じものがわりかし多かった。そして彼女によると、そのうちのいくつかの授業に想い人もいるというのだ。そのうちの一つが、今からある月曜日の四限だった。
有紗からは、ほとんど一目惚れだったと聞かされていた。初めて見たときから雰囲気というのか、そういうので気になっていたようで、授業で何回か話しているうちに惹かれていき、分からないところを丁寧に教えてもらったことで好きになったいう話だった。
聞きたくもない話を聞かされ、今からその手助けをすると約束してしまった正義に元気がないのは、当たり前である。
前の方に座っている有紗に目を向ける。目的の人物と同席しないように、わざと他の友人の隣にいた。目線に気づいて、グーサインを出してきた。『頑張って』ということらしい。正義は微笑ましく思いつつも、悲しさの方が大きかった。それでも、苦笑しながらうなずく。
と、彼女の目線が正義の左手側に流れた。つられてそちらを見る。
「あっ……」
身体が強張った。そこには、彼女から聞いた見た目の人間がいたのである。
長身の部類で体つきは普通。鼻筋がすっきりしていて、肌は女性のように綺麗で白かった。だが、何より気を引くのは、他の人々とはまったく違う雰囲気に満ちていることだった。それは、悲壮感と儚さ。半ば閉じられているまぶたにも、顕著に表れていた。
正義も、他の人間と違う彼のことは、以前から認識していた。だからこそ、有紗が誰が好きなのか詳細を聞いたとき、なるほどと思えてしまった。
その名前は、河竹大幸。雰囲気と合わない名前だなというのが、正義の率直な感想だった。
大幸が席に座るのを待ってから、同じ列に正義は腰を下ろした。空席を二人分挟む。教室の広さにしては、比較的人数の少ない授業だったのでそこまでは容易かった。問題はここからである。
しばらくすると鐘が鳴り、さらにもうしばらくすると教諭が入って来た。特に面白みのない雑談の後、授業が始まる。
気が進まないものの、有紗と打ち合わせたとおり行動しなければならない。その第一段階として、正義は猿芝居を打った。大幸に声をかける。
「あの、すいません」
「なんでしょうか?」
「なんか教科書を忘れてしまったみたいで、見せてもらって構わないでしょうか」
実際には無表情だったのだが、怪訝な表情をしているように見えて少し身体を強張らせたが、
「ええ、いいですよ」
大幸は微笑みながら快諾した。有紗の話のとおり、親切な人物のようだった。教科書を正義のいる方へずらす。
「ありがとうございます」
正義はお礼を言うと、席を詰め、隣に座った。第一段階はクリアだった。
次のステップに入ろうとしたところ、
「……君、他の授業でもいくつか一緒じゃありませんか?」
「えっ? あっ、そういえば、そうかも……」
向こうから、予想外にもいいパスが来て、内心慌てながらも、話を合わせる。というよりも、大幸の言うとおりなので、素直に答えただけのことだった。
「やっぱり。見たことあるなと思ったんです。経済学部……ですか?」
「ええ、まあ」
どうやら雰囲気に反して、フレンドリーな性格らしい。正義も事前に有紗から聞いていたものの、意外に感じた。
そのまま会話は弾み、知らず知らず目標は達成されていた。
それは、大幸と友人になることだった。
こうして、あまりなりたくはなかったものの正義と大幸は友人となった。なぜ有紗は、正義に大幸と親しくなるよう指示したかと言えば、正義を情報源にするためだった。彼が自分を好いていることを知っていれば、絶対にこんな仕打ちはしなかっただろうが、彼女はそれを知らなかったのである。それを引き受けてしまう正義も正義ではあるのだが。
そして彼は、大幸と色々なことを話すようになった。これがなかなか楽しかった。本来なら恋敵で、邪険な態度をしてもおかしくない相手なのに、妙に気が合ったのである。
なので、二人が仲良くなるのにあまり時間はかからなかった。それでも正義は律儀に本来の目的を忘れず、あれやこれやと聞き出し、有紗へ伝えた。とりあえず彼女もいなければ、好きな人もいないということだったが、大幸の場合、そこで終わらなかった。
大幸とは、授業のときや昼休みに話をしていたのだが、正義が調査と自分の興味から女性のことを尋ねると、彼は決まって口振りを鈍くした。
「気になる人とかホントにいないの?」
「……ああ。今はいない。たぶん、これからもできない」
「前もそんなこと言ってたけど、それどういうことなの?」
「悪いな。他の人に話す気はないんだ」
と、こんな調子だった。何かあるのは、火を見るより明らかだったのである。
「何かあるって、何が?」
「詳しくはまだ分からないよ。でも、何かあるのは確実だと思う」
「まさか、まさちゃんの“仕事”に関係あることじゃ……」
「あっ、ううん。違う違う。単純に河竹くん個人の問題でだよ」
大幸との親交が始まって二週間。正義と有紗は、正義の家で話し合いをしていた。と言っても、部屋ではなく境内のはしっこでだったが。
有紗は小学生のときのある事件で、正義とその父親が陰陽師であることを知っていた。しかし、彼女の家族を含め、彼らへ偏見を持ってはいない。理由としては、命を救ってくれた恩人であるということと、彼らの人間性が大きかった。
ちなみに有紗は、霊的なものからの被害を受けやすいのに、霊感は皆無に等しかった。それも、正義が彼女と同じ大学に進んだ理由の一つである。近くにいた方がいざというとき対応しやすい。実際、彼女にバレないように、今まで何時か危険の芽を摘んだことがあった。
「個人の問題か……。どういう感じの問題なの?」
「うーん。どういう感じかって聞かれると難しいんだけど……」
そんな危なっかしい幼なじみの問いに、正義は頭を悩ませた。適当に答えて、あきらめさせてしまえばいいものを、良くも悪くも彼はそんな利己的なことを考えない実直な性格であった。
「たぶん、昔になんかあったんだと思う。話してくれそうにないけど」
「そっか」
返答を聞いて、有紗は思案気にうつむいた。かける言葉が思いつかず、正義は黙り込む。
しばらくして、
「うん、分かった。ありがとう、まさちゃん」
急に顔を上げて、礼を口にした。
「とりあえず、彼女も好きな人もいないって分かったし、ここからは私が自分で動くよ。元はと言えば、私の問題だしね」
「えっと……」
「あっ、でもまだ協力してくれると嬉しいかなー。またなんかあったら頼んでいい?」
「えっ、あっ、うん……」
やはり、断れなかった。
「じゃあ、今日はありがと。またね」
最後にそう言って、彼女は明るく笑って去っていった。
残された傷心の少年は、
「はぁ……。僕ってだめだなぁ」
一人、大きく肩を落とした。
そんな様子の少年に、
「どうかしましたか、正義」
法衣を纏う男性が話しかけた。掃除を始めようとしたところらしく、手には箒を持っている。背が高いが痩せ型であるその人物は、正義の父親である、日高春雅だった。細目で眼鏡をかけている。髪の毛はない。
「別になんでもないよ」
有紗への好意もこのくらい分かりやすければと思えるほど、正義は明らかに何かあった表情で答えた。自覚はしていない。
「そうですか。なんでもないならいいですが、“危険なこと”なら、ちゃんと話しなさい」
穏やかでありながら、厳しく聞こえるという奇妙な口調で、春雅は念を押した。年頃の悩みであれば介入する気は皆無なのだが、“危険”が伴うようなこと、例えば彼らの仕事に関係するようなことならば、見逃せないのである。
「そういうのじゃないよ。だから、父さんは気にしないで」
しかし、これはいわゆる“仕事”とは関係のないことだった。悩みがあることを肯定しているのには気づかずに、父の懸念を退ける。
「そうですか。なら、いいです」
息子の性格を考え、その返答に納得した春雅は掃除をしに立ち去った。
しかし、
「今のところは、ね」
性格は変わらずとも、息子が成長していることに父は気づいていなかった。
翌日、ただでさえ正義は精神的にボロボロだったが、不幸なことに、立ち直るどころかさらに追い討ちをくらうことになった。
曜日は水曜。一限に正義、有紗、大幸と、三人共が揃う授業がある。
「おはよう、日高」
「あっ、うん。おはよ」
正義が先に座っていたところに、大幸がやってきた。かすかに笑いを浮かべ、そのまま隣に腰を下ろす。
すっかり仲良くなっていた二人は、授業で会ったら隣合って座ることが多くなっていた。正義は個人的に大幸の人柄が好きだったが、内心では敵対心もあって複雑だった。
「昨日言った本は、読んでみたか?」
大幸が話題を上げる。本とは、正義に彼が貸したもののことである。
「うん。まだ読み始めたばっかりだけど、それだけでもすごい面白かったよ。今もカバンに入ってるし」
「そうか。気にいってもらえたみたいで、よかったよ」
大幸が影のある微笑を浮かべる。二週間ほど一緒にいるが、笑い方はいつもこうだった。大笑いは絶対にしないのである。
「……悲しそう、かな」
「ん、何か言ったか?」
「あっ、ううん。なんでもない」
つぶやきに気づかれて、正義は慌てて首を振った。
「そうか……? なんだか、難しい顔をしている気がするんだが」
「そ、そんなことないよ」
まだ追及されるかと、少し焦ったが、
「隣、いいかな」
いいところで、その流れを切ってくれる出来事が起きた。
ただ、正義にとってそれは、
「あ……」
「ああ、新見さんか。俺は構わないよ」
「ん、ありがと」
一概にいいことだとは言えなかった。
「あっちゃん……」
「おはよ、まさちゃん。一緒にいたんだ」
あだ名を口にした正義に、有紗は笑顔を返す。幼なじみだからこその親しさと、好きな人がそばにいることによる自分をよく見せようという意識が混じっていた。
「う、うん。おはよう」
はっきりとはではないものの、長年の経験でそれを感じとった正義は、元気なく挨拶を返す。本当に、彼女は大幸のことが好きだと自らの目で見てしまったのである。
「なんだか元気のない返事だな。どうかしたのか?」
「えっ? いや、別に」
正義は首を傾ける大幸に片手を振り、なんでもないとアピールする。自覚なしに、ごまかしで笑顔になっていた。
大幸はすでに、正義と有紗が幼なじみであることを知っていた。話したのは有紗である。別に隠す必要もなかったのだろう。
「じゃ、失礼するね」
正義の様子がおかしい原因が自分のせいだとはつゆ知らず、嬉々として有紗は大幸の隣に腰かけた。ぼんやりとそれを見ていた逆隣の少年は我に戻って、余計な行動はしまいと、目線を机に置いたノートに落とす。
(なんだ……?)
それから、何に気づいたのか、急に顔色を変え、目を厳しくした。しばらく何かを探るように動きを止めていたが、やがて二人から見えないようにノートへ図形を書き出す。わざわざ警戒しなくても、有紗はしゃべるのに必死で、話し相手の大幸も彼女の方を見ていたので、誰も彼の行動に注意を払わなかった。
なので、図形は軽快に描き進められた。円の中に五芒星が入れられている。マンガなどでよく見られる図形だったが、手書きらしく歪になっている。
描き終えてから、目を閉じ難しい顔をしていたが、
「まあ、ちょっとは持つかな」
一人つぶやいた。左手側の二人は、彼の感じている異変に気づかない。いや、気づけなかった。
“無事”に一限を終え、二限の授業が別々である三人はバラけた。正義と有紗は教室が近いので、途中まで一緒に向かうことになった。
以前から二人で移動することはたびたびあって、いつもなら正義は小さな幸せに浸るのだが、今の状況ではそうはできなかった。それでも好きな人といると意識してしまうもので、嫌でも現状と照らし合わせてしまい、一層落ち込むのであった。
しかも、
「ねっ、まさちゃん」
「何?」
「河竹くんをお昼ご飯に誘ってみてくれない? 私からだと、誘いにくくて」
こんな頼みごとをされてしまった日には、もう世界から消え去りたいと思うのも無理はなかった。
けれど彼には完全に消え去ろうと決める覚悟もなければ、
「うん、分かった。後で言ってみるよ」
「ホント? ありがと、まさちゃん」
彼女の頼みを断るようなわがままさもなかった。
昼休み、律儀に正義が約束を守ったおかげで、多くの大学生で賑わう食堂に三人の姿があった。
正義は自作の、有紗は母親お手製の弁当で、大幸は食堂の定食を食べている。
三人共、口調がおとなしいので少し分かりづらいが、会話はそれなりに弾んでいた。話題は授業とか最近のニュースなど、雑談レベルのもので占められている。
本来なら、正義は参加したくない雑談だった。今は、有紗が意中の人と二人だけの昼食に及び腰なためにこんな状態だが、それがいつまで続くものか。進展によるが、そのうち疎まれるようになる立場なのは明らかだった。
それでも彼には、彼女の近くに堂々といられるこの状況は、皮肉にも“仕事上”では好都合だった。
「と……、そろそろ俺は教室に行くよ。新見さんは一緒の授業だからともかくとして……、日高は授業あるか?」
気を張りながらご飯を食べ、さらに雑談までこなすという重労働に、大幸がこう口にしたことでようやく終わりが見えた。油断はまだできないが、やや肩の力を抜く。
「あっ、うん。俺は心理学」
「そしたら、棟は同じか。一緒に行くか?」
「えーと……」
提案に乗るべきかどうか迷い有紗を見ると、二人がいいというような態度を示したため、
「いや、僕はちょっと用事があるから先に行ってて」
作り笑いをして、その誘いを断った。彼女を別の男と行かせることへの不満と、近距離にいられないことによってリスクが増すことへの懸念で、二重に正義には不都合だった。しかし、彼女の意志に反することはしたくない。複雑な心境だった。
なにより救いようがないのは、彼女と大幸が二人でいるのを見たくないにも関わらず、職業柄見逃すことのできない不穏な気配を感じているために、それを見なければならないことだった。もちろん、真面目な彼が個人的な理由で見過ごすわけもなかった。
そんなわけで先に食堂を出て行く二人に、非常に不本意ながらこっそりついて行く羽目になった。
二人は楽しく話しているようだった。無論、正義は気が気でない。なんともみじめなもので、二週間前に有紗から相談を持ちかけられてから何度も経験した中で、最もダメージが大きかった。胸に抱く感情は後悔ばかりだった。
だから、彼は気づくのが遅れた。仕事をするときの集中力であれば微細な霊力にも感づく彼が、殺意を持った大きな霊力が生まれるまで、それに気づかなかった。
「なっ……!?」
霊感が少しでもあれば誰にでも気づけるほど巨大な霊力に、正義は慌てて有紗と大幸の方へ走り出した。
霊感はからっきしの有紗は、当然ながらその絶大な気配に気づいていない。
(どこから……っ!?)
気配の出どころを探るが、焦ってしまっているためになかなか突き止められない。だが落ち着くために割く時間すら惜しかった。
ようやくその位置を正義が把握したのと、ことが起きたのは、同時だった。
「上っ!?」
有紗と大幸は校舎の近くを歩いていた。そしてその校舎は、四階まであった。二人のいる側には窓が見える。窓際に置かれていた鈍器として使えるほど大きな百科事典が、なぜか滑り落ちた。校舎の外側へと。
殺意を宿らせたそれは、真直線に有紗の頭上へ向かう。遮るものはない。何もなければ、確実に彼女の頭を砕く。
「あっちゃん、上だ!」
「えっ?」
思わず、正義は叫んだ。しかし、思惑とは違い彼女は彼の方を向く。
(まずい!)
そう思った瞬間、
「危ない!」
有紗の身体は彼女の意図せぬ方向に動かされた。
そして、百科事典が硬いものにあたり、大きな音が鳴った。周囲にいた人間たちが、一斉に同じ方向を見る。
その光景は、不可思議だった。実に重そうな百科事典が地面に落ちており、その傍らに、状況を理解できずに体勢を崩している少女と、危うい状況を回避して冷や汗をかいている少年がいた。少女を自分の方に引き寄せることで悲劇を回避したので、周りからだと抱きしめているように見えた。
三者三様で固まる。有紗と大幸は目の前で起きた出来事に、正義は大幸が有紗を抱きしめた格好になったことに。
先に我に返ったのは正義の方だった。気づくと辺りは騒がしくなっており、事故の話が飛びかっていた。当の二人は血の気の引いた顔で、まだ百科事典を見つめている。狂暴さと悲しみの入り混じった複雑な気持ちを抱きながらも、正義はすべてをぐっとこらえ、百科事典の落ちてきた窓がある校舎の中へと走った。もしかしたら、それを口実に、目の前にあった光景から逃げ出したかっただけかもしれない。
百科事典の落ちてきた窓があったのは、普段あまり使われない、四階端にあった教室だった。一気に階段を駆け上がってきたものの、正義は疲れを見せずに中へ踏み込む。誰もいない。これは別にかまわなかった。すでに霊力の気配は微細になっていて、正義でも追うのは難しかったのである。
それでもなお彼がここに来たのは、襲撃者の情報が残っていないか調べるためだった。“者”という表現が適切かどうかは分からないが。
調査を始めようとしたそのとき、さっきの殺意とは違う霊力を正義は背に感じた。形成しているのは、警戒からくる敵意。
振り向くと、教室の入り口に見知らぬ黒髪の少女が立っていた。




