十二章 葛藤の末路
真っ暗な空間に、正義は立っていた。いや、立っていたという表現は正しくない。むしろ、空間というのかどうかも怪しい。その場所ではあらゆる感覚がなかった。あるのは、自分だと思える意識と、
「今更、なんのつもり?」
強い陰気の、それも非常に悪性のある霊力の存在だった。彼の身体を乗っ取った、あかりである。どう認識しているのかを自分で掴めないが、彼女の表情が怒りと困惑に満ちていることを、正義は理解した。
「大幸はあなたにとって邪魔なんでしょう。だから、私の言葉に同意したはず。大幸に、あの女の子を取られてしまってもいいの?」
あかりが尋ねてくる。正直なところ、首を縦に振ることはできなかった。とは言っても、首という存在を感じられていないが。
彼は幼い頃からずっと、有紗一筋だった。いつだって一番特別な異性であったし、浅はかながら彼女にとっても自分は特別だと、思っていた。事実、彼女は正義を頼りにしているので、あながち間違ってはいないが、二人が持つ、互いへの特別の意味は、はっきりと違っていた。
ゆえに、父から気をつけるように言われ、自分でも注意していたつもりだったが、大幸への嫉妬を指摘された瞬間、正義は心に隙をつくってしまった。結果、いとも簡単にあかりの侵入を許し、自分の状態がよく分からない中、こうして対面している。
「あの子を自分のものにしたいんでしょう。自分の願いが叶えば、他はどうなったっていいじゃない。自分の好きな人といられなくなるくらいなら、他のものは切り捨てればいい。あなたにとって、何が一番か、考えてみなよ」
あかりの声が猫なで声に変わり、正義の中にある、残虐さを含む願いを刺激する。
彼は優しかった。優しすぎるために、有紗から大幸が好きだから協力してほしいと言われたときですら、承諾してしまった。自分の感情をこらえて。そのために、想いは余計に膨らみ、形は歪となり、大幸への嫉妬として彼の一部を占めてしまった。
「私に協力するだけでいいんだよ? そうすれば、汚い仕事は全部私が受け持つ。あなたは何もせずに、望んだものを手に入れられる。これほど、いい条件はないじゃない」
気づいていながら、彼はそれを無視した。醜い部分と向き合いたくなかったから。父に諭されても、まともに見なかった。表面上に浮上させぬようにしていただけで、その大きさは増していたというのに。
「バカだよなあ」
自分でも、どこから発しているのか分からなかったが、確かに自身の声だった。
「そうね。確かにあなたはバカだわ。変に考えないで、欲望に忠実であればいいのよ」
都合のいい解釈をし、あかりは調子よく微笑む。
その勘違いを、正義は正した。
「違うよ」
「はあ?」
即座に、あかりは顔をしかめた。甘ったるい声でもなくなり、悪霊としての情のない態度が露わになる。
「何が違うっていうの。この期に及んで」
「違うものは違うんだよ。バカだなと思う理由は、そうじゃない」
どこからしゃべっているのか分からぬまま、言葉を重ねていく。
「僕はあっちゃんのことが好きだ。あっちゃんの目の前ではどうしても口に出せないけど、本当に好きなんだ。小さい頃から、ずっと」
一途に、でも伝えられずに、長い時間を過ごしてきた。自分は特別な立ち位置であるというのに、あぐらをかいていたのかもしれない。どうにか進展させようという努力をしなかった。
そのために、代償が彼に降りかかった。
「でも、あっちゃんは僕以外の人を好きになった。嫌だったよ。あっちゃん本人から聞いたせいで、余計に。それでも何も、言えなかった。ただ、とっても心が痛んで、悲しくて、腹立たしかった」
一人の女性に長年一途でいられるほど純粋で、それでいて何も言うことができなかった気弱な少年にとって、それはとてつもない衝撃だった。彼を歪めてしまうほど。
「河竹くんと初めて会った時、僕は懸命に粗を探してたんだ。あっちゃんが好きになるに足るような人間じゃないって、見下したくて。自分の方があっちゃんには合ってるって、言い聞かせたくて。でも、河竹くんには粗なんてなくて、それどころか、とってもいい人だった。悪い部分を探してる僕自身が、惨めに思えるくらいに」
大幸個人は嫌いではなかった。それどころか、友人とするに好ましい人間だった。それゆえに、どうして有紗が彼を好いたのかも理解できてしまった。自分の頭の中でさえ、相手を貶めることがてきなかった。
だから、嫉妬はより大きく膨らんだ。自分より、いい人間であるという認識を生んだがために、少年を蝕んでいったのだ。
「ものすごく憎いと思ったんだ。いい人だって理解してるのに、あっちゃんに好かれてるってだけで、ムカついた。いなくなればいいのにって思った。ずっとあっちゃんといたのは僕なんだ。急に現れた奴に取られるなんて、意味が分からないんだもの」
いつもどおりの柔らかな口調ながら、言葉のところどころに毒があった。あかりが付け込んだ、彼の憎しみや嫉妬の表れである。
「今も、いなくなればって思ってる。死んでしまえばとすら考えてるよ」
恐ろしく、理不尽で残酷である、彼の率直な感情だった。純粋に一人の異性を想っていたがために、それが叶わなくなるかもしれない現実を突きつけられ、汚れた感情を生み出してしまった。おまけに、その負の感情をぶつける相手と近くすぎて、増幅していったのである。
それでも、
「けど、そんなのはダメだ」
正義は自身の心を否定した。正確には、他を押しのけて強調されている部分を。
「何がダメなのよ。自分の好きな人を手に入れたいんだから、それを奪いそうな人間を恨むのは当然じゃない。いい子ぶったところで、あんたは何も手に入れられずに終わるだけ。それでもいいの?」
欲望に忠実である悪霊が、理解できず反発する。大幸を亡き者にしたいという考えを彼に持ち続けてもらわなければ、圧倒的不利に立たされるという、現実的な事情もあった。
「それは嫌だよ。嫌に決まってる」
「なら」
「でも、それで河竹くんを死なせるなんてことも嫌なんだ」
嫉妬を焚きつけようとしたあかりの言葉を遮り、彼はそう続けた。
「僕は、河竹くんを殺したいくらい憎んではいるけど、“本当に殺したくはない”んだよ」
「何言ってんのよ。そんなのむちゃくちゃじゃない。本当は“殺したい”んでしょう」
「いいや、違うよ。だって、僕の頭も感情も、納得していないんだから」
「納得?」
「うん」
実際の動作を加えられないが、気持ちとしてはしっかりとうなずく。
「河竹くんは友達なんだ。死んでしまったら、心のどこかで嬉しく思うだろうけど、奥底からは喜べない。僕は弱い人間だから、永遠に引きずる。そんな状態じゃ、有紗と一緒にいても幸せになんてなれないよ」
穏やかに、彼は語っていく。対峙しているあかりは、口を挟みたいのだが、どうやって彼の思考軌道を変えればいいのか分からなかった。旗色の悪さに、ただただ歯ぎしりする。
「あっちゃんだって、河竹くんが死んだら、きっと悲しむ。その原因が僕だとしたら、とてもそばにいられない。僕が君を止めずに、君が河竹くんを殺しても同じだ。責任を感じて、あっちゃんの前からはいなくなる。どう転んだって、幸せにはなれないんだよ」
利己的になれない、彼らしい理由だった。
「それに、約束したんだ。誰も死なないで帰るって」
よぎる、愛しい幼なじみの悲しい表情。それが、すべてだった。
「いい子ぶりでもなんでもいい。河竹くんを殺すってことを、僕自身が俺に許してないんだ。だから、君の誘いにはもう乗らない」
最後に、自分を起こしてくれた少女が頭に浮かんだ。
「月原さんも、怒らせたしね」
自分を見失い、凶行へと走ろうとしていたところを、最後の最後に止めてくれた少女の声を思い出す。偶然に出会った彼女がいなければ、おそらく踏みとどまれなかった。
「捨てるの。あの子との未来を」
あかりが、苦し紛れでかけてきた言葉に、
「違うよ。護るんだよ。あっちゃんの……、いや、僕たちの未来を」
明るくはっきりと答えた。
準備はもう十分だった。あとは、“それ”を言うだけになる。
「バカだわ。本当にバカ。きっとあなたは後悔する。必ずよ!」
このあと、何が起きるか予想がついているあかりは、わめきだした。だが、自身の汚い部分と向き合い、それを認めてなお、大幸を殺さないと決めた正義には、届くわけがない。彼は、耳を貸さずに、言い放った。
「僕の中から、出てってよ。池田あかりさん」
次の瞬間、空間を引き裂かんばかりに、あかりの叫び声が上がり、正義はぐるぐると回っているような感覚へと陥っていった。
「おっ……?」
窓から入るはずの月明かりを本棚で遮断され、暗闇に包まれた部屋の中、静寂を破ってつぶやきが微かに響いた。声を出したのは、村叉である。いまだ、刀を杖代わりにして立っていた。
正義に取り憑いたあかりの様子がおかしくなってから、数分。頭を抱えてうめき続けていた正義が、急に静かになった。
(完全に支配されたか、それとも……)
最悪と最良の両方が、頭をよぎる。彼女から見えている水実の背中は、微動だにしていなかった。
やがて、
「ぶはぁ!!」
正義が目を見開いて、大きく息を吐き出した。それを見て、村叉は口の端を持ち上げる。
「ふん。なかなかどうして、乗っ取られたとはいえ、たいした奴だねぇ」
正義からは、一人分の霊力しか感じなかった。
「目は覚めた? 大バカ」
「うん。しっかり覚めたよ。ありがとう、月原さん」
水実の問いかけに、正義は苦笑とお礼を返す。それに対し水実は、腕組みをし、不機嫌に眉を寄せて、でそっぽを向いた。
「ふん。別に、言いたいことを言っただけよ」
「そっか。でも、ありがとう」
なおも彼はそう続けたが、
「勝手に言ってなさい」
彼女は肩をすくめただけだった。苦笑したまま、正義は立ち上がる。
「ぐっ……」
それから、彼の中に侵入していた邪な霊が、彼の右の肩口辺りから、元の半透明な姿になって現れた。顔は苦しそうに、歪んでいる。
「あら、ずいぶんと苦しそうね。どうかしたの」
弱った姿の敵に、水実は冷たく嫌味をかけた。
「う、うるさい……」
かろうじて言葉を返してはきたものの、先ほどまでの威勢のよさはまったくなかった。
「あなたが余計なことを言わなければ、何も問題なかったっていうのに」
両肩をだらりと下げ、顔だけをかろうじて上げて、あかりが忌々しそうに、水実を睨む。瞳には、強い憎しみと怒りの色が浮かんでいた。
「頭の悪い発言ね。敵対してるあたしが、あんたの思惑通りにするわけないでしょ。ちょっとは考えてしゃべった方がいいわ」
対して水実は、まったく意に介した様子なく、嫌味を返す。
彼女に聞こえないように、
「きっついなぁ」
「はぁー、言うねぇ」
そばに立つ正義と、彼らからやや離れてやりとりを見ている村叉が、それぞれつぶやいた。
「なんか言った」
「い、いや、なんにも」
さすがにすぐ近くにいた正義の声は聞こえたらしく、不機嫌な目が彼に向く。彼は、必死に首を横に振った。
「ふん。まあ、別にいいわ」
鼻を鳴らし、彼女は悪霊の方へ向き直った。しかし、相手は彼女を見ていなかった。その視線が向けられていたのは、正義。
「ありえない。それだけの嫉妬を抱えていながら、その感情に呑まれないなんて。どうして耐えられるのか、私には理解できない」
疑問を除き、負の感情に満ちた声だった。弱っているのは、見た目からも声からも明らかなのだが、こもった感情の劣悪さは、変わっていない。
「理解できない、か。そうじゃない。君は、理解“できなく”なったんだ」
だからこそ、失われてしまったものがなんなのかが、正義にはよく分かった。そしてそれは、彼女が池田あかりでありながら、別の存在となってしまったことを、顕著に示していた。
「君は、河竹くんに愛され続けたいという欲望に忠実だったせいで、忘れてしまったんだよ。優しさも、友情も、命の重さも、人として大事なものを何もかも」
今の彼女はもう、嫉妬と殺意からなる、悪霊以外の何物でもなかったのである。
「はっ。そんなもの、“愛情”と比べたら、なんの必要性もないわ。私には、大幸への愛情さえあれば、他に大事な感情なんてありはしない!」
正義の言葉に、真っ向から反発する。一切、疑問はないようだった。
「哀れね。あんたのそれは、もう純粋な愛情じゃない。ただあんたは、あの男のすべてを自分のものにしたいだけ。それも、自分に従う従順な犬みたいにね。対等に愛し合う男としては、見ていない」
水実は肩をすくめ、懐から御札を出した。右手に持ち、構える。
「まあ別に、堕ちるとこまで堕ちたあんたを更正させる気はさらさらないわ。あんたが何を言おうが、悪霊であることにはもう微塵の疑いもない」
「なんとでも言ってればいいわ。あなたたちには、どうせ理解できやしない!」
自分を突き放す言葉を聞き、関係ないと言わんばかりに叫んだ。戦闘態勢を固めたのに対し、あかりも霊力を高めていく。霊媒の在処である大幸のカバンが、彼女の後方へと位置を移す。もう、ヘタに隠すつもりはないようだった。
「ほら、あんたも構えなさい。くるわよ」
緊張が広がっていく中、水実は、まだ気配に鋭さのない正義へ声をかける。彼は、悲しげに目を細めていた。
「何、情けない顔してるのよ」
この期に及んでなんなのかと、苛立ちを隠さずに尋ねた。彼は、あかりへ目をやったまま答える。
「いや、どうしようもないことを考えてただけだよ。ここまで酷くなる前に、会えていたらって」
「本当にどうしようもないことね。分かっているなら、もう戦いに集中しなさいよ。成敗してやるのが、こいつにとって一番いい」
水実は、バッサリと彼の言葉を切り、いい加減に戦闘へ備えろと促した。非情にも聞こえるが、最も妥当な意見だった。反論の余地もない。それが、手遅れなところまで堕ちた彼女へやれる、唯一の救いだった。
「そうだね」
小さな声で同意を漏らし、目を閉じる。
次に開いた時、
「早く、終わらせよう」
その目は鋭い陰陽師のものになっていた。御札に強い陽気の霊力を流し込む。
「なかなか、いい目じゃない。あたしが協力を求めてあげるかどうかで、ギリギリ合格ってところね」
水実は、正義がいつでもいけるようになったのを確認してから、
「村叉、いける?」
次に自分の式神へ状態を確かめた。直接、目を向けたりはしない。
「ああ。たんまりと時間はもらったからねぇ。問題ないよ」
「そっ。まあ、その程度の強がりなら、大丈夫そうね」
「ありゃあ? 強がりだってバレたかい」
「当たり前よ。どれだけあんたのごまかしがうまくなっても、あたしだけは騙せやしないわ」
「はっ。違いないねぇ」
二人だけでの会話を終えると、村叉はしっかりと両足で立ち、杖にしていた刀を派手に一振りして、陰陽師二人と同じく構えた。
敵であるあかりは、凶悪な殺意を背に彼らを見下す。だんだんと、周囲に浮かぶものが増えていっていた。
「あんたたちみたいな、誰かと愛し合ったこともない未熟どもに、私の、私と大幸の望みの邪魔はさせない。死ねぇぇぇぇ!!」
空間を裂かんばかりの狂声が上がり、浮かんでいたいくつもの物体が、三人へと吹雪のごとく襲いかかる。だが、微塵たりとも怯みはしない。
「勘違いしてんじゃないわよ、勘違い女が!」
「それを望んでるのは、君一人だ。河竹くんは、連れて行かせない!!」
陰陽師二人が声を張り上げ、真正面から受けて立つ。次の瞬間には、殺意の吹雪の中へと、飲み込まれた。あまりにも物量が多く、あかりの姿さえ捉えられなくなる。だが、二人は臆さない。あまりに非現実的な囲いの中で、白と黒の和服が軽やかに舞い、袖を振るい、四方八方からの攻撃を次々と撃ち落としていく。
「白髪! この量、さばき切れる!?」
その最中、水実が大声で正義に問いかけた。ただし、襲いかかる殺意への動きは鈍らせない。御札をどんどん投げていく。
「それ、答える必要ある!?」
正面から突っ込んできたカミソリを避け、側面から現れた本へ御札を貼り付けて無効化させてから、彼もまた大声で言葉を返す。同時に、足元目掛けて飛んできたハサミを左へステップしてかわす。まさに怒涛の攻撃だった。
「あははは! いい質問だわ! 答えてあげる!」
機嫌よく笑った水実を狙い、真上、右斜め下、左脇、真後ろの四方向から、一斉に本の塊が迫る。それを受けて彼女は、まず左脇のを左手の御札でいなし、他の三つすべてを視界に入れ、正確に撃ち落とした。続けざまに後方からきた別の本は、身を翻して避けようしたが、完璧にとはいかず身体をかすった。悪質な霊力がこめられているので、それだけでも、ダメージが蓄積する。
しかし、彼女は笑顔を崩さず、正義へ告げる。
「必要ない! あの女を成仏させるまで、死力を尽くしなさい!!」
「了解!!」
返事は、珍しくテンションの高いものだった。白と黒の相反する二色が、美しく鮮やかに、踊る。
一方、完全に二人と隔離されてしまった村叉も、恐ろしい量の物体に手を焼いていた。正義たちの後方にいるため、彼らの前にいるあかりの妨害に入るには、距離が遠い。結果として、彼女も防戦一方だった。
「かあー、うざったいねぇ」
頭上から降り注いできた本と食器の雨を、霊力で効果範囲を広げた一太刀でまとめてさばく。床に落ちた食器が何枚か音を立てて割れた。
そこで、はたと気づいた。
(食器? 台所は隣の部屋のはずじゃあ……)
すぐさま、右側前方に位置する扉の方へ目をやる。しかし、正義と水実を包む吹雪のために、村叉の位置からではよく見えない。
「あー、もう!」
面倒さに悪態をついてから、右へ走った。そうしながらも、自分目掛けて飛んでくる物体を、正確には操られている物体を、一つ一つきっちり切り落としていく。
壁にかなり近いくらいまできたところで、ようやく部屋の入り口が見えた。予想通り、飛ばすものを増やすために、台所や廊下へとつながる扉は開け放たれていた。
その代わり、水実が吹っ飛ばしたはずの玄関のドアは、復活していた。
「やっぱりかい。まったく、厄介なことこの上ないねぇ」
何度目か分からないため息で肩を落としてから、
「でもまあ、いい目標を立ててもらったよ。あそこをぶっとばせれば、かなり奴を崩せるだろうしねぇ」
目を輝かせて、刀を構え直す。攻撃に回す物を多くするために開かれた扉は、二重の隔離空間を壊し、その先に最後の砦である玄関への道を露わにしていた。
殺意の吹雪の中からは、自分の主人と、出会って間もない少年のやりとりがちらほら漏れていた。実際は大声なのだが、周りの音が大きすぎるのである。
(まだ大丈夫そうだけど、向こうを楽にしてやらないと)
まだ話す余裕があるのは確認できたが、楽観はとてもできない。やることは一つだった。
「派手にぶっ壊させてもらうかい」
一人つぶやき、彼女は玄関へと走り出す。目的は一つ。ドアの破壊だった。
あかりはどこにいるのか正確に把握できないが、おそらく吹雪の内側だろうと踏んでいた。村叉への攻撃は、二人のサポートへは行けないような程度で、そこまでの激しさを持っていなかったのである。
案の定、玄関へ走る村叉への攻撃は、さほど処理に手こずらないものだった。それほど力を消費せずに、まずリビングから出る扉へとたどり着く。
と、
「うおっ!?」
思わず声を上げてしまうほど、凄まじい量の食器類と調理器具が、目の前にある廊下から一斉に襲いかかってきた。
(処理しきれない!)
判断は瞬時だったが、右側には壁、左側には陰陽師たちを取り込んでいる吹雪という、最低の立ち位置であることに気づき、対応は数瞬遅れてしまう。
「くっ!」
とりあえず、左後ろにあるギリギリのスペースへ一旦回避する。彼女の小さな身体を、小皿や包丁がかすった。応戦し、一部分を撃ち落とすが、二束三文。うすっらと、人間のそれと変わらない、赤い液体が脇腹や頬から流れる。
おまけに、避けたのもつかの間で、早くも切り返して、第二波が迫ってきていた。
「ちぃ、戻しが早い! 二人をメインに攻撃していたんじゃないのかい!?」
誰も答えてくれないであろう問いを忌々しげに言い放ち、振り向いて刀を正面に待ち受ける。容赦なく、食器類等は彼女を撃ち抜きに突っ込んできた。
「ふっ!」
左へ逃れながら、弾丸のごとき物体の集まりへ、刀を振った。右脇の位置からの払いを思い切りよく浴びせ、さっきよりも多くを地面へと落とす。それでも、完璧には回避しきれなかった。
「はっ! やってくれんじゃないかい!」
口振りは強気を保っているが、ところどころに見える傷が、態度ほど余裕はないことを語る。
そして、三度渦が襲いかかる。
「なめんじゃないよ!」
村叉が吠えた。
「村叉!?」
式神の咆哮が、殺意の吹雪の内側で、主人の耳に届く。そちらに気を取られ、頭部にフォークをくらいかけたが、ギリギリでかわす。
「これだけこっちが猛攻なのに、外も危ないのか!?」
二冊の本を、横ステップでやり過ごしながら、正義が疑問を口にした。自分たちを見下ろさている悪霊が反応する。
「ふふ……。分断したのだから、向こうだって疎かにはしないわ。今、この空間は私の体内に等しい。自分の意思に関わらず、体内に入ったウイルスとかは抗体が攻撃するでしょう? あれと同じことよ。こっちは私が手を加えている分、精密に狙いがついているけどね。だから、あっちは多少大味。でも、あの鬼にはそれがちょうどいい」
正義たちと違い、大声ではない。むしろ、弱っているくらいなのだが、はっきりと二人に聞こえた。発言の通り、今いる空間が彼女の支配にあることを証明していた。
「大味な攻撃が、ちょうどいい?」
水実が眉根を寄せる。それから、多方向から飛んできたスプーンや食器類で、その意味に気づく。
「なるほど。村叉は玄関のドアを狙ってるわけね」
村叉の受けている攻撃を、詳細に伺い知ることは不可能だが、彼女が何をしようとしているのかと、部屋の状態は予測がついた。
いつの間にか、キッチン回りの物が混じっていること、玄関へ伸びる廊下は狭いこと、そして村叉は自分たちのいる囲いの外だということ。それだけ分かれば十分だった。
「白髪!!」
「何!?」
玄関ドアが元に戻されており、代わりにリビングの扉は開けられ、村叉が玄関ドアを破壊を狙っているのも分かったが、水実にとって大事な情報はそちらではない。
「こいつは、隣の部屋の物も使い出してる! 支配力が少し落ちたうえに、物の量に限りが見えてきてるわ! 踏ん張るわよ!!」
「分かった!!」
水実の見解に、正義は了解を示し、二人で攻撃をさばき続ける。
「無駄よ。私が消耗しているのは認めてあげるけど、有利なのはまだこっち。あなたたちに勝機はない。外の鬼だって、玄関にはたどり着かないわ」
そんな二人を、あかりは嘲笑う。二重隔離ではなくしたとはいえ、自分の支配下であるというのが、彼女に自信を与えていた。
(陰陽師共も鬼も、消耗してる。私に勝てるわけないわ)
だが、
「あんまり、あたしたちをなめんじゃないわよ!!」
水実は、強気な姿勢を崩さなかった。
「ふふふ……。いつまで、そんな口を叩いていられるかしら」
余裕綽々とは言い難いが、自身の有利を疑わずに口元をいやらしく緩めた。眼下に映る陰陽師二人の動きは、だんだんと鈍り出している。
「その言葉、そのままあんたにお返しするわ! せいぜい、退治されるまでほざいてなさい!!」
自分たちの舞いにキレが失われ始めているのが、分かっているのか、いないのか、定かではないが、水実が吠える。あかりには、滑稽にしか思えなかった。
が、一分、二分と時間が経つにつれて、彼女の表情から余裕が消え出す。もともと苦しげではあったのだが、笑みがなくなっていたのである。
原因は、囲いの外。鬼へ仕掛けた大味な攻撃が、順調に威力を削がれていた。ただでさえ陰陽師たちとは長期戦が前提であるのに、外まで活かされてしまうと、形勢がどちらに傾くかは目に見えていた。
「どうかしたの! 顔色が悪いわよ!!」
ここぞとばかりに、水実が挑発する。動作が遅くなったことで、生傷とあざだらけになりながらも、強気な笑みになんら変わりない。彼女の右腕側では、黙々と正義が、吹雪のごとき攻撃を、疲れを見せながらも、未だ美しくかわし、撃ち落としていた。
「くっ……」
あかりが顔を歪める。
(外にもう一発撃つしかないか。でも、そっちに気をやるほんの一瞬ですら、こいつらは好機と見るはず)
攻撃の手を緩めずに、対策を練る。空間隔離を解除されれば、それこそ敗北に等しい。
(だけど、こんな奴らに消されるわけにもいかない。私は大幸とずっと一緒にいる。誰にも、邪魔はさせない!)
ゆえに、歪んでしまった愛情を糧にして、自らを奮起させる。負けは、有り得ない。
「はっ!」
左ステップの後、声を上げて、刀を振るった。左すねのあたりから、右肩よりも上へと払う。浮いているために必要な霊力を切られ、派手な音を立てて食器類が床に落ちる。これらのものを主とした渦状の攻撃も、粘り強く対応した結果、あと少しで完全に無効化できるというところまで、威力を削れていた。
「たいしたことないねぇ」
また折り返してくるであろう渦を見ながら、笑ってみせる。だが、満身創痍という言葉が似合うくらい、身体は傷だらけだった。
しかし、そんなものはないかのように、軽いステップで何度目か分からない攻撃を避け、一閃、右から左へ薙ぎ払った。“最後”の食器とまな板が、重力を取り戻し、落下する。
「さて、追撃が来る前に……」
余韻に浸ることなく、本来の目的へ戻る。視界に入れるのは、玄関とそこへ通じる廊下。
迷いなく走り出す。敵の攻撃は、すでにすべて撃ち落としている。彼女を邪魔するものはなかった。
玄関へ一直線に向かう。リビングからの出口を通った。
「あはは! バーカ!!」
囲いの外で、村叉がリビングから出た瞬間、あかりが声を上げた。何事かと、正義と水実が防御の手は止めずに、怪訝な目を向ける。
と、同時にやや攻撃の手が緩んだことに気づく。様子から察するに、あかりの力が尽きたわけではなさそうだった。
「あの鬼がリビングから出たと同時に、ドアを閉めて、あなたたちを分断する! もう、あきらめろ、陰陽師共!!」
嬉々として、悪霊は高らかに叫んだ。勝ちを確信したかのように、両手を広げ、二人を見下ろすのではなく、見下す。もう幾度目か分からない、醜悪な笑みと共に。
だが、
「えっ!?」
その表情は、一瞬で崩れ去った。驚きのあまりなのか、攻撃が止まる。吹雪のような囲いは崩れないが、何物も飛ばしてこない、ただ囲いとなった。正義は事情を飲み込めず、警戒を怠らないながらも、眉をひそめる。
一方の水実は、
「だから、なめるなって言ったのよ。バカ女」
ここぞとばかり、勝ち誇ったように微笑んだ。まるで、すべてを悟ったいるかのような口調だった。
「うちの式神が、正直に分断されるわけないでしょ」
「くっ……!」
狙った展開とは、まったくかけ離れた事態に、あかりは歯ぎしりする。
リビングのドアが、“閉められなかった”。
村叉は、リビングから出る際、ドアを閉めるという、敵としては当然の、しかしあまりに分かりやすすぎる陳腐な手段を封じるため、手にあった刀に霊力を込め、思いっ切り突き刺したのである。刀は骨組みを貫通し、さらにドアが開ききった状態で後ろの壁にも到達。ドアを串刺しにした。
(まっ、自分の貧相な発想力を恨むこった)
彼女の心中でつぶやかれた嫌味はあかりに届かなかったものの、刀に込めた霊力があかりの霊力を邪魔することによって、リビングのドアは閉めることができなくなったのである。
さらに村叉は、そのまま廊下を突っ切る。玄関の扉は、もう、すぐそこだった。
浮遊する物体の囲いの中、混乱に陥りかけている自分をなんとか律して、あかりは考える。
(この空間をまだ支配下にしているとはいっても、今の消耗した私には、リビングのドアは閉められない。でも、武器を失ったあの鬼に、玄関の扉を破壊する力は瞬時に出せないはず。まだ、すぐに次の手を打てば……)
「ねぇ、あんた」
その思考は、彼女にとってあまりに忌々しい少女の声によって中断させられた。
「村叉は、刀がないと何もできないと思ってない?」
「なっ……」
正確に自分の考えていることを言い当てられ、あかりは言葉を失った。目を見開き、黒き少女を見つめる。
「甘いわね。村叉が刀を使っているのは、相性がよかったから。別に、あれがないと戦えないわけじゃない。つまり……」
彼女がしゃべっている途中で、あかりは気づく。
(まずい! すぐに攻撃を……)
だが、すでに手遅れ。どうやっても、間に合いようがない。
「今の弱ったあんたが守ってる玄関なんて、破るのは簡単なのよ」
廊下を一気に駆け、村叉は妨害を受けることなく玄関へとたどり着く。だが、足は止めない。霊力を右手に集める。
「これで……」
左手を前に出し、右手を肩口まで下げ、軽く飛ぶ。扉まで、一直線に。
「しまいだよ!!」
右の拳を、思い切り扉にぶつける。普通の人間がやれば、確実に手の方がイカレるが、霊力を帯びているものに、そんなのは関係ない。あかりの霊力によって、元の通りにされていた扉が、派手な音を立てて外側へ吹っ飛んだ。廊下の柵に、これもまた大音量でぶつかった。
「さて、これで積みさ」
自身が生み出した、無残とも言える光景を見ながら、鼻息荒く、どうだといった感じに、やるべきことを成した式神は、満足げに笑った。
水実が言い終えた瞬間、空間の支配が、不完全となった。村叉が玄関の扉を破壊して、断絶されていた外側と部屋をつないだためである。
「ぐあああああ!!」
あかりが、今までにない悲鳴を上げた。同時に、正義と水実を取り込んでいた多くの物体が、床へと落ちていく。空間の支配という補正要素を失ったために、あかりの霊力がそれらを支え切れなくなったのだ。
「年貢の納め時よ、バカ女。一回言ってみたかったのよね、これ」
「……ああ、そうなんだ」
対して、水実と正義はまだ余裕が見える。最早勝敗は、火を見るより明らかだった。
「くぅ……」
追い詰められ、あかりが呻く。目だけは、強い憎しみで満ちているが、力が出ない。それでも、媒体のある大幸のカバンだけは自分の後ろに浮かせ続ける。
(負けるわけには……。向こうも、ああ見えて消費してるはず。今のこいつらの攻撃の威力なら、逃げも打てる……)
彼女は、まだあきらめていない。ただ、勝利をではなく、自身がこの世に留まることを。
しかし、その希望を断ち切るように、
「さあ、これで終わりよ」
「なっ……!?」
水実の霊力は、今までと違う気配を出し始めた。つまり、未知の攻撃がくることを示していた。
「結びし契約に従いて、我が呼びかけに答えよ」
(別の召喚を……!?)
一枚のお札を手にした、水実の口から漏れている言葉は、明らかに召喚のもの。
「やらせるか……!」
集中を途切らせようと、あかりは底を尽きかけているなけなしの霊力で、本一冊を水実に飛ばす。
しかし、攻撃は対象に届く前に、白い柔らかな壁によって無効化された。立ちはだかっていたのは、正義である。
「邪魔はさせない!」
手には、何もない。防御を得意としている彼には、今のあかりの攻撃は、御札などの媒体なしで組める術式で十分に事足りた。
「くそがぁ……!」
悪霊が、その存在にふさわしい、醜い悪態をつく。表情にはもう、少女としての可憐さも幼さも、何もない。憎しみだけに溢れていた。
「君は、早く成仏した方がいい。これ以上、醜い姿を河竹くんの記憶に残さないためにも」
正義は、静かに平坦に、声を出す。憐れみに満ちていた。
「ほざくな、何も知らない陰陽師風情が! 私と大幸は愛し合ってる! 美醜なんて、とっくに超越しているのよ! 大幸は、私と共に死ぬことを望むに決まってる! あなたが意見する余地なんてない!!」
大幸のことに触れた瞬間、弱っていたはずのあかりが、声を荒げて叫んだ。憎しみに強い怒りが加わって、思わず目を逸らしたくなるほど、さらにその表情は醜く歪む。しかし、正義は目を離さない。集中も切らない。ただ、頭上の敵を見つめる。
「確かに、君と河竹くんがどれだけ愛し合っていたか僕は知らないよ。でも、陰陽師として、死者が生きている命を奪うことは許せない。それに、友人として、河竹くんには死んでほしくない。だから、君に言えることはこれくらいしかないんだ」
何も知らなければ、幽霊の言葉に耳を貸せたかもしれない。愛し合っていた二人に、すべての判断を委ねようと考えるかもしれない。しかし、二人の若い陰陽師は知っていた。目の前の少女は、すでに悪霊という、生前とはまったく別のものになっていることを。だから、彼女に告げる。
「君は、ここで成敗する」
彼の一言を待っていたかのように、そこで水実の術式発動の準備が終わった。村叉以外に彼女が従えている式神の名が、叫ばれた。
「来い、爪夜!!」
黒い閃光が走り、すべてを押しつぶしてしまいそうなほど、強烈な陰気が部屋を包む。陽気を扱う正義には、毒なくらいだった。それでも、彼は揺るがず真っ直ぐに立ち、呼び出されたその姿を見る。
ずしりとした四肢を床に付け、後ろ姿すらも威厳があった。まさに威風堂々。四本の足も身体も屈強で、オスのライオンより少し大きく、黒々とした身体をしていた。その尻尾の数は、二本。
「……猫又」
正義が、その妖怪の種族をつぶやいた。
鋭い爪や尖った牙。とても“猫”とは言えない風貌である。化け猫という表現でも、まだ足りない。
「ずいぶんと久しく呼んでくれたものだな、月原の末裔よ」
渋く、重みのある声だった。横目で、水実の方を見る。必然的に、水実の前に立っている正義へ、その目線は向けられた。
「おや、見慣れない男だな。しかも霊力の感じからするに、陽気使いではないか。我が陰気は苦しかろうて」
正義から横顔が見える。明らかに獣の顔なのだが、目が鋭く、凄みがあった。普通の獣とはまったくかけ離れた威厳が漂っている。
「いいえ、そんなことは」
「ほほう。強がりを申すか。なかなかに面白き男のようだ」
笑った姿すら、威圧感が緩まない。正義は、自分が冷や汗をかいているのを感じた。
「無駄話はいいから、さっさとあんたの目の前にいる悪霊を退治しなさい! あんたを呼んでるのは、今のあたしには、かなり負担なんだから!!」
そこに、水実が口を挟んだ。正義と爪夜が、彼女の方へ顔を向ける。黒い和服をまとった少女は、片膝をつき、つらそうに片目をぎゅっとつむっていた。
「ふむ。そのようだな。では、さっさと主人の命に従うとしよう」
彼女の様子を見て、爪夜は薄く笑い、あかりの方を向いた。
「な、何よ、こいつは……」
妖怪の知識はないのだろう。まったく見知らぬ存在の出現に、戸惑っていた。あるいは、最早逃げることすら叶わないことを本能が察して、恐怖におののいたのかもしれない。
「何も考える必要はない。お主はただ、運命を受け入れればいいだけよ。次の命を楽しみにするとよい」
死刑宣告は、あまりに静かだった。爪夜の霊力が高まっていく。
「くっ……!」
あかりが顔を歪める。目の前にいる存在が何か判別できなくとも、危険であることは容易に理解できた。
(早く、逃げないと……!)
このままではまずいと、頭の中で警鐘が鳴る。
「やめろ、この化け物!」
とにかく、逃げる隙を作るために、あかりはティッシュ箱を、眼前にいる得体の知れないものへ飛ばした。同時に、大幸のカバンごと部屋から去ろうとする。
「逃げるのは、確かに一つ選択肢だが、賢いとは言えないな」
しかし、その程度の目くらましでは、彼女よりはるかに強い存在から逃れられるはずもない。
「さらばだ、悪霊」
爪が霊力で巨大化され、
「ぐああああああ!!」
ティッシュ箱もろとも、実体なき身体を貫いた。尋常ではない叫び声が響く。聞くに耐えない、あまりに痛々しい叫びだった。
「今のだけで十分であろう。水実、もう我を返すといい」
「言われなくても、そうするわよ」
役目は終えたと言わんばかりの発言に、水実はイラついた様子で答える。すぐに、
「そなたのあるべき場所へ帰れ!」
と、声を上げた。爪夜がわりと大きな爆発音と煙を上げ、姿を消す。
後には、沈黙が残った。
あかりの悲鳴は、すでに聞こえなくなっていた。それどころか、姿形すら見えない。あまりのダメージに、霊体を顕現させる力も失ったようだった。
そして大幸のカバンは、浮力を失い、地に落ちていた。この中に、彼女を歪んだ形で現世に留めている媒体、遺骨がある。
「まあ、こんなところね」
一段落したと判断し、水実は肩の力を抜いた。
「かなり予定と違うとこもあったけど」
それから、正義へしかめっ面を向ける。口調にはかなり棘があった。
「……ごめん」
一方の正義は、謝るのが精一杯といった感じで、どうにもさっきまで華麗に舞っていた人物に見えなかった。
「張り合いのない奴ね。謝る以外のことはできないの?」
「自分に非があるって分かってるのに、謝る以外に何をすればいいのさ?」
「……もういい」
弱々しい表情ながら、本気で首をひねる正義の反応に、水実はそれ以上、今の話題を続ける気がなくなった。
「結局はあたしたちの狙っていた決め手が決まったから、今回だけは不問にしたげるわ。あんたがこの戦いに不適応だって分からなかったのは、あたしの落ち度だしね」
あくまで自分を正義より上に置いて話す。だが、少年の口から文句の類いの言葉が出ることはなかった。
元々二人が正義の家で決めた戦略では、持久戦を基本としていた。できるだけこちらは力を使わずに粘り、相手が弱ったところで爪夜を呼び出し一気に決める。村叉を呼び出しておいたのは、うまくいくかどうかを別にして、窓なり扉なりを破壊させることで、空間支配を解き、相手を弱体化させられればと考えたからである。
「とにもかくにも、さっさと終わらせるわよ。あとは、カバンの中にある、あの女の遺骨に宿る霊力を消せばいいだけなんだから」
自分のペースで、どんどん話を進めていく。倒れ伏していたカバンを持ち上げ、中を物色し始めた。
「あった。たぶん、これね」
やがて、メインポケットの底に目的の物を見つけた。触ると、霊力を感じる。それは、手のひらで乗り切るような小さな缶。
「まったく。こんなものに、ここまで手こずるなんてね」
肩をすくめながら、蓋へ手を伸ばす。
(なんだ、この感じ?)
その動作をやや離れて見ながら、正義は何かもやもやするものを感じた。
水実の手が、缶の蓋に迫る。一秒とない中で、正義は勘だけで叫んだ。
「缶を離して!!」
「えっ?」
水実の手は、すでに蓋に触れていた。それどころか、流れでわずかに開けている。場所は、彼女から見て左の位置。
(まずい!)
咄嗟に正義は、彼女に近づいた。
「何!?」
遅れて、水実が“それ”に気づく。開いた缶から、陰気が漏れてきたのである。
(トラップ!)
理解すると同時に、かなりのスピードで、しかし彼女の世界の中ではゆっくりと、缶に仕込まれていたカッターナイフが飛び出してきた。缶を開いたものの首を狙って。
だが、缶の横側から飛び出してきたのが幸いした。水実に届くまでの時間が、ほんのわずかだけ遅くなったのである。そのわずかによって、
「くう……」
カッターは、彼女の首の前に伸ばされた正義の右腕に刺さった。あかりが事前に注いでいた霊力で、普通よりも深く刃が肉に沈む。
「白髪!」
水実は目を見開いて、右上へ顔を動かした。自分のまさに目の前に迫っていたカッターがどうなったか、割り込んできた白い袖を見れば想像は容易い。白に身を包んだ少年は、歯を食いしばっていた。
「だ、大丈夫……。ちょっと待って。缶の陰気を消すから……」
少年は、片目をきつくつぶりながらも、言葉を返した。それどころか、左手でお札を取り出し陽気を込めると、缶へ貼り付けた。ほんのわずかに感じられた陰気が、完全に消滅する。
「これで、蓋を開けても大丈夫になったはずだよ。早く、遺骨を……」
右腕を自分の胸に寄せ、痛みに耐えているがために息を荒くしながらも、水実を促す。カッターの刺さった箇所には、赤黒い染みが広がりだしていた。
「え、ええ」
彼女はうなずくと、すぐに蓋を開け、缶を逆さまにした。罠にしていたのだろう刃物類がバラバラと三つほど落ちてくる。
そして、
「あった……」
目当ての物は、透明で手のひら程度の小さなビニール袋に入っていた。灰色の粉と、真っ白で軽そうな物体。遺骨だった。右手で持ち顔の前にぶら下げる。左手には、御札を持った。
「これで、本当にお終いよ」
御札を、遺骨の入った袋へと押し付ける。すると、水実の黒く強き陰気がそれに宿るあかりの陰気を払った。次の瞬間には、目に見える形として、黒い光が爆ぜた。
「あんたに来世があるかどうかは知らないけど、あるならお幸せに、池田あかり」
少年たちを苦しめた悪霊は、してきた行いの派手さに反して、とても静かにその存在を消し去られた。




